2025.08.09 (Sat)
『戦時の男女/現代の男女』の続き。
『沖縄メッセージ』のみならず、これは、私も、つい最近になって知ったのだが、戦時中、例の『南京事件』の際には、この『南京』陥落を遂げたことに対し、大いに「お褒めの言葉を下賜」されたという、『昭和天皇』。
『特攻隊』についても、「よく やった」と、感激のコトバを洩らされたことが知られているし、
敗戦直後には、当時の良子『皇后』も、
「『B29』は、敵ながら、まことに立派」だったと。
敗戦を決定づけた核兵器による被爆を体験したばかりの広島の人々は、そんな『昭和天皇』を大歓迎し、その熱狂ぶりは、アメリカ人を呆然と させたという。
(なんか、先日の『参院選』に おける、石川県民を連想させるものが あるなあ)
そして、
やがて「高度成長」時代に生まれ育った私自身もリアルタイムで目にし、耳にすることとなった、あの発言。
「気の毒ではあるが、戦争中だったので、やむを得ないこと」。
まあ、たしかに、そのとおりでは あったのだろうし、そうとしか言いようが ないじゃないか、というのも仕方ないことでは あるだろう。しかし。。。
…
私は、いつも、怪訝に思ってきたことが ある。
たとえば、戦時中の体験以外でも、何らかの大災害に遭遇した場合に、「お出まし」いただき、すぐ そばでの お声がけに あずかって、「ほんとうに大変でしたね」などなど、しみじみと親身な お声を いただいたと、それで嬉し泣きしている人の気持ちが、よくは わからないのだ。
要するに「有名人」それも、日本で最も有名な人に面会でき、そして、親しげに話しかけてもらえた!と、感激する気分に近いものなのかなあ?と、察してはみるのだが、
同じく、
「お手振り振り」を見たからと、なにが嬉しいのだか、これもサッパリわからない。
わざわざ、厳寒期の戸外に立ち尽くして、いや増しに寒々しい防弾ガラス越しで見おろされ、お手フリフリを見せてもらって、なにが嬉しいのかが、さっぱりワカランのだw
なので、
最近のエントリーでも指摘しておいたように、
専門家や識者であるらしい人たちが、「ふつうの人」に違いないはずの、一人の娘さんを頼んで、「救われる」の「救ってくださる」のと、カルト宗教臭プンプンのセリフを言い放ってみせる神経が、どーにも こーにも、わからん!!ww
話題が変わるが、
私は、若い頃から、たとえば『ドイツ』の職業訓練校などの教育システムの話を聞いたりするたびに、日本も、「どんぐりの背比べ」的であっても、まずは人並みであれば、とにかく人並みでさえ あればという考えかたは脱しておいたほうが、これからの時代、よいのでは ないかなと思ったりしていたのだけれど、
かく言う私の学生時代には、女子が4年制大学を志望することすら、わりと珍しくて、私なんかも、「四大」進学を希望しており、それを言うと、こともあろうに、クラスメートたちが口を揃えて、
「えーっ?4年制?そんなとこ行ったら、卒業するとき、トシいくつになってるんや!嫁に行き遅れるで!やめとき!!」
と、いっせいに大合唱されたことが あるw
これに限らず、
なんか知らんが、私は、憧れのロック スターとか好みのタイプの俳優さんの話を しても、友人や同僚に、
「ええっ?そんなトシ離れたオッサン、やめときぃ」
とか、
「あんな地味なオッサンの俳優、どこがエエの??違うタイプにしときぃ」
などと、
干渉がましい口出しをされることが何度も あって、ひょっとすると、うちの母親が、ああいう異常なくらいの過干渉だったから、それが、どこか影響しているのだろうか、どういうことなのかと、われながら、怪訝に思ったりしたことが ある。
だって、ヘンでしょう?
現実に、近くにいる人とかだったら、
「あれは、品行や性格に問題ありやから、つき合うのは やめときぃよ」
とか、コソッと忠告してくるのは、まあ、わかるよ。
でも、たかが、憧れてるロック スターや、好みのタイプの俳優の話ですがな。
やめときぃ、やめときぃ、と、大真面目に心配して止めるべきことか??
なので、
大きな お世話やろ!と、内心、いささかの不興を もよおしたりした。
大学進学の話に戻すと、
なんのこっちゃない、みごとに、受験に失敗してしまったが、親からは、「現役合格」以外は断じて認めない、(やっぱり、女の子だし?)浪人までして進学する必要は ない!と、つよく申し渡されていた。
実を言うと、この頃の私は、自分自身の障碍についても無知かつ無自覚で、周囲の環境や状況によっては、そこからの影響を受けた場合、聴力が予想外に激しく左右され、極度に不安定化する恐れが あることについても甘く考えており、試験官からのルール説明や試験本番の英語のヒアリングも、開始してみたら、全く聞き取れないことにショックを受け、血の気が引いていく思いを した。
そこへ さして、タイミングが悪いというのか、ほかにも、たまたま、隣席の受験生から、思いがけない妨害(と言っても、わざとでは なく、その子自身も、焦って必死だったことから起きたことなんだけれど)とか、
こんなはずでは、、、なアクシデントが想定外に重なり、不本意きわまる結果を知った母校の恩師たちは、だったら、うちで進学すれば いいよと、鷹揚に誘ってくださったのに、当時の母校には、まだ、4年制大学が併設されておらず、もし、併設されていたなら、素直に、そちらへ進学したかもしれないけど、あの頃の私は、「短大には行かないよ!」と、ヘンな意地を張りとおして、結局、まったく外部の専門学校へ進学した。
ところが、
この専門学校についても、母親の意向どおりに唯々諾々と従って、いざ、入学してみたら、またぞろ血の気が引くほど、えらいことになってしまったのである。
詳しいことは、またの機会に しておくけれど、これも要するに、私の障碍を、母親が頑として認めなかったことが根本原因だったのだが、
加えて、
あわよくば、私の障碍などは、ほんとうに、私自身の思い込みでしかないのだということを「既成事実化」できうるのでは ないかと、母親の心底で計算していたものらしい。これも また、母親が亡くなってから、そうとうの年月を経たあとで、やっとかめ思い当たったことだ。
亡母は、鈍すぎ、疑わなさすぎな娘の私を、腹の底から軽侮し、ほんとにオメデタイ、バカなやつだが、おかげで、コントロールしやすいわい、と、せせら嗤っていたのだろうと思う。
実際、私さえ、ガマンづよく耐え、いちおう卒業でき、なんとか就職の運びになれば、母親の願望は、首尾よく かなったのだろうが、私にだって限界は ある。
さすがに、辛かったわ。。。
ただ、担任の先生や校長先生は、私の事情を知って、気にかけてくださり、可能なかぎりの便宜を図ってくださったのは、ありがたいことだったと思っている。
それにしても、つくづく、自覚に乏しく、ボンヤリしていたのだなと、われながら忸怩たる思いも、いまだに残る。
母親とは、このときこそ、徹底的に闘っておくべきだったのだろうが、あまりにも、私の立場が不利すぎた。
あかんぼうの頃の経緯など、当の本人こそは知りや しないのだし、障碍を負うことになった事情は、いっさい、私自身に知らされることなく、隠蔽されたままだったのだから。
近所の幼馴染みのとこの おばさんは、とても優しくて、責任感が強い人だったので、専門学校時代の私の困惑と苦悩を、たまたま、ふとした会話のなかで知った あと、
「奥さん、○▽ちゃん(←私のこと)かわいそうよ」
と、
うちの母親に向かって、わざわざ、忠告しに来てくれていたということを、
あとから、私に告げた母親は、内心では、非常に不快だったのだろう、
怒りを抑えつつ、底意地の悪い表情を浮かべて、私を横目に見つつ冷笑していた。
あの顔、いまでも、まざまざと眼前に浮かぶよ。
まだ元気だった頃の母親と、ボランティアのイベントなどで交流が あった人から、これも母親の死後に聞かされた話なのだが、
その人は、大学卒業後の若い頃から一貫して、障碍者の施設を運営するなどの福祉活動を通じ、いろいろなケースの障碍者を知り尽くしているので、私の障碍についても、いまからでも「障害手帳」を取得しておかないと、今後の私の生活は、非常に困難なものになるだろうから、早急に、と、真剣に忠告してみても、うちの母親が、みるみるうちに、不快そうな、険しい表情を隠そうともしないので、それ以上は、何も言えなかったのだと言っていた。
子の将来よりも、自分のミエやエゴを守るほうが大事だったんだろうな。
【続く】