2014.08.07 (Thu)
『理研』副センター長の、世界的権威の、という結構な肩書よりも、われわれ門外漢に過ぎない一般人にとっては、「スタップ細胞」大騒ぎの終始によって、たちまち、ほとんどの国民にも知れ渡る存在となられていた、笹井氏が、このたびは、非常に残念な かたちで、世を去られた。
まずは、哀悼の意を捧げます。
かく言う私も、このブログにて、笹井氏も対象に含め、多かれ少なかれの批判的見解を述べてきたという覚えはあるが、この今となっても、撤回する必要までは感じていない。
「スタップ細胞」の話題が、打ち上げ花火のごとく賑々しいかぎりの取り上げかたを され始めた当初、科学系の話題には、普段から関心が高いほうの私が、どういうわけか、ほとんど食指が動かずという状態で、関連のニュース記事にも、あまり、目を通さずにいたことは、以前のエントリーでも述べたし、
自分でも、いまだにフシギだが、ただ、
小保方さんに関しては、あとになって、問題の数々が発覚してから、やれ彼女の眼つきなどが どうだのとか、記者会見での態度が、なかなかに政治家ばりだ、とか、あたかも新興宗教の教祖ばりだのいう指摘なんかは、ああ、そう言われて見れば、そう見えなくもないなあ(笑)程度にしか思ってなかったが、
『今度は、会見時の小保方さんの「視線」に対してw』
『追記:「小保方さん会見の装い」について』
笹井氏については、一目で、
「この人は、一言で言って、ある意味、『陰』を感じるな…」
と思っていた。なので、
渦中の人々のなかで一番クールに見えつつ、実は一番、滅入った気持ちを、内に深く抱え込んでしまうかも しれないぞ、という印象を、なんとなく感じていた。
それにしても、見るからに怜悧な、どんな小さな失敗も犯さずに来たであろうような、白衣を着用して診察を行なう医師の姿が最も似合っているのだろうと想像させられた笹井氏、
ああいう、感情を抑えて、どこまでも冷静な応答に つとめられる切り替えの迅速な資質を持ち合わせた人が、傍目に見ても、それまでとは ようすが異なる、衰えが感じられたというのであれば、とっくのむかしに、苦痛で切迫した状態に陥っておられたのだと思う。
理研の、また、「スタップ細胞」騒ぎの中心的立場にあった以上、致し方ないところはあったかと察せられるものの、もう少し早い段階で、とりあえずの処置でもいい、やすませてあげられるように、手を打つことは できなかったのだろうか。
部下や周辺の采配を行なわねばならない責任の大きい立場に あったから、自分の身の事は、どうしても後回しにならざるを得なかっただろう。
今回の事件では、一方で肯定、一方で否定、という奇妙に相反する立場を同時に維持せねばならないことから来る深刻な板挟みを どうすることもできず、自分の研究に没頭どころではなかったであろう、そのうちに、もはや耐え切れぬほどの限界が来てしまったということだろうか。
褒められこそすれ、子ども時代から、親にさえも責められたり叩かれたりに慣れてはいなかったろう、外から窺える以上に、プライドも自負も高かったはず。
到底「なっていない」ものでも、その手腕にモノ言わせ、「成っている」ように立たせてしまったほど優秀な彼も また、巨大な組織の、そして、その野心の犠牲になった面は、たしかにあるように思う。
しかし、ご本人自身、まぎれもなく内部の人だったわけで。。。
先日、あらたな訂正事項が生じたという若山教授も、この訃報にショックを受けたらしく、現在、急激な不調に陥っておられるそうだが、
一歩間違えば、若山さんが追い詰められて どうかなってしまったかもしれぬ恐れも皆無とは言えなかったところだろう。それだけに、ショックの大きさは、想像に難くない。
小保方さんについては、
「STAP細胞を必ず再現してください」
という、笹井氏の、「気遣い」というか、いまとなっては遺言が、彼女に、どういうかたちでの影響を与え残すだろうかということが、私には些か気にかかっている。
以前、当ブログで、上記エントリーをアップするときに、参考のための検索を している途中、初めて拝見していて、こちらのほうの記事も、すでに読ませていただいていた。
お断りも せずに、一部抜粋させていただく。
まさに、分野の専門家でいらっしゃるそうで、いま、あらためて拝読すると、いっそう、複雑な感慨を もよおす。
『STAP細胞に踊らされた人々』
http://explore525.blog45.fc2.com/blog-entry-277.html
~
人の運命とは分からないものである。個人のおかれた環境で否応無しに事件/出来事に巻き込まれてしまうことがある。特に、いい潮流に乗って大きな豪華客船が進んで行くときは、誰しもその船にのりたがる。一旦、乗ってしまうと、いい事ばかり夢見て、悪いことなんて思いもしない。STAP現象は夢のような、生物学史上に燦然と輝く、画期的な発見であるはずであった。多くの一流の研究者が疑う事もなく、船に乗ってしまった。降って湧いたような幸運の前に、疑ってかかれと言うのが酷なのかもしれない。船が座礁してやっと事態に気づくのが普通の人間であろう。
もしも自分だって、その船に誘われたら,喜んで乗ってしまったかも知れない。そして催眠状態に陥り、詰めが甘くなっていたであろう。本来なら、論文に名前を載せる以上、厳格にチェックして、責任を全うしなければならないのだけど、大きな名誉や利益がちらつくと、そうあって欲しい。信じたい。研究者のモラルとは。分かっているけど。自分が直接船の操船に関わってないのに、黄金の国に連れてってもらえ、黄金がざくざくいう甘いささやきが聞こえてくる。欲望はリスクを隠してしまう。 人間ってなんと弱い生き物か。
ただ今は、幻想ではなく黄金の国が本当にあることを祈りたい。
~
ところで、
世界的傾向のようにも とれるけれど、近頃、わが国の自然の動向と言うか、気候の奇妙な変化は、多くの人が感じ取っていると思われるが、
特に、夏場の雨の降りかたは、私の子ども時分と比べて、明らかに違いを感じる。
20年前30年前だろうか、まだ、その頃までの夏場には、時間を計ったかのように、夕方になると、まさに「スコール」さながら、たちまちザーッと降ってきて、雷鳴が一頻り轟き、しばらくしたら、何事もなかったかのようにケロッと去って行き、幾分か涼しくなった空気のなか、入れ替わりみたいに戻ってきた太陽の光が、夕暮れ前の ひとときを精いっぱい輝き照らしたものだったが……。
この数年の雨の降りかたというのは、、、思わず、首を傾げさせる。
とは言え、私が住んでいる所の周辺では、大きい被害が起きたとか起きかねないというほどのことは ないものの、
思えば、3年前の東北大震災があった同じ2011年、夏の終わる頃に、和歌山県では大水害と、それに伴った大変な規模の災害が起きた。
あれ以来毎年、同じような水害騒ぎに慄いているような気がする。
2011年は、未曾有の大地震に続く津波と同時に、原子力発電所の大事故も伴い、それと共に、かつてなかったほどの激しさで、その方面の学者や専門家たちの権威失墜が始まった。
さて、「エリート」とは、まず、大いに恵まれている者に ほかならない存在であって、ただに自分の刻苦勉励、努力したから云々と主張し、あまつさえ自慢するなどはナンセンスということ、少し深く考えれば分かる程度のことだ。
この考えに立てば、自分自身が、なんらかの「障碍」を背負ったことで、生活上の労苦に煩わされずに済んでいることの奇跡も理解できよう。
あらゆる犯罪についても、これを犯さずに済んでいる身の幸運また然りだ。
私が最も、投票したくないと思うタイプの議員である「片山●つき」氏あたりは、そのへんの洞察と思考力にもトンと欠けておられるらしいが、およそ「哲学」に欠けているとも言い換えられることだろうか、さすがは自民党議員になるだけのことはある(嗤)
一点のシミも見えないような、絵に描いたように恵まれて、順風満帆な「エリート」たち、また、あらたに起きた「佐世保・同級生殺害・遺体損壊」事件に見られるように、彼ら「エリート家庭」の裏側をも含めて、
激しい失墜と転落、暴露の地滑りが始まったかのような世相だ。
(それにつけても、「早稲田大学」w「政経」学部wwとか)
なにが「勝ち組」「負け組」だかも混沌の様相を帯び始めた。
ちなみに、小保方さんの博士号剥奪できないことを疑問視する人たちは多いと思われるが、小保方さん個人の社会的生活を破壊することになるからとかいう理由は、そもそも、大学側のシステムに欠陥あったゆえが実態なのであれば、「温厚な」学者センセイらしく装った、いかにも恩着せがましい言い様であり、これぞ詭弁というものだ。
それは、分かりやすく喩えてみれば、入学試験の問題設定に、実施者側の重大ミスがあったために、正解か否かを問わず、すべての回答に得点を与えるのを余儀なくされたり、入学を認めざるを得ないようなものかと思う。
苦肉の策だったかもしれないが、恩着せがましく言って済ませようとするほうが本来おかしいのだ。
ただ、私が気になっているのは、
いわく「『性善説』の科学学問界」で、「コピペ」的剽窃の類は昔から実態として蔓延していたのか、
それとも、「ネット時代」を迎えてから一気に深刻化したのか どうかということ。
学者の基本的クオリティというものに かかわってくるはずと思うから。
そうそう、こんな記事があったw
『うそつき、脳で分かる? =活動領域で解明―京大』
時事通信 8月6日(水)6時17分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140806-00000013-jij-soci
~報酬への期待が大きい人は、側坐核の活動が活発だった。~
つかなくていいはずの嘘とか、いったい何が目的で?とサッパリ理解できない嘘を つく、俗に言う「息を吐くように」嘘を つくという性癖の者もいるそうだが、
こうした場合、嘘を つくこと自体が「快感」という「報酬」に当たるんだろうか?
小説家などにも いてそうだがwそりゃあ、創作意欲が尽きないわなww
とあるブロガーは、自身も知能系障碍(IQが標準に達していないとか)を持っているらしかったが、本人の子どもも また、発達障害だということを述べていて、やはり、必要もないのに嘘を つきまくる癖があったそうだ。
どうやら、自分の嘘で、周囲の人たちが戸惑ったり、右往左往するのが快感だったようだ、ということだった。
『「ネコの目ん玉はコロコロしている」二面性ある少女Aに不安漏らした母親〈週刊朝日〉』
dot. 8月7日(木)7時7分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140807-00000000-sasahi-soci
~
「『ネコの目って知ってる?~』~」
なんか、自慢しとんの?って感じの口調。。。
『蟹江敬三さん』
2014.08.03 (Sun)
『【続・続】『再び『佐世保・同級生殺害、遺体損壊事件』について考えること』』
ま、
「更生する可能性すら認めるな」
ということで、
なんかナチスみたいだが、
「規格外」には死を!ってことか。
そのナチスは、人間を、まさに「物」として扱った。
この社会で、常軌を逸した犯罪を仕出かした大迷惑者ほど、ただスムーズに死なせるだけでなく、様々な検証対象として、とことん、社会の役に立ってもらい、もって、贖いの一端を実行してもらってからでいいのにとも思うのだがwかく言う私にも、いたって冷たいところがあるのかもしれないww
なので、(精神等)鑑定は必要w
それは、数回の鑑定等を行なった程度では到底かたづかないだろうし、
ひいては治療技術へと発展させる目的を持つなら、長い観察時間を要するだろう。
現実的に考えるなら、
犯行者を、単に排除し、この社会から抹殺してしまっただけでは、なんらの進歩もない。
現状では、防御と抑止の効を成せていないというのなら、すみやかに見直しと改善が必要になり、議論も起きる。
だが、単に「先祖がえり」的時代錯誤な視点は有害なだけだ。
そう言えば、国際外交や国防方面の問題でも、同じような議論が起きてきている。
さて、
「冷静」とは何だろうか。
それは、精神の「マトモ」さを示すものとイコールだろうか。
「健常」と「異常」のあいだの河は浅いか深いのか。
2014.08.03 (Sun)
【続】『再び『佐世保・同級生殺害、遺体損壊事件』について考えること』
今回の犯行者は、非常に若く、しかも、女子である。
前代未聞と言って過言でないほどの事件だ。
「罪」も、「法」も「倫理」も、この世において社会を つくり、生きている「人」というものが拵えている。
その根本にある出発点は、やはり、素朴な「自分可愛さ」なのである。
りくつ抜きに自分の身が可愛いからこそ、他者の身も、一応であったとしても尊重してみせる。
たとえ「人間の心を持たない」者に見えたとしても、本当に そういう者であっても、自分は可愛いはずなのだ。
そこを広範囲に広げていった、言わば、社会の「精華」的なものであって、そうなれば、もはや、個々人の感情を超え、つまり、「普遍」的のものでなければならぬわけで、だからこそ、公として刑罰も実行される。
どんな者でも自分は可愛いはずなのに、
誰しも そうだろうということは容易く想像でき、分かるはずなのに、
他人の存在を、いとも簡単に抹殺してしまうとは、いったい、どういうことか。
そこで何が起きているのか。
およそ社会の法律となれば、それは普遍に共有されるべきものであって、
なんぴとと言えど、個人のものでは ない。
この基本は大前提なのだが、
近頃、ネットの、特に「ネトうよ」と思しき傾向の、徒党を組んだ如くして、大勢での投稿に夥しく見かけるような主張の一つ、
「死刑にしろ」だ、「極刑キボンヌ」と、安易な投稿に いそしむ前に、このことは、深く自問しておくが よいだろう。
すなわち、
「人間の心」も「法」も「倫理」も一顧だにせずに、あっさりと、他者の存在を抹殺してしまおうとした犯罪者の心理、根底では、おのれ自身も同様かもしれないぞ、ということを。
まあ、一応にしろメシ食って寝るという最低限の生活を してるじゃないかというだけで、そんなのゼッタイ許せんという向きのひとたちは、呼吸を させているだけでも許せないという感情なのだろう。
これは、「不正」でなくとも、とにかく「生活保護」を受給していること自体を叩かずにおれないのと畢竟、同じ感覚・感情に発していると窺える。
そう考えると、
「生活保護受給者は犯罪者と同じなのだから、飢え死にしないだけでも感謝しろ」などと主張していた、旧『イザ!』の「人気ブロガー」だった福島県民(「ゆさこを●ち」さんだっけねwこのひとのお陰で、福島県民に対するイメージが幾らかは下がったかもヨww)が いたことも思い当たる。
なるほど、産経記者と懇意だという ご本人(と、その取り巻き的常連)は、これが「正義」と確信しているようすではあったが、
「えらくギスギスしてるが;なんと余裕のないと言うか、魅力ないオッサンだのうw」
としか、私には思えなかった。
また、
「極刑望まない親」「遺族感情」と言えば、
実際、アメリカでの犯罪で、幼い娘の命を奪った犯人に対する死刑執行を反対した遺族もいる。
一見、突飛な意見と見えるだろうが、私も、見出しを見ただけの時点では驚いたけれど、
よくよく伺えば、けっして、他人にも不可解な主張では なく、キリスト教が関係した影響もあるのかと思うが、
当の被害者の母親の述べるところを聞けば、一言で言って、
母親は、幼くして犠牲になった自分の娘の存在そのものを、一点の汚れもない、聖的な、清らかなままに置いておきたかったということらしい。
死刑を願う以上にも実に切ない心情に満ちたものだと思った。
一方で、同じくアメリカにおける有名な連続凶悪殺人犯の事例のなかには、犯罪が公に知れ渡っているさなかにて、過去の知人と結婚し、その家庭内では、家族を歯牙にかけたわけでもなく、穏やかな家庭人であったらしい。
(その男の顔を正面から写した記録写真を見たとき、恐らくは二重性格的な傾向が あらわに出た異様な眼つきを していると感じ、私は思わずゾッとしたが。)
人間の可能性ということ、
これは当然、未来への展望と希望の維持に繋がることであり、尊厳ということに関わってくる。
それは、ただ「人間だから」ということに尽きるであろう。
なぜ、「人間だから」なのかということに、根拠らしい根拠があるわけもないし、
ただ、われわれが、人間として育てられ、扱われるべき人間として生まれた、それだけのことだろう。
そもそも、「死刑」という罰には、必然的に根本的矛盾を孕んでいるわけだが、
「野放し」は剣呑とは言え、死刑に処したところで、すでに「あとの祭り」で、
実際、犯行を未然に防ぐことが出来なかった
(つまりは、すぐ足もとにおいてすら、共有が できていなかったということ。今回また、相談所の事例にも現れてしまった。)
われわれが、極端な判決を下すに至る前には、将来への責任、未来へ繋げていく微かな希望として、諦めずにやるべきことが多岐にわたって多い。
しかも、おのおの大変な緻密さを要請されるべきものである。
それは、防御と、まさに「抑止」のためであり、
これまでの人類の歴史上、あらゆる学問、ことに、人類の希望を一身に担い、体現してきた医学において、その発展に欠かせなかったことは何であったか。
まあ、くだんの事件を起こした加害者の父親ら家族には、精神病棟にて、ずっと隔離してもらえれば、それが一番、つごうがいいのも たしかだろう。
家庭から「厄介払い」しておいて、またも事件を起こされる心配だけは免れるわけで。
更生は、真摯な反省あってこそのこと。
反省したうえで、死刑なら死刑にも、従容と赴くことが肝要であって、
反省なき刑罰は、ただ反発と被害意識を募らせるだけ、
つまり、社会や、われわれは、ただ単に逆恨みを買うのみというわけになりかねない。
それで結構、という人もいるだろうけど。
ヒト以外の動物ならば、人間社会を構成する・してきた一員としての価値を付与されては いないので、ただの動物は「器物」なみの扱いであり、一度でも、人を襲ったときは、すみやかに殺処理する。
いちいち、その背後の よんどころない事情とかを探ったり調べたりは しない。
人であっても、幼い子どもに対しては、一部似たような扱いを する。
(ハナから責任を問えない対象として)
このへんは、昔の(?)欧米式の考えかたに影響を受けているのだろうか。
人間は、同じ「殺し」行為でも、虫を殺して犯罪に問われることは ない。
だから、気に入らぬ他国人や他民族、個人に対しても、「虫けら」呼ばわりしてみせる手合いが いる。
戦争ともなれば、おおっぴらに殺人する。
では、兵士たちは皆、精神異常か。
だから、無罪放免なのか。
「一寸の虫にも五分の魂」
「狂人にも狂人なりの論理」
私は、身内が、それこそ「自我つよき」ゆえ、プライドが脆くも崩れ、これまでのような結構な生活を維持できなくなるのではという深い恐れから狂うのも見てきた。
精神に甚大な問題があった場合でも、犯行相応の刑に服させよ、という主張に大いに頷けるものがあると、私も思うが、
敢えて無罪とすることもあるというのは、要するに、野生動物に対して、人間なみ倫理観を持って反省を求めてもしょうがないだろう、ということのようにも思えるw
だとすると、
もう とにかく死刑で排除することを主張する向きは、
「野生動物と同じに受け止めてよいから、さっさと射殺せよ」ということかww
…と思ってたら、
まさにズバリで、そういうことを主張してる投稿者が いたwww
(続く)
2014.08.03 (Sun)
『再び『佐世保・同級生殺害、遺体損壊事件』について考えること』
ところで、
西東京市で7月30日、義理の父親の暴力と暴言に追い詰められて自殺したらしい男子中学生の不憫な事件も発覚したが、
いったいに、
こうした父親のごとき手合いは、おのれが つごうによる、ひとりよがりの細かいルールを、立場が弱い者に押し付けて憚らないようだ。
実家の父親も、私が学校時分、新しい浴室が完成したおりに突如、
「掛け湯は、洗面器○杯までな」
「時間は○分までに上がれ」
とか、異様に細かいことを要求しだして、思わずポカンとしている私を前に、さすがの母親も、「いいかげんにしなさいよ」と怒ったことがあったw
うちのオヤジってのは、万事、そういうふうだった。
かく言う私も、
くだんの「同級生」事件の加害者と同じくらいの年齢の時期には、
おやじ、いまに殺してやる…と思っていたことがあった。
でも、そうは言っても、どんなに、こちらとして言い分があろうと、社会による刑罰を受けるのは、自分自身なのだということも意識に持っていた。
何より、犬や猫などは特にだが、私は、動物を興味本位で虐待・殺傷できる感覚には ついていけない。
私は一度ならず自殺を図ってもいたが、
もし、あの頃、私がサッサと死んでしまっていたら、その後の親を含めた家族・身内らの生活は、とうてい平穏なものでは済まなかったはずで、
つまりは、生まれながらに十字架を背負ったような私の一身において、実家の いろいろと重大な潜在的問題が表面化することは避けられていた面が大きかったわけだ。
まあ、このへんの事情は、あまりに根が深く特異で複雑過ぎるのか、
誰であっても、なかなかに、理解してもらえる機会は乏しかった。
かえって、こっちが責められかねないほどだった。
「PC乗っ取り・遠隔操作」事件の被告もそうだが、
かえって、なまじのエリート的だったりすると、世間に対して、もっと体面を つくろうとするのかもしれないし、
だいたいが、エリートというものが高知能に恵まれているのはアタリマエだろうが、その知能の高さは、うちの身内らもそうだったように、何らかの脳内異常が齎しているものかもしれないのだ。
なによりも、親である当の自分自身が、「自分は出来た」「やってきた」という自負心が強いと、子に自慢のタネあれば、もっともっとと、プレッシャーを かけていくかもしれない。
特には なければ、作ってでも、ハッパを かけるかもしれない。
私の実家などは、家がらとか先祖の功績のわりに、「エリート街道」からは、親の代で落ちこぼれてしまっていたことが、かえって幸いしたのだろうかw
そんな程度の親であっても、いやに体面を気にしたり、あまりミエを張るようだと、子に対して、その不足に思うところを徹底的に隠したり、完璧に無視したりする。
親に問題が大きいのが、はたの他人にも明らかなら、子どもが苦しいのは、分かりやすいことだろうが、そこのところが巧妙に隠蔽されて見えにくいと、問題は秘かに降り積もっていく。
ま、言っても せんないことではあろうが、
子ども つくって産むってことは、いまのとこ一応、自分の存在やら人生に深刻な疑問を持たずにいられて、単純に肯定できてるゆえの無自覚なる思考停止か、
真逆に、
肯定できないでいる深い劣等感があるからこそ、人並みに親ヅラの一つも演じてみたいと願望するのか、
いずれにせよ、
昔は、子どもが ないというのは、生活面に直結してくる不利でもあったろうが、
現代においては なおのこと、
純然たるエゴの行為であるということを、意識の片隅にでも置いて、常に忘れないようにすることも大切だろう。
『佐世保・高1女子殺害 逮捕された少女を精神鑑定へ 専門家「『心の闇』分析を」』
産経新聞 8月2日(土)9時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140802-00000501-san-soci
さて、犯行当時15歳、全然未成年であるし、これまでの判例では、殺害した人数でも大きく左右されているのが実態らしいので、少なくとも「現行法」で死刑はあり得ない。
「死刑」とか「裁判員裁判」に関しては、私も、さすがに、結論を出すことが困難なままの議題なのだが、
旧ブログで話題にしたときは、「プロ料理人」「代金を支払った客」の関係という喩えにして考えてみたことがあった。
まず、他人の人権を全破壊した者には、その者の人権を同じく全剥奪すべしという、まあ要するに「目には、歯には」の古代なみ世界だけれどw
私個人としても、特に凶悪事件の場合は、正直やはり、死刑存続やむを得まいか、という心境にもなるし、第一には、なるべく、遺族の気持ちを尊重すべきとは思っている。
しかし、
厳然たる現実という視点では、
どうやっても、ひとたび失われた被害者の命は、もう帰って来ない。
ある面、人工授精だとかAIDとかいう手段においても明らかに見られるように、
つまるところ、産前であろうと死後であろうと、この世に存在していない者の意思確認は不可能だということ。
この世は、生きている者が中心だということ。
したがって、残るは、遺族と第三者とを問わず、ほぼ懲罰感情のみである。
だが、
いったい「第三者」とは、
その得ている「情報」は、如何なるものに依っているのだろうか?
はたして、
「第三者」は、正しいか。
「第三者」とは何者か。
過去の歴史のなかでも、ことに、戦争という最大凶悪事象の前後を見れば、
あるいは、
いまどきなら、最も容易に見られるのは、さしづめ、ネットで、コメント投稿に付けられた賛否の数を競うボタンだ。
商売人に踊らされているのか、商売人と持ちつ持たれつなのかは知らないが、
「第三者」という一般大衆が正しいのかどうかは、はなはだ怪しいものだということは、権力者の「暴走」に対する警戒や危惧と同様に、頭の片隅にでも常に、わきまえておかねばならないことの一つだろう。
ましてや、一応にせよ、「主権者」は国民だとされている。
死刑の責任であれ、原発の責任であれ、結局は、現在生きている国民が持つ。
しかし、私個人は、原発や自民党政権を支持してきた覚えは全くないw
親の不注意が伴った障碍を、自分で望んだ覚えも一切ないww
「責任」って、
「自己責任」って、何なのか。
仮に「人間の心を持たない加害者」、どのように凶悪と見える犯罪者でも、この世の社会に産み落としたのは人間であり、
それを許しているのは、大自然である。
ヒトと言えど、大自然を凌駕できることは ない。
せいぜい、僅かに隙間を拵えて、息を繋ぎつつ、大自然を凌駕できそうな気分を楽しむが関の山、その程度の分際だ。
それこそ、「ネトうよ」的言いかたを真似るなら、
「気に入らないなら、この世から出て行け」
としか言いようがないw
(続く)
2014.08.03 (Sun)
どうも なんだか、
父親の新生活を破壊するためという目的もあって、金属バット殴打事件に及んだようにも見えるし、
それが、まあ「失敗」に終わってというのか、
いよいよ、とどめの犯行に至った、というふうに見えなくもない。
あるいは、
人間として、ただただ異常ゆえと解するならば、
こうした一連の襲撃・殺害は、あたかも猫などの本能的に、「狩る」行動を せずにいられない反射的行為のようにも受け取れる。
かつ、
先日のエントリーでも少し触れたように、性的の感じも混じっているようだ。
あの「サカキバラ」も、動機としては、そういうことが含まれていたと聞いている。
もちろん、被害者の女の子について、表面からでも分かるトラブルの類は なかったと言うし(あったとも言うが)、怨恨などあったはずもなかったろうが、
どこかしら、加害者にとっての、言いしれぬ刺激を受ける面はあったのかもしれない。
殺害やら切断行為を「やりたかった」だけでは、わざわざ同年齢の相手や、まして大の男である父親を襲った理由がイマイチ腑に落ちない。
今回の事件では、いろいろな道具を事前に準備しているわけだから、けっして衝動的にというわけでもない。
異常性格ではあっても、頭自体は悪くないそうだから、
単に「解剖」を やりたいのなら、他で、もっと非力な、無防備で扱い易い者を狙うことだって できたはずだ。
実際、「サカキバラ」事件などでも そうだった。
そして、
なんと、自宅の冷蔵庫からは、猫の頭蓋骨が見つかったそうなのだが、
どうやら、「生体」というものに対して、物的メカニズムといった方向での関心の持ち方を しているように見える。
もちろん、「普通の女子」には少ない感覚だと思う。
多く男性が、機械だけでなく、生体一般の持つメカニズム的な面に興味を持ち、十全に把握したがる傾向がある
(したがって、あれこれ「反応」を試したがる:いじめッ子タイプの共通性格でもあり、人格障害者に共通した行為でもあるという)
のは、認めざるを得ない特徴だろう。
そこには、攻撃性と支配欲が顔を出してくる。
好きな子ほど、いじめて反応を見たがるという性向も、昔からよく言われることだ。
最近の世相では、男みたいな女性が増えてる感もあるし(わたしもか?w)
再び言うのだけど、
極端な内容の、刺激が強い描写のアニメその他、特に、視覚的刺激を受け易い性向というタイプはあると思う。
男性は特に、そうではないのかな。
だからと言って、犯罪行為には結び付かないのが、それは「普通」というものだ。
しかし、もし「普通」でない者ならば、刺激として「トリガー」には なってしまうかもしれない。
この場合、「理由」でなくて、「トリガー」。
ここを理解できないのか、規制を恐れる「アニオタ」さんら必死で抗弁してるようだがw
私自身は、極端な内容の、刺激が強い描写のアニメその他なんどを全く必要としないでおれる、
と言うか、
見たくもないのに、昨今のネットでは、CM画像の かたち等にして勝手に、こちとらの視野に飛び込ませてくることが増えたので、もう不快不快で、現に迷惑してるくらいなので、こうしたアニメとかの存在意義を、私は正直言って、理解できない。
繰り返して言うが、
通常人には「トリガー」とはならないことが、「異常」なればこそ、何が「トリガー」となるやら分かったもんじゃない、ってこと。
さて、直近の報道だが、
担当していた精神科医も、自分の手だけでは負え難いと深刻さを感じたからこそ、外部機関にまで相談したのだろう、そうとうのことだと察せられる。
これまでに、投薬治療等は行なわなかったのか?
父親への殴打事件のおりに、喫緊で入院措置だけでも とれなかったろうか。
特に異様を感じるのは、
何の怨恨もなかったはずの被害者に対する悔悛的言動が、ほぼ全く見受けられないという所が、
自分のやった行為を犯罪であるとか言うのは、飽くまで世間の取り決めごとに過ぎず、自分の したいことを して、何が悪いのか分からない、といった、
わがままやウヌボレ、幼児的万能感、傲慢不遜的、極度な自己中心的等々に見える態度、こういうところを指して、想像力の異常な欠如という「サイコパス」の特徴あり、とする指摘に繋がっているのか。
しかし、もしや、「感情鈍磨」の恐れもあるかもしれない。
あるいは、自覚もなく自己抑圧を継続してきていたとすれば、
「生」の迸るような感覚に餓えていたとか。
まあ、なんとも、判断が大変に難しいケースだが、
この加害者少女が、おいおい、少しでも、心中の正直なところを垣間見せてくるのを、根気よく待つしかないのだろう。
したがって、
誰ぞ愚か者のコメントで言うような、
「疲弊させて、頭が働かなくなるようにしろ」
なんてことは、もってのほかである。
ったく、「カルト連」のようなことを言うとはw
ちょっと考えたら、べつにアタマ良くなくても分かりそうなもんだが。
過去の「給食事件」のときも、
「勉強していることを小ばかにされ、不満を持っていた」
と、本人が述べて認めていたそうだから、
まずは、「異常性癖」の持ち主だったとしても、いったい何がトリガーとなるのかは究明しておきたいところだ。
もっとも、これだって、いかにも「らしい」理由で、子どもなりに言い訳したに過ぎないかもしれぬから、慎重な分析が必要だ。
いずれにしても、
今回の「同級生」事件、本当は、「解剖」さえできるなら誰でもよかったのであれば、どうして、わざわざ、自分と互角の相手を選んだか、
「給食」事件のときに狙った相手も、本当は、誰でもいいことだったのか どうか。
(続く)