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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2015.07.07 (Tue)

当ブログでも、『ある科学者の死』というエントリーを含め、この大騒ぎに関し、いくつかアップしたが、

まず、

世界的権威とまで目されたほどの人が、あんなにアッサリと引っ掛かり、

そして、その結果、

あんなにもアッサリと死んでしまうものなのか、という驚愕。

 

 

発信箱:STAPを越えて=青野由利
毎日新聞 20150327日 東京朝刊

http://mainichi.jp/shimen/news/20150327ddm005070022000c.html

 私が初めて小保方晴子さんの声を聞いたのは昨年1月28日深夜のことだ。この日、ネイチャー誌が世界の科学記者をつないで「電話記者会見」を開いた。

 

 指定の番号にかけ、小保方さんと記者とのやり取りを聞きつつ感じたことは二つ。まず、こうした会見に日本の若手研究者が堂々と出てくるようになったことを歓迎する気分。もうひとつは、質問に答えるまでの長い沈黙や、照れたような笑いに対する、ちょっとした不安だった。

 

 後付けで考えれば、不安は的中した。電話会見では「共同研究している研究室の間でSTAP細胞は再現できているの?」と聞かれ「イエス」と答えていたが、その事実はなかった。その後の顛末(てんまつ)はご存じの通りだ。

 論文の査読者から疑問が呈されていた穴だらけの研究をなぜ周囲が信じたのか疑惑が生じた後も一部の科学者が擁護し続けたのはなぜか。疑問は解けないが、「まさか」の研究が大発見につながる科学の歴史を知っていたからこそかもしれない。「初めは誰も信じなかった」。優れた業績を持つ人々から、何度この言葉を聞いただろう。

(一部文字強調は、当ブログ主による)

 

当初の頃にも言ったことだが、私個人は、小保方さんと、くだんの研究について、食指が動かなかったと言うのか、記事を拾い読みしてみても、ふーん、程度にしか思わず、ほとんど、関心が湧かなかった。

私は、ふだん、どちらかと言うと、科学方面の話題には興味を持つほうなので、小保方さんの発表等に関して、なぜ、いつものような関心を起こさなかったのか、自分でも、説明できない。

(この部分は、あくまで余談。ちと、いや、かなりオカルト的なことを言うと、私には、こういう現象が、わりと起きたりするのだが、
個人的には、いわゆる「スピリチュアル」等の類に全くと言っていいほど関心はない。ただ、こういった現象が実際にあるのだなということだけを受け止めている。

ごく端折って述べると、ある夢を見たあとに、「これは、現政権の意向も密接に はたらいていたな」という直感を持った。それもあって、
もっと本当の責任を負うべきを追及せず、「しろうとに毛が生えた」ようなのが正体の彼女一人に全ての責を負わせ、というのでは、やはり、大変おかしいじゃないかと考えていた。)

 

 

心理学の専門家である碓井先生って、立場上もあるからだろうと お察ししているが、いつもは、焼けたんだか煮えたんだか、いまいち要領を得ないくらいに慎重な言いまわしかたを なさるので、時々、読者からツッコまれているのを お見かけするのだが(苦笑)

くだんの小保方さんについては、この先生にしては珍しいほどハッキリと、彼女の内面性についての疑念を呈しておられた。

 

また、誰かしらが、小保方さんをして、まるで「教祖」とか教祖的要素を持ってるとかと評してたものだが、

やっぱりね、ほとんど「宗教」だったんだなあと思う。

 

「不合理ゆえに、われ信ず」ですか。

 

宗教、また、宗教的なるものは、やっぱり、問題が大きいね。

人ならではの欲望が絡み付き易い世界だけに、犠牲や死も容易に齎される。

 

どんな宗教でも主張するであろう、各々その「ユートピア」のヴィジョンとは裏腹に、容易く「ディストピア」が展開されてしまう。
それが、宗教の歴史現実だ。

 

 

なるほど、かつて、私の恩師が、私に向かって言い聞かせるように述べた「実は、厳しく主体性が要求されるものなのだ」というのも分かるような気はするのだけれど、

私の知るかぎり、現実には、何らかの宗教とか、そういった類に のめり込む人というのは、良い悪いは抜きに、一見、信念が強いようでいて、
やはり、どこか度を越して依存的だと思う。

思考停止的に、素直に信じ込む、そのわりには、ヘンに我が強いとか、みょうに頑固だなという印象もある。

 

宗教あるいは宗教的な意味の、ぶっとい柱でも固いモノサシでも、そうしたものを確固と抱え込んでいないと、始終グラグラ揺れに揺れて、自分の足で真っ直ぐに立っていられないほど、心許なさで不安に苛まれるのだろうかと訝しく思う。

 

私は、人間に敢えて必要なものとすれば、それは、たいそうな宗教と言うよりも、ただに、素朴な敬虔さで じゅうぶんと考えてきた。これを失った「聖職者」たちが古今東西、どれほど破廉恥な罪を犯し、他者の犠牲を強い続けてきたことか。

 

 

「スタップ細胞」って、以前の幾つかのエントリーでも挙げておいたのだが、先行していた「ミューズ細胞」とかいうものからのパクりが窺えるふしを、そこかしこに見受ける。

 

そうそう、最近見かけた、こんな記事もあったけど。

これはさぁ、スタップ小保方さんの唱えてたことと同じようなことじゃないの?w

どっちかがパクったのか?ww

 

不食によって神の力が手に入る!? 榎木孝明で話題の“不食”本を読んでみたら…2015.06.29

http://lite-ra.com/2015/06/post-1230.html

 なんでも、クローン羊は乳腺細胞から誕生したといい、〈個別化された乳腺細胞が逆進化して全能性を持つ細胞に復帰した。(中略)その手法が何であったかというと、(中略)栄養を絶ったのである。つまり断食状態にしたのである〉という。そして、山田氏の思考は羊から人間へ向かうのである。

 

〈単細胞が断食で、ものすごい能力を手に入れた。それならば複合体である、細胞からなる人間の身体そのものに断食を与えたらどうなるか。(中略)超能力に到達できるのでは〉
〈不食によって初期化されたらどのような能力を獲得するか? 神の力を手に入れる!〉

 

 なんだか「手に入れろ、ドラゴンボール!」「ポケモン、ゲットだぜ!」に相通じるノリの良さが愉快だが、まさか不食によって超能力だの神の力が手に入るかもしれないとは、もうこれは科学でも何でもない上に、〈不食が可能である根拠〉にもなっていない。というか、ただの願望である。

 

 

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