2015.05.11 (Mon)
の続き。
姉でも兄でも、もともとは、甲斐性も乏しいくせに呑み助の親父が、
「家計が苦しいのだから、成績悪いなら中学卒で働かせろ。せいぜい高卒で じゅうぶん」
と言っていた。
それを、私の母親が、羽振りの良かった自分の妹から借金したり、病弱の からだに鞭打って、自分で店を出して働き続けたり、仕事帰りに交通事故に遭い、
そうしながら兄は大学まで やり、
途中、これと言って理由もない留年のワガママ勝手も許してやり、
そのせいで出遅れた就職時、
とにかく堅い職業に、ということで、自分が培った人脈のコネで、教職に就けてやり、
(兄の性格では、とうてい一般企業のサラリーマン向きではなかったから)、
姉のほうはというと、
これが、箸にも棒にもというほどサンザンな学業成績だったから、アホ女学校の私立しか受けられなかったの。
それを、私の叔母に借金して、
とにかく、アホ女学校でもいいから入っておき、頑張って一番になりなさい、そうしておけば、良い企業は、上澄みの学生だけ採用するんだから、とハッパかけまくり、
姉の成績が、お話にならないほど酷かった実態を初めて知った親父は、娘に騙されていたと、したたかにブン殴り、
さすがに、それからは本人も必死こいて一番を通し
(定評あるアホ女学校なんだからwそんな困難でもないわな)、
首尾よく、有名商社に就職でき、そこで、出世コース組から外れているとは言え、一応、商社マンの、おとなしい婿を掴まえたわけさ。
それら、母の必死の尽力により、いずれも順調で幸せな生活を営んでいたはずが、
やがて、
姉は精神病になり(彼らの母方の遺伝だそうな)、
兄は自殺。
私と同い年の、親父の先妻の娘。(ほんと、つくづく、みっともねえ親父だw)
あんたが、養育費も もらえずに苦労した悔しさは理解できるよ。
でも、それは、私のせいではない。それくらいは分かるよね。
私の母親が止めていたせいで、、、とも言ってたが、そんな事実は一切ない。
と言うか、あの経済状態では、出したくても出せなかったのかもしれないが。
とにかく、昔の親父が、トコトンだらしなかったせいで、兄や姉らが独立するまでは、うちの実家は、家計が酷く逼迫していたのは、私も、よく知っていた。
まだ幼児の時分から、母親に、せんぐりせんぐり、愚痴を聞かされていたから。
障碍のある私を放置していても、あんたの姉や兄に尽くした母親の内助の功と長年にわたった頑張りがあってこそ、
さしもの、だらしのない親父も、専門職を投げ出さずに済み、晩年に近づくにつれて、やっと、そこそこ溜め込めていた幾らかの遺産、
いまとなっては、すべて、あんたがゴッソリ持って行ったことを、私は何も言わず譲ったのだから、少しは気が済んだことだろ。
何も知らないことだらけなままの あんたに、あそこまでエラそうに言われる筋合いはないのだが、ガマンして聞いてやりゃ、言いたい放題。。。
まさに、「捏造と願望の歴史を信じている」ありさまだったな。
私は幼い頃から、病弱な母親を庇って、自分が盾になり、アル中おやじの激しい暴力にも耐えてきたけど、あんたは、その苦労だけは免れたよね。
だから、「おとうさん、おとうさん」言ってられるんだわ。「まぶたの父」ってやつね。
とにかく一緒に暮らせただけでも良かったかどうかなんて、そんな単純な話ではないさ。
親父も母親も、晩年に さしかかり、いよいよ弱ってしまってからは、手術後も体調が良くないままの私一人の肩にズッシリ食い込み、ただでさえ障碍を抱えているゆえのストレスが伴う私の生活全般と心身の健康をも蝕んだ。
その間、近場に住んでた兄も姉も、一切、何の役にも立たなかったよ。
もっとも、親父最後の裏切りを知ってからは、とうとう私は耐えられなくなり、完全に見限ってしまったけど。
死に顔を見ても、涙も殆ど出なかった。
私は、もの心ついてからというもの、常に、母親と父親が別れてさえくれたら、どんなにか良いのにと願っていたし、
母自身も、私が小学生の頃には、その準備を始めていたのだけれど、
結局、果たせないまま、月日が過ぎていった。
その間、
何度も、死ぬことを考え、実行もした、あのとき、実際に死んでさえいたら。何度も思った。
もし、そうなっていたら、
私の周囲の人間たちの状況・情況展開は、全く異なったものになっていたことだろう。
恐らく、
親たちの その後の関係性は、もっと惨めに醜悪に屈折していったであろうことは、想像するのも おぞましい。
彼らのあいだに、およそ愛や情というものがないから、というわけでは、決して、ない。
それでいて、徹底的に傷つけ合い、潰し合うのだ、ああいう人種は。
やがて、あれこれ不安を抱えながらも思い切って、実家を出たのも、
ひとえに、あの父親と暮らしていく苦痛に、もう これ以上、耐えられなかったのが第一の理由。それ以来、
姉らのように、なぜか、実家に戻りたいと願うなんて、
私には、ただの一度もなかった。
それどころか、もしも、実家に戻るくらいなら、今度こそ死んだほうがマシに決まっていた。
私の将来には、結局のところ無責任、無関心で、その分を、義理の息子らの将来設計に必死になっていた母親は、その義理の母(私の義祖母)から、
「おまえは、義理の子どもなんかに、いっしょうけんめい尽くしていても、何も報われんぞ」
と、せせら嗤われたのだと、
生前の若かった母親が、私に向かって、いささか悔しそうに言っていたのを思い出す。
と同時に、
母ら先妻の子どもたちには、たいへん苛烈に当たっていたというのに、
なぜか、実の孫たち以上に、義理の孫娘である私に対しては、いつも甘々だった、その義祖母の言ったことは、結局のところ本当だったのだと、とても複雑な気持ちで振り返ることが増えた この頃。
2015.05.11 (Mon)
『「格差」「近隣の善意」といったキーワードで私にも思い当たること』
の続き。
…
私の母と、父その前妻の家族らとは、もともとは、近所の顔なじみだったのだそうで、
母方の伯母の養子として、赤ん坊のうちに もらわれていた父が、戦後、先に一人だけ、本当の実家があった出生地である大阪に出て、仕事の基盤を固めつつ、父の養父(私から見て義理の祖父)を看取らせた妻子を呼び寄せ、なんとか、一家そろった生活を始めていた。
大阪のド真ん中育ち、都会っ子である母の話では、当時、彼らは、関東の片田舎から出てきて日も浅く、見るからに、なんとも だらしない、貧しい生活ぶりだったらしい。
養子先の伯母の家庭も、夫が甲斐性なしで貧しかったそうだが、
父の本当の実家では、元運輸官僚だったという親(私から見て実祖父)が、海運会社を経営していて、羽振りが良く、たいへん裕福だったのが、
その実父も、養子に行った先の伯母も、まだ若くして、それぞれ癌で亡くなっている。
父の実父という人は、官僚を辞めたあと、一代で起こした企業経営者となってから、ますます、気の短さと怒りっぽさが猛烈になっていったそうだが、
青年の頃に、技術官僚として赴いていた関東の田舎で、本当は、最初、父の伯母のほうに一目惚れしていたのを、あいにくと、すでに人妻だったことから、妹が存在していることを聞きつけた直後、顔も見ないうちに、早速、結婚を申し入れ、決めてしまった。
ところが、いざ、婚礼の日に、花嫁と、ご対面したとたん、、、
父の実父は、その目出度き婚礼のあいだじゅうを、さめざめ泣いていたという。(爆)
どんなんやねん(爆)爆)
要するに、
実姉妹なのに、美人の姉とは似ても似つかなかったということらしいw
このエピソードを、父の実母の通夜の席で、父が、うあははは、と大笑いしながら暴露したものだから、
実家の妹たちが、
「いくら、うちで育たなかったからって、自分にとっても実母には違いないものを、そうやって嗤うか」
と、烈火のごとく怒ったそうな。
ま、それでも、泣いた花婿は、実際に顔を見てガッカリしたはずの新妻とのあいだに、その後、何人もの子どもが生まれている(笑)
案外、そんなもんだ。
で、うちの母だが。
まさに「おせっかい」を絵に描いたような典型タイプだったから、
やがて親父が、こっちも、すでに人妻にして、幼い娘もいた母の際立った美貌とキップの良さに惚れて、執拗に つきまとい始める前から、
父の最初の嫁さんの子らが、いつも ひもじそうにしているのを気にかけて、たびたび、おやつ等を与えたり、親切にしていたという話は、私も早くから聞かされていた。
まあ、私自身で見てきて知っていることではないので、多少は割り引いて受け取るべきかとも思うが、当時の事情を知る人の話では、そのとおりのことだったんだよ、とは言っていた。
父の先妻は本当に、どこの田舎者かと思うくらい、育ちの悪さと品のなさで、近所でも顰蹙を買っていたという。
子どもらのことも、ろくに世話を せず、放りっぱなしだったそうだ。
子どもも子どもで、自分たちの母親を軽蔑していた。
それでも、
実母に対する、そして、継母に対する その心理は、たとえようもなく複雑なものだ。
私の母は、自身も、その父の後妻である義理の母親のもとで育っている。
そうして、ごく若くして、親のつごうで決めた相手の、これまた顔を見ないうちに、否応もなく嫁がされ、とうとう、最後まで、相手を好きになれなかったようで、そういう、心のなかの虚しさを秘めていたかもしれない。
そこに、嫁も子どももいる、暑苦しくも すけべい30男が現れたわけだw
母方の祖父も、もともと資産家で、家庭の経済は、いたって裕福だったにもかかわらず、母たち先妻の子ども全員が、進学の希望を断ち切られていった。
私が聞かされた話では、
母の義理の母親、すなわち、私から見て義祖母は、子ども時分の母が関わった、ある出来事が切っ掛けになって、のちに、家系・出自も育ちも教育レベルも何もかも世界が異なる、私の祖父の後添いとなったのだが、
初婚のときに産んだ子どもを連れていた彼女は、大変に貧しい家庭の出で、読み書きすらも、教わる機会がなかったそうだ。
祖父と結婚してから、街の看板などで少しずつ文字を覚えていき、お金の計算にも、自分なりのコツがあるのさと言っていた、気が荒く野性的ながらも、実は知能がズバ抜けていることを、うちの母らも秘かに認めていた彼女が、私の祖父とのあいだに産んだ息子たちは、両親の どちらに似たのか、いずれも優秀で、医学部を出て医師になった者もいるが、
先妻の遺児である、私の母親にしても、
また同じく、
実の兄弟たちにしても、学業であれ何であれ、成績優秀だったことに何ら遜色はなく、
それだけに、
なさぬ仲の子らとの年齢が、わりと近くて若かった継母の嫉妬によって、勉学の邪魔をされ、進学の希望を徹底的に潰された悔しさのことは、私が幼稚園に行くか行かぬかくらいの年齢から、さんざん聞かされた。
で、
うちでは、わりと最近、実家の父親が亡くなり、
そのおりに、一人だけ、先妻のほうに引き取られていた娘というものに、生まれて初めて
(実際には、私らが乳児の頃の一時期、私の母の手元で一緒に暮らしていたらしいのだが、もちろん、記憶にない)、
ご対面する機会があったのだが、さっそく、厭味のかぎりを言われました。
私のほうの母も、とうに亡くなってるし、
うちの父母のあいだに生まれたのは、私だけだから、
他は全員、父の先妻の身内。
多勢に無勢とは、このことw
そのとき、先方に言われたことのなかに、
「死んだ兄は、本当は、早稲田大に行きたかったのに、無理やり、近場の国立大学に行かされた」
とか、
「姉にしたって、頭が良いのだから、本当は、大学に行きたかったのに、義理の おかあさん(私の母親)に反対された」
とか。。。
言いたいこと言ってくれちゃって
【続く】
2014.05.11 (Sun)
もっとアップ出てこないかなあー
2014.05.02 (Fri)
2014.04.27 (Sun)
『風信子どこへ』 2012/04/15 23:55
明日を探して
歩く野辺の道
季節は どこかへ忘れてきたの
きょうも晴れた空
あしたの夢は ないけど
風だけを頼りに歩いていたい
そうね 風信子みたいに 愛を知らない
ひとりぼっちの花よ 幸せは どこかに
見知らぬ あなたの やさしい言葉ほしくて
今日も そっと待ってる 白い風信子
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