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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2014.05.28 (Wed)

最近、

知的あるいは発達系障碍と思しき子どもや青年を、どういうものか、たて続けに見かけた。いずれも男性だったが、

もしかして、昨今、増えているのだろうか?

こういう方面の障碍にも、いろいろと個々に違いも度合いもあるのは、私自身、間近に見たり聞いたりする機会があって、ほんの少しは知ってることもあるのだが、

はっきり言ってしまうと、ここ数日間に連続して見かけた場面では、

いずれも非常に衝動的な、突飛な しぐさと共に、どこか独特な軽薄さに溢れ、
通常の人なら備わっているはずの、ある程度なりに深みを伴った静かな知性というものが決定的に欠けているとしか言いようのない、奇異なまでに落ち着きのない表情と態度を伴っており、通りすがりの
あかの他人でも、すぐに、それと気づくほどだった。ということは、彼らの場合は、重度に相当しているのだろうと思われた。

はたして、

そばに付き添っていた母親と思しき女性の、他人以上に、身内の私自身がイライラと疲れさせられ、この子にはウンザリしていると言わんばかり持て余している嫌悪の表情が目に入り、まあ、これでは、家族の苦労も大変なものだろうと察せられたことだ。

ただ、肉体的にも、いっそのこと、いつまでも、精神に相応の幼児でいてくれれば、それほどの問題にならないとしても、現実にハイティーン以降になってくると、たちまち深刻さを増してくるであろうことは、他人でも想像に難くない。特に、男性の場合は。


個人的な出来事からなのだが、

このことは、もう何年前になるのか、例の質問・回答サイト「OKウェイヴ・おしえてgoo」に参加していた初期の頃、ネット自体に初心者だった私は、とある「自己愛性人格障害」者(←本人申告)に絡まれるハメに陥り、その猛烈な逆恨みから、たちまち執拗なストーキングと激しい誹謗中傷攻撃を受け続けていたときの考察を述べたことがある。

それは、

なんだかんだ言って誰しも自分は一番可愛いもので、
たとえ、自分自身に発端なり原因があったとしても、そのために、周囲の者から怒りや叱責を受けたとき、リクツ抜きの不快感を持ってしまうのは、これも自然なことだ。

しかし、動物や幼い子どもでもないのだから、一応理性の備わった者であれば、少なくとも自分の負うべき責めについては、神妙に受け入れるのが一般的。

ところが、ある種のひとたちというのは、いくつ何十の年齢になっていても、怒られたとか叱責される現象が自分の身に起きたということの表面のみしか受け止めることができないようなのだ。

つまり、

どんなに、自分の側に根本的問題や失態があったとしても、そのために怒りや叱責を向けてきた相手のほうをこそ無条件に「悪」と感じるのか、憎んでしまうのらしいということ。

ありていに言えば、「逆恨み」というやつだが、

それだけ、起きたことの なかみというものを知的に客観的に吟味できない本人にとっては、ただ恐怖、脅威、強い圧迫だけを感じたということなのかもしれない。

自己愛性」という名称も付くわけだ。

しかし、これは、もともとは、いたって素朴な感情が原点なので、べつに、不可解でもなんでもなく、生物である以上は普通に、誰しもが基本的には持っているはず。

ただ このままの状態では、幼児並みであり、甚だしい場合には、まるで野生動物並みだ。当然、陰にせよ陽にせよ深刻な問題になる。

野生動物並み、幼児並みの自己愛剥き出しのまま成人してしまった者が、この人間社会にて生活していくうえで、とうてい、妥当なところで平和に おさまっておれるものでないのは明白なのだから。

したがって、

幸か不幸か、知能に不足がないかぎりで、当人も、巧妙に隠そうとし、
また、その養育者も、最低限、支障が表に出ない程度には抑え込むことを要求する。

彼らは何故、周囲の者の怒りや叱責といった、自分にとって、ふつごうな出来事に際し、その出来事の勃発した根本原因は全く さしおいて、

ただ ただ、可愛い自分が怒られた、叱責された、という現象の表面のみに とらわれてしまうのか。

もちろん、それだから、おかど違いの被害意識のほうを抱え込んでしまい、本当の自己反省ということは し難いわけだ。

実は「自分」というものがないのだという説も聞くが、「人格障害」と名の付く者には、一見は、いかにも、俗世間的価値観に つよく反発していて、殊更ユニークな存在たる自分をアピールしながらも、そのくせ、

往々にして、
実は
このうえなく俗世間的価値観にドップリ毒されているゆえであることの自覚がないらしいのを目撃することが何度もあった。

けっこう、学校時分は、とにかく勉強を頑張ったので、それなりの優等生だったという人も少なくないようだ。

典型的なのは、

頑張って努力したのに、決して一番にはなれなかった、社会人になっても、どうにも世間的な成功者には届かない者が、明確な答えのない芸術の世界の天分やら「天才」という呼称を渇望することだ。

なかには、安直に、オカルト能力に活路を見出そうとする者さえいる(笑)

それも これも、

自分一個のプライドを守ること、
おさまり悪くグラグラしている不安で人並み以上に苛まれているのを感じないようするため、
目につく何にでも縋り付き、がっつり喰い込み、余すことなく利用し、
もって、可哀そうな可愛い自分を安定させるための懸命の方策なのだろう。

それだけ、よく気が まわり、敏いのである。

少なくとも、私のように、ボーっと しては いないw

ただ、発達系障碍というものにも、知能自体には問題なく、というよりも、むしろ、ある側面においては、通常人以上の優れた集中性と能力を持つ場合もあるらしい。本人が好んで興味を持っていて、得意とする分野に関しては、非常に能弁で饒舌にもなるという。

こういった特徴的な現象は、むしろ、幼い子どもに、それほど珍しくなく見受けられることではないだろうか。

動物たちでさえ、考えようによっては、人間よりも鋭く優れている面があるわけで。

で、

ある意味、生命力旺盛で元気でマメで行動的な片山(丑田)被告だが、

世間一般でも、よくある母子関係だろうとも思うのだが、
恐らく、片山(丑田)にとって、その母親は、この世で最大の受容者であると同時に、隠然たる支配者でもあっただろう。

今後の更生にあたって、彼の母親は欠かせない重要な存在であることは、あかの他人にも理解できるけれど、

私個人の感じたことだが、

自分の息子の前科、
いま
また再び、世間を騒がせ、無関係の人々を、より いっそうにも深刻に巻き込んだことについて、
かの母親自身、息子が犯人であるという認識を持ち、その被告に対し、被害者たちのことを大前提に諌めてきたというよりは、

ただ自分自身の平穏な生活を取り戻すことばかりを第一に求めていたのではないかと、

報道によって、その言動の一部を伝え聞いたかぎりでは、けっこう、片山(丑田)被告と似た視野の狭さを感じないではないのだ。

あくまで自分個人を中心とし、ごく狭い視野の価値観においてしか、ものごとの善悪の本質を踏まえ、実感していく能が、片山(丑田)には欠落しているとすれば、そんな母親だけを たよりに、さて、なかなか困難な話だよなと思う。

人生、どのような理不尽な苦労でも、良き糧にしていければ、それに越したことはない。だが、少なからぬ ある種の者たちは、自分の身のうえに齎された出来事を、他者への想像力の涵養に資するのではなく、

幼い子どもが、周囲の おとなたちの表面的な姿をソックリそのまま真似するごとくに、自分が味わった何らかの苦痛や不快そのままを、誰でも押し付けやすい対象に、そっくりと押し付けてしまう。

そういう幼い「学びかた=真似ぶ」しかできない者たちも存在するのだ。

想像力の欠如というのか、まずは、自分自身の痛みには酷く敏感でも、遠い他者の痛みに関して、どうも自分は鈍いらしい、ということから自覚を持つようにしていかなければならないだろう。

自己愛、自己中心性というものは、本来は自然のうちに用意されているものでもあろうだけに、ある種の人たちにとって、並々ならぬ努力と自律を要するだろう。

このことは、どちらかと言うと、人全般に対する関心が希薄になりがちなほうだった性質である私自身も、年齢を重ねていくうち、よく心しなければならないと思うようになったことの一つだが、

学校時分の片山(丑田)がイジメられていたという話が事実であるならば、その当時の関係者も含めて、このように自らを問い直さねばならない人々は、世に少なくないだろう。

片山(丑田)被告擁護派だった人たちへも少し批判しとくw


 

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