2019.11.12 (Tue)
先行エントリーね↓
『【続・続】炎上が あらわにしたこと――『首里城』と『あいトリ』』
まずは、
「愛の正反対は無関心」っていうでしょ。
ほんとうに無関心だったら、批判する気にすら ならないよね。
批判するにも、対象を よく観察して、知ってなきゃならないのだし。
さて、
ヨーロッパでは、芸術家というよりも、実は職人・商売人に近かった画家たちが、あるいは、彼らのパトロンの要望に従ってか、大昔から、現代では古めかしく仰々しく見えるヌード画が夥しく存在する印象なのだが、
裸体ですが、これは飽くまでも神話の一場面を描いたものであります、というタテマエにしておかないと、普通の女や人間としての裸体を描くことは、つよく憚られたそうな。出発は、そういうことだったらしい。
また、
こんにち、日本人は勿論、世界じゅうに愛好者が多い『印象派』の登場時も、最初の頃は猛バッシングに晒され、なんたる稚拙と嘲笑されたのだという。
ところで、何を隠そう、わたしゃ、学校時分から、パロディ作品ってやつが好物でw
ウィーンにおける『ジャパン アンリミテッド』に展示されたパロディ作品を二つほど、どこかの記事の添付画像で見てみたのだが、
たとえば、日本が敗戦後、間もなく撮影された「マッカーサーと昭和天皇」が並んで立っている、例の あれね、広く知られているらしい、あの写真のパロディ。
まあ、一目瞭然と言っていいほど、とっても分かりやすい表現の作品じゃないの?(笑)
なのに、
ことばに頼って説明するな!見てズバリ100パーセントの力が ない!とか言い張るんだもんな、「ヤフゴミん」は(嗤)
そういうふうに、あまりにもギャーギャー責めたてるから、それならと、アーティストさん みずから、よっこらしょと、説明に努めてるしだいでしょうのに、「ことばに頼るな」ってw
どーしろっつうの?ww
ああ、これかな?
「私には何の規則も方法も ない。〔中略〕私は、キャンバスの上で、その肉体が生き生きと、うち震えるように輝く色を見出さなければならない。今では、全てを説明するように求められますが、説明できてしまうような絵は、芸術では ない。〔中略〕美術作品は、あなたを捉え、あなたを、それ自体で虜にし、感動させるものでなければ ならない。それは、芸術家が情熱を表すための手段なのだ。芸術家から迸り出て、彼の情熱へと、あなたを誘う流れなのである」(ルノワールの ことば)
このように語った彼が描いた女は花のようで、花は女のようだ。
ルノワールは、貧しい生まれ育ちで、もともとは絵付け職人から出発したのだから、そりゃ、柔やわと楽しげな絵を描くでしょうよと思う。
「世のなかは、醜いものが じゅうぶんに ある。もう これ以上、醜いものを加える必要は ないから、美しいものだけを描くのだ」(ルノワール)
私も、「醜い」ものは、いやというほど見てきたし、
「見ぬもの清し」とて見ないでおくことは許されなかった。
明るい楽しい気持ちイイ、それだけが、「心を豊かにする」ことでは ないのよね。
こういうことって、人物とか人がらにも言えることで、
むしろ、とても辛いこと、人生の悲惨を経験してきて、明暗、彼我の落差というものを思い知っている人のほうが、そういうことから免れていた人よりも、ずっと、味わいある人が多いと思うね。
綺麗なだけじゃダメ、って考えも理解できるのよ。
私自身、暗く、恐ろしいような作品でも、どこか「美」を感じるものも あると言ったんだし、直視したくないほど不気味とか陰惨であっても、つい目を離せなくなるような独特の引力を持っている作品も実際、多くあるのを知っている。
芸術の ありようは、幅が広い。
ルノワールを批判していたという岸田劉生。
私は、教科書で、『麗子像』を初めて見たとき、
「うわ、すごいな。。。こんな顔に描いた父親に対して、モデルにされた娘さんは、お年頃になって、ハラ立たなかったやろか」
と思ってしまったけど(苦笑)、
まあ、『麗子像』については、他のも見ていったら、それなりに、「幼女の神秘的色気」みたいな描かれ方してるんだなあ、と思えた。
どこか、クラナッハのヴィーナスみたいな顔。
けっして嫌いでは なく、むしろ、好きな画家のうちだ。
しかしながら、
私個人的には、だんぜん、「心地良い」作品が大好きです。
だって、心地良いんだもんw
人それぞれの好み、また、関心の強弱が ある。
私自身は、たとえば、あの『表現の不自由展――その後』で見た、いくつかの作品に限っては、目新しいと言えるほどの視点を得ることも なく、尚且つ、驚くべきほどの表現とも思えなかったどころか、もはや陳腐でさえあるということ。
だって、自分なりに、すでに考えてきていることなので。
世間的にも、それほど珍しい「問いかけ」だったとも言えないだろう。
問題にすべきは、過去に、それぞれ、展示を拒否されていたという現象についてだ。
単なる、素朴な好き嫌いの自由も当然あるはずで、
また、どういうものを「心地良い」とか「美しい」と感じるかは、人によるのだろうし、
ま、そんなもん、個人に強制できない。
ただし、
権力側に対しては常に、その見識と姿勢が厳しく問われる。問われなければ ならない。
大衆とは、「愚衆」という別名も あるほどで、当然、一般大衆、大多数が正しいわけでも ない。
その大衆の上に君臨する国家なる権力の見識が低レベルで、あやふやな姿勢で あっていいわけが ない。
権力に盲従する大衆も、大衆の顔色を窺う権力も、国家としての品格を甚だしく損なうものだ。
その自覚と覚悟が ない、にも かかわらず、「先進国」の仮面を かぶってイイ気になっている、この国は。
【続く】
2019.11.10 (Sun)
『【続】炎上が あらわにしたこと――『首里城』と『あいトリ』』の続き。
津田さんというかたは、インターネット世界について、早くから非常に詳しいそうだが、その危険性に気づくのが、けっこう遅れたようだね。
世間並みよりも10年くらい遅れてる私なんかは、最初の頃こそ、既存では望めなかったような画期的な世界なんだろうなあと、良いほうに受けとめていたが、ほどなくして、これはヤバい、自分の国だけじゃなく、世界じゅうが危険になるかも、と大いに危惧するに至り、
その悪い予感を、可能なかぎりで伝えようと足掻いてみたけれど、
なにしろ、あの当時は、いまよりも もっと、わけが分からず、稚拙でもあった。
希少な理解者と思えた者にすら、
「華麗にスルーが できないのなら、あなたこそ、パソコンを閉じたら いいのでは」
と言われて、
「なんで、私が?」
と、愕然としたもんだ。
最後に付け加えておきます。
どこかの記事で、やっぱり、大学教授という肩書らしき識者が、「既存の価値観などへの意義を問う」それが、現代美術あるいは現代芸術、
というふうな説明を しておられたので、
だったら、
それは「美術」「芸術」と仰々しく名乗らなくても、そこ かしこで「名もなき」一般人が、日常的に行なってますがな、と思った。さしづめ、私みたいにw
当ブログでは、世間の常識、既存の価値観だのに対する疑問表明、とりわけ、政権に対する疑義と批判は しょっちゅう やってるもんねww
でも、
これを、「芸術」だと称したこともないし、自分を「アーティスト」だと思ったことも一切ない。
なので、
どシロウトが自己満足に閉じこもったような、独り善がりなダサさと思われるようでは、つまらんし、わざわざ「美術」だ「芸術」だと称するからには、その表現と技術は、「アーティスト」と名乗るに値するほどに洗練された、力強いもので あってほしい(いわゆる「ヘタウマ」も技術のうちだろうが、くっっっそ真面目にやってて、しかもダッサいのはカンベンだわw)、と思ったしだい。あくまで、私が垣間見た範囲の作品についてですが。
むかし、うちの母親の生前に聞いた話なんだけど、
戦後も、ようやく一段落したかというような時代の ある時期、そこで生活していたアパートの住人の家庭の一つに、幼い男の子の兄弟が いて、上の息子さんが、「山下 清」という あだ名で呼ばれていたそうな。
と言うのも、まさに山下画伯を彷彿させるような、独特の絵の才能が明らかで、「これは、将来、たいした絵描きになるだろうよ」と、近隣の人たちに知られていたというんだけど、
また、多分、軽く知的障碍か、いまで言う「発達障碍」かを抱えていたらしい。
その家庭は、おとうさんが失業中か何かで、たいへん貧しく、くだんの男の子は、タバコが欠かせない好物である父親のために、いつ見かけても、近所じゅうで、タバコの1本を ねだっていたり、道に落ちている吸殻を拾い集めるのに いっしょうけんめいだったと、うちの母親は言ってた。
とても貧しい家庭の子だから、普通の進学すら厳しいだろうし、幼くして、あれだけの才能が明らかでも、はたして、画家さんに なれたかどうか、難しかったんじゃないかなと。
ピカソが大嫌いなwうちの親父もね、若い頃から、自分で描くのが好きだったらしいが、
親父が あかんぼうのうちに、母方の伯母の養子として入った家も貧しくて、絵の具だの買えるような家計じゃないから、普通の鉛筆1本だけで、あり合わせの紙に、写真みたいなリアルな絵を、独学で描いてた。
何枚か、私も見たことあるけど、
時代がら、最もスピード出世が望めることを期して、志願して軍人の道に入り、『天皇』に仕える将校となり、戦後は、全く興味もない、予想もしなかった堅い職業に、かなり無理して苦労して就いたのだが、
いよいよ老齢になってから、引退し、60歳代で亡くなっていた女房(私の母親)が、生前、リハビリで始めた塗り絵に使っていた色鉛筆の一揃いを遺して逝ったので、それをムダにすまいとでも考えたのか、色鉛筆画の勉強を始めていた。
でも、その頃には、すでに『パーキンソン病』や眼病なんかを患っていて、若い頃のような、シャープな写実的描写力は、もう発揮できなかったみたい。
最近、どこかで見かけた記事で、
若い子が、色鉛筆で描いた、すごくリアルな犬の絵が絶賛されてるとかいうのが あったようだが、なんとなく、覗く気になれなかった。
私自身、鑑賞するのも描くのも大好きなんで、いつもは、この方面の話題に関心あるんだけど、
生前の親父が、もし、こういう記事を見たら、さぞかし、内心で悔しく感じただろうなあと思って。
自分が もともと やりたかったこと、進みたかった道を歩める人は、幸せね。
ピカソで一番好きなのは、これ(爆)
きょうになって、この記事が目にとまった。
良いこと言ってるじゃないですかwうん、なかなか哲学的(笑)
『【世相コラム】アートと「力」』11/9(土) 19:02配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191109-00010002-jij-cul
~
現代アートのグラフィティ(落書き)は、所有者や管理者に断りもなく描かれる犯罪行為であり、暴力的行為とも言える。しかし、それさえ時に歓迎されるのが、アートの力というものだろう。
バンクシーがヨルダン川西岸地区の分離壁に描いた一連のシリーズは、落書きという小さな暴力が戦争という大きな暴力を告発するという、アートの力をまざまざと見せつけるものだった。
そうすると東京都も、期せずしてアートの共犯者であり企画者、主宰者になったと言えよう。この際、本当にバンクシー作品だったのかどうかは問題ではない。真偽不明で犯罪の疑いさえある作品を展示したこと自体、一つの表現形態だ。
~
「国に対する暴力」
という批判が あるとして、それについては、先のエントリーで すでに述べた。
ところで、『バンクシー』は、センス良いしね。わりと一般ウケするみたいだ。
この記事で思い出した。
私が中学生時代の ある朝、全校集会のときに、制服のポケットに入れてあるものをチェックされることが あった。
基本的には「生徒手帳」を入れてあるのだが、ほとんどの生徒は、手帳のなかに、機関車『デゴイチ』とか何かの写真だとか、なかには、芸能界アイドルのブロマイドを挟んであったりするんだけど、
順番が まわって、私のところへ来た担任教師(この担任は、先日のエントリーで述べた、普段は母親的雰囲気なんだけど、叱るときは、恐いくらい迫力が あった、でも大らかで優しい先生)は、すでに没収してきた何枚もの写真やブロマイドの類を手にしていた。
私も、生徒手帳の表紙の透明カバーから見えるよう挟んであった、小さなカードを、しぶしぶ、差し出した。
すると、担任は、それを一目見るなり、
「いやあ、これ、カワイイやんそのまま持っとき~よ」
と、ソッコーで返してくれたのだ。
そらブーブー言うわ、すでに没収された生徒らはw
「ずるい~!ずるい~!!」
と。
「あんたらのは、しょーもないやつばっかりやから!」
とか何とか言い返していた担任は、通常は、別の教科を担当しているのに、たまたま、美術担当教師が急に休んだとき、私のクラス担任の、この先生が堂々と現れたので、皆ビックリしたことが あった。
実は、美術教諭資格も持っているということを、このおりに聞いていたのだが、なるほど、それで、この先生の自画像イラストは、いつも、ベレー帽を かぶってるのか、と思った。
私の生徒手帳に挟んであったのは、
小学生の頃、クラスメートの おかあさんが勤めていた会社の顧客用サービス品である、小さなカード型カレンダーだった。
カレンダーの反対側には、ルノワールの『イレーヌの肖像』が印刷されていたので、一目惚れした私が、そのクラスメートに ねだって、1枚だけ譲ってもらったものだった。
数十年後の今も、大事に保管してあります。
Irene Cahen d'Anvers(also known as Little Irene)(1880)
2019.11.10 (Sun)
『炎上が あらわにしたこと――『首里城』と『あいトリ』』の続き。
さて、
「ネトウヨ」の歓心を買うためにやってるのかと思えるような政治屋さんがドッと増え、跋扈している今日この頃、
河村さんとか言ったっけ、名古屋の市長さん?この人も、「日本人の心を踏み躙りぃ~」とか大仰に断言したそうなので、
「はあ?日本人や、日本人の心っつうやつを、なんで、おたくにキッチリ定義されなきゃならんの?」
と反発を感じた私は、まあ、誰かに言われたことが あるように、「日本人離れ」してるせいなのかもしれないが、たしかに、「踏み躙られた」とも、「傷ついた」とも「暴力だ」とも、まったく、思いませんでしたw
せいぜい、「ふーん」とか、
先日のエントリー『【続】最近の話題の記事から』で ぶっちゃけたように、「なんかダサいなあ」としかww
どうりで、
津田さんと おっしゃるジャーナリストとか大学の教授さんとかいう、あの『表現の不自由展――その後』の責任者ですか、そのかたが、『遠近を抱えて』の作者さんは、むしろ、言わば「ウヨ」とか「ネトウヨ」に近い心情を持っているのに、というふうな説明を しておられたので、
ああ、やっぱり、と思った。
だからなんだ、
私が、あの作品に対して、全くと言っていいほど、共感できなかったのは。
前から思ってたんだけど、
『遠近を抱えて』の作者さんも、
また、近頃、韓国の重要閣僚だかが、「天皇の謝罪」を要求したとかいうことも連想するのだけれど、そのニュースが大々的に報じられ、案の定、現政府と、そのシンパである「ネトウヨ」どもが大騒ぎするのを眺めながら感じたことと重なるのだが、
要するに、
「ずいぶん、『天皇』という偶像を、非常に重大な存在と考えてるわけなんだ?日本人のみならず、韓国人までもが」
という怪訝さしか感じない、私は。
でも、
極端な騒ぎを繰り広げてる政権、そのシンパ、無知なまま巻き込まれてる一般国民が、止めろー止めさせろと主張するようなことは、私は しようと思わない。
なぜなら、
『遠近を抱えて』という作品の本当のところには、まさに「右翼」的心情が根底にあるのだと言っても、それによって、私の日常生活や思考・感性も含め、毀損されたりは していないし、
世のなか、そういう人も いるわな、そういう人が、そういうふうに表現してるんだなと、遠巻きに眺めるだけ。「ふーん」という感じだけ。
「ウヨ」「ネトウヨ」らみたいに、ああいうものにビンビン響かないw
響かないから、感動しない、妨害もしない。
積極的に見に行かないだけ。
その点では、まさに、現憲法で真っ先にシッカリ規定してある『天皇制』のほうが、よっぽど暴力的に、私の生活を有形無形に侵害していると言えそうだ。
そもそも、『天皇制』『皇室制度』についての「総意」になど一切、加わった覚えないもん、私は。
宗教まる出しの「祈らせてください」じゃあるまいしw徴収されて祈られるのも「象徴」されるのも、迷惑です。
国や政権が、「こんなの、認めませんっ!」とソッポ向くのは、大問題、というリクツは理解できる。
あほな「ネトウヨ」らが頻りに、「ヘイト法」を敵視してるけど、
「暴力装置」という専門用語で表されているように、公権力というものには、非力な一個人やマイノリティに対して適用される「ヘイト」見解は当たらないんだ。
国家権力とは、存在自体が、すでに「暴力」的なんだから、これに対して批判や抵抗は、一般国民の権利なのだ。
多数決や選挙結果だけが全てじゃないでしょ。
このへんの初歩的基本概念が、安倍政権と自民党シンパ、「ネトウヨ」らのオツムでは理解する能力が ないのか、ワザとヘリクツ言ってるのか。
だって、国民たる私は、『自民党』特に安倍政権は、ただの一度も、小指の先っぽほども、支持してないんだもの!!
もういっぺん言っとくわ。
あったま悪い「ネトウヨ」ども「ヤフゴミん」どもへ。
作家・アーティスト側の「カネ事情」のことなんざ、
なん~の問題にもなってないの!w
この場合の問題となってるのは。
政府側の姿勢!
国家権力というものの ありかたなの。
それが、大きな問題になってるの。
見なさいよ、
いつもの「ザ・官僚式ヘリクツ」で拵えたタテマエの下に、どうしようもなく滲み出てるホンネw
わかっていても、自分らの つごうと、政権ヨイショのために、話の本質をスリカエたいばかりなのかもしれないが、
どうも、ほんとにカン違いしてるのかもしれないよな、
なんせ、ものすんごいアホでバカだから「ヤフゴミ」は。
いいかげん、黙んな。
日本の劣化よろこぶ「ネトウヨ」ども。
さっさと閉鎖しなさい、汚い商売とデマとヘイトのために提供してる「ヤフゴミ捨て場」。
オーストリアで開催された『ジャパン アンリミテッド』とかいう展示についても、日本側の大使館が公認拒否に転じたとかいう話、現地の人たちは、ヘンな話だなと怪訝に思ってると、そういう内容の記事は、『ヤフー・ジャパン』は、そそくさと隠すのよね(嗤)
『朝鮮民族』を罵倒するための大舞台が、(もと)朝鮮人経営の「ヤフー・ジャパン」、とんだ皮肉だね。
孫さんは、同胞である朝鮮民族を殊更に憎悪・拡散してもらうことで、もって、恨みある日本社会の劣化と堕落、内部崩壊を期しているんでしょうかね。
私自身、自国だけでなくて、韓国や朝鮮人、また中国にも、いろんな面で指摘したいところが ないわけじゃないし、良い印象ばかりでは ないが、
適切・妥当な批判を するためには、真実、事実を真っ向から直視したいと望み、その望みを宿した眼で取捨・選択し、得た知識をもってから、正々堂々と論理的に指摘しなはれ。これは、どの国の国民もだね。
そういう知識や情報から、権力によって遠ざけられている国民は、目隠しされたまま、崖っぷちを歩かされているようなものだ。
誹謗・中傷のために、エセ知識や偏向してる情報だけを、つごう良く切り取って振りかざすのでは、ただ膠着し、終着点に辿り着かず、延々罵り合いになってしまうだけ。
政府と商売人、メディアまでも含めた権力は、一般大衆をコントロールするために、そう仕向けるよう、手を組むことが ある。
目隠しを剥ぎ取り、キッと振り向いて、
自分の背後でニヤニヤしながら、さあ歩け歩けと突っついていた、それは誰なのかを直視しなければ ならない。
それを しようとしない国民・大衆は、舐められ、操られる。
操っているつもりの権力トップも また、何者かに操られているのだ。
おおかた、邪まな目的を実行させるための指令を出している組織(『日本会議』とか『在特会』とか)や その中枢がゴチャラゴチャラ化け物みたいに絡み合ってるのだろうが、
矮小な利害を共有して、肩入れしたい対象を良いほうへ持って行くために、つごうの悪い相手を陥れようとする輩は、ゴミですらない。ゴミよりも まだ劣る。
なぜなら、腐敗した有害物質に ほかならないからだ。
これこそ、排斥あるのみ。放置していたら、どんどん分岐・蔓延していく。シンドロームだわ。
『首里城』の沖縄問題とも共通性が見受けられる『表現の不自由展――その後』、こういう騒ぎを見ていると、
やはり、自分たち自身で起ち上がり、自分たちで推進し、志し同じくする人々と手を携え、
やがて、
大衆の内側から抑えようもなく湧き上がってくる熱や動きを共有、
政府や権力に対しては、すっぱりと、手を振り払い、「間に合ってるので、けっこう!」と ピシャリ撥ねつけ、
何らの権力にも頼らず、しがらみもなく、したがって、口出しされる筋合いや心配もなく、わが道を行く!くらいの強さが ないと、
結局、すべてがロクでもないことになるんだなあという気が してきた。
まして、ああいう、神経質にピリピリ、それでいて、介入チャンスを虎視眈々、てな政権だから。
カネを出しても、口は出せないのよっ、ということを国家権力に分からせることが できないのであれば、難しいね。
【続く】
2019.11.10 (Sun)
水で洗い流すより以上に、本当の「浄化」は、火で燃やすことなのだという。
火が焼き尽くしてしまうのは、「汚れ」が溜まりきっているからだと聞いたこともある。
さて、
隣りの半島の国もそうだけど、
自分の国を、一度は失ってしまったという歴史を持つ民族は、あたかも宿命のように、失う悲劇を繰り返してしまうのだろうかとすら感じた。
だからこそ、『沖縄』は騒ぐんでしょうね。
まあ、日本だって、実質的には「失われている」と言えなくもなさそうだし、
少なくとも、実際に失う事態に直面した歴史を、わりと近年に持っているわけだ。
このたびの『首里城』焼失について。
いやはや、みごとなまでに燃え尽きたなあ。。。
このエントリーも、ザッと書いたまま2、3日ほど放置してあったのだが、
時間の経過と共に、関係各当局の歯切れ悪さにも かかわらず、透けて見える部分は漏れ出してくるもので、ここ数日間で、私にもズバッと言えそうなことが幾つか出てきている。
まあ~、だらしないことだ。
まずは『沖縄』!
「なんくるないさー」の性分、「南国気質」ってやつが出ちゃったのか?
原因もサッパリ突き止められないうちから早々、「再建だー!!」「寄付だー!!」「政府の支援を!!」と叫んでいるのは、いかがなもんか?という多くの意見も、むりは ないと思える。
その反面では、
なけなしの小遣いを差し出してみせる、ほとんど何も知らないであろう、素朴・純真な児童・生徒たちの姿を、全国から映し出すメディア。
典型的な情緒優先の光景。日本人も韓国人も、まあ、こういう点については特にソックリなんじゃないかと思う。
さてさて、
戦時中の悲惨な経緯から、ほんものの『首里城』を失っている。
だから、国が全面的に責任を持ち、可能なかぎりの再現を果たす、それは当然だろうと思うし、実際、できるかぎりのことは したのだろうから、
できれば、あとは もう、政府を頼らず、自腹と寄付だけで再建したら どうか?
そうなると、燃してしまった その足もとにも及ばないような、大雑把で安っぽい造りになるのかもしれないけど。
そう、コンクリートにしておくといい。
コンクリートで、なんくるないさー!
コンクリートと言えば、
こないだの台風で甚大な被害を受けた「本土」の住民に対し、
「沖縄の住民である われわれは、来襲がアタリマエの台風に備え、周到に、家屋もコンクリートにしてある、万全の対策を講じてある」
と、ほとんど自慢やアテツケみたいに言い放ち続けていた、自称『沖縄』県民の「ヤフゴミん」たちは、あっという間に、いなくなったな。
一般の民家ですら、コンクリで頑丈に建ててあると言ってるのに、大事な大事な お城が木造って、、、?と、私は怪訝に思っていた。
これまでの私は、
『日米安保』『米軍』と、その駐留基地の必要性を固く主張し、かつ、ゆえに『自民党』『安倍政権』を全面支持している、という自称「沖縄県民」を、「ヤフゴミ捨て場」で ちょくちょく見かけていたのと、
選挙結果で、『自民党』を勝たせてしまうことも たびたびだったことから、
はたして「オール沖縄」というキャッチフレーズに、時には、大いに疑念を持っていた。
そうでは ありながらも、基本的には、『沖縄』の味方だったつもりなのだが、
『首里城』は「ウチナーンチュ」沖縄県民の「心の よりどころだった!」「宝だった!」「象徴だった!」と、いかにも悲愴なセリフを言い募って、激しく嘆くわりには、ずいぶんと、ずさんな扱いかただったのね。
口先だけだったんでしょ?
不始末の直接原因を齎したのでないかと疑わしい現場関係者も「ウチナーンチュ」、地元の人たちじゃないのですか?
『沖縄』に行ったことないし、今後、行く予定もない、その余裕もない私は、『首里城』復元のことについて、ほとんど何も知らないで いたし、
ぶっちゃけ、『首里城』が存在していようが なかろうが、「本土」の住人である私個人の生活にとっては関係ない、
と言うよりも、ただただ、莫大な税金が、あっけなくムダになったこと、
そして、
この災いに、むしろ、つけ込み、乗じる構えを早速、見せている、イヤラシイ安倍政権に対する警戒が もたげてきて、もう、不快感マンタンだ。
アベシを援護射撃しているかのような『北朝鮮』と似た不快を感じる。
あとね、
「所有者」たる国の方針も、すごく おかしいよ。
たたでさえ、非常に燃えやすいことが分かりきってる木造のうえに「桐油」とかいうやつを塗たくってあったんだってね。
どんなに、オリジナルに忠実に復元したと言えど、木材ひとつとっても、実際は、オリジナルと同じじゃないでしょ?
国外へまで無理を言って、融通してもらったらしいじゃないか。
復元に当たっては、その方面の専門家の意見も取り入れているはずだろうけど、
「できるだけ、当初のとおりの復元」
という方針だから、たとえば、スプリンクラーは付けませんよ、って、
そんなリクツは、おかしい。
そこまで行くと、単なるヘリクツです。
どうぞ、思う存分に燃え尽きてください、って待ってるみたいだわよ。
外側に幾つも最新式消火設備を並べていたって、延焼や類焼を防ぐには役立つのかもしれないが、肝心のものの内部から発火した場合、火が大きくなってしまっていたら、意味あるのかと、そういう考えは なかったのか、はなはだ疑問に思う。
もちろん、スプリンクラーなどの、内部消火に備えた設備が ない以上は、
かつ、それで納得していたのなら、沖縄側の当局が、それに応じた運営を すべきだったのは当然だ。
結局、筆頭当事者であり、直接管理者である沖縄の各当局、雇用されていた地元の業者関係、そして、所有者たる国。それぞれ、全員、各様に、不手際と無責任さが あったように思える。
次は、例の『表現の不自由――その後』展について。
こっちは、先日のエントリー『【続】最近の話題の記事から』に付け足す かたちで。
日本人作家のものとしては、最も話題にと言うか槍玉に挙げられていた『遠近を抱えて』とかいう作品。その作品は、作者ご本人の内面を全体的に表現したもののなかに、あくまでも一部分として、若い頃の『昭和天皇』の肖像写真が含められているわけで、
「燃やした」というのは、作者ご本人の「抱えて」いた内面そのものを燃やした、という意味を込めているのだということらしい。
ところが、
『文春』の特集インタビュー記事内でも、いまだに、「天皇の肖像写真を燃やし」という説明を相変わらず使い続けてるね。
それ、違うよ、って、作者ご本人も、その周囲からも指摘されてるのに、なぜ、あらためないのかな?
【続く】
2019.11.06 (Wed)
『最近の話題の記事から』の続き。
うちの親父なんかは、ピカソが大キライでw
「なんだ?あのヘンな絵は」と苦虫を噛み潰したような顔で言うので、私なりに、「絵画上での、一種の思想実験みたいなもんで」と説明しても、
「何か知らんが、俺は嫌いだ!」
で終わりww
親父が好きな絵は、たとえば浅井 忠とか東山魁夷とかあたり。
母親のほうも、「部屋に飾る気にならんような絵は厭」だって。要するに、暗いとか陰気な絵がね。
まあ、かく言う私も、結局のところ、好き嫌いで決まるんだけど(苦笑)
ムンクとかを、部屋に飾りたいとは、私も やっぱり思わんしw
基本的、圧倒的な技量に裏打ちされているピカソなら、個々の作品によって、だいぶ好みが違ってくるのだが、
美術の教科書で、『泣く女』を初めて見たとき、思わずフき出したw
ドラ・マールの肖像なんかは、あれだけデフォルメされているのに、そうとうの美人さんなんだなということが分かる。
さて、あの『表現の不自由展――その後』の騒ぎの最中に、私も、紹介されている動画などで、見ることが可能な範囲だけ見てみたんだけど、
ここでは、日本人の作者の手になる作品についてのみ、あくまでも私個人の勝手な感想を述べさせてもらうなら、
一言で言って、、、
ダサいな。。。
という(苦笑)
なんつーか、いかにも、従来の日本人らしい、陰気臭くも、垢抜けないダサさである。
一種の「陰気臭さ」が漂うのは、日本映画の多くにも感じる特徴だと、むかしから思ってた。
「美」のある陰気臭さは嫌いじゃないがw
ダサい、しかも陰気臭い、というのは、私の好みじゃないのでw
すびばせんね、ずけずけ言っちゃって。
要するに、
「洗練」とか「美しい」とは思えなかった。
はっきり言っちゃうと、かなり稚拙で独り善がりな表現かなあと。
重ね重ね、すびばせんねw
まあ、実物を目の前にするのと、パソコンの画面で見るのとでは、どこか異なるかもしれない。
で、脅迫に およんだウヨのオッサンのダサさについても、以前のエントリーで せせら嗤ったねw
「『うちらネットワーク民』wwダッせえわあ!!www」
と(爆)
ダサい者どうし、脅し脅されwww
…許してたもれ(苦笑)
もう一度 言いますが、
各作者さんがたの持つ背景思想だとか、そんなもん、どーでもいいのです。
過去に、私が辟易させられた「カルト連」も、やってることは下品なイヤガラセでしかないのに、それを、「芸術なんだよ!」とか「哲学的実験なのだ!!」と言い張ってて、心底ウンザリしたけど、
案の定で、「ナチス大好き」の、ネトウヨにしてオカルト愛好者だった。
その頃、私の やるかたない怒りと不快を やわらげてくれたコトバが、
「芸術とは、心を豊かにするもの」
という一言だった。
これを言ったのは、
名門『キューバ国立バレエ団』を率いて、先ごろ、ついに故人となった、往年の大プリマ、アリシア・アロンソだった。
私を力づけてくれたアリシア。彼女の踊りを見ていると、少し元気が出る(笑)