2014.03.11 (Tue)
『生後6カ月、これは何の罪か。』
http://schneewittchen.iza.ne.jp/blog/entry/2107996/
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「摂理」というもの自体、そもそも不条理なものか。
それでも季節は春夏秋冬を繰り返し、一応、夏は暑いし冬は寒い。
われわれは、そういった「摂理」のなかで、それらを理解しようと、それこそ「必死」で つとめつつ――というのも、辛うじて、完全に投げ出さないでいられるからこそに他ならないが――なんとかやってきた。
「正義」とは何か?
しょせん相対的なものでしかないのであれば、到底「普遍」とは言えない。
「自分にとっての正義」が正義なのであれば、「相対的であること」そのものが普遍だということなのか。
死なずに生きのびれば、かすかな希望のようなものが僅かにでも生じ、残され、
そのなかに おいて、「不条理」を認めたくなければ、多かれ少なかれ歪んでいくだろう。
真っ直ぐだとポキリ折れるのならば、歪みは即ち、生きのびる方策となる。
「自分にとっての不条理」が多ければ多いほど、歪みも多くなるだろう。
そうでなければ、最初から思考停止、
希望の代わりに用意する麻薬のように隠微な悦楽の香を嗅いでやり過ごすか。
そして、
投げやりに ぽかんと開かれた暗渠の口の端から涎を垂らしながら…
あるいは、
「不条理」に納得行かなさを持て余し、呪いのコトバを呟きながら
ただ、死んでいく。
そして、入れ替わり立ち替わりし、また、同じことを繰り返す。
産み落とされて間もない無垢の白紙のはずの赤子にとって、周囲の者から受ける仕打ちが、ただ残酷なばかりであれば、それは、まさに「不条理」でしかないはずだ。
が、「不条理」などというコトバも知らない赤子は、なぜ、自分が、そうした仕打ちを受けねばならないのかという疑問すら持たずに、ひたすら泣き叫び、やがて声も枯れ果て、黙したまま死んでいく。
赤子に残酷な仕打ちを向けずにおれない者にとって、その者にとっての「理由」はあるだろう。それをコトバにして口に出せるとは必ずしも限らなくても。言うも憚られることすらあろう。
しかも、その「理由」なるものも また根拠なきものにして、われわれの誰も、そのことについて、まともな説明も、証拠を見せることも一切できない。
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