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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2021.09.25 (Sat)

すなわち、

ダサい。シツコい。ひたすらゴリ押し。

 

彼らが信奉しているのは、実は、「保守」や「右翼」という思想でも何でもない。

「力」そのものを崇めているだけw

 

それは、しかと目に見えるものでも、手に掴めるものでもないから、

矛盾してようが、スジが通ってなかろうが、平気の平左。

 

みんなで!(つまり、「数」)

「それ」は あるのだということにしよう!そうしよう!!

示し合わせて、拝んでいる。

 

「力」が充填されている箱の蓋を、けっして開けては ならない。

 

「王さまはハダカ」と、けっして言っては ならない。

 

 

さて、

『日刊ゲンダイ』が、今回の『自民党』総裁選 立候補者の一人、高市さんの「推し」と言うよりも猛烈なゴリ押し的宣伝広告が執拗でウザい、という批判の声が、ネット ユーザーのあいだで上がっているようだという内容の記事を出していた。

 

これには、私自身も思い当たる。

まったく同じことを感じる日が、ここ数日ほど続いていたので、
あ、やっぱり?と思いつつ読んでみたのだが、

「そんな広告は見たことが ない」

と断言している「ヤフゴミん」の殆どは、常から「ネトウヨ」であり、『自民党』シンパまる出しの常連のハンドルなのを多少は知っているので、

「嘘つけ!w相変わらず、そらぞらしいことを、平気で言うヤカラばっかりやな」

と呆れたが、

しかし、そうでは ないというコメントも同程度には あり、

そういう投稿者からは、

「たしかに、しつこくて鬱陶しいよ」

と言っているので、

くだんの広告出現頻度の原因や理由を、独自解説しているコメントまで並んでいる。

 

私個人の実感はと言うと、

やはり、まさに「しつこくて鬱陶しい」そのものなので、

いったい、こんな「宣伝広告」を、よりによって、こういう時期に、どこから出してるんだろう?と、
目を凝らして見たみたら、どこぞの出版関係の企業らしい、とは思ったが、

それが、高市氏の「事務所 公認」のものである、ということは、今回の『日刊ゲンダイ』の記事で、初めて知って、あらためて呆れた。

 

まさに、「ヒイキの引き倒し」的、逆効果になってしまってる、

このように指摘している人も少なくないが、

「ウヨ」系ってのは、ほんとうに、意図がアカラサマで、表現が下品、
しかも、猛烈に執拗なのが特徴だなとは常々思ってたけど、

加えて、致命的にセンス悪いのよねw

いつも、どこか田舎臭くて、垢抜けないんだ。

 

カッコつけようとすれば するほど、滑稽なほどダサくなっちゃうから、
そりゃ、なるほど、

ひらきなおって、口汚く喚き散らすほうが お似合いだ、となる()

 

最初から終いまで感情むき出しにして罵倒しまくってるほうが、論理的に、冷静に述べることが大の苦手であることを誤魔化せるから、
とでも思うんだろうかね?(()

 

 

往々、リクツや理論走ってるタイプは、「青臭い」という批判が伴いがちだけれど、

リクツ抜き、感情的なタイプは、いかにも『泥臭い』感じを伴う。『自民党』を見てたら、よく わかるでしょ()まさに、「昭和のジジイ・オッサン」的なダサさ満開(()

 

 

でね、

私の場合、あの宣伝広告が、ウザいくらい、あとから あとから出てくる、その理由は何なの?と考えたら、

もちろん、私は、もともと、高市さんには関心が全くなかったのだけれど、

『自民党』のなかでも、『日本会議』まる出しの「極右」的政治屋、と知ってからは、大キライですよw

でも、やっぱり、基本的には、いまでも、興味も関心も ないのよ。

 

ところが、

当ブログでは、先日、こういうエントリーをアップしてあるから、

【続・続】最近の思うところ幾つか~「新型コロナ」「眞子さん結婚」「『自民党』総裁戦」

第一には、これが原因で、
バカバカしいほど夥しく「高市宣伝」広告が出てくるのかなぁ、とは思っていた。

 

 

とにかくさ、
『MSN』なんか、ここは、いつからか、あの『産経』系列との提携ポータルになってるらしくて、そのせいなのか、
『MSN』に繋ぐと、テッペンのスペース・記事横のスペース・記事途中のスペース・記事終わりのスペースと、
ぜーんぶが、「高市宣伝」で埋まったりしてたww

ほんと、バカまる出しwww

 

 

でも、こういうふうに、「高市」と、キーを打ち込んだだけで、ますます出てくるんだろうなあ(苦笑)

とは言え、

たしかに、昨日あたりから、かなりマシには なってるので(いま現在は、ほとんど出て来なくなったみたいでw別の宣伝文句に差し替えてるようだ)

おやぁ?『グーグル』に何度も通報した おかげが出てきたかな?とも思っていた、

が、そうじゃないらしい。

 

くだんの「宣伝」広告の、あまりのシツコさにウンザリして、ついには、『グーグル』に対し、この広告を出さないようにできるという通報ボタンを押しといたわけ。

ところがね、

なんと まあ、

もっと呆れたことには、

広告の右側上端にある「バツ」ボタンを押すでしょ、次には、理由の選択つうのを「フィード」するはずでしょ、それらを送信した直後、
まーたまた出てくるのよw

 

要するに、通報すれば するほど、かえって、ドカドカ出てくるわけww

まさに「もぐら叩き」さながらwww

 

「『グーグル』は、いったい何のために、こんな愚にもつかない「フィード バック」機能を設けてあるわけ??emoji

と、はなはだ不可解かつ呆れた しだい。

 

くだんの宣伝広告主、『MSN』、『グーグル』、

この三者の、どこが最大の原因になってるのか、あるいは、三者三様に、原因を つくってるのかは分からないけど、ま、いずれも とんだ愚か者ですな。

 

【続く】

 

 

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Updated   
2021.09.25 (Sat)

むかし、

あるコトバを引用したら、
えらくカッカして怒鳴り込んできたみたいな「回答者」が いたなあ、
あのQAサイトで。

その「回答者」である、どこぞの中年男にも、子どもが いるんだそうで、

「生まれぬが幸せ」

というコトバに、やけに反応し、猛烈に、怒りが刺激されたものらしい()

 

私は、若い頃に、釈迦のコトバであると、どこかで読んで、そのまま記憶していたのだけれど、

確かに釈迦が、そのコトバを言ったのであるか どうか、いまは確認できない。できる範囲での検索でも不明だった。

ただ、仏教で言う「生じる」というのは、単に、子どもの出生のことを言うのでは  なく、「多神教」に おける物語で描かれるような、何かにつけては、いちいち、何かが生じる、つまり、

寝ても食べても書いても喋っても、そのつど、そのつど、何かが生じる、ということを指しているように思う。

 

では、生じないことが幸せ、とは。

 

誰であろうと、出生してしまえば、様々なことが生じるのは避けられない。あたりまえだ。

 

さて、

私も、仕事や知人の縁で、多少は知っている地域に おいて、

幼い子に対する凄惨な虐待殺人が、またぞろ起きたらしい。

 

 

真冬に、氷のように冷たい水を浴びせられて、

あるいは、

一瞬だって耐えられない熱湯を かけ続けられて、

逃げることも、身動きも できないように押さえつけられて、

ついに心臓が止まった、幼い子どもたち。

 

 

読めば読むほど、

バカは子ども産むな!!!emoji

と、無理を承知で、大声で叫びだしたくなるから、

私自身、「フラッシュバック」みたいなことと無縁の身じゃないので、

あまり、真正面から読むのも辛いものが ある。

 

 

この世はね、どんな理不尽なことでも、やってしまえるんだ。

 

やってしまったら、ほんとうに、取り返しが つかないね。

 

ええ、「価値」だとか「スジ」だとか「法」とか「来世」とか「前世」とか、
そんなもんは、理不尽に耐えられない人間が、どうにか こうにか、納得したくてヒネクリ出したリクツ、拵えたストーリーです。

 

「理不尽だ」と思うこと自体が、人間の つごう。

 

だったら、

熱湯を浴びせられて、断末魔の叫び声を上げている者に、

「どうせなら、人生、何事も楽しまなくっちゃ!遊びだよ、遊び♪」

こう言えるのかしらね。

どうやら、犯人自身は、「遊びだった」と、言い訳に言ってるそうだけど。
(なんか、あの「カルト連」おババらみたいな嗤)

 

 

とある3歳児の身の上に起きた虐待死事件では、バカ母の友人たちが、役所などへ再三、通報していたものの、むなしい結果に終わってしまったということらしい。

 

すぐにでも死んでしまいかねないほど切迫している状態であると察せるのは、実際には、意外と難しいのでは なかろうか。

 

それでも、そういう事態に直面しているのは間違いないと判断したら、

私なら、その子の親に、「うちで一晩でも二晩でも預かるよ?そのあいだに、あんたらは骨休みしたら?」とでも言って連れ出そうとすると思う。

 

目の前に いる幼い子の命の危険が迫っていると分かっていて、置いて帰るなんて、後ろ髪を引かれるなんてもんじゃないだろう。

 

うちだって、子どもを預かるのに余裕が あるわけじゃ全然ないから、こういう場合は、手早く処置しなくては なるまい。

すみやかに警察に知らせるつもりにしても、当の子どもの状態を直に見てもらうほうが、客観的に理解してもらいやすいと思うし。

 

 

何年も前に、同様の虐待死事件が起きたとき、

「子どもの使い」じゃないのなら、『児相』という公的機関の職員は、一般的に、あまり、苦労を知らない、平穏で順調な環境で生育した公務員では、荷が重すぎるのでは ないだろうかと指摘したことが ある。

「だって、恐いんだもん!」だから。

 

いまでは、けっこう「強権」を持てるようになっているのだとも聞くし、

いつぞやは、実際は虐待では なかったのに、『児相』側の疑いを重視した判断により、幼児を連れて行かれたまま、かなりの期間、引き離された状態になってしまっていた、という、親側の訴えが あったという記事を目にした記憶も ある。

 

 

虐待する親の場合、外部からの干渉を疎んで、何度もムダ足を踏ませ、それによって、職員のエネルギーを損ない、それでも、やっと漕ぎ着けた面接を避けたがる親を なだめて、『児相』職員が、玄関先で少しばかり、子どもの身体状況をシッカリと確認するのは困難というものだから、

ほんとうは、子どもを、親から離しておくほうが よいのか否か、どう判断すべきところなのか、『児相』としても迷う状態ならば、ひとまずは数日間なり1週間なりの短いスパンで区切って、けっして、このまま長期間にも わたる引き離しには なりませんということを、親にも納得させてから、
あるいは、預け入れ施設まで親を伴わせて、どういう所で、自分の子を預けるのか見せて安心させるのも よいかと思う、そこで、子どもの身体状況と言動の ようすを、できるだけ多くの人員と共に、つぶさに観察し、共有して、やはり、必要ありと判断したら、専門医に診察を受けさせる、場合によっては警察、といった手順は とられていないのだろうか。

 

とは言っても、

すでに、そうとうに虐待している場合、それがバレたくないからこそ、外部からの手を、親が頑なに拒むわけだろう。

その場合は、それこそ、「強権発動」で いいと思う。

 

 

誰よりも、当の『児相』の側から、急ぎ有効な改善策を訴えることは しているはずとは思うのだが、もしかして、その余裕すらも ないほど忙殺されているのだろうか。

 

ただ、これも、ある記事で読んだのだが、

どこの『児相』も同じ情況かというと、そうでもなくて、所長の姿勢や方針などによっても、だいぶ、違いが出てくるらしい。

 

 

一つには、いずれは担当を外れるのだから、入れ替わる日が来るまで、あまり深入りせずに適当に、という、
いかにも役所の感覚で、もしも やっているのなら、それも大きな問題だろう。

ことに、子ども相手は、心理的にも継続した安定・安心が必要なので、
あくまでも、その場限りとか、とりあえずの関係性は通用しないと思う。

そして、もちろん、一人の職員の温情や義憤だけで回るものでも ない。

 

やはり、どうにも人手不足が、というのなら、いつまで同じことを言ってるのかと思う。

 

医療や介護の現場でも、延々と同じようなことを言っているでは ないか。

 

ちょっと考えたら分かるはずのことだ。

衣服一つ とっても、まったく余裕のないキッツキツでは、どだい、動けやしない。

 

何事も、ある程度の余裕が あるから、動けるのだ。

 

なぜ、あの政党は、与党政府は、何につけても終始、われわれ庶民国民にはキツキツで回させようとするのか。

 

そのくせ、自分たちと仲間のフトコロを肥やす横流しに余念が ない。

 

 

『自民党総裁選』?

『自民党』に殺されるわ、この国と庶民は。

 

 

『天皇』『皇室』?

その名に おいて行なわれた戦争と、『沖縄メッセージ』を忘れるな。

 

死刑の米兵22年で仮釈放されていた 沖縄の幼女殺害 「政治の犠牲」と主張 米政府は墓石を提供沖縄タイムス9/23() 14:51配信 最終更新:9/23() 16:06

https://news.yahoo.co.jp/articles/b39a29360921165d396b2e89458c20293dbe4f6b

 

 

それと、「小さな疑問」というのは、

「日本人って、掃除やゴミの後始末が大好きな国民性じゃなかったのか?」

という疑問。

最近の記事で、よく見かけるようになった「バーベキュー テロ」頻発でw

「ドキュン バーべ族」とでも呼ぼうかねww

 

 

Updated   
2021.09.20 (Mon)

【続】宗教が争いの原因になり易い理由の続き。

 

大昔のことになるほど、障碍は、抱えている者の生存を不利にするだけでなく、
その周囲まで巻き込む恐れも高かっただろう。

現代になっても、身体の障碍は まだしも、脳や精神の障碍が引き起こすトラブルは、自他ともに、解決は、なかなか困難なままだ。
 

およそ障碍、障碍者が忌み嫌われてきた歴史を持つのも、ぶっちゃけ、ゆえのないことでは ない。

ひとえに、生存欲求と安泰への希求から来る、要するに煩悩、エゴゆえだが、少しずつ克服していく過程も、人間の歴史。

ケダモノのままじゃ、人間やってる意味もないからね。

 

 

私個人の話だけど。

聴障者である私は、自分の事情を話すときに、「聴覚障碍者」とか「耳が不自由」といった言いかたを するし、もちろん、他人に、そう言われても、何ら不快には思わない。

 

でもね、「つんぼ」と言われたら、大いに不快です。

なんで、って、

昔は、そういうコトバでしか表現できなかったとしても、こんにちに おいては、きちんとした代替になるコトバが あるので、敢えて「蔑視・侮蔑的」とされている特定のコトバで表わす必要は ないはずだから。

わざわざ言おうとする者の品性と本心は、しっかりと、その顔に出ておりますw

 

子どもの頃は、幼なじみとかクラスメートなどからも何度か言われた記憶が ある。
「※※ちゃんて、ツンボなん?」と、確認するかのような口調で聞きたがる子も いたが、ふだんから、気立ての良くない子という感じは持っていた。いま思うと、その子の親が、私のことを言っているのを聞いたのかもしれない。

私は、もともと鈍感なほうの性分だけど、それでも、
悪気を込めていることを感じさせる言いかたを されたことは多いが、
そうでは なくて、単に知っているコトバ、それしか言いかたを知らない、「ボキャ貧」から言った場合も あったのかなと思う。

 

でも、いずれにせよ、大いに不愉快だった。

「聞こえにくい」という言いかたなら、そのとおりだと思うけどね。

 

無自覚に、悪気なく言った者が、まだ幼い子どもだったりすれば、「教育的指導」をば施すかもしれないけどw

もし、悪気が あって言い放った「くそガキ」なら、容赦しないww

親の躾けが悪いのであろう、その子のためにもね。


まあ、親父なんかには、「この出来損ない」と罵られてたけど。
原因つくったのは、当の親だ。それでも、この言いぐさ。


いまの私なら、

ただ、「そういうレベルなんだ、この人は」としか思わないだろう。

 

でもね、

「ははん、その程度のコトバ遣いしか できないんだな、いいトシして」

みたいに見下したら、それも また、争いの原因になるのでしょ。

 

 

昔の日本の説話で、
たしか『宇治拾遺』のなかに登場する お坊さんが、

「めくら」というコトバに反発して、

「鼻暗(はなくら)ななり」と言い返していたという話が あるよね。

「鼻先が暗いだけだ」という意だそうな(苦笑)


 

   
   
Amerling(Austrian,1803-1887)The Deaf Girl

 

 

さて、

「最低でも不読」。

うーん、、、
もちろん、とりあえず「見えなくすることは、根本的解決では ない」でしょう。

 

 

再び言うのだが、

やっぱり、問題の箇所が出てくる経典を読誦するときは、事前のレクチャーや確認し合い、「問題意識の共有」が大事じゃないかと。

 

そして、「のり越え」と「寛容」ですかね。

あるいは「慈悲」と言いますか。

不快を乗り越えなければならない側こそは、より強くなければ ならないわけ。しんどいけどね。

ものの道理に冥い者こそが、知性弱く、哀れな存在なのだから。

 

 

ことわっておくけれど、

重度の知的障碍を抱えていてさえ、ほんとうの知性と、人を見抜く眼を持っている者は存在してる。私は知ってるよ。

 

あっ、
でも、ヘンな演出して、重度障碍児の わが子に過酷な役回りを押しつけてるミエっぱりの哀れな母親とは無関係よ。

 

 

ところで、

「是旃陀羅(ゼセンダラ)」っていう、『観無量寿経』に出てくるという「差別語」だけど、

関西には、「あほんだら」という罵倒コトバが あるwもしかして、仏教用語なのか?と思っちゃったww

 

 

Updated   
2021.09.20 (Mon)

宗教が争いの原因になり易い理由の続き。

 

それでも、

特に、釈迦が言い遺したことのなかには、現代人にとっても有用な教えは あるように思うし、

私は、釈迦が直接に説いたという内容は、「宗教」と呼ぶよりも、むしろ、よく言われるように、『心理学』に近いもののように思う。

 

死者に対する仏教的弔いの行為にも、残された者の心の癒しのほうを考慮している感じが するし、

死後の世界を問われて、「無記」とだけ答えたという話にも、それは科学者の基本姿勢に等しいものだと思える。

 

他の宗教なら、死んだあとは、こうなって、ああなって、、、
まぁ いろいろと、まさに「見てきたような」尾ひれが付くのが定番よねw

 

なので、

死んだあと、どうだ こうだ、などといった「脅し」に近いような教えは、それは それとしての「方便」のようなものなのかもしれないが、
おそらく、ほとんどは「如是我聞」と前置きした、それぞれの弟子や後世の信者たちが付け加えていったものだと思う。これも古今東西、ありがちなことだ。

弟子や信者は、始祖たる釈迦本人よりも、もっと世俗の考えかたや感覚から脱け出しきれなかっただろうし。

 

 

なお、『ヴェニスの商人』のことも挙げている者が いたけど、

この、一見は単純な作品こそ、シェイクスピアの、世界に冠たる文豪としての価値を示しているものかもしれない。

 

私も、小学低学年の時分に、身内の誰かに買い与えられた、児童向け『ヴェニスの商人』を読んだことが あるのをハッキリ憶えている。

 

憶えている理由は、
キーとなる、そして、「ヒール」的役回りの登場人物でありながら、本当の主人公であるとも言えよう、ユダヤ人『シャイロック』が、少し、気の毒にすら思えたからw

かつ、ヒロインの『ポーシャ』のほうは、なんかヘリクツ言ってるな、後出しジャンケンかよ、くらいに思えたしww
ポーシャのカレシなんぞときたら、まったく憶えてない。影が薄いw

 

だんぜん、シャイロックが光ってるwww

 

 

もっとも、
シャイロックの頑なさ、冷酷さには、多くのユダヤ人が生業としていたらしい金融関係の商売で、徹底した厳格さや容赦のなさ、それゆえの恨みを買って、地域社会から白い眼で見られるような存在となったことの鬱屈や恨み返しのような心情を抱えたユダヤ人という存在を、一身に象徴させているのだろう。

このように、シェイクスピアが生きていた時代は、ユダヤ人に対する蔑視や差別意識は、当然とされていたそうで、そんな時代に生まれ育ったシェイクスピアも、一人の人間的限界は免れず、
彼自身も、ユダヤ人差別について、問題意識というものは全く持ったことが ないという。

だからだろう、作品『ヴェニスの商人』に おいても、キリスト教徒側からのユダヤ人観と、あらまほしきことの要求ぶりが徹底的に描かれたうえでの結末となっている。

 

それなのに、
『ヴェニスの商人』で活写された、非情で冷酷で無慈悲な悪徳商人は、「人間たるシャイロック」だ。

これを、作者シェイクスピア自身は、無意識のうちに描きあげたというのである。

 

それと、
シャイロックの娘については、ごく善良なタイプとして描かれている。

親が こうだからと言って、子のほうも、親に似ているとは限らないということを明示している。

そして、ユダヤ人の子であろうと、善良な者には、豊かな恩恵が与えられてしかるべきという話に仕上げている。

 

なので、
いかにも昔のキリスト教徒的な「教育的指導」臭がプンプンしているようでもあり、
シェイクスピアの作品は、実は、異国の伝説などを下敷きにしていることが よくあるそうなので、ストーリーそのものの画期性よりも、人物描写が、やはりイキイキしているということだろう。

 

 

で、

「もしも、お釈迦さまにインタビューできたら」

どのように お答えになるか。

 

やっぱり、「のり越えるように」と仰るんじゃないだろうか。

「互いが寛容に」と。

 

不寛容こそは、争いの原因になるのだし
(『シェヘラザード―ー千夜一夜物語』にも、「不寛容の罪」というテーマの小話が出てくる)、

例の『イスラム教・原理主義』を見てたら分かるように、

結局、力で強引に押さえつけ、従わないの従えないのとなったら、最後は、力と力の悲惨な競り合いになる。

「革命か死か」?w

 

 

これも仏教説話の一つで、

『阿修羅と帝釈天』の争いってのが あるでしょ。

 

事のスジは、そもそも、『阿修羅』のほうが、そりゃ尤もなんだろうけど、

わが娘は『帝釈天』にレイプされたのに惚れちゃってるし、阿修羅パパのほうは、「スジ通さんかーーーい!!emoji」と激怒して、とことん戦ったと。

でも、
「やったもん勝ち」帝釈天のほうがゴリ押しバカぢからが強くてwやっぱり勝っちゃう。

って、
途中、ちょっとした番狂わせを挟んでいるんだけれど、ま、ごくごく大まかには、そんな話。

 

そう、この世界、とにかく強い者が勝つんだぜという、身も蓋もない、
そして、じつに くだらない世界よねw

なくていい世界だ。

なんで あるの??
という疑問は、「考える葦」にとって、宇宙の発生の謎と共に永遠だわww

 

だったら、せいぜい楽しむしかないね♪

と言いたくなるが、そんな甘いことばかり言ってられない現実も重い。

 

 

オマケの考察だけど。

『帝釈天』というのは、現地名を『インドラ』と呼ぶこと、それと敵対したというストーリーのなかで登場する、もう一方の主人公『阿修羅』に、もとは『ゾロアスター教』のなかで「最高善神」という位置付けであった『アフラ・マズダー』との関連が あることを考えると、『インド』と『イラン』の関係性をも鑑みるに、興味深い大逆転が見受けられるわけだ。

かくのように、

「神」とは、人間の つごうで、いかようにも変転させられるw

 

【続く】

 

 

Updated   
2021.09.20 (Mon)

日本に おいても、こういう問題が続いていたことを、私は知らないでいたのだけれど。

 

経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち京都新聞9/18() 19:21

https://news.yahoo.co.jp/articles/51c31f28dfd79f5e868567397e0be1522bd5396d

 

そりゃそうよね。

仏教って、『インド』が発祥の地だし、
あちらの習慣とか事物などを、こっちの それに置き換えるのは よく あることだ。そもそも、翻訳言語だって そうだもの。

 

よく思うことなんだけど、

こういうとき、当の人物にインタビューできたらなあと。

でも、はるか遠い時代の人なので、
ここは、ひたすらに想像してみるほかは ない。

で、想像してみた。

 

 

もともと、『釈迦』自身が、生まれ育った当時の生活習慣や宗教観(現代よりも、もっと強く、生活のなかに密着していたであろう)から逃れることは できなかったはずで、

しかも、それだけでは納得いかない悩みや苦しみを持ったからこそ(人間だもの)、「カウンター」としての、新しい思想を得たわけで、古今東西の何事によらず、古いもの(前世代)は新しいもの(次世代)の母体である。

 

 

で、特に、釈迦の場合、布教するに あたって、ほとんどは、学も教養も ない民衆に説き聞かせるうえで、彼らにも、できるだけ分かりやすくと、「たとえ話」など、くふうした あとが豊富だということだそうで、

すると、昔からの言い伝えとか、当時の一般的だった宗教説話なども、大いに取り込みながら説いたわけだろう。

 

 

「ヤフゴミん」らのなかには、そういう理解から、こんにちでは、明らかに「差別的用語」としているコトバでも、それを用いているのは何のためかということを考えるべき、といったコメントを寄せている者も散見するが、これは尤もだろう。

 

ただし、
私自身は、およそ経典というものを詳しくは知らないまま、単に、実家の宗派が『仏教』の一派であるというだけだから、彼らが指摘するように、「差別は良くないということを説くために、従来の差別習慣から来るコトバを敢えて用いているだけ」というのが本当のことか どうかは分からない。たぶん、そんなところなのだろうとは思えるけども。

 

 

であれば、

いわゆる差別用語に該当するコトバを含んでいる経典を、よく理解していない信者などとともに読誦したりするときは、その前に、必ず、丁寧に噛み砕いた「講義」、レクチャーを行うことが望ましいのではと。

すでに実行されているらしいが。

 

 

「ヤフゴミん」は「ヤフゴミん」ならではの通常運転で、
「時代の価値観」とか「コトバ狩りは やめろ」とか言い募って、自分のなかの「差別したい!!」「差別できなくなったら、自分にとっては不自由!!そんなの、暗い社会だ~」という本音を正当化してるようだけど(嗤)
私の眼emojiは誤魔化せないのよんw

 

 

もしも、当の釈迦自身が、差別対象を差別して当然という思い込みを持ったままだったのであれば、そこは、やはり、一個の人間だったのだなと、私は思うだけ。

そもそも「出家」した動機を聞けば、まさに人間ならではのことだもの。

 

 

こないだ、『クルアーン』には、だいたい、どのようなことが説かれているわけかな?と、『ウィキペディア』なんかをザッと読んでみたかぎりでは、どうも、『ムハンマド』が生きていた時代の規範や模範を もとに、言わば「生活指導」みたいなことを、フシつけて唱えやすく、覚えやすく まとめてあるんだなという印象だ。

 

やはり、よく言われることだが、宗教の もともとは、当時の人々の生活上で、避けたり忌むべきことや、やるべきこと、望ましいことを教え諭すのが目的であったという感じが伴う。

自然環境が厳しい地域ほど、その教えは厳格になるように見受ける。

 

『クルアーン』には、特に、わが国の学校の「風紀委員」だの「生活指導」みたいなものを連想させられた しだいw

 

だからだろうか、

私が少々知っている、ある『イスラム』教徒の日本人女性は、これは、『キリスト』教徒にも共通すると聞いたことは あるのだが、教えの内容を、自分なりに、どう解釈して、生活のなかに、どのように取り入れ、実践していくのか、常に「神と対話、問答」するのだというふうに言っていた。

つまりは「自問自答」だろうと、私は思うけど。

 

でも、そういうことが できない人なら、それは一字一句、コトバどおりの「原理主義」に陥らざるを得ないのかもしれない。

「なぜ」、「どういうわけで」を考えることが できないから。

要するに、「思考停止」。

 

 

もし、『ターリバーン』あたりの「原理主義」者の前に、
これこそが、ほんものの『ムハンマド』が説いたものだった、ということが明らかである経典が発見された、と しよう。

そのなかに、

「男に教育は、いっさい無用」

「頭から足先まで全て覆う布を被ること」

「常に、母や姉の言いつけに絶対服従すべし」

などと書かれてあったら、そのとおりにするんだろうか?w

 

 

当然、
昔から現代まで、基本的に変わらないことも あるけれど、
変わってしまっていること、変わらないと困ることも多々あるわけで。

 

だから、
大昔の人が、当時の生活習慣とか、それが土台になっている倫理観などで、こうしたほうが良いとか、こうするべきと説いたコトバを、こんにちになっても、一字一句も変えず、その書かれたコトバどおりに死守することなんて、ナンセンスである以上に、不可能なことだ。

 

現代の利器の一つで、たとえば、コンピューターやパソコンというものを、『ムハンマド』が禁じていたとしたら。

むろん、それは ありえないこと。

なぜなら、ムハンマドと言えど、それらの出現も存在も、夢にも想像できなかった時代の人だから、どこにも何も書き残してない。

冷蔵庫も洗濯機も電話も電子レンジのことも、書き残してないのだから、たとえ『イスラム教』でも「原理主義」の信者でも、ほいほい使っていいのだろう。

ムハンマドが知らないことだからw

それだけだし、

それを もって、どんなに立派な始祖や御開祖と言えども、「時代の限界」からは逃れ得ぬ、一個の人であったという証左となる。

 

というわけで、

「個人崇拝」は、愚かしい、ということだ。

 

【続く】