2023.01.10 (Tue)
どうにか こうにか明けまして、
はや、『鏡開き』の日とやらが近づきました。
なんか今年は、お天気じたいは、(こちら大阪は)まずまずの穏かな感じでは あったけれど、周辺の街の ようすなどを見てみても、ますます、「お正月らしさ」が薄まったなあ~ってのが全体の実感。
「景気」とかは勿論のこと、まだまだ「コロナ」の問題もね、やっぱり影響してないはずが ないわねと。
いわゆる欧米圏に おいては、もちろんのこと『グレゴリオ暦/太陽暦』に則ってきており、大事な『クリスマス』こそは華やか、かつ厳かに過ごすものと聞いているけれど、ひるがえって新年に関しては、わりとアッサリめ、だとも聞く。なので、日本の伝統とは およそ逆のようでは あるが、それでも、私が子どもの頃までは、やはり煌びやかなムードが伴ってくるクリスマスは、言わば「お正月の前祝い」みたいな感覚なので あり、新年を迎えた厳粛さの重みのほうが、ずっと上まわっていたものなのだが、大多数の日本人は、キリスト教徒でないのに、近年は、いよいよ、欧米圏の流儀に近くなってきたのかなという感じが している。
まあね、ここ近年、私は毎年のように言ってるかもしれないんだけど、わが国でも「本当の お正月」は、『旧暦』『太陰暦(陰暦)/太陰太陽暦』ならば、今年は今月22日に当たるそうですからね。
ま、『お鏡餅』やら『注連飾り』やら何やらは、ごく限られた期間内にしか入手できないのだから、いちおう用意しておきたい向きならば、泣いても笑っても売っているあいだに買い整えるしか しょうがないんで。
それこそ『歳神』さまなる おかたが、音もなく やってくる頃には、とっくに「お鏡」も何も、どこへやらだ。
「はて?われが鎮座する場は いずこにや??」
と、戸惑っておられるやも(笑)
ともあれ、
年頭に当たって、まずは、兎のように軽やかに跳びはねられる腰になりたい、という、わらわの切なる願い(笑)
痛くて動けないんじゃ、ほんとに何も できませんもの。
世間の動静に関心を向けるのも、ブログ更新するのも、ますますメンドクサくなっちゃう。
さてさて、今年の初・大笑いは、やっぱり、これがダントツでした。
『山田五郎 オトナの教養講座』。(笑)
このたびは『徳川家光』の巻。
【卯年・新春開運祈願】
「守株待兎」などという故事由来の難しいコトバは、また、それを踏まえたという『待ちぼうけ』なる歌のことも知らないでいた私だけれど、くだんの兎の絵の画像は、以前、どこかで見かけた記憶が あり、見た瞬間、「目が点(・_・)」になったことを自分で覚えており、しかも、
それが、徳川三代将軍・家光の手になる作であると知って、なおさらに驚いたことも憶えているのだが、
『ぴよぴよ鳳凰』(←ナイス ネーミング!!)に至っては、あのルソーについての解説時と同じく、「涙とともに大笑い」せずには いられなかった(苦笑)
うちの母親の形見の一つで、鳳凰柄の、格式高い帯が あるんだけど、こっちのほうが、家光氏のものより、よっぽど、それらしくて重厚で格調高い出来だけど(笑)
でも、いろんなグッズになってるよね、家光氏の『ぴよぴよ鳳凰』大人気だw
生まれた時代が現代なら、大したアーティストじゃん!ww
いやあ、あのルソーよりもブッとんだセンスのアーティスト、それも将軍さまが、わが国の歴史上に存在したんだぁ。。。感動いたしましたw
ルソーも、みょうなハショリかたと、反面の、異様な細かさを指摘されてるけど、
家光氏の場合も、もともとは、目玉も細かく描写しようと試みたものの(これは けっこう難しいだろうと思うわ)、なかなか上手く いかないから、短気を起こして、真っ黒まん丸に塗りつぶしただけなのかも?
細かく描き過ぎる傾向のために、若い頃、小説の筆を折ったということを、過去エントリーで ちょっとだけ触れたけど、絵のほうでも同様なことが あり、「見えたまんま」が昂じて、ひとたび細かく描きだすと、やめられない止まらない、歯止めが利かず、とことんまで細かくなっていき、
あるときは、学校の美術の授業で、手の部分だけ描くデッサンの課題で、一本のシワを描き込んだとたん、そこから たちまち、見えるかぎりの細かいシワを1本1本描き足していった果てに、
「なんやコレ?おばあさんの手ェかい?」
と、クラスじゅうから嗤われたこともある。
それにしても、当代随一と謳われた『狩野探幽』が直々に指導しておりながらコレかぁ?という些かの疑問は私も湧いたけど、
キョーレツな個性は、天下の名匠、名師匠と言えど、コントロールしきれるものでは ないのだなあ、、、ともww
たしかに、余白の取りかたも、「思いきった」と言うよりは、バランスが、なんか異様なのよね(苦笑)
ただ、この余白には、本来、文章つまり「画賛」というものを書き込めるようにとの目的が あったとか、そういう指摘も あるようだ。でも、結局、誰も、何も書き込まなかったw
それと、
やっぱり、全体からすると、対象自体を小さめに描いてるわよね。
意外と自覚あったんじゃないの?(苦笑)
恐れ多くも指導する相手が相手だから、さすがの狩野探幽も、「勘気に触れる」とかを恐れて言いにくかったのでは?という推察も あろうが、
これは、私の母親が、ある芸事(邦楽関係)の教室を運営していたことから、ちょくちょく聞いていた話なんだけれど、
どう指導してみても、どうにもならない生徒というのは、たまに いるもので、そういう場合、教える側のほうが疲弊してしまい、
「ああ、まあー、それくらいでエエやろ」
と、お茶を濁してしまいがちなものらしい。
うちの母親なんかは、いわゆる「絶対音感」を誇っていたが、それでも、どうにも音程がオカシイ人を教えていると、適当なところで割り切って、「まあまあ、それくらいで」と おさめないことには、だんだん引きずられて、自分までがオカシくなってくるからとボヤイていた。
で、
山田五郎氏も、家光描く動物たちの眼が、まさしく「虚無の眼」「ブラックホールの」云々とか、最終的に、家光氏の多少異常なパーソナリティに対する疑念をも述べるに至り、、、
(あっ、あの『春日の局』か!「上さま!お胤あそばせ!!」とて、キビシく詰め寄っていたwそのせいで、家光氏は、ガチの男色に走ったとかっちゅう?ちょっと違うか。)
私は思わず、
「『皆さまの御多幸と御健勝を祈って』『新春に相応しい めでたい絵を』って、全然ちがうんやないの?それ」
と、ツッコミ入れたくなりつつ、いささか唖然としてしまいました(爆)
【続く】
2022.12.31 (Sat)
目下、私がハマっている最中の汀 夏子さん彼女の過去のステージ記録動画で、お得意の「男っぽい」とか凛々しくとかとは違って、時々、可愛くコミカルに踊っているシーンを見ていると、ジュリエッタ・マシーナが演じた『道』のヒロイン、ジェルソミーナを思い出した。
近頃、こちらにもハマっているということで、すでに何度か取りあげている『山田五郎 オトナの教養講座』ですが、
このシリーズを見ていて何度か痛感したのは、やはり、特に戦争とか、それを引き起こす原因になるような権力者や思想の登場とかが あると、それらの都合しだいで、たちまちにして、芸術は弾圧か利用、どちらかの対象とされ、隠さなければ ならない、さもなくば滅される対象へと陥ってしまう、それが実際のところなんだということと、
もう一つは、
私自身も多かれ少なかれ好んできた作品を遺した画家たちのなかに、その作品の美しさ、すばらしさからは想像も できないような、男としてはサイテーじゃないの!?!と言いたくなるような御仁がチラホラいること。
知りたくなかったわ。。。けっこうショックよ。
ルソーくらいなら、まあ笑えるんだけどねえw
で、ちょっとショックを受けたうちの一人がカンディンスキーなんだけど、私は、初めて見た子ども時分から、わりと好きだった、とは言え、限られた作品しか知らないできたのだが、少なくとも、ピカソ大っキライだった親父のように、「わけのワカラン絵を描くなー!!」と、まじで立腹するような、いわゆる抽象画ぎらいでは ない。
ただし、具象であれ抽象であれ、どうやら、色遣いにも、かなり左右される面が あるようで、何を描いたのやらサッパリわからないとしても、色調のハーモニーのようなものが心地良ければ、それでオッケーみたいな感じ。
なので、もちろん、全体に陰気臭いような、ばっちい色遣いの作品だと、やっぱり、好きには なれないことが多い。
んで、
『オトナの教養講座』のなかで、山田氏が指摘しておられたのが、カンディンスキーは、「プチ スピリチュアル」だったとかいうこと。
それ聞いて、
「ええっ?そういうのってスピリチュアルなの?じゃあ、わたしも そうだってことか??」
と、
わりとスピリチュアルぎらいを自認してると言うか、正確には、オカルトとかスピリチュアル大好きな人の軽薄さがキライなくらいなんだけどw
われながら驚いたのは、
過去エントリー『「天才」と呼ばれたいチミに。』で述べたように、私も、音色と色彩が結び付く傾向は、子どもの頃から自覚が あって、
と言っても、他の人たちも普通に そうだと、なんとなく思っていたし。
だってさ、「黄色い声」なんていう定番の表現が昔から あるじゃんか。
ガーシュウインの『ラプソディ イン ブルー』を初めて聴いたときは、「ブルース」の「ブルー」という意味なんだそうだが、まさに青いイナヅマが、頭のなかを走ったし。
『エクソシスト』っていう、有名なオカルト映画が あるでしょ。
あのテーマ曲の『チューブラーベルズ』を聴いたときは、銀色の金属の小さなパーツが たくさん、それぞれに光をキラキラ反射させながらクルクル回転していて、それが だんだん集まって、シンクロしながら大きな回転体になっていくイメージが、頭のなかに浮かんだ。
それだけじゃなく、数字と色のイメージが結び付く傾向も あった。
子ども時分、絵というか、マンガも大好きだから、読むのは勿論、自分でもマンガ家気分で描いたりしたけど(見つかると、またマンガなんぞを!と、親に激怒されて、殴られたりした)、その一つが、登場人物全員の顔が数字という、、、
いま振り返ると、かなりシュールだなあと、われながら思うんだけどw
自分では、それぞれの数字そのもので、登場人物各自の容貌の特徴から内面性などに至る、キャラクター全体を表現してるつもりだったのよ。
たしか、小学生で、まだ低学年の頃だったと思うけど、
幼なじみに、その力作を読ませたら、読み始めた幼なじみが、ほどなくして、コトバも発さず、顔を上げ、ただ たまげていた、と言うよりも呆れていたのを憶えているww
でも、たしかに、現在の自分よりも、子どもの頃のほうが、もっと強く感じられていたようには思う。
それにしても、
そんなに珍しいとか才能だとかって、たいそうなもんかしらねえ?
この狭い頭蓋骨の空間のなかで繋がってるんだから、どこかの部分で刺激を受けたら、いっしょに連動しちゃう部分が あっても、それほどにはフシギと思えないんだけどなあ。
旧ブログで、また、過去エントリーの どこかでも紹介した話だけど、戦時中、飢餓状態に晒されていた日本の兵士が、炊きたての白い御飯を、脳裡に思い浮かべた瞬間、なぜかアソコが勃起しちゃったって現象。
大きな自然災害のあとで、植物の実が、例年よりも多く ついた現象とか、そういう話も聞いたことが あるけど、どこか共通したものが察せられる。
それと、
全く異なる人種や民族、遠い国どうしの言語なのに、たとえば、「甘い」とか「辛い」という感覚を表わしているように思える単語の発音に おいて、かなり共通した感覚が あるようだという実験のようすを、テレビの番組で見たことも憶えているのだが、
世界各国で、女性に かかわる単語には「М」系の発音を含む単語が多い傾向という共通性も見受けられるように思う。
MacDonald-Wright“Scherzo Form”(1973)
あと、同じく『オトナの教養講座』から。
なぜか、日本のニュース記事では、それほど詳細を解説しているものは目にしなかったため、私も、そこまで知らなかったのだが、
『ジャスト ストップ オイル』とかいう、有名な美術作品を襲撃する活動で話題になっている連中のことだ。
この集団を支援しているというのが、世界的にも知られているほどの大富豪(石油会社など)の子女たちだという話だったんだけど、
ここで私が連想したのは、
『共産主義』思想や、とりわけ『キューバ』革命を主導した者たちが、本来なら、それを忌避し、滅しようと動くべき側の はずの一員で あり、原住民を搾取して、財を築いた裕福層の子息たちであったということの、一見チグハグな感じの歴史だ。
やはり、生活に余裕あるからこそ、高等教育、教養、技量を身に つけられるゆえの、思想や知性を培えるゆえの、新たな、先端的活動の実行力なのだろうけれども、
くだんの、美術作品襲撃活動と、それを裏から支援しているという富豪の子女ともなれば、これも さぞかし名門のとか有名どころの最高学府を出ているのだろうと思しきわりには、えらく浅いというか、
はっきり言ってバカっぽいような。
なぜなんだろう?
なぜ、こんなことしか考えつかない、できないのか。
飢えを知ることもなく、潤沢な生活を謳歌していられる連中よ。
オマエさんたちの襲撃活動で得意げに手にしている、缶スープその他にしたって、そうとうのエネルギーを費やして製造されているはずだろう。
まあ、私としては一言で済む。すなわち、
ヘリクツは いいから、とにかく、食べ物を粗末にするな!
それだけだ。
この冬は、例年にない厳しい寒さなのに、暖房費の高騰も心配のタネで、うちも、先日のエントリーで触れたように、12月に入っても、なかなか、暖房を入れる気になれずだった。
直近の長期予報によると、大阪では全体的に晴天と平年並みの気温の日が多いそうで、時々は猛烈な寒波が来るものの、比較的短期間で済みそうだということなので、本当に そうならば助かるなあと、少しホッとした。でも、豪雪地帯の住民は、例年にも増してキツイ状況、ましてや、生活苦で、暖房も ままならない世帯などは、のりきれるのだろうかと、他人ながら、気にかかっている。
それや これやも あるからだろうか、
近年は、ますます実感しているように、日本では従来、最も大きな節目であったはずの「お正月」らしい厳粛さ、独特の清新さというものが、私の子ども時分と比べて、ずいぶん希薄になったもんだなあと思う。
そのくせ、
『キリスト教』の信者でもないのに、『クリスマス』は勿論のこと、近年では『ハロウィーン』てなものを歓んで、やっさもっさと、大集団で押し合い へし合いの大騒ぎらしい。
これだけ、娯楽の類に事欠かない現代でも、若造というものは、要も ないのに、集団で押し合い へし合いになるのが、よくよく大好きなんだなあと、大昔の『歌垣』なる風習を思い浮かべつつ、あらためて呆れるw
私は若い頃から、人ごみが大キライだったけど。
私自身、若い頃は、「桃割れ」髪を結ってもらうために、共に美容室へ赴き、和服の着付けを やってくれた母を亡くし、後年、父も亡くなってからは、季節の行事に拘って、うるさく言う者が いないもんだから、いよいよ本当にマイペース、気分しだいとなった。
父親が元気だった頃は、亡母の代わりに、大みそかは、「年越し蕎麦」まで拵えに、気の重さを叱咤して、実家へ通った自分が、はるか遠く、まぼろしのような気が してくる。
あああ、ほんとうに、めんどくさかったw
この反動は、予想以上に大きく長く、尾を引いているww
暖房費が恐くて、寒さに震えて過ごしていると、腰の痛みにも影響するしで、年末なのに、とうとう、基本の家事すらロクすっぽ できないままに終わってしまったが、きのう一昨日あたりは、やっとかめ、玄関の掃除だけ、軽く済ませておいた。
ま、そんな こんなで、個人的には、例年以上に、なんとも さえない年の瀬となっちまいましたが、
皆さまに おかれましては、よい お年を お迎えくださいませ。
〽ほ~た~るの ひ~か~り、わ~か~れゆぅ~う~く~♪
年が明けて、チョーめんどくさがりな私の気が向く そのときまで、しばしのサラバでございます(笑)
ではでは
2022.12.23 (Fri)
『ちょと言っとかないと、かな』の続き。
先のエントリーでは、ま、多少の極論めいたことも口走ったが、
さしづめ、「同性婚なんてキモチ悪い」云々と言い放ったオッサンなんぞは、どんなに高価なものを山と積まれて頼まれたとしても、ふるふる厭なタイプ、こういう男や人と、何を話そうがツマランし、ひどくタイクツするだろうなとしか予想できない。
私が出会ってきた男たち、そこに、うちの父なんかも含めると、
女性である汀さんのほうが、よっぽど「男らしく」って凛々しくて、真面目で誠実で、根性あるなあと思えるわけよ。
実際に接したことすらないけれど、少なくとも、そのようには見えちゃう。
これまでに、私としては珍しくも心底からマジで好きになった男性ですら(残念ながら既婚者だった)、もし、結婚なり、一緒になろうとかいう話になったら、けっこう長期間に わたってグズグズためらってしまったりするかもと思ってきたのが正直なところだけれど、それじゃダメなんでしょうね、実際、周囲からも、そう言われたよ、自分のなかでは、あまり納得は してなかったけど(苦笑)
言ってしまえば、
「男の人と生活するのって、なんかウザそう」
というのが拭えなかったんだけどw
私の場合、父親で苦労したことが第一原因になってると思う。
これも、自分の姉と同じく、離婚の修羅場を経験している叔母なんかには、
「それでも、結婚すると、なぜか、気持ちがグッと落ち着くもんなのよ」
って、
だから、あんたも、いいかげん、結婚する方向へ本気出しなさいよ、と いう お説教も されたけど。
それが、20歳代の後半頃。
まあ、この国では、30歳代に差しかかると、コロッと風向きが変わるからね。
私は、「仕事一筋」で行けるなら、それも結構じゃないかとも思ってたし。
ところが。
汀さんとなら、いまからでも、ほいほい結婚したいくらいなのよ(笑)
いや、フザケてないよ、本気だわよ本気。
そうして、グッーと落ち着いた心境になりたいもんですわw
もう迷うことは ないんだものww
ああー、これじゃあ、男たちの出る幕が ないwww
それは そうと、
『宝塚歌劇団』の音楽学校に入学する前の頃の汀さん(15歳ごろ?のジュンコさん)と御母堂、お二人ならんでいる お写真を、テレビ番組の なかでだったか、拝見したのだけど、
まあー、そっくりなのねえ、汀さんの おかあさん。
それを見て思ったの、
「ということはや、おかあさんが『宝塚』に入団して、男役スターに ならはったとしても、全然ありうるわけか!」(笑)
何年前かに見かけた記事で、たしか、『宝塚歌劇団』の「男役」OGさん数人だったと記憶するが、その人たちが、ダンス(ソーシァル ダンス?みたいなん)の お相手を つとめてくれるという特別イベントで、それの参加希望を受け付けているというふうな内容だった。
私もさぁ、鳳 蘭さんとか瀬戸内美也さんとか、もちろん、汀 夏子さんに、ダンスの お相手を していただけるとなったらば、嬉しハズカシながら、めいっぱいのオシャレして参加したいもんだと思っちゃうだろうけどw
なんせホラ、杖の検討が必要かなぁ;というほどの腰痛でしょ、
これじゃ、踊るどころじゃないよ、とほほ。
最近は、バレエ ストレッチでさえ、ほとんどのメソッドを中止してるのに。
汀さんだって、若い頃の苦労のせいか、膝とかが痛いと おっしゃってたからね、汀さんよりも大柄な者を支える余力なんて残ってないでしょうし、だいたい、彼女たちは、私よりも、ずっと年上ですからね、その年上の方々から、
「腰は どないです?だいじょうぶかい?」
なんて、いたわられながらヨロヨロ踊るなんて、ありえねーでしょw
しくしく
もともと、痛みが出やすい右側を庇っていると、そのうちに左側へ来る。なので、今度は左側を庇っていると、また右側に戻る、その繰り返しの あげく、両側いっぺんに来たー;てな事態になったら、いよいよ万事休すだわ~
と、すごく焦ったけど、
まあまあ、おかげさまで、だいぶ、よくなりました。
ただ、ぶりかえしやすい持病なのだから、今後も油断しちゃいけないのよね。しくしく
…
というわけで(?)
日本政府!
犯罪行為なんかじゃないんだからさ、とっとと同性結婚を認めなさいよ!!と、言いたい。
根本のところで、あたかも『イスラム原理主義』みたいな国だわよ、この国は相変わらず。
「自由」とか「選択の自由」だとかいうのは、とことん突き詰めていけば、はたして、そんなものが本当に あり得るのやら、いろいろ怪しくなってくるような難しいものを孕んでいる。
それでも。
人生のパートナー、結婚、子を儲けることなどについて、そして、親らが勝手に付ける名前ですらも、個々人に選択する自由が本来あるはずでなければ ならない。
国家の権力筋が どう決めつけようと、人の心を永遠と縛りつけておれると思ったら大間違い。
それこそが、自然界の摂理に反しているのよ。
選択の自由なんぞ不要だ無用だ、奪っておけば いいのだ、与えるべからず、知らしむべからずなどと思う者たち、そのように思っているのは誰で、何故なのか。
そんなの当然で、アタリマエのことだと思えている者は何故なのか。
感じて、考える人間は抵抗する。
できなくなったら、それは、すでに死んでいること。
2022.12.21 (Wed)
前々から思っていたことを。
それは、「同性カップルは非生産的」云々とかいう決めつけについてである。
いったい何をもって「非生産的」などと思うのかワカランのだが、
たぶん、まずは子どもが できないでは ないかということを言いたいのかな?と。
ならば、それは的外れ。
いちおうは一般的な男女の組み合わせで あっても、できない場合は できない。
むろん、昔から ままあることだし(このことを考えるにつけても、安倍もと首相夫妻の典型的ケースを思い出し、彼らの側の主張・スタンスとの現実的矛盾と、どうしようもない滑稽さを感じることを禁じえないものが ある)、それこそ、「借り腹」なる考えかたや対処の方法が存在した陰では、女性たちの屈辱や苦難も多々伝わっている。
同時に、
養子を迎えるという対処も、大昔から多々見られた方法で、子が できない母方の伯母夫婦の跡取りとして養子となったことを、幼い時分には知らずに育ったという、うちの親父も、その一人だった。
さて、この方法なら、異性だろうが同性だろうが同じなわけで、
子を持てないから非生産的、というリクツは成り立たない。
生殖分野の医学が発展した現代では、なんなら、昔の「借り腹」に替えて、それこそ「借り精子」でもって、女性どうしで、子を持つことも可能だ。
私なんかは、自分自身の!遺伝子!などということに固執する気がサラサラないので、異性であれ同性であれ、ほんとうに惚れた相手の遺伝子を受け継いでいる子を、自分自身で産めるのならば、もう それだけで単純に嬉しいんじゃないのと思える。少なくとも、「あなたの子よ♡」なんて言えちゃうシアワセ(笑)
もっとも、私の実際は、病気のために産めない身となってしまっているし、もし、病気でなくっても、どうやら、そもそも、妊娠・出産に耐え得る体質じゃなさそうな生まれつきでは あるのだけれど。
あるいは、
「同性結婚を認めるにせよ、その前に、いろんな問題点を議論してからだ」などと、尤もらしいことを言いつつ、その実は、まぎれもない偏見と差別がアカラサマになっていることに自覚が ない連中も いる。
だって、男女の組み合わせでもと言うか、男女間のほうが、古今東西、よっぽどトラブルだらけなのが現実でしょうにw
むしろ、子どもが できるからこそ、深く拗れたり、ど修羅場にも なりがちだったのは明らかでしょ。
どう転んでも、
異性どうしだから、同性どうしだから、それゆえに、と言うべき問題は関係ないのよ。
ましてや、あほウヨ系が よく言い募る、
「同性カップルが増えてしまったら どうするんだ!」
という主張、これを目にするたびに、
「杞憂とかいうよりもな、こやつら、もうちょっとは科学的に考える能がないのか」
と、呆れてしまう。
一般的、通常的の異性どうしの組み合わせ、そうでないことには、子を儲けることが不可能であるのは自然・当然のことだった。たしかに、現代に おいても依然として最も多いパターンの組み合わせである。
同性どうしの組み合わせは相変わらずマイノリティであり、これが大逆転してマジョリティ化することは、今後も、おそらく、あり得ないだろう。それが自然の摂理としての少なくとも現行システムだからだ。
だが、基本から外れたように見える少数は、一定の割合で、必ず出現する。これ自体も また、自然の摂理として現れる。
バカなウヨ系は、何を考えるにしても、根本のところや本質を見ることが ないから、ほんとうにトンチンカンなことばかり言う。
だいいち、原初の摂理に おいては、「異性」などという存在は なかったのだ。
もしかしたら、いつかは、「男性」なる存在が なかった頃へと戻っていき、全く「自分だけの子」を産んでいたようなシステムに返ることが ありうるかもしれないのだが、
そもそも、男性というものを出現させたのは誰だったのか。
女性のなかに男性が あり、男性のなかにも女性が含まれる。
あ、それと、
同性婚は「キモチ悪い」などと言い放ってたらしい『自民党=じみんダッピ統一壺売国党』の地方議員も いたようだが、このオッサンにも一言。
「あたま・性格・容姿、ものの みごとに三拍子そろって醜悪、拾えそうなところが全く見当たらないオマエさんのごとき存在が、仮にも『議員』で いられるということのほうが、よっぽどキモチ悪い!!っての」
ところで、
きょうは、汀 夏子さんがお生まれあそばした日
だそうな。
彼女のバースデイの数字は、私のと、フシギなほど重なっていて、それを知ったときは嬉しくも少し驚いたものの、しかし、こういうことも また、なぜだか、私には わりと多く見られる現象なのです。
ともあれ、
いよいよ「後期高齢者」になられるとは(ご本人は、言わないで!!と おっしゃってたようなのに、ごめんなさーい;苦笑)、過去の動画を拝見するたび、私も、信じられない思いになってしまう。
時の流れが。。。だんだん速さを増していく、時の流れ。。。
そして、
アタシだって!わりと近頃まで!?w
ポニーテールの女子高生 だった、はずなんだよぉ~!!
と、叫びたくなるww
でも、お互いが、どんなに おばあちゃんになっても、愛しております
汀さんの周囲を幾重にも とりかこみ、同様の思いを共有してこられた熱烈なファンの かたがたの、はるか後方の物陰から見つめるわれと わが腰を さすりつつ、そっと、そ~っと、せつなる願いを私も また捧げておりますのでございます
どうか健康第一にどうか、おすこやかに
と。
いやぁ しかし、以前も言ったようにサ、こんなことが起きるんだなあと、いまだに驚きを引きずってますわ。
このトシになった自分よりも、ずっと年上の、しかも同性に惚れちゃうなんてことが あるんだぁ~
と。
心底ビックリした。高校時代の友人が、いちばん驚くだろなあ。
すごいじゃ~ん、汀さんのチカラ。
いまでも「釣れた」んだからね!私を。
ほんの数ヵ月前まで、『宝塚』や「男役」に何の興味も なかった私を。
興味なかった理由は、過去エントリーでも述べたように、子ども時分、それこそ「男役」に対する違和感を真っ先に感じたからなのだが、
どうも汀さんは、いかにも『宝塚』的な「男役」さんたちとは、外見からしてが、どこか ちょっと異質なのよね。それゆえ、汀さんに対しては、こんな私でも、他の男役さんに覚えがちな違和感が薄いのかなと思う。
まあ、私が、同性に恋愛感情を持つ場合には、男性的とかボーイッシュなタイプよりも、むしろ、女らしいという以上に女っぽいタイプが、もともとの好みの傾向だからということも あるのかも?だけど、
汀さんって、素顔では、本来、ふつうに可愛い女の子らしさを持っていたでしょう。
ところが、「女性に戻っている」ときのほうが、みょうに意識して、なんか緊張すら してるみたいな感じを受けるのよね、当の御本人自身が。
ひょっとして職業病?(笑)
なんともフシギな話だけどね。
実際、ステージに立っておられるときと、それ以外のときのギャップが、思わずビックリするほど大きいもん。このギャップの大きさは、人を飽きさせない、目を離せなくするのよね。いつ見ても、いつも、どこかが、前とは なんとなく違ってるフシギ(笑)
ほんの15、6歳から、ぜったいコレやりたいんだ!!と、脇目も ふらずに突き進み、しかも、その道が、前代未聞級に大当たりしたのだから、まさに、この「天職」をば手離すものか!って なるわよね。なかなか、一般的に、そうそう ないことだと思う。
大多数の人は、たいして好きでもないし、気が乗らないどころか、どっちかと言うと、きらいなことであってさえも、しぶしぶ妥協しながら、どうにか折り合いを つけながら生活してるものだろうし。
スター性ゆたかな人の共通点として、サービス精神の旺盛さという面も大きいと思うけど、そういう、一種の「律義」さでもって、ファンたちの期待を あまさずに応えようと一所懸命なのだから、女の子たちは感激して喜ぶ。なにしろ、世の多くの女性たちを喜ばせ、たちまち夢中にさせるパワーが あるのだから、しかも、これ、個人的魅力も さりながら、なによりも、プロとしての お仕事なわけですからね、これは もう、殆どの男性にとって、羨ましき、あらまほしき、「目指す理想」のうちでも あるはずでしょう。
「はり合う」立場になりかねないw男性から見てさえも、こういう律義さ、健気さってものは、みずからも、このようで ありたいという、そこのところで、「意気に感ず」というふうな、グッとくる共感をも覚えるのでは ないだろうかと。
そうして、汀さんも また、彼女にしか できない「スタイル」というものを、若いうちから探し当てていき、築きあげてこられた。
いかに「男っぽく」見えるのか どうかなんて、もはや、どうでもイイことね。
その人の醸し出す、滲み出る持ち味だわ。
もっと早く出会えていたらな~と思う反面で、
高校時代のクラスメートに、
「ねえねえ、汀 夏子って知ってる?」
と、話しかけられたとき、
「え?ミウラって誰??」
と聞き返して、「あ、ええわ」と、ソッポ向かれた あの頃。
友人は、私がノッてきたなら即、「いっしょに『宝塚』見に行かへん?」と、誘うつもりだったんだろう。
でも、友人は、裕福な家の娘だったけど、私には、公演のチケット代も、電車を乗り継いで通う余裕も ない。ましてや、貢ぐプレゼントも できやしない。
せいぜい、あの友人に託して、ラヴレター届けてもらうくらいしか。。。(苦笑)
もし、なんとか工面して通ったとしても、
「おまえはぁ、、、!『宝塚』より、ガッコの勉強せんかー!!
」
と、親に どやしつけられて、苦しんだろうと思うの。
20代の頃、シナリオ作家の道に進もうかなぁと思ってたことも あって、
その頃に、汀さんのファンになっていたならば、筆を折らずに、汀さんのためのシナリオを捧げたかもね。
「外に出る」という言いかたを するみたいだけど、退団してしまえば、一般の芸能界のなかに おいても貫き通したいと、汀さんが つよく思い続けた「男役」のニーズって、なかなか、やはり、どうしても難しいでしょうから。
【続く】
2022.12.14 (Wed)
まずは、
ますますモメてる岸田政権。
以前のエントリー↓
『岸田首相の至上ミッションは、「アベシ国葬」なのら~』
このとおりになりかねない雲行きよねえ(呆)
で、
外されて、くやしクヤシの高市さん。
「みんなで靖国ィ!」の高市さん。
『日本会議』の演芸会にて、イカガワシイ唄うたってたのをバラされて、地方議員である信者のバカうよに全責任を なすりつけ、大ヒンシュクを買ったばかりの高市さんは、なんとか浮上したいものと見えるがw
一言。
姐さん、ここぞと、イイほうへ回るなよぉイイほうへwww
おたくが、そもそも誰の、どこの手先なのかを、こちとらは知らんやろと思てたら大間違いやで
まあ、いずれにせよ、底の本音は、企業や富裕層を、増税ターゲットにするなー!ってとこじゃないのかしら。
あやつらのオツムのなかに、わたしら底辺庶民の生活のことなんかは、ろくに存在してないはずだもの。
尤もらしいキレイごと言ってたって、スケスケのミエミエです。
よけい寒いわぃ
政治の話もウンザリの極地ですが、ここで ちょっと話題を変えまして、
さて、
傷めると、よーく分かる。
腰というものが、どれだけ、われわれの からだを支えてくれていることかを。
「腰を定める」ことが できなくなると、たちまちにして、ふつうに立つことすら不可能に なってしまうのだ。
近頃ぶりかえしてしまった、私の腰痛。
最悪の状態だと、寝返りも できないのだが、寝返りしないと、もっとマズい。
もちろん、立つのも恐ろしい。
必死に立ち上がってみても、今度は、足が前に出せない。息が止まるほど痛いから。
転ぶのは最も恐ろしい。
これじゃ、トイレすら行けないよ。スリッパを履くだけでも激痛なのだ。
やっぱり、病院へ行くべきなんだろうかなあ。。。
でも、行ったからって、こういう場合は、根本的に治るわけじゃないだろうし、結局のところ、解決するだろうという気が全く しない。
てか、
ほんとうに痛い、苦しいうちは、一人で病院に行く準備や身じたくだけでも大変だ。
へたに触られたりするのも怖い。誰にも触られたくない。
だいいち、激痛の最中は、救急車に来てもらって、担架に乗せてもらうこと自体、恐ろしいのよ。
こういうときに、いつも思うのは、大地震やら火事が起きても、逃げられないよなあ、ってこと。
聴覚障碍の私は、たとえば旅行など行ったりしたときに一人で宿泊した場合は、従業員に事情をシッカリ分かっておいてもらわないと、もしも、火事など起きても、逃げ遅れるかもしれない。
ほとんどの人は、とっくに救急車を呼んでるであろう事態でも、ガマンしてガマンして、耐えてきた。他の病気でも、若い頃から何度も あった。
自分自身の苦痛は、自分にしか分からない。
市販薬も案の定で全く効かなかったが、
まっ、それでも、数日前に比べたら、少しマシにはなっているので、もう しばらくは様子見するしかないなあ
まあ、今後に備えて、家のなかと外用の2本、杖の購入も要検討かなぁとも考えちゃうけど、これじゃマジで年寄りっぽくなるし(気にしてられんけど)高価でなくて実用的かつデザインがオシャレなやつも あるのかしらなどと考えていたら、なんか泣けてくるわ。。。とほほ
せめて、栄養補給くらいは したいもんだけど(嘆)
ところで、
次は またまた『山田五郎 オトナの教養講座』関連から。
私の、『イタリア』という国の風景に対する印象は、実際に行ったことが ないので、特に、古い絵画などを観ていて、蓄積されてきたことなのだが、
国土として備えている、抜きん出た大自然の美しさとは別に、かつての繁栄と栄光を誇った証しのように遺されている壮麗な建築など人工物の豪奢・絢爛さの反面で、なんとなく うらぶれたような、ある種の「貧乏くさい」感じとが混然と同居しているような、そんな相反するものが一体になっている印象なのだ。そこが特に おもしろいと感じる。いい味出てるやんと。
いまでも、『ロミオとジュリエット』が現れそうだもんね。
山田五郎氏が、むかし、そのイタリアで体験したことの話を聞いていて、たとえば、街の そこかしこに並んでいる、かのベルニーニ作の彫刻に向かって、いわゆる「立ちション」に及んでいた酔っぱらいのオッサンを目撃し、
そんなことしてるから、おたくらは全部ダメにしてしまうと、イギリス人に、バカにされるんだよ、
(イギリス人は、研究や保全の分野に熱心であるそうな。)
というふうに忠告したという遣り取りが興味深かったのだけれど、
くだんのイタリアの酔っぱらいオジサンいわく、
「イギリス人には、こういうの つくれないだろ、われわれイタリア人は、なんぼでも つくれるんでね」
とかと言い返してきたというので、
ここで私が連想したのは、
スキャンダルや悪女のイメージが まとわりつくルクレツィア・ボルジアの逸話。
訂正:
確認してみたら、カテリーナ.スフォルツァと間違ってたようだ。
この人の おかあさんが、ルクレツィアという名前だったそうで、しかも、敵方というのは、ルクレツィア・ボルジアの兄であったことから、記憶が錯綜していた もよう。
というわけで、
ルクレツィア カテリーナが、激烈な権力争いの渦中に巻き込まれて、と言うか、自分から飛び込んでいったらしいが、突如、押し入ってきたと言うか捕えられてしまっていた敵方に、自分の子どもを奪われて脅されたとき、
「ふん!あかんぼうなんざ、この先なんぼでも産めらあ」
などと、
着衣の裾を、太腿も あらわに捲り上げ、(べらんめえ口調≒イタリア式巻き舌?で)昂然と啖呵を切ってのけたのだという。
私が高校生くらいのときに、永井路子氏の著作である『歴史をさわがせた女たち』というのを読んで、史実の正確さ如何は分からないながら、そのなかに登場した話の一つだったと記憶しているのだが、ある意味、恐れ入るやら感心するやら、こんなのが母親だったら、子どもは災難だよなとも思いつつ、大昔の、身分ある女性とは思えないほどの剛胆な ふるまいの描写だけが印象に残っており、それを思い出したわけ。
お若かった頃、『オーストリア』あたりに留学されていたという山田氏は、イタリアで遭遇した、くだんの酔っぱらいオジサンの言い放ったコトバに考え込み、美術館の学芸員勤務も志望の一つとして考えておられたそうなのに、美術館そのものについても、複雑な心境になってしまわれたそうなのだが、
でもね、
やはり、全く同じものを つくるのは、そもそも つくった本人ですら不可能に等しいでしょうからねえ。
時代につれて刻々の変化もするし。
「一回性」の重み、ということも あると思うのですわ。
日本人の多くは、酔っぱらいに対して甘いというか、無責任だけどね。
ちなみに、
山田五郎氏が編集者としての お仕事のなかで、事情が生じて描かれたという幾つかの挿絵は、まさに「楷書」的な丁寧な描写ぶりで、うちの親父が若い頃に描いていた絵と、かなり似ている感じ。
やはり独学で、黒鉛筆だけを用いて描いていた親父の絵は、モノクロ写真みたいに写実的だったけど。
その親父が大いに好んでいた東山魁夷。
東山画伯の作品が殊のほか大好きなくせに、
あるとき、ヘンなことを言って、嬉しげに笑っていた。
それは、
「東山魁夷って、軍隊時代の階級は、意外と低かったんだなあ!w」
と。
たしかに、親父は、二十歳に なるやならずして近衛将校となったエリート軍人だったのは事実だけど、
ほぼ唯一、最晩年まで残った趣味であった絵だけは、どう逆立ちしても、東山画伯に豪も勝てやしないというコンプレックスゆえだったのだろうか。
それにしても、いったい、なんの関係が あるんや?と、私は思った。
そういう、ヘンなマウントとる意味が、私にはサッパリわからんのよ(嗤)
なお付け足しですが、
美術館に行ったときの行動。
これに限らないかもしれないんだけど(博物館とか図書館とかも)、
私は、「あっ、これは」と、興味を持った対象なり作品なりを、とりあえず、横に取り分けておいて、ひととおりサーッと他を流していくということが できない傾向なのよ。
つい、まじまじ、しげしげと見詰めるために、真ん前でビタッと足を止めてしまう。自分の前に、人が立っていて鑑賞中なら、その人が去り、自分が、作品の いちばん前に立てるまで、ふだんならば およそ持ち合わせない粘り強さを発揮しつつ待つ。
しかも、時間さえ許せば、やっぱり、欲掻いて再度めぐりなおそうとするもんだから、ものすごい時間かけちゃう。
なので、友人とか連れと一緒に入場したのに、いつの間にか はぐれてしまったり、想定外に混んでいたときは、お互いを見失ったまま、ついに、それぞれ一人で帰宅した、なんてことも あった。
何よりも、連れを疲れさせてしまい、
「いつまで見てるんや」と、呆れてウンザリされちゃう。
そういうわけで、美術作品などを鑑賞する場合、一人でジックリまわるほうが気楽ですわ。
山田氏のような興味深い詳しい解説を していただける人の付き添いが あるなら、そりゃあメチャ楽しいだろうけどね。