2019.09.09 (Mon)
『母親は、子を庇うものというのは「神話」。』の続き。
私の場合なのだが、
生まれて最初の2年近くまでは、どういうわけか、両親の記憶が薄く、
と言っても、世のなか殆どの人々は、そんな年齢ではアタリマエじゃないかと言うだろうけれど、
私は、かなり、「普通の あかんぼう」では なかった(笑)。
酸素も栄養も供給を絶たれてしまっていた母胎のなかで死にかけていて、
母胎から出ても、放っておけば、そのままキゲン良く?死んでいけた、
はずなのに、無理やり蘇生させられ、大変な難産となったけれど、
生後1週間で「初潮=生理」を迎えたり、
(と言っても、正確には、あくまでも母体のホルモン由来の影響。なので、通常で言うところの「生理」とは異なる。
もちろん、そうであるに違いない。「普通の生理」だったら、それこそ驚異だわ 笑)
生後6ヵ月になったとたん、
「ハイハイ」すらもスッ飛ばし、いきなりスタスタ歩き始めた。
「ものごとには順序というものが ある」はずなのだが、
そういった、「普通でない」現象が幾つも あった あかんぼう時代と乳児時代を過ごした街。――
――その街は、ある有名な歌手の生家が あったことでも知られているが、昔から、大企業の経営者や重役などの住まいが建ち並ぶ屋敷町である。
それでいて、
ゆるやかな坂を一つ下って行けば、そこは もう、歴然と「下町」になるという特徴的な地域性も あってか、あの当時は、いまのような高級住宅街然とした、いかにも取り澄ました雰囲気では なく、小高い丘の上の その小さな街は、どんなに重厚な屋敷の主人でも、門前の立派な植栽を踏み倒して暴れ回る子どもたちを叱りつける者とて なく、
いたって大らかな気風の、昔の大阪らしい屋敷街だった。
生後半年の足でヨチヨチと踏みしめた道に出れば、
近隣の、優しかった おじさんや おばさんたち、
毎日いっしょに遊んでくれた おにいちゃんや おねえちゃんたちの姿や声が いっせいに迎えてくれた日々は、何十年経とうが鮮明だ。
こんなふうに、育った街の思い出を、いまどきの子どもたちは持つことが できているだろうか。
個人的に、『目黒』も『千葉』も、いちおう訪れたことが あるけれど、
5歳の女児の事件が起きたアパートを、ニュースの添付画像で初めて見たとき、「目黒にも、こんなアパート残ってるんだなあ」と思った。
あの子たちにも、
優しい人たちの温かい手や声が迎えてくれる街を、
とても短かった その人生のなかで、ふと思い出すことは あっただろうか。
帰りたい ふるさとの街が あったろうにと思う。
…
そういうわけで、私には、少なくとも生後6ヵ月前後からの鮮明な記憶が残っている。
その記憶のなかには、当時の周囲の風景や人々の光景のみでなく、
幼かった自分自身が、あのとき、そのとき、何を感じ、何を考えたかもハッキリと残り、憶えているのである。ほんとうのことだ。
なので、
生後いくらも経たないんだから何も分かりは しめぇ、と、おとながタカを括っていたら、目の前の あかんぼや乳児に、ひそかに呆れられていた、なんてことにも なりかねませんよ。ご用心なされ(笑)
そんな私なのに、肝心の両親の記憶が、ほとんど、ない。
このことも、過去エントリーで綴ったけど、
母親については辛うじて、断片的な記憶が残ってる。
もっとも、
何が理由でか、ホウキで追い回されて、怖い思いを した記憶だけだが(苦笑)
ところが、父親の記憶に至っては、全くのゼロ。
母親に聞いた話では、当時、完全な同居には至っていなかったものの、帰ってくれば、私を おふろに入れたり、何かと こまめに せわを してくれていたそうなのだが、
このスバラシイw記憶力の持ち主だった幼い私のアタマのなかで、親父に関する記憶だけが、トンと皆無なのである。
たぶん、その当時から、幼いなりに、
「この者は、とるに足りぬ存在」
と見做していたのかもw
哀れなオヤジ。。。w
両親以外の、優しい人々の記憶のみに彩られた、生まれた街を出て、
2歳になるやならぬ私は、母親に連れられ、
親父と、親父の先妻との子ら(義姉や義兄)が待ち構える家での暮らしが始まり、
それは、「地獄図絵」の時代の開始でも あった。
それから数年後の幼稚園入園、
つづいて小学校入学の時期に撮った写真を見ると、
いま、このトシになって思う。
「私も、この頃になると、なんだか哀しそうな、どこか暗い表情を していたんだなあ」と。
ずっと、そのことから、目を逸らしていたんだと思う。
ただ、
私は、自分が知らない世界や時代の話には興味を持つほうなので、
元気だった頃の母親の話は勿論のこと、ほとんどは母親の恨みとグチの処理場みたいな役割を引き受けていたが、
鬱陶しいこと この上も下もない親父と言えど、
その子ども時代の、辛い生育環境や出来事や時代、世間の風潮などを思い出しては、問わず語りにポツポツと語る話に、母親が亡くなったあとは特に、じっくりと耳を傾けた。
正直に言って、
終生、親父については、関心が あまり持てなかったけれど、という以上に、
あの凄まじい暴力に困り果て、離婚でも何でもイイから、とにかく、いなくなってくれんかいなと、幼い頃から成人後まで、ずっと願っていた。
自分自身が直接、本格的に殴られるのは、はっきりと憶えては いないが、たぶん、小学高学年か中学生頃からだったが、
大概は、母親を庇い、自分が身代わりになってのことだった。
それ以前の、もっと幼い頃は、「心理的虐待」と言うのかな、
たとえば、
何かで激昂したらしい親父が、私の母親の襟首を掴み、その両眼を、箸で突き刺そうとしていた光景。
幼稚園に入る前くらいの年齢の私が目撃して以来、このトシになっても忘れることは できなかった。
おぞましく忌まわしい場面が部分拡大された如く、眼の記憶に焼き付いたまま、トラウマみたくなってる。
当の親らには尚更のこと、誰にも言わずに、きょうまで来たけど。
だから、自分が殴られるほうがマシだった。
うちは、親子の関係が逆転してるみたいなところが あったと、以前にも述べたが、
『千葉』の事件の小学生にも、そんなところが あったんじゃないかな、という印象を持っている。
…
さて、虐待事件の被害児たちの父親ら。
このテの父親らの、子に対する要求は、異常に細かく厳しく過酷なものだったようで、
毎日、必要とされるべき栄養摂取・食事すらも妨げておきながら、
早朝の起床後、まずは「くるしくなるまで、うんどうする」目標を、幼い子に課すとは、
フザケんなー!!と、
もし、目の前に居たら、あかの他人の私でも、思わず怒鳴りつけたくなるほどのデタラメな親だ。
ところで、先日、たまたま、とある大学の教授だか助教だかいう専門筋の女性のインタビュー記事をチラッと目にした。去年の掲載記事だったようだ。
その専門家は、あのような虐待のケースには、パターンというべきものが ある、ということを言っていて、まあ普通の親でも、言い聞かせておいたことを、子どもが何度か破ると、大概の親はキレてしまうものなのだから、仮に2度目なり3度目あたりでブチ切れてしまうのであれば、「限界の回数」にまでは至らないようにすれば、親がキレて虐待に及ぶことを防げるはずとかナントカいうようなことを言っていたと思う。
まあ、分かりやすい図式の説明では あるが、しかし、
第一には、子に対する親の言いつけが、妥当なものであるように配慮されているという大前提ならば ともかく、
「そもそも、その子の年齢不相応などの無理が あるような要求を突きつけた親だった場合、親のほうにこそ根本的原因が あることになるので、無理難題を押しつけられた子ども側が、親のブチ切れに達する回数を慮って、その手前の回で留まれるような努力を せにゃならんというのは?」
と疑問が湧いたからなのか、
そのせいで、よく覚えられなかったのかもしれず、
くだんの専門家の主張が、このとおりの内容で あったかどうか曖昧となってしまって、すでに自信が なくなった。
それでも、
もし、私の記憶と解釈で概ね間違いないとしたなら、
やっぱり、そうとうヘンな意見になってしまう、と思うので、大学で教えているほどの専門家の発言だとは信じられなくなる。
ま、これは、読まなかったことにする。
【続く】
2019.09.09 (Mon)
かもしれないな。
だって、
次々に報じられる子どもの虐待事件を見てると、意外なほど多いみたいだもんね。
子を見殺しにした母親。自分で殺した子を捨てた母親。
もはや「経済大国」ならぬ「災害大国」となりつつある日本の名物は、
自殺に加えて、虐待なのか?
極端な諂いと極端な見縊りのあいだを慌ただしく揺れ動き、
思いあがった気勢を誇示してみせても、しょせん、似合わない。
正直な一般国民・庶民は、なにを隠そうとばかり、ほれ、デモや集会する元気さえも ないじゃないかw
動画で、アカゲ猿たちの社会を観察していたら、
大概は、食べ物の確保という生存競争または子どもを守るため、ガタイも牙も大きいボス猿を相手に立ち向かっていくことを辞さない母猿、
しかも、片手やら片目などを失った身障の、高齢の雌猿である、
そのアッパレなほどの激しい気迫を見ていると、
人間の、日本という名の国の雌が、いちばんダメになっている気が してくる、と言ったけど。。。
(ほんとに、ついでの話。最近、『蒙古斑』について、虐待だという誤解を注意する記事が幾つか出されているが、私は、これらを読んでないんだけど、『蒙古斑』に とても よく似た痣みたいなのは、アカゲ猿の子どもにも多いみたいよ。)
さて、例の『目黒』で5歳の女児と『千葉』の小学生女児のケースは、時々ごっちゃになってコメントしてる「ヤフゴミん」を見かけるが、
それも しかたないか、と言えそうなくらいに、共通点が多いケースでは ある。
特に、唖然としてしまうのは、
子にとって継父だろうが実父だろうが、
母親のほうは、その亭主の言いなりになってしまってたこと。
専門家筋などは、なにしろ「洗脳」状態だったのだから、という特異なる困難さを主張するんだけれど、
おりしも、台風の襲来に向けて、「まだ だいじょうぶ」は禁物、ということを指摘されているようだが、これと共通した面が ありそうだ。
人間って、「自分だけは、だいじょうぶ」という、全く根拠に乏しい自信を持ってる人のほうが圧倒的に多いだろうしね。子どもを産むなんてことは、その最たるものでしょ。
まあ、たしかに、
以前の当ブログ エントリーで、それを考慮してみても なお残るモヤモヤは ありつつも、「異常性格」と呼ぶべきほどの者が圧倒的に力を持っていて、その手中に囚われたような日常生活が続くなかでは、怯えばかりが肥大していき、その分、だんだんに、理性や妥当な思考力がマヒしていくのだろう。
『目黒』のケースでは、幼い子の手になる必死の言葉が綴られたノートの存在が、いやがうえにも痛ましさを募らせずには置かないのだが、
こうした哀れを誘う言葉の多くは、母親自身が、こっそりと指示して、子に書かせていたものだという。
おそらくは、
このような手段を とらせることで、少しでも、亭主の気分を宥め、子への暴行を減少させることが できれば、と必死に考えての迎合だったのだろう。
しかしながら、
そういう状況下に置かれたら、誰しもが、そのような心理状態に陥るものなのだろうかという疑問は拭いきれない。
ほとんどの人は、そう感じているように思う。
なぜなら、
特に、千葉の小学生女児のケースでは、やはり「父」という名の男から、執拗な虐待を受け続けていたのは、もっぱら、子である女児の方だったのであり、
犠牲となった女児は、心身への あらゆる暴力のなかに、基本的な栄養摂取すらも奪われるという虐待を受けつつも、幼いながら、持てる思考力と理性を振り絞って、外部へ働きかけていた。
にも かかわらず、
その間、ひたすらに委縮していた母親のほうはと言うと、
亭主に おもねる方法を選び、あげくは、
共に、わが子を痛めつける手伝いをも辞さず、そのようにして、最終的には、自分自身への暴力の直撃だけは免れていたということだった。
私が思うに、
これは、「洗脳」されていたゆえの特異状態なのだとする専門家の意見が確かに妥当であるならば、
そのような状態に陥ってしまい易いタイプというものが あるのでは なかろうかと。
それらの母親の言い訳めいた説明では、
最初のうちは、それなりの疑問も反発も湧き(←あたりまえ)、子への攻撃を制止しようと試みたりしていたが(←あったりまえ)、
同時に、
「自分のほうこそが大げさに受け取っているのでは ないか?」とか、
亭主は、母親である自分や子のために良かれと、敢えて厳しくしてくれているのだと思おうとしていた、
と言うのが共通している。
そうして、
ウカウカしているうちに、いつしか「フリーズ状態」になっていき、最後は、どうにも動けなくなっていたということらしいのだが。。。
だから、「フリーズ」状態になる前に、自分で動かないと いけない。
かつ、
当人が動けてるうちに、周囲も、適切な手を打たないとならない。
なんとか動いて、必死に訴えても、周囲がボヤボヤして、手を拱いていたら、当人も いよいよ無力感に陥り、あっさり諦めてしまうらしいから。
もちろん、執拗な説教に影響された面が大きいのだろう。
実は、こういう心理現象って、私自身も経験してきている。
一つは、もちろん、親から。
もう一つは、ネット上で、
例の「カルト連」から、連日のように、
やれ、私が「精神病」の何たらカンタラである!」「かく言う自分は、精神方面での研究者であり、専門家である!」
はては、「千里眼を持つ霊能者である」てな滑稽なゴタクまで繰り返して、
あの『汚気・愚(←OKウェイヴ/教えてgoo)』を始め、ネット上の あらゆる場所で つきまとわれ、そのたびに、あれこれの精神病名を決めつけられたのだけれど、
こやつらは、いったい、何かの団体なのか?
でなければ、幾つのアカウントを駆使しているのやら、ひょっとして『多重人格』というやつなんだろうか?という疑問まで湧いたのに加え、
(たしかに、自称「霊能者」に多い印象が あるし、昔は「狐憑き」と呼ばわれた存在でも ある。
実は、うちの母親が、この傾向を持っていることは自他ともに認めていて、いわゆる「霊的」な写真を撮ったことが切っ掛けで、ほんとうの「霊能者」を標榜していた人たちから、その方面の「修行」を、と、つよく勧められたことが あった。)
「グル」になってるのでは?と思えた、胡散臭い「第三者」「傍観者」までが、その「カルト連」側についた言動を、あからさまに とる者が少なくは なかったので、
あそこの運営に何度か苦情を申し入れつつも、だんだん、
「自分のほうが おかしいのか?あいつらの言う精神病名は当たっているのか?」
という気分になりかけたことすら あった。
正直言って、かなり落ち込んだ。
じつに怪しからんことであり、「ネット犯罪」に相当することだと思う。
だから「精神の犯罪者」というコトバを贈っておいたものだが、
あのサイトの経営者と運営には、猛省してもらわねばならないはずなのに、逆に、私のほうにペナルティを課す始末。
思い返すと、立腹も通り越して、侮蔑しか感じない。
「ヤフゴミ捨て場」にも、特にデマや「弱者」的マイノリティ叩きなど、同様の深刻な問題を見受けるが、
自分が主宰・運営しているサイトの管理やコントロールについて、社会的責任を負いきれないようなものを設けるべきでは ない。
さて、まだまだ、今後の取り調べや裁判の内容を待たねば ならない事件だが、
これまでに報じられている実父また継父の行状が明らかにされた内容を鑑みるに、やはり、『(自己愛性)人格障害』の特徴も濃厚であるように見受ける。
それは、
当人なりの「劣等感」や忸怩たる思いの積み重なった反面で肥大する、常軌を逸した「支配欲」を発揮したがる性向とともに、
この性向を満たす手段として、必ずのように着手するのが、
「分断と囲い込み」
という やりくちである。
「分断と囲い込み」。
これは、たとえば、悪辣な政治家あたりが、自分の権力を温存するためにも、よく用いられる手段であるのは、歴史上も、いま現在の わが国においても見受けられるところであるがw
社会の基底を成す個々の家庭内でも、
家族の構成員を、それぞれ心理的に分断し、
ある者は味方に つけて囲い込むことによって、ある者は集中的に排除する、
そういう状態へ誘導するための最も効果的な手段であり、
それが成功したら、最悪の場合、誰かしらの死という最悪の犠牲を出すまで、解放されることは ない。
【続く】
2019.08.31 (Sat)
『「家族が殺されても、ウソをついてはダメ」狂気の“正義”を哲学する』8/31(土) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190831-00213068-diamond-bus_all
日本では、「嘘も方便」って言うけどね(笑)
哲学において、「普遍」という観点は、とくに重要よね。
カントはねえ、そのうち読んでみるかとは思いつつ、いろいろ聞いてると、あのルソーと同じく、なんだか、読もうという気が、どんどん失せていって(苦笑)
~『「殺人鬼が、家族の居場所を尋ねてきたら?」哲学者カントの意外な答え』~
っていう、
このシリーズものらしき記事は、私は今回の記事コッキリしか読んでないんで、あくまでも、この記事だけについて述べるんだけど、ま、できるだけシンプルに。
とにかく嘘つかないのは「一定の正当性」と言うよりも、ごく狭い範囲での「正当性」だな。
まず、相手は「殺人鬼」であるということが明白で、かつ、自分のついた「嘘」が、その殺人鬼が殺人を行うことを助けるであろうのが明白なのであれば、当然、相手にも自分にも「正義」というものを認めることは できないわ。
そして、
いつの時代、どんな宗教とか、どれを「正義」と位置付ける立場に立っていようとも、基本的には、殺人というものは、けっして好もしくなかったであろうし、だからこそ、なんだかんだと大義名分を拵えておくんだし。戦争なんか、典型だわな。
ましてや、
何らの「正義」も認め得られない殺人となれば なおさら、阻止することが最優先でしょう。
嘘つくのが良いか悪いかよりも重大。
少なくとも こんにち、概ね普遍的な、望ましい考えと でき得るだろうのは、
なんぴとであれ、殺人を犯す、犯させることを防ぐこと。
~
「殺人鬼が賢くて裏を取るような質問をしてきたらどうするつもりだったのかな? もちろん、単純に沈黙するという回答もあるだろう。だが、これは思考実験だ。沈黙が許されず、はぐらかしが通じない相手という特殊な状況だった場合、キミはどんな回答をするのだろうか?」
~
とことん沈黙すれば いいがな、と思ったけど、
それは許されないという前提だそうなので、だったら、「知らない」と言い通せば いいじゃん。
「はぐらかし」って、どこぞのシュショーも、しょっちゅう とる手段だけどw
「通じない」「特殊な状況」も何も、その「殺人鬼」が賢かろうと、こちらの「知らない」一点張りの裏を、どうやって取るの?
結局、「知らない」と言い抜けば、それまででしょ。日本の国民が、よく知っとるわな(嗤)
まあ、「知らない」と言い張れば、それを理由に、自分自身が殺されてしまう、という状況設定なら、どうするのかなという疑問のほうが大きいわ、私には。
次は、
~
「トロッコ問題のようなケースについてはどうだろう? ようは、トロッコをそのままにして5人を見殺しにするか、それとも路線を切り替えて無関係のひとりを犠牲にするかという問題だ。キミならどう答えるかな?」
~
「トリアージ」とかいうよりも、単なる「数」の問題になりそうよね。。。
「数の問題なのか?」という疑問は、昨今、「死刑」についての問題にても、よく提起されることだけど、
現代では、「トロッコの5人」を助けるためならと、1人を犠牲にしていいという考えかたは、基本的には しないだろう。
そもそも、「トロッコ」に乗った経緯とか背景事情も問われそうだし。場合によっては、それこそ「自己責任!」って糾弾されそうw
まあ、そのトロッコの事故を未然に防ぐために、あるいは、乗っていた人たちの救護を尽くすほうを考えるだろうね。
【この くだりは、当該記事からは読み取れなかったので、「トロッコ」に乗っている、という状況を想定してのものです。あとで知ったには、どうやら、線路上で作業とか、縛りつけられているとか、バリエーションが あるらしい】
わりと昔の映画で『フェイル セーフ』というのを思い出したわ。
~
「自分にとって大切な人間を優先して助けようとする行為は私情だからです。私情は普遍的なものではなく、個人的なものです。そこに万人が目指すべき正義はありません。ですから、もし、一方しか助けられない状況に追い詰められたとしたら、私たちは率先して家族を見捨てて、他人を助けに行くべきであり、万人は、そういう義務を必ず背負うべきだと思うのです!」
~
いやいや、それこそが「私情」にとらわれてるじゃんw
なんか、『キリスト教』なのか?『儒教』でも そうなのかな?
個人的には興味が薄いから、よく知らんけど。
それにさ、
昔の、と言うか、わりと最近まで、日本でも、そういう考えかたが大いに まかり通ってたわね。
「自己犠牲」の精神ちゅうやつ。
ところが、その底にあったのは、やっぱり「私情」だったわけだけど。
と言うのは、
「国体が~」つってても、本音は、自分の大切な人たちを守るために、と悲壮な決意で突っ込んでいったと。
そうかと思えば、
不時着したアメリカ兵士を、うちの親を空襲で殺したー!!というんで、自分から率先して、数人まとめて直接、殺してしまった若者も いたってね。
家族や恋人や友人という存在が、自分にとって、どれだけ大切かというのは、実際は各人によって変わってくるかもしれないが(それこそ、家族を憎悪しているケースもあるでしょ)、
でも、やはり、基本的には、誰しもが、そういう存在は大切なものであろうという想像力や理解や思いやりも、古今東西、「普遍」的だろう。
しかし、
自分の家族の側に、何らかの罪悪が あって、そのために、誰かの恨みを買ってしまっていたというのでもなく、
ただ、「殺人鬼と分かっていても、ただ、嘘つかない(つきたくない)がために、居場所を教える」ような家族なんて、、、
「裏切者ぉー!!」
と、それこそ悲憤慷慨して恨みたくなるわよなあw
こんなゴチゴチの、融通が利かない、カントみたいな家族は厭だ!ww
2019.08.31 (Sat)
『日本報道検証機構が解散 「寄付金集まらず運営困難に」』
8/30(金) 19:03配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190830-00000057-asahi-soci
たしか、ここの代表理事さんは、『ヤフー個人』にも参加しておられるんじゃなかったっけ、もと『産経』出身だと知って、へえ~(?w)と思ったのを憶えてるけどw
(『ヤフー個人』と言えば、ここにも在日朝鮮人なのか韓国人か、記事を書きまくってる人たちが何人か いらっしゃるようだけど、ランキング リストに並んでる、その見出しを見ただけで、何を意図し、企んでるのやらと、読む気も起きない、悪いけどw「ヤフゴミ溜め」「ヤフゴミん」と似たものを感じるのよww
ちなみに、あの『産経新聞』社にも、韓国か朝鮮系の在日と分かる名の記者さんたちが何人もいるよwww)
さて、
「報道検証」とか「ファクト チェック」、こういうのって、いわゆる「ビジネス モデル」にすることが困難なのじゃなかろうか。
特に、政権との適切な距離を保つことが できているという外国のメディアのようには いかない、
命を賭すことも恐れないようなジャーナリストも いない、
まるで「サラリーマン記者」ばかりと堕してしまった、もともと、政権や権力筋との癒着度合が高いという日本ではねえ。
いっそのこと、権力だのカネ儲けだの既得権益だの、あらゆるシガラミや食っていく心配に縛られないで済む学生たちの組織にさせるのって、どうかしら。ほれ、あの『シールズ』の子たちとかも やってみたら?
いや、学生に限らなくてもいい、それこそ、「ニート」でも「ヒキコモリ」でも、全国から志ある者を募って。
まあ、ボランティアになるだろうけど、
次代を担う世代にとって、とても良い勉強になると思う。おのずと、政治や社会問題や国際的な視点について培えるし、視野が広がるし。
ただし、ノウハウなどを参考程度にするのは いいとしても、特定の組織の介入や干渉は断固として退けること。
次世代も また、いわゆる「茹で蛙」とか「レミング」状態のままじゃ、辛うじての見せかけだけでも保つことできなくなると思う、この国は。
2019.08.31 (Sat)
『トランプ氏の巨像、スロベニアに登場 村人から怒りの声も』
8/30(金) 23:58配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190830-00000050-jij_afp-int
~その表情は「平日はとてもフレンドリー、週末はとても怖い」ものに変化。大衆に迎合する政治家らの偽善を表現したという。
「第2次世界大戦(World War II)以後、初めてポピュリズムがはびこっている」「(英首相のボリス・)ジョンソン(Boris Johnson)氏やトランプ氏らを見てほしい。世界はどこへ向かっているんだ?」と嘆き、「民主主義が何たるかについて、皆を目覚めさせたい」
~
この記事では、地元の住民たちが、どういう理由で立腹してるのか分からないけど、いっそ『ハロウィーン』で燃しちゃうというのも、グッド タイミングというか、なかなかシャレてるじゃないの?と思えるw
作品の仕掛けに、おもしろい動きが あるそうで、テーマやコンセプトも、よく考えられているし、その作者であるSchleglさんは、とても良いこと おっしゃってるね。
例の『表現の不自由展』に参加していただいたらステキじゃないかしら(笑)
トランプさん、ジョンソンさん、アベシ、その他、世界じゅうの偽善に満ちた政治屋や権力者の、「フレンドリーから、とても怖い」表情へと変化する、カラクリ人形を集団で登場させるとかね。
ミニ サイズを、展示会の おみやげの玩具として売り出したら どう?w
あ、そうそう、「かかし」の夫人たちもセットにww
それぞれ片手を上げているという人形のトランプさん、かかしのメラニアさんのセットなんか、ちょうどイイじゃありませんかwww