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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2014.08.24 (Sun)

関根麻里 韓国人歌手Kと挙式 白無垢、袴姿で
スポニチアネックス824()128分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140824-00000085-spnannex-ent

 

スポニチさんの当該記事に添えてあるフォトさあ、なんか厭らしいなあ?と感じるのは、私だけの気のせいだろうか?w

まずは、ふつう、結婚式の話題の場合に、こんな変なアングルの写真は使わないだろ?と思うのだがなあww

 

まあ、とにかく、

晴れの日を迎えられた主役の御両人には、おめでとう、お幸せにね、と心から申し上げる。

 

ところで、

以前、たまたま見かけた、在日朝鮮人であるというブロガーさんと、そのブログ常連さんたちが、

そこへ押し掛けてきた荒らしコメントの投稿者本人にとっては、厳然たる正義の主張のつもりなのであろうけれど、
もはや手の
つけようもないほど、浅ましさ このうえなくカン違いした「ネトうよ」に多く見受けるヘリクツを執拗に言い張るのを、面倒がらず相手になってやり、延々言いあっているのを、
私自身、その荒らしコメント投稿者に思い当たるふしを大いに感じたこともあって、当方のブログ
エントリーで紹介させてもらった、そのとき、少し触れたかと思うが、

すでに怪訝に思っていたところの、韓国の新聞記事等を毎日欠かさず、熱心に目を通している「嫌韓」派に加え、近頃では、

「在日韓国・朝鮮人」の友人・知人なんて、私には、いまだに一人も できたことがないので、いわゆる「ネトうよ」と思しきひとに、

「(仲の良い)韓国人や朝鮮人の友人・知人が何人も いますけど」

とか

「自宅のまわりや地区・町内には、在日が多い」

とか言ってるのを、たびたび見かけるものだから、なんともフシギだなあと思ってきたw

 

それと、日本語の奇妙さねww

 

もっとも、

上記に挙げた在日ブロガーさんたちのように端正な日本語も、彼ら祖国の言語も使いこなせる人たちは多いし、普通に日本の学校教育を受けて育ち、日常生活でも日本語を用いていれば、まともな自然な日本語を使えるのは、国籍が日本でない人であってもアタリマエだろうが、

句読点や「てにをは」を始め、全体、どうにも奇妙な感じを受ける日本語を書き込む投稿者というのは、なんなんだろうか??と、常々思ってきたw

 

なかには、まあまあ普通の日本人なのに、ごく基本レベルの日本語すら使えない日本人も、そりゃ、いるようだがなww

 

 

 

>ところで 白無垢、袴姿で とあるが、韓国人の結婚衣装ってなんだろな?

出席したことあるけど、ウェディングドレス→チマチョゴリだった。
チマチョゴリには結婚式だからと特に色の規定はないと聞いた。

 

へーえ、出席したことあるwww



こりゃまた、

結婚模様」て、なんのこと??どういう意味???

日本語で、こういう言い方してるの、初めて見たわwwww

 

 

ほんに、「嫌韓」さんというのは、さても おかしな日本語(もどき?)だったり、イミフなことを堂々と言い放つひとが多いようだ(嗤)



  『僕が一番欲しかったもの』
 

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Updated   
2014.08.21 (Thu)

「おまえの かあちゃんデベソ」も、いかなる激烈な「ヘイト スピーチ」も、なるほど、「表現」のうちに入るのだろう。

 

だが、「言論」たり得ているとは到底言えまい。

 

 

ヘイトスピーチは「暴力」=日本政府に懸念続出―国連委
時事通信821()022分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140821-00000001-jij-int

 

 

ヘイトスピーチは言論表現ではない、というのには同意できないな。
言論表現ではあるけど、他者の権利を侵害する度合いが看過できないので、例外的に表現の自由の対象外とする、と言って欲しい。
口から発せられる言葉は、どんなものでも言論だ。

 

言論表現ではあるけど

そうじゃなくて、

「表現」のうちではあるにせよ、「言論」と言えるレベルには全然ない、
ってこと。

 

 

「嫌韓」でも「反日」でもいいさ。そりゃ自由だ。
好きやキライを強制したって しょうがない。

「日本が嫌いなら出て行け!!」と叫ぶことも表現として自由が認められ、守られるべきなら、
日本を嫌いで、そのことを表現することも また自由で、守られるべきはずなのだ。


「反日」については、むしろ、より思想的なものであって、単なる好き嫌いの範疇の問題では ないのだろうが。

 

いずれにせよ、

「ゴキブリ」

死ね

殺せ

こうした類の発言の どこが「言論」だよ?(嗤)

 

こんなものは、およそ「」では ない。

ただただ口汚い罵倒であり、恫喝であり、脅迫だ。

 

恫喝、脅迫の類は、りっぱに犯罪行為である。

 

 

 

ところで、あちら韓国の国民の大多数は、政府やメディアの主張や論調に対し、日本人一般よりも、もっと ずっと突き放した、クールな眼で見ているということを紹介している記事もあった。

中国にしても、その国民は、自分たちの政府がメディアを使うとは、どういうことなのかを先刻承知しているという。

こういった点では、たしかに、一般的日本人のほうが、まだまだ、ずっとウブなのだろう。

これが何ゆえ、そのようにウブでいられるのか?ということを考察、分析してみるのも興味深いものだろうが、ここでは置いておく。

とにかく、

「ネトうよ」と思しき連中の発言に よく見受けられる「ネットの真実」という噴飯もののセリフを持ち出したところで、それに対してもウブなままなら、結局、従来的にウブな人々と何の変わりは ない。

 

 

韓国でのアカラサマに激しい「反日」行為というのは、実際は、どちらかと言えば年配者だというし、それも一部の過激な連中に過ぎず、それならば、まあ、「在特会」なんかの存在と似たようなものなのだろう。

私は、こうした問題について、あまり詳しく見聞してきたことが なく、そういうことが、もしや「知らぬが仏」になりがちだったか?と慌てて思ってみたものの、私個人としては、国内的には、むしろ、日本人のなかに昔からコソコソと存在し続けた(隠れ)差別意識を持つ人のほうが多いというのが実態では ないかと思われるのだ。こちらも やはり、従来は年配者のほうに断然多かったと思う。

だが、こんにちの日本では、ネットによって、若い年齢層にまで、異変が生じているように見える。

 

 

身近で思い当たるのが、「ヨンさまブーム」だ。

これが話題頻りになっていた頃を思い出す。

 

「よりによって朝鮮人の男なんかをチヤホヤ騒いでるんだってな。それも、けっこうイイ歳した、年配のオバハンらまでが大騒ぎだと。まったく、なにを考えておるんだか」などと、
実家の父が、実に苦々しい顔つきを して、首を振り振り、繰り返し言ったこと。

 

もしかして、

父のような受け止めかたを していた人たちが、あの「韓流」大ブームのあいだ、苦々しく見詰めていたのかもしれない。

 

 

さすがに、普段の父は、目の前にいるのが、どこの国民で、何の人種だろうと、少なくとも、あからさまな差別や侮蔑した態度は、そうそう出しは しなかったと思う。

でも、黒人のことを、あたりまえに「くろんぼ」と呼んだりは した。

自覚も疑問も罪の意識も ないのだ。

それだから、傍目には、ある意味で「信念」を強く持っている人であるかのように、紛らわしくも、見えたろうし、思わせたろう。

 

父も また、ある面では非常に几帳面で真面目だったが、半面では、とてつもなくエゴイスティックで、ハチャメチャで、本当には反省ということが できない、恐らくは理解できてもいないひとだった。

 

こうした面では、母のほうも、父よりは、全体的に幾分ひかえめだったと思うのだけれど、いわゆる「部落民」とか「同和」関係の人たちなどに対して、根強い偏見を持っていたようだ。

 

 

彼らの いずれも、そもそも、自分自身のやること、考えることについて、まったく無批判、少しは疑ってみるということが なかった。

ろくに根拠もなく確信に満ちてさえいるように見えた。

 

そのくせ、根本的なところで、彼らなりの切実な理由で、根強い劣等感を持っていた。

 

 

しかし、真正面を向いて見据えることからは逃げていた。

こちらが敢えて、それを突きつけると、狂ったように爆発し、相手を精神的に抹殺しようと かかるか、

深く憎悪の眼差しでもって睨みつけ、相手の一切を遮断し、聞き入れなくなる。

 

 

環境や外部に由来する問題には大いに恨みを述べ、批判しても、自分自身で招いた問題には、まったく自己批判ということが できない。

ましてや、自己に内包する問題について分析してみたり検証する能力は持ち合わせず、と言うか、

彼らにとって、僅かでも自分のヘマやら罪等の不利を認めることは、さても居心地悪さに耐えかねるあまり、目を逸らし続けるしか できなかったのだ。

完璧主義とでもいうのか、それを やったら、プライドだけは突出していたせいなのか、とても生きては いられなかったのかもしれない。

 

 

だから、自分よりも立場や力が弱い者、それが自分の子どもであろうとも、ひとたび体面・自己保身のためとあらば徹底的に、罪や責任を擦り付けて恥じない。
逆に、つごうがいいうちは、それなりに溺愛のふりを する。

要するに、とことん、自分が第一で可愛いのだということが隠せもしない。

 

 

だが、彼らとて、同情心や情愛というものを知らないわけでは ないし、
頭が良いほうだけに、高度な論理能力を持ち合わせないのでは ないし、
正義感が希薄というわけですら なかった。

特に母のほうは、それらを、むしろ、豊かに備えていると思わせるひとだった。

 

この落差というか、バランス悪さ。

 

 

世間では、要領も良く、優秀な賢い人で通っていたとしても、内実は、
おとなたちの言いなりを受け入れている子どものままみたいなものだ。

(このあたりのことに関し、あとのエントリーでは、私なりに、算数・数学と絡めて少し述べるかもしれない)

 

 

さて、

日本は、理由は どうあれ、もともと自国の側が野心を起こして、各国からの誤解も怨みも買うような行為を犯したことがあるのは歴史上事実なのだから、他国や他民族に「反日」的感情が根強く残り続けていることがあっても、しかたがないと腹を括るべきだし、そのうえでの外交努力。

 

私自身、中国政府や朝鮮人に対して、日本国また日本人と異なる類の欠点もあり、そうとう大きな問題はあるという考えは持っている。

しかし、日本国と日本人にも、やはり同様に、根深い問題はある。

 

だいたい、昔から、日本人のなかに差別意識がある、あったことは事実なのだし、迫害行為もあった、

そんななかでも、種々の事情で、日本国内に生活基盤を持ち、日本人と、ほぼ変わりのない暮らしを長年にわたり営んできている「在日」の人々と、彼らの本国の政治姿勢や人々の感情や見解のありようとを全く同一視して攻撃することにも重大な誤りがある。

 

 

決して表にアカラサマには出しにくい抑圧気質であるなら、かえって深く沈潜し、陰湿の傾向を帯びてフシギは ない。

これを突きつけられ、直視を強いられるとなると、耐え切れず、とたんに、身も蓋もなく、ひらきなおって爆発する。

 

 

弱者蔑視や差別意識、排他性などの底にある動機には、無自覚の自己投影や潜在した劣等感があるものと察せられるが、

考えてみれば、日本人も また、他国、近代においては特に欧米圏への劣等感を強く持ち続けてきた。

 

さても、個人と国家の落差であるか、それとも、両者は不可分なのか。

 

(気に入らぬ他国民を指して、お互いに、相手は人間ではない、と言い捨てようとも)
しょせん、人間どうしに、さしたる違いはあるはずもなく、僅かの微妙な差があるのみ。

その僅かが、どんどん、深い隔たりの溝を つくっていく。

 

犯罪行為を おかす、おかさぬことの違いも同様で、ほんの僅かな差が、やがて、深刻な結果を つくりだすのだろう。

 

Updated   
2014.08.21 (Thu)

「吉田調書」開示求め提訴=原発訴訟の原告ら―東京地裁
時事通信 820()1631分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140820-00000087-jij-soci

 

 

あの証言は吉田さんがそう認識していた、というだけで、実際にそうだった、と言う確証は無い。
死期を悟っていた吉田さんが、吉田証言が真実だと一人歩きしてしまった時に誰も検証も修正も出来なくなってしまうのを恐れて非公開を要請した、という話だったはず。
なので、吉田証言を客観的に検証することの出来る人に~

 

さて、どうだろうか。

故 吉田氏にとっては「真実」だったのか どうか、それすらも、さだかには分からない。

 

 

たしかに、自身の死後を つよく意識しているときは、それが、死を もって何事か訴えるという目的でもある場合でないなら、
ことさら「敵」に
まわすとか、「敵」を つくりかねないような関係性は残さずキレイにしておいて、他界に赴きたいものという心情はあることだろう。

「あの おっさん」とか?w

 

 

「朝日叩きキャンペーン」が猛烈な件w

 

 

その時まさに現場に居た火中・渦中の人であっても、当人自身の記憶や判断の流れに自信が持てない、これが実際の、現実というものなのかと。

大きな歴史上においてすら、ままあることでもありそうだ。

 

 

ご本人生存しているものならば、のちに説得のもって行き方もあったやもしれないが、

この人の生前、公開拒否申し入れがあったというなら、死後も意志として守り通してあげたいという気持ちは分からないでもない。

が、

その吉田氏は、なんと言っても、東電側の人であった。

しかも、現場で最も重い職責に就いていた人であり、

各界・各方面においても、各々の立場で責任あるはずの、数多いる人々のなかで最も分かりやすく、決死の職責を最後に果たされ、そうして世を去っていった人であるということ。

氏の軌跡である これらは、もう大きくは揺るがないことと思う。


ただ、一般的社員に過ぎない立場の人々については、現に生きてもおられ、同時に被害者を兼ねているという場合も少なからずあるわけで、むやみなバッシングに晒されないことを期する手立ては重々必要だろう。

 

そういった諸々のところも、事前に よくよく踏まえ、心しておいて目を通すことは、じゅうぶんな理性と判断力、謙虚さを備えている者になら、平凡な一般人と言えども、可能なはずと思う。

このことは、ずっと前の、朝日新聞による「吉田調書」の話題が出ていた頃、これを とりあげた当ブログ エントリーでも指摘しておいた。

 

 

直接的関係者以外にも、専門筋の人々や各界の識者たちは、公開されれば、時間を割いて、慎重に目を通すだろう。

 

だいたい、ややこしい経緯の話を、専門用語混じりの長大な文書で読みとおせる一般人は、そりゃあ限られるであろうという指摘も尤もだろうが、隠蔽せず、公開されること自体には大きな意味がある。

隠蔽し通して済むことでは決して ないのだから。

 

 

また再び言うが、

ただ「故人の遺志」を盾に非公開を貫く旨、現政府の人間が、つい先ごろ言い切っておきながら、こういう事態に至っているのも、はなはだ不審である。

どういうことなのか、官房の菅さんあたりでもいいからwきっちり説明してもらいたいものだ。

多分できないのだろうけど(嗤)

 

 

事は、全国民が当事者として関わるのは勿論だし、日本国の外部にさえも及んでくる問題であって、特定関係者のみに帰することではない、甚大な事態に繋がっているのだということを、もっと認識すべきだと思う。

 

 

Updated   
2014.08.18 (Mon)

産経ってのは常に、朝日新聞社を目の仇みたいに、何かにつけ名指しにて攻撃してきてるが、朝日のほうはと言うと、
「産経?wまったく眼中に
ございません」的放置プレイなのが、かつての、どこかの国と国の仲みたいだなあ(嗤)と思いつつ眺めてた私だけどw

 

さて、もう一つの「吉田証言」、あれのみ撤回すると言ってるだけなのであって、いわゆる「従軍慰安婦」の問題存在自体に関しては、何ら撤回してないよね?なのに、
「吉田証言」の撤回だけで、すべてを撤回したぞー!!と、まるで鬼の首でも取ったかのごとく言って大騒ぎしてるみたいなのだww

 

だいたい、あの「吉田証言」っての、もう何年前だか知らないけど、とーっくの むかし、「証言」した本人の吉田清治とかいうひと自身が、あれデマでしたと認めてたんでしょ?なにを今さら、、、

と言うか、朝日新聞社もね、さっさと認めて訂正するべきをズルズルと、最近になるまで放置してたのは、私とて理解不能だし、大いに呆れましたよwww

 

私も、以前、朝日新聞を購読してた時期があって、最初に、ちょっと驚いたのは、
それまで実家で読んでた読売新聞だと、掲載記事中に間違いがあったときは、訂正内容に添えて、「お詫びいたします」という一言が必ず入ってたもんだけど、朝日新聞だと、
「訂正します」
ハイ、そこまでで終わり。

「お詫びします」なんて殊勝な文言が入ってるの、見たことないw
プライド高過ぎて?ww

 

まあ、その話は さて置きだ、

産経が上げた今回の狼煙は、これねwww

 

福島第1事故「吉田調書」入手 「全面撤退」明確に否定
産経新聞 818()755分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140818-00000077-san-pol
  



私としては、「あらまあ、そうなの、そりゃケシカラン」とて、たちまち産経を信用する気にも
なれまへん(爆)

いまのところ、こういったコメントに共感するばかり。(↓クリック)


特に、これらのコメント。




亡くなっている吉田氏が公開を拒否していたからということを盾にできるような事態では到底なかろうに。
 
 

それにしても、ますます胡散臭い安倍政権、なかでも官房長官の菅さんってのは、安倍さんとは また違うニュアンスでだけど、まじで、私のムシが好かん。

北朝鮮拉致問題交渉の件と言い、ほんと、胡散臭え。。。emoji



 

Updated   
2014.08.18 (Mon)

 

【続】「天才」ゆえになされることとは

 

というわけで、

家族や身内、職場でも、精神や知能に問題ある人たちを少なからず、そばで見てきた私は、結論としては、彼らを無害な存在なのだとか、ましてや、必ず有益を齎す天才性を持っている存在だとか言って、むやみと肩を持つ気には、とうてい、なれない。

 

 

同時に、「普通」の脳とは、どんな脳で、そう言い切れる脳などあるのか?という疑問も持っている。

 

いわく「アスペルガー」にしても、聞くところでは、「何割アスぺ」とか称して、要するに、ほとんどの「通常人」は、明白には気づかずにおれるだけのことに過ぎないと。

 

 

もちろん、これも何度か言及してきたように、どんな人にも本来、長所や、磨きを かければ光り出す面はあることだろう。

ただ、こと精神とか知能方面の問題を抱えている場合、それが明らかなレベルであるほど、欠点も また、非常に大きいものになるってことだ。

 

しかし、幸い、自他が承知できていれば、周囲の共有があれば、これを つぶさに研究し、予防的対処も可能になるだろう。

うちの、精神科患者だった身内も、自分で納得して以降は、自発的服薬を怠らず、調子が悪いときは、真っ先に自分自身で気づけるようになっていった。

 

 

あるいは また、「治療」というものが存在しないとか、

もっと困惑させられるのは、何らかの「隠れ」と言うべきような場合だ。

おもてに明らかには出てこないだけに、始末が悪いこと このうえない。

身近な者が、人知れぬ苦労を味わうことも多いのが実態と思う。

酷いときには、無辜の者の人生をも破壊さえしてしまう。


 

 

凡人にも存在意義があるってことは喜ばしいが。

 

さて、

こういうコメントするってことが、すなわち、この投稿者ご本人は、とりもなおさず「凡才」「凡人」である表れってことなのかもしれないが。。。w

あのね。

じゃあ、「天才」とか、「(これこれの分野について)間違いなく天分が認められる」とか、周囲から評されていた私が逆に聞きたいのだけども。

 

いわゆる「天才」の存在価値とは、畢竟、どういう人々が つくりだしてるわけ?w

 

要するに、「天才」とは如何なるものかを理解できてる人々とは?

ってことよ。

 

 

「天才」と呼ばれる人にとって、「凡才」と目される人たちが大勢居てくれてこそでしょうにww

 

 

私なんか、どれだけ天分があるとか言われても、じつに残念なことには、その方面が好きなわけでないので、他の苦手分野と同様、努力も何にも せんにんw

ただただ「好き」、というエネルギーには勝てませんww

 

なのに、できちゃう、わかっちゃう。

 

つまり、多かれ少なかれ、ある程度「端折れる」んだ。

なぜかと問われても、
ある分野においては、努力まったく関係ナシにできてしまうんだから、しかたない。

生まれついての「絶対音感」等と同じかな?

 

 

「天才」って、「来るのが早過ぎた」云々とか言われることも ままあるようだけど、つまり、「時代が追いつかなかった」とかってね。

このへん、時間のプロセスをイッキに「端折れる」という天才性と関係してそうではある。

学校では「飛び級」とかもね。これは、IQの際立った高さがモノを言うけど、

芸術分野は、その点、IQ抜きにできる有り難い分野だからねwそりゃあ、承認欲求の奴隷みたいなのが、われもわれもと、「あーてぃすと」を主張するわけだww

 

 

精神の異常や知能の極度な高低これは必然的に、まず思考力全般に作用を及ぼすし、感性面にも大きく影響するはず。これらと、何らかの「人格障害」等が重なっていることは多いだろう。

 

結局はバランス。

偏りの程度。

 

 

いつだったか、もう数年前に、例の「OKウェイヴ・おしえてgoo」で回答したとき、こういうことを述べておいたことがあった。すなわち、

「精神や知能における何らかの障碍があるということが即、天才と呼ばれるべきことや大きな功績を産み出すと限ったわけではなく、
ほとんどの場合、ただただ平凡な人生で終わったり、それどころか周囲の お荷物的存在で終わってしまうことも ままある、というのが多く現実ではあるということ」。

 

そのとき同席していた回答者のなかには、まったく別人の質問スレッドだが、やはりアスペルガー障碍にまつわる悩みごとに関するスレにて遭遇していた人もいた。

 

その回答参加者自身も、外国人(ヨーロッパ圏だそうな)である配偶者や子どもさん等ご家族が、「ディスレクシア」とか言うのだろうか、識字障碍等を持っていると告白されていた。

もっとも、(私は、後になって気づいたことだけれど)
この会員さん、どこまで本当の話、事実を述べていたものやら、保証の限りでないのは、ネットの宿命か。

 

 

で、その人は頻りに、そういった「精神や知能における何らかの障碍があるということが即、天才と呼ばれるべきことや大きな功績を産み出す」という ご主張だったがね。

これは これで、逆に差別だとか、別様の問題を生じさせる恐れがあると、私は思うわけ。

 

じゃあ、なにかい、「天才でなくば、生まれて生きてちゃいかんのか?」って問い返したくもなるしw

 

 

だいたい、てい良く劣等感の代償にすべきじゃないわな。

 

当事者の辛い、やり場のない気持ちも全く分からなくはないけれども、

それこそ、「紙一重」になりかねん。