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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2018.02.02 (Fri)

あるに決まっとるw

少なくとも、この人間社会に おいては。

 

子どもが何歳になったからとて、
ある時点でスパッと無くなるわきゃないだろww

 

そのくらい、
親、また、生育環境が及ぼす影響は、子の全人生に関わってくる。当然のことだわ。

だからこそ、積極的に、人の子の親になりたいという願望を持つ連中は、昔から いる。
非力な者でも、自分の子には、絶大な支配を及ぼせるし、
わが子以外に、どこの誰が、平凡でブサイクな女を、ファムファタルやら女神さまのように崇めてくれるかw


 

ただ、現代では、いちおうの目安として「成人年齢」までは、保護者・養育者としてのベストは尽くすべしとされては いるのだろうが、それ以降は、その責務から解放されても いいだろう、という程度のことでしかない。

だって、キリがないしね。

「親としてのベストを尽くす」つったって、個々の思考力やら培ってこれた見識やら性格などなどにより、すでにスタート地点から大きく差が出てくるわけだし。

それらは、親にとっても未知数の、子ども側の資質や知能を含めた肉体条件によっても左右されるのだし。

 

ま、いずれの場合にせよ、
いちおう「普通」の範疇の子なら概ねは、成人年齢に達していたら、自分で自分の世話が できるはずだと、世間では見做すからね。

 

しかし、実際には、そうも いかない場合が ある。

 

わかりやすい例とすれば、障碍児の場合だろう。
それも、重度障碍の場合。

それでも、

子の背負っている障碍に対して、その将来に備えるべく、的確な手立てをベストに尽くしておいた場合は、「健常者」に伍し、社会で大いに活躍できることも可能だ。

 

ひるがえって、

軽度・中度の場合は、かえって難しく、

親が無知・無理解であったり、怠惰・無責任であったりした場合、子ども本人は、一般の人々よりも、あきらかに不利な条件下にあれど、周囲からのサポートも希薄で、最初から最後まで、ほぼ自力のみで生きていかざるを得ない人生も ままあるということは、先日のエントリーで指摘しておいた。

 

さて、

たとえば、近頃になって発覚した、寝屋川市における、監禁により衰弱死へと至らしめた事件。

この被害者の女性は、十代の頃から、過酷な環境下に、親の手によって閉じ込められ始めて、

発見されたときには、すでに、実年齢上は30歳代になっていたらしい。

当然、成人年齢を、とうに超えているわけだが、

だからといって、彼女の「自己責任」ということには なり得まい。

 

むろん、ひとえに、保護・養育者である親の責任問題が第一に くることを疑う者は、まず いないだろう。

もし、何らかの理由で、親でありながら、自分の手に余る子であったとしても、自分自身による保護・養育の代わりを見込める手立てを、やはり、その者なりに、尽くさねば ならない。

 

「たられば」にしかならないけれども、

辛うじて、くだんの被害者が、成人年齢に達する手前で発見・救出されていたとしても、彼女の、その後の人生に、親の手によって齎された辛苦の影響は、有形無形に付き纏ったに違いない。

 

 

…ところで、

こういう記事が、また出ているのを見かけた。

父親は誰? 「AID」で生まれた38歳女性の叫び2/2() 5:00配信

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180202-00205944-toyo-soci&p=1

 「出自を知る権利」とは、子どもが自らの遺伝的ルーツ(この場合は精子提供者)を知る権利のことです。日本も批准する「子どもの権利条約」でも、「児童はできる限りその父母を知り、且つその父母によって養育される権利を有する」ということが、うたわれています(7)

 

このあたりを読むとね、

私は いつも、『あしながおじさん』の主人公、孤児のジュディの言ってたことを思い出す。

 

――AID問題――はっきり言うが、「人権侵害」でしょ

 

 

それと、

私には、幼い頃に生き別れたまま育った、父親違いの姉も存在するんだけど、

彼女は、私と二人だけで話しているとき、うちらの母親について、どうしても、

「親戚の おばさん」

くらいにしか感じられない、と言ってた。

それ以上に、ハッキリと、母親のことを、

「嫌い」

と、告白したことも ある。

 

まあ、あの姉が、実の母親を嫌うのも無理は ない理由が あってね。

これは、まったく、母親が悪いんだけど、ここでは、この話は置いておく。また そのうちに書くことも あるだろう。

あまりに えげつない話のうえ、

実は、すでに、当の母親から、言い訳めいたことも聞かされていた私ですら、

「おいおい、そんな理由は通らんだろ!」

とツッコミたくなるほど、ヒドイ話なので、これについてはと言うか、これについても、私は全面的に、この姉の味方を するものである。

私が、母親の脳みそについての異常を知らされたとき、意外に思うよりは、やっぱり そうか、、、と思ってしまったことの一因でも あった。

 

 

ともあれ、

この問題についても、旧ブログの頃から取りあげておいたと思うのだが、
当ブログを開始してから、比較的初期の頃だったかに、上掲のエントリーAID問題として、再び取りあげている。

内容は、自分でもウロ覚えになってしまっていたが、

なぜか、さきのエントリーについては、わりと繰り返しアクセスしてくる人たちが いるのを知っていたので、当ブログにても取りあげてあることの記憶が残っていたのである。

 

で、

この「『AID』の子どもたち」という問題については、数年前どころか、私が まだ実家で生活していた頃くらいだったかと思うので、かれこれ数十年前にもなろうかというほど、かなり むかしのこと、ある日、新聞記事で読んだ内容に、少なからぬショックを感じたから、後年になっても憶えており、問題意識も継続していたわけで。

 

当時に読んだ記事内容の記憶では、たしか、私学の名門の一つとされる大学の、たった一人の男子学生による精子の提供が、多くの場合に用いられているということが明かされてあり、まずは、そのことに、衝撃を受けたのだった。

そして、

あの頃は、当事者である子どもたちも、この世に生を受けて、まだ時間が浅い頃だったはずだが、この子たちの将来について、ほぼ何らの考慮も なされていないらしいことにも大きなショックを受けた。

 

 

だいぶ前にも、どこかのエントリーで言ったと思うけど、

親なんて者ぁ、そもそもからしてノーテンキかつ無責任だからこそ産めるんですよ。

 

だって、
ある意味、賭けや冒険に等しいでしょ、子を産み落とすってのは。

 

私自身は、はやくも、中学生の頃には、影も形も あり得ない、心のなかの「わが子」に向かって語りかけていた。

「おかあさんは、まだ見ぬ あんたを愛しているからこそ、産まないよ」

と。

そして、そのとおりになった。。。

 

よくしたもので()産めないカラダになったから、病気でね。

地主の跡取りとの縁談話が壊れたことも あったなあ。

 

たった一度だけ、自分から、

「このひとの子ども産みたい。私と同じ、『不倫の子』になってしまうけれど、もしも産んだら、その子に対しては、

『おかあさんね、あんたの おとうさんにホレちゃって、好きで好きで、おとうさんの子が欲しくて もお たまらなかったから、あんたを産んだのよ~♪』」

と、あっけらかんと言えると思った。

 

それから ほどなくのことだった、産めない身となったのは。

 

【続く】

 

 

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Updated   
2018.01.29 (Mon)

たまーに閲覧する『ヤフー個人記事』コーナーのなかでも、
私なりに、読むに耐えるだけの知性が感じられる、ゆえに、それ相応の情報価値や信頼感も感じられる少数の書き手さんが いるんだけど、

当エントリーは、そのなかで、「みわよしこ」さんというかたの最近のコラムを読んで、思ったことを述べる。

このかたは、ご自身も当事者として関わりが深い、障碍者のための施策の問題とか、また、生活保護施策の問題についての記事を、よく お書きになってるのね。

 

読むたびに、なるほどねと思うことの多い、みわさんの問題提起や検証なのだけれど、少々、難を指摘させてもらうと、

これも「優等生気質」の一端だろうけど、みわさんってかたには、どうも、ちと、権威主義的な傾向を感じさせられるところが ある。それに関係してくるような、ちょっと首を傾げてしまったことを少し。

 

今回は、読んで、まず、生活保護を利用(←私も、このコトバを使うことに賛成して、これからは そうすることにする)している人たちの多くが、
たとえば、惣菜の類を買って済ませるから、よけいに食費が かかってしまうのではという問題の指摘について、みわさんの分析によれば、このことは、学歴に関係しているということを述べられていた。

その、学歴に関係していることの根底には、結局、生育環境の問題が あるということも言及しておられ、まあ、もっともなことなんだろうなあとは思った。

 

しかし、ちと、分析が大雑把すぎるというか、本当に学歴が原因していると言っていいのか?という疑問も持った。

もちろん、学歴と生育環境に、密接な関連性が あるのは確かだろう。

 

だが、私の周囲や、また、私自身の体験から述べると、

学歴が低かろうが、日常生活のなかで、妥当な食事づくりに熱心に取り組むことを当然の習慣としている人は、珍しくも何ともない。

日々の食事づくりを前向きに やろうとしないというか、できない人の心理状態を、みわさんは、あまり分かってないんじゃないか?と思えた。

 

だいたい、生活保護利用者の内訳としては、疾病や障碍が理由になっている場合が大半と思しいし、
その疾病や障碍のなかでも、精神方面の問題を抱えている人が ことに多いことは、かねがね聞いている。

 

みわさん御自身は、日常の食生活に工夫を凝らしておられるようすなのを、私もチラッと覗かせていただいたこともある。けれど、
彼女も また、精神疾患を抱えておられるそうだし、ご自身が、その症状の出ていたとき、どのような状態だったか、
はたして、まともに料理を行えるような状態だったのか、
私は、身内のなかに、やはり、おそらくは、みわさんと同じ種類のものであろうと察している精神疾患を発病した者が いたので、その者の状態を見ていたから、疑問を感じたわけ。

 

もちろん、生育環境が、あとあとまで尾を引いているということは、これは、みわさんも指摘しておられるとおりで、

結局、
その劣悪だった生育環境のなかで、人は、何を もぎ取られてしまっているのであろうか、ということが最大の注目点であり、
分析の足掛かりと すべきところだと思う。

 

およそ料理・調理に割く労力というものは、最も前向きな「生きる意欲」の現れだと思う。ついで、食べること。

しかしながら、食べるという行為には、逃避の心理も含まれ得る。

 

生活保護の利用開始を余儀なくされるに至った場合の理由として、
うつ状態に陥っているということが伴っている割合は、とても高いのでは なかろうか。

 

そもそも、幼い頃から劣悪な家庭環境のなかで、本来ならば、ごく自然に培われるべきはずの、前向きな生きる意欲、あるいは、「自己肯定感」というものを削がれてしまっている、

それと連動して、進学・学歴のことも勿論、あらゆる条件において、社会生活を営むうえで、非常に不利な立場になってしまっている、こういう人が、どうして、自分を養う食事に関して、前向きな思考と労力を費やす気になれようか。

しかも、劣悪な生活環境は、生育家庭から引き続いている場合も多かろう。

 

料理だけではない。洗濯、掃除、入浴、すべてに影響は及んでくる。

行きつくところは、いわゆる「セルフ ネグレクト」。

 

なので、学歴自体とは あまり関係ないんじゃないの?と思う。

 

だいたい、プロの料理人に就いている人だって、ほとんどは、高学歴じゃないみたいだしね。

 

それと、

みわさんが、おりに触れて紹介しておられる、生活保護に関する、ナントカ「部会」ってやつ?

私も、何度か、このことについて述べておられる記事も読ませてもらってたけど、読むたびに、

「こんなん、、、それこそ、税金使ってまで召集するだけの価値あるんか?もう、いっそのこと やめたら~?」

と感じるのが正直なところ。

だってねぇ、

みわさんは、いつも、せいいっぱいに、この「部会」とやらに召集されてるという、おえらい先生・識者がたの見識等を、尊敬心たっぷりに紹介しておられるけども、

そのへんの無知なシロートに過ぎない私個人が読んで感じた印象は、
さしづめ、

自民党の「金魚のフン」とも「下駄の雪」「腰巾着」とも評されてる、公明党みたいな感じなのだよw

 

要するに、最初は、いちおう、殊勝なことを言ってるようでも、最終的には、自民党の ほぼ言いなり。

くだんのナンチャラ「部会」は、それと どれほど違うのよ?って感じなのw

 

 

あとね、

みわさんは、周囲の人から相談事というか、おそらくは、精神疾患を抱えている人の繰り言みたいな話を聞かされることが、やっぱり多いのかなということも感じたけど、

そういう話を、「当たり障りなく かわしつつも、エネルギーを削ぎ取られるような気持ち」になってしまう、ということを書いておられた、
これって、どういうことなのかなあと思った。

 

もっとも、相手は、ただ、みわさんに、グチを聞いてもらいたいだけなのかもしれないけど、みわさんがイラッとくるのは、他にやるべきことが多くて、忙しいからというのが最大の理由なんだろうなと察する。

 

でも、みわさんは、

ここでキッツイ言いかたを敢えて させてもらうが、

言わば、生活保護と、その利用者をネタにして、お仕事され、報酬も得られてるわけでしょ。

だったら、周囲の、その類の立場にいる人たちからの話を、蔑ろにしていていいのかな?と。

 

くだらないことを話しかけてくるなと思うのだったら、私なら、ハッキリと、そういう話はムダなんだよと、論理的に言って聞かす。
そんなことで、ヘンに被害意識を自分が持ってしまうくらいならね。

 

公の場では、いわゆる社会的弱者に対する大いに理解のある論を繰り広げていても、実際に、自分の身近の人の直接的な話しかけを、鬱陶しいと思う人なのだとすれば、

私は自分自身、ボランティアだ福祉だと日々活動してる人たちの欺瞞や劣等意識の補償みたいな屈折心理を潜めてる手合いも少なからず見てきてるからね、ちょっとヤだなと感じた。

 

相手が忙しいことを分かっていて、無神経にグダ話を聞かせてくる自己中タイプの人って、これも、私も たびたび見てきたし、
また、当の自分自身も、相手から、苦情を言われたことも あったけど、

私は、相手が迷惑がってることを、自分で気づけなかったことが分かった時点で即、やめるけどね。

 

逆に、自分自身が、相手に時間を奪われて困るときは、相手が納得するように説明を心がけ、やめてもらう。

また そのうちに、じっくり聞く時間を確保するからね、とか言い添えて。

自己中心な人ほど、なおざりな態度や鬱陶しがられてると感じると、よけいに、しがみつくみたいに続けたがるでしょ。

 

自分が損させられてるという被害意識めいた感情を持ってるのに、何も言えないまま、怒りを溜め込むのは、よくないことだと思う。そんなのは、それこそ、自分が悪いと思う。

 

先般、生活保護に関する『ホットライン』という電話ボランティアを務められたそうなのだが、そのときは、一人じゃなく、同じ作業に取り組んでいる仲間たちが そばにいるということで、気持ちがイラつかないで済んだのだろうと気づいた、といったことも おっしゃってたけど、

それは、たぶん、

いまは、この作業を やる時間、と区切って集中することの割り切り感も あったからなんじゃないかな、と思った。

 

 

ま、基本的に、みわさんも、私が応援する気持ちでいる人たちの一人には違いないが、今回は、いままでに、ん~?と感じていたこととも併せて、指摘させてもらったしだいです。

 

 

最後に、私個人的にも、以前から不審を感じていたことに、
いわゆる補助金ビジネスであるとか、業者との癒着とか、
はては、障碍者搾取に等しい現実とかいった、
ぶっちゃけ、これこそが税金むだ遣いじゃないの?
と疑問を持っている福祉サービスの問題が あるんだけれど、

このことについて、識者や専門家筋の人たちには、もっともっと取りあげてもらいたいものと思っている。

 

 

Updated   
2018.01.27 (Sat)

【続】へどが出るほどの俗物の続き。

 

私は「外野」でもなければ、「キレイごと」言ってるんでもないよ。

いたって現実的な話を しているつもり。

 

そりゃあ、具体的なプランを提案し、政治レベルの施策に向けていくこととなると、やはり、世のなかの研究者・識者の情報力や政治家の力量に頼むしかない個人としての現実生活の限界は認めざるをえないけどね。

それでも、私なりに、何もアイデア一つ ないわけでは ない。

 

むしろ、政治家や、お役人らの分かってなさ、基本や本質に対する暗愚さには、ほとほと呆れることが増えた。

いやいや、もしかしたら、連中とて分かっていて敢えて、国民の不利益や悪事を はたらくこそ、腹黒い政治屋たる面目なんだろうなと見受けるがね。

 

 

さて、
私自身も、幼児期から、親にすら理解してもらえなかった障碍を抱えてるし、

自分たちのミエと保身を最優先するためには、私という娘を利用し、犠牲にし、

劣悪な家庭環境を与えた娘である私の幸せ、私の人生や生活を、有形無形にジャマし続けてきた親ら、

結局、その本人自身、異常な脳みそを持っていた親ら(親戚も含めて)の めんどう・介護を、一人で引き受ける経験も してきた。

 

そんな私から、もう少々付け加えておこう。

いわく、自分は「当事者」だから、キレイごとを言う者よりは、植松の考えのほうが理解できるとかなんとか言い募ってる者たちへ、だ。

 

要するに、おまえさんたちは、

現状の社会が こうだから、ああだから、

それが原因で、

だから、植松の考えには共感できるんだと?

 

 

じゃあ、なぜ、おまえさんたちは、

つまるところが、現状の不備を克服できていない社会に対する不満と、

自分自身の生活状態を嘆息するあまりが、

それが、

なぜ、植松の考えへの共感に向かってしまうのか?

 

その甚だしい本末転倒に気づけっての。

だから、知性が「植松レベル」なんだと言うの。

 

 

告白するならば、ローティーンの頃から何度か自殺を図ったし、

いつか、父親を殺める日が来るかもしれないと思ったことも あったし、

その後も続く、不本意で、すさんだ生活のなかで、無差別殺人を犯す者の心情が理解できるような気さえ した時期もあったよ、この私にも。

弱った からだを引きずるようにしながら、ブツブツ独り言を呟きつつ歩いていて、通行人の怯えた目に気づいたり、

車両がブンブン通って行く道路に、無意識のうちに、自転車ごと突っ込もうとしていることに、間一髪でハッと気づいたことも あった。

言わば、私だって「サバイバー」なんだ。

もうトシも くっちゃって、かなりヘトヘトになってしまったけど。

 

私は、おそらく、少なくとも植松に比べたら、こやつには想像も できないであろうほど、もっともっと厳しい過去を生きてきたけど、

それでも、こんな下劣きわまる考えかたに共感するところまでは落ちてない。

それを、せめてもの幸いだっだと思う。

自分自身のみならず、親や身内連中にとっても。

 

 

これも以前から何度か言ってきたことだけど、

社会を成り立たしめているのが、僅かな特権層や富裕層の お陰なんぞで あるはずがなく、全く、その逆なのだということを、いまだに理解できず、アベコベな主張を飽きもせず繰り返している愚かもんが居るけれど、これが大概、「ネトウヨ」とか自民党・安倍シンパの お唱えだ。

 

おのれの主張が、まさしく妥当か否か、それこそ、無法地帯の野生世界へ赴いて、実験してみたら いい。
あほでもバカでも、イッパツで思い知るこった。

 

 

植松の考えに対する理解や共感を宣言してみせるなんて、とことん有害でしかないこと。

そんなことより、
もっと喫緊で重大で、意義も意味もあることじゃないかね?社会の未熟さや不備や問題を指摘することは。

 

 

だが、おまえさんたちは、

主権者国民から集めた税金を、当の国民の福祉向上のため用いることにはブーブーブーブー文句を つけ続け、

政治屋や役人どもが、「オトモダチ」優遇のために注ぎ込むことには黙るどころか、

汚職・癒着の権化の如き自民党・戦後最悪に酷薄な安倍政治に憤りを持つ者を敵視するあまり、

「他人のせいにするなー、環境や社会のせいにするなー、政治のせいにするなー」

という、

それこそ欺瞞のカタマリみたいな主張には押し黙る。

 

そりゃま、安倍政権にとっては、また、宗主国アメリカにとっても、しごく つごうの良い、理想的国民たちだろうさ()

 

 

Updated   
2018.01.27 (Sat)

へどが出るほどの「俗物」の続き。

 

さてと。

「人を殺して、なぜ悪いか」

という、「哲学上の」?愚問が あるらしい。

 

「命」というものを、全き平等の まなざしで見ることが できるとしたら、
それは、言わば「神の視線」とでも言うしかないのだろう。

 

だが、

ささやかな、脆弱な一個の命として、この世に生まれ出た誰しもが、
自分の命は大切で、惜しいものであろう。たとえ自殺しようとする者でも、例外では ない。

 

人間以外の生物でも、このことは、ほぼ共通しているだろう。

すなわち、まさに「普遍」である。

 

それだからこそ、突出して知的に発達してきた人類は、「法」というものを萌芽させ、以後、営々と構築してきた。

 

「食うか食われるかの野生」のままで良いのなら、法なんぞ無要だ。

産み落とされた あかんぼうが、無事に育つこともない。

 

そして、

「あすは わが身」

それ以上に、

もともとが、われわれ皆、保護を必要とする あかんぼうから出発した。

 

 

ところで、

最近の当ブログで述べておいたとおり、

まさに、「肉体」という物質あるからこそ、「心」の動きも生じるのである。

最も人間の生活に近しい動物たちの ようすを観察していても、このことは、容易に察せられることだ。

 

人間以外の動物とでも、ある程度なりに「意思の疎通」は可能であることは、多くの人が知っているが、

もちろん、人間社会から遠い野性になるほど、困難度は高いのだろう。

 

で?

意思の疎通とやらが できる動物なら、どうなんだ?

それが難しい野生動物でも、こんにち、人類は、絶滅を防ぐべく、保護を始めているけどね。

 

 

さて、この「生命」というものを めぐってこそ、
大切であるとか、自分にとって大事と感じる者を含めて、これをば最優先で保護・温存したい、あるいは、逆に、自分の生活を脅かすほどの負担を齎すほどになってくると、できるかぎり、これを遠ざけ、排除したい、といった「選別」が起きてくる。心にも、実際の行動にも。

 

それは、本能的なことであるから、しかたのないこと。人間の解消しきれぬ限界である。

それを責める資格ある者が、どこに いるというのか。

 

もし、責められるべき対象の存在が あるとしたら、それこそ、この「摂理を造った者」を措いて他には なかろう。

 

 

産み落とした当の親ですら、わが子を遠ざけ、排除、抹殺、そうした情況になりかねないのは、第一には、疲弊が降り積もっていくからだろう。

私も、知的障碍者と思しき、十代後半くらいの、大柄な男子を伴った母親らしき人の、疲れ果てて暗い顔つきを、街なかで目撃したことも、一度ならず ある。

 

ならばこそ、この面における社会的なシステムの構築と改善に努めるのが、人間社会ならでは、人類ならではの理念と目標的責務なのである。要は、結局のところ、自分たち一人ひとりのためだ。

そこには気づかずして、

イッキに、他人を「モノ扱い」して良し、虐殺して良しと、
「行動する」ナンチャラよろしく、犯行に及ぶとは、何さまなのか。
なんたる愚物か。

 

 

福祉だボランティアだと精出す人のなかにも、つまるところは、劣等感に裏打ちされた不安ゆえの自己承認欲求に突き動かされて、という自覚が ない場合も ままある。

 

くだらぬヘリクツを振りかざす前に、

一職員としてすら全うできかね、あげく、
稚拙にして単純な排除のヘリクツにしか思い至らないような非力な愚か者は、自分の器を自覚して、その分にあった仕事と生活を選べば いいだけのことだった。

 

けっして、恵まれぬ身の上でもなかったどころか、むしろ、恵まれていたはずの ご身分だったじゃないか。苦労知らずの分際で。

 

 

ところで、こないだは、このところの大寒波の話題に絡み、

おのれは、どれほど有意義な仕事を やってるからというので、

「ぐうたらしている生活保護受給者に比べ、ホームレスは偉い」

てな放言して恥じない、

日常、「タクシーを乗り回している」のが唯一自慢、らしき投稿者を、
またぞろ「ヤフゴ民」のなかに見かけたので、

「ホームレスの人たちも、生活保護の手続きが必要でありこそすれ、
何らかの持病や障碍を持っている人が大半の生活保護受給者を非難する投稿は、ヤフー運営も、社会的責任を もう少し自覚し、注意してもらいたい」

との旨で通報しておいたんだけどね。

 

まったくもって、ワープア問題をますます根深いものに陥れる自民党・安倍政権のシンパそのものだ。

何のリッパな仕事が つとまってるってんだよ、こんな軽薄短小きわまるオツムで。

これこそ「偽善」そのものなコメントだろうが。馬鹿者が。

 

 

それにしても、

当時の「衆院議長」というのは誰だったっけ、手を拱いていたのだろうか。いまだに、このことにも不審が消えないでいる。

 

 

ま、障碍というものは、どの場合でも、重度よりは、中度・軽度のほうが、むしろ、最も苦労する。親とかじゃなく、本人の苦労が。

どうしても自力だけ、サポート無しで世渡りを余儀なくされがちという意味で。

一般的な人より、何かと不利なのは確かだし。

少しでも おかしいことが あったら、気を張って用心しておかないと、
うかうかしてたら、簡単に つけ込まれるからね、実の親にすらも、だ。

 

 

重度障碍であれば、そりゃあ、しんどいのは、本人は もとより、
家族も必然的に背負わざるを得ないことが大きいわけだが、

私の周囲では、特に精神面での中途半端な病者が一人ならず いたんだけど、
こういう場合、一見は、まともと言う以上に、
むしろ、頭の回転がヘンに速かったり、
口が達者と言うか、よく聞いていたら、ものすごく浅はかで、筋の通らんヘリクツを捲し立ててるだけだと気づくんだけども、

とにかく、根拠が あるのかないのか、異様なほどの勢いで押しまくるから(これ自体が異常者の特徴ですよ)

たいていの場合、周囲は、そんな者を見過ごしてやってしまったり、

それどころか、利発なとか賢い人とか思わされてしまうみたいなのね。
なまじっか、ガッコの勉強は得意だったりするし。

私自身、このテのタイプだった母親だけは、なかなか、疑う気になれなかったんだけど、

死んでしまってから、
実は、脳みそに異常が あったことが発覚していたと聞かされて、
あっ!やっぱり そうだったのか!!と得心いったもんだ。

 

 

植松も、そのへんを、よく調べるといい。

これの描いたイラストも、上手いという以上に、真似の上手さ、

それ以上に、なんとも言い難い、吐き気を催させるような いやなものを感じさせるし(佐世保の同級生殺人事件の女子高生の描いたものと似た感じを受ける)

なまじっか、ガッコの勉強なんかは頑張ったらしいが(←尚更、挫折感)、それも含め、

やけに礼儀正しい ふるまいというのも、それらが、畢竟、こやつにとって「味方を得る」方法の一端であり、
しかも、形式的な範疇のことだからだろう。

ハンパな思考力の脳みそが得意とし、依存しがちなことだ。

 

 

Updated   
2018.01.27 (Sat)

さしづめ、この植松などは筆頭モノだ。

こうした犯罪が起きると、正直言って、私でも、死刑制度の廃止に、少なからぬ躊躇いを覚えてしまう。

 

植松被告、差別むき出し今も 相模原殺傷1年半1/26() 6:30配信

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180126-00023477-kana-l14

 

むろん、この者自身、

ふだんから私が言うところの「極端」性というものを、内部的、すなわち、ある意味で知的な面での障害とさえ呼んで しかるべきでないのかという疑いは濃厚である。

 

一言で言って、植松の如きは、思い込みの激しい俗物の極みなのである。

 

その俗物根性の裏側にあるのは、俗物ならではの価値観に毒された劣等意識だ。

 

その「モノサシ」たるや、自分で つくりあげたものでもない。

 

単に、俗世間の地下を流れ続けている伏流のような濁り汚水のなかから、これが恰好と拾いあげ、もって、日々、これに磨きを かけ続けて、
ついには、自分自身と、その人生のみならず、他者の生活、社会の安寧を汚染しただけに終わっている。

この愚かさ、醜悪さときたら!

 

ほんとに、こんな者が、かつては、よりによって、教職を目指していたとは、恐ろしいなんてもんじゃないよ。ど厚かましい。

 

いずれにせよ、自分自身が、こんな犯罪を やらかす者でなかったことを幸いに思うしか ない。

 

 

だいいち、この愚物の名付けた「心失者」とは、誰を指して言うのか。

「意思の疎通」が できないとは。

いずれも、当人自身にこそ指摘さるべき、まさに「自己投影」から発しているものだろうに。

 

 

あの凶悪事件のなかで、辛うじて一命を とりとめた被害者の一人が、彼の御両親と共に、何度か、テレビ画面に出ておられるのを見たとき、

少なくとも私の眼には、その被害者の表情、全体の ようすから、無言でありながら、どれほどの恐怖と辛さを味わったかが、ひしひしと伝わってきたし、

しばらく日数が経って、再びテレビ画面に登場されたときには、いわゆる「日にち薬」というやつなのか、事件から間もないときに比べると格段に、穏やかな表情を取り戻されつつあるのが見てとれた。

ふだん、身近な者たちから、「おまえはニブい!!察しが悪い!」と怒られることが少なくなかった私ですら、だ。

 

ましてや、かつては施設職員として日常を接していたという植松は、入所者たちの何を、どこを見て勤めていたのか。

 

 

ちなみに、

こういう投稿も あった。

 

 

…それは違うと思うぞ。

そんなもん、逆恨み以外の何ものでもないわ。

 

このコメントの内容が事実なのかどうか、テレビも見てないし、私は知らない。

だが、

担当してる入所者が浴室で溺れかけてたって?

植松は、当時、職員だったんでしょ?

むしろ、植松のほうから謝らなきゃならなかったかもしれんじゃないか。

親さん側から責められたってフシギは ないよ。なぜ、目を離してたのか?と。

親や家族から、とくには何も言われなかったのは、むしろ、職員に遠慮して、何も言えなかったんとちゃうか?よくある話。

 

 

ここで、何度目になるのか、あらためて言っておくけど。

重度だろうが何だろうが、病者や障碍者は、「世のなかに何ら貢献せず」とか、それどころか「お荷物になってるだけ」という見解は、はなはだ料簡違いだよ。

むしろ、まず、医学・医療の発展に寄与している、

その寄与は、いずれ、いまは無関係と思えてる一人ひとりの将来的に、メリットになり得るものであることを理解できてない人が多過ぎ。

 

それなのに、植松の考えかたは理解できる、だなんて、、、

なさけないったら ありゃしない。ほんものの低知性だ。自覚しろよ。

ムリか。低知性なんだもの。

 

しょせん、政治のレベルが、国民・民衆のレベルに見合う如く、
自分と似た者のレベルしか、理解できないんだものな。

 

 

「昔は、産婆さんがコッソリ締めて」とかいう話も、それだけ、生存条件が厳しかったからだ。

生活全般も厳しく、
なかんづく医学なんてものは、現代ほどには、とうてい、発展してや しなかったでしょ。

 

 

では、次のエントリーにて、

植松の言い募る「偽善」という批判について、答えてやろう。