2021.01.04 (Mon)
『年頭に当たって(笑)』の続き。
それにしても、「ヤフゴミ捨て場」には、『自民党』支持者が多いね。
で、株や投資を やってるという者も多い。
調査によると、年齢は40歳代を中心に、いわゆる「保守」というか「ネトウヨ」的考えかたの者が圧倒的に多いのだそうな。
「氷河期世代」と呼ばれている一員でありながら、
「(自民党と安倍・スガに限るw)政府を責めるな!」
「甘えるな!」
「自己責任だ!」
などと主張している者が いたら、
いや、どうやら大勢いるみたいなのだが、それこそ、噴飯ものだわな。
おまけに、
これも、『産経』系にての旧ブログの頃から言ってきた、
「『自民党』支持者や「保守」とかネトウヨ的な連中ってのは、意外と、親も裕福なほうで、むしろ、あまり苦労してない者が多いんじゃないですか?」
という見解を寄せた とたんに、
「ミギ」の連中からも「ヒダリ」の連中からも、寄ってたかってフルボッコにされたという経験をも、私は しているが、
あれから何年も経って、やっと、私が指摘したとおりだったことが明らかになっているらしいw
何につけても多いのよねえ、こういうことが。
うちの親や周囲の者らに対しても そうだったのだが、
「なぜ、こんなカンタンな、初歩的道理が分からんの?」と、
もしや、世のなかの人々って、こんな私よりもアホな者が多いのかい?と、
しまいには、なんだか不安になってくるのよ。
たしかに、要領だけは良かった親にも言われどおしだったとおり、要領は悪いと自認してるけどね、私自身(苦笑)
でも、
かんたんな、初歩的な道理が見えない、あるいは見失ってしまうのは、やっぱり、自分がトクするように、自分はイイほうに回れるように、ということばっかり考えてるから、そうなるのよ。
で、結果、
周囲を巻き込み、罪のない者から薙ぎ倒し、踏みつけ、
やがて世のなか全体を狂わせて、いつまでも尾を引かせる。
もともと単純なことを、むやみと複雑にしてしまう。
複雑にしてしまったら、引き返して、改善することも難しくなる。
さて、
「オトモダチの御用聞き」のみに徹したアベシは、べーらべらと、一頻り しゃべるタイプだ。
逆に、
スガはんは、いかにも田舎の人らしいというのか、基本的には、しゃべらないタイプみたい。
だが、
このアベスガともに全く共通しているのは、
とことん、要領を得ない、結局、答えない、
という姿勢。
この国民にして、この政府。
とは言っても、
何度も ことわっておいたけど、
私だけは、選んだ覚えも、支持した覚えも ないよ、昔から腐ってた『自民党』はね。
いまでは、自民党に貼り付くことで、なんちゃって与党をやめない『公明党』に加え、『維新』も、ぜったいに、支持しないし、投票しない。
問題は、うちの自治体なんかでも、「人材払底」なのだろうか、『自民党』か『維新の党』から選んで投票するしかない事態にまで陥るようになってしまってること。
これじゃ、せっかく、選挙に赴いても、投票の しようもないがな。
カレー味の●ンコの、辛口を選びます?甘口を選びます?ってなもんだ;
どっちみち、ウン●なんだよ。。。とほほ。。。
話題を変えて、
スーパーマーケットなどのサービスだったポリ袋を、消費者各自で用意する制度にしてから こっち、案の定、この不便さと矛盾性に不満の声が絶えることは ないようだが、
プラごみ削減を提唱するなら、たとえば、ティッシュペーパーの取り出し口に貼ってあるビニール。あれなんか、不要じゃないの?と、私は、これも、何年も前、旧ブログにて指摘している。
これが ないと、あきらかに、使用上の快適感が低下するのだろうか?と思いもしたが、
少ないながらも、なかには、最初から、取り出し口のビニールを付けていない製品も ある。その分、安価になっているようなので、購入して使ってみたら、とくに不便とは感じなかったけどなあ。
でも、近頃は見かけなくなった。
のちに目にした話では、ぶっちゃけ、業者の つごうだということだった。
ティッシュペーパーの取り出し口のビニールで稼いでるメーカーも あるんだよ!ってことだった。
あくまでも、業者を擁護するための意見だったみたいだが。
ティッシュペーパーそのもののサイズや枚数をドンドン縮めて、従来通りと見せかけた値段は実質値上げになってることのほうが、腹たつけどな、私は。
こんにちの「中国の脅威」とやらも、
ならば、
ここまで、めきめきと力を つけさせてきたのは、つまるところ、アキンドの意向だろ。
見よ、中国製を避けようと思っても、どこ見ても中国製ばっかりだw
国産品をと思ったところで、どうにもならんようになってるがな。
昔、商売人は、その豊かさ如何にかかわらず、本質的には、他より卑しい身分とするのが ふさわしいとされてきた。
タテマエとは言え、古人の「士・農・工・商」なる判断も、無理は ないかもと思えてくる。
現代においても相変わらずで、
まあ、要は、政治に たずさわる者が、カネに もの言わせて、自己つごうを計らんとする商売人と癒着するから、いろいろ大きな問題が起きてくるわけだが、
骨の髄から、儲けが飽くなき目的という性分、それも、まさに「今だけ、金だけ、自分だけぇ」そのものな本音を持つ、「政商」を含めた商売人というもの、これの言いなりになっていると、やがて、国の行く末を危うくさせるのは当然の成行きである。
およそ国民(くにたみ)のための政治は、単なる儲けから超越しておらなければ ならないのだ。
【続く】
2021.01.04 (Mon)
あー、いぃ~、うぅう~、ええー、まあ、
おめれとういや、おめでとうございやす
もとい、
あけましておめでとうございます。
おわり。(苦笑)
ところで、
そもそも高校生の頃から、ずう~っと痛めていた腰をば、一昨年頃、いちだんと激しく痛めてしまったところ、しばらく四苦八苦で難儀したあと、ようやっと、おさまっていたというのに、
旧年の暮れ、ちょっとした動作が切っ掛けで再び痛み始めてしまいやして、正月早々これかよ、、、と、つい、なさけない気分に陥っておりました。
痛いんですよお、ほんま。
学生時分から、冬場が特に痛むのは実感してたんだけど、
成人後は、通勤のときなんか、まさに痛勤だ。
満員電車で長時間の立ちっぱ、圧死するんちゃうか
というくらいの押し合いヘシ合いに、危険を感じるほどの、前後左右からの絶え間ない揺れを堪え、
やっとこさ、駅に着いてドドーッと吐き出されたら、くちゃくちゃになった服のシワを伸ばしたり、踏まれた靴の汚れを忌ま忌ましく思いつつ、今度は、長い階段を上がり下りして、
最後は、会社までの道を、てくてく歩き始めると、とたんに、ビッコひいてしまう。。。
それでも、大勢の人なかを歩いてるときは、危ないから、急ぎ足の人たちのジャマしないようにと、必死に痛みを堪えつつ歩き続けるんだけど、
歯痛と同じようなもんで、なんせ、神経を抉る痛みの一撃ですからね。あれが来た瞬間は、どうしてもフリーズしますわ。
それで、会社に到着したら、デスクの椅子に腰掛けて、やれやれ、、、と、冷や汗を拭くのも つかの間、けっこうな量の郵便物を、最上階から階下へ取りに行き、事務仕事の合間に、得意先や顧客、たまに来るテレビ局の取材時などに、自社の製品詰め合わせを大量に用意するため、広い倉庫内を駆けずり回ったりせねばならんかった。
プライベートでも、重たい買物や荷物など提げて、階段の上がり下りなんて、まじで怖いよ。下りるときが特に。
若い頃には、上がるのはシンドくても、階段を下りるのが恐いなんて、思ったこともなかったが。
あの頃、うちの親ら年配の者が言っていたことが、実感として理解できるようになってきた。トシだね(苦笑)
そもそも、親や叔母の介護のときにも、すごく痛めてきてる。
一人暮らしの叔母のときは、彼女が急遽手術のため入院した、その退院時までの短期間のうちに、何故か猛烈に増えていた大量の荷物を、付き添いの私一人で運んだ。
当の叔母は、同室で仲良くなった人に もらったらしい、小さな花束だけを持って、にっこり優雅に微笑み。
で、
「あたしが入院中、ちゃんと、お掃除してくれてたわよね?特に、おトイレをキレイにしてくれてるでしょうね」
と、うるさく念押ししてくる叔母の家に戻ったら、さっそく、翌日の朝から、叔母が凝ってた趣味の園芸の、大きく重たい鉢植えを幾つも、あっちや こっちへ移動させたり、室外から室内に運べとの命令。
言うに事欠いて、「居候」呼ばわりされながら、痛む腰を押さえつつ、
へとへとになって、大阪へ帰ってきた。
私は、自分が手術して退院後、こっちも一人暮らしなので、メスが入ったばかりの重苦しく痛む おなかを押さえながら、食料や日用品の買物に、恐る恐る行ったけどね。
母親のときは、冬眠前に喰いまくって肥え太った熊さながらの、あの体重だもの。
けっして、床擦れさせては ならぬと、マメに寝返りさせるたび、こっちの腰がアイテテテ
まあ、でも、
携帯カイロで温めながら、この時季でもあるし、睡眠時間をタップリとり、多少の痛みには耐えつつ、ストレッチを心がけたりしているうちに、ほんの少しだけマシになってきました。やれやれ。
私は、聴覚障碍と、この腰痛の持病が大きなネックで、接客業および、接客を含む業務一般と、軽作業と言えども作業労働系だけは、慎重に選ばざるを得なかった。これは、自分のためという以上に、周囲の同僚などに迷惑を かけないためだ。
実際、若い頃は、親の厳命で、障碍を隠して就職し、発覚したら、「迷惑だ」とハッキリ言われたり、叱られたりしたことが何度も あった。
それでも、
専門職に落ち着くまでの長い長い模索時代に、喫茶店アルバイト、営業なども含めた接客業から商品集配・配送などの肉体労働系まで、
ひととおりは体験してきてるんだけど。長くは続けられないわな。
障碍や持病のない、いわゆる「健常者」の数倍は、ストレスを伴っていると思うね、どうしても。
一昨年ごろだったかな、
以前に、近所のコンビニで買物したら、30歳代か40歳くらいの店員さんは新入りらしくて、どうやら、軽度の聴覚障碍者のようだった。
なんかモタついてるし、トンチンカンながらも、必死さが感じられ、終始、せいいっぱいの笑顔で応対してくれたので、私も身につまされる立場だし、
障碍を ものともせず、敢えて、この仕事にチャレンジしたのかな、なんとかガンバってほしいけど、でも、たいへんだろうな、続けられるかなあ?と思いつつ、
しばらくして、再び行ったときは、案の定、姿が見えなくなっていた。
むかし、通勤途中の駅の構内にて、殺伐とした朝のラッシュの人ごみのなかを、会社に大急ぎで向かっていた私の すぐ前で、時々見かけていた、片足が不自由と思しき男性が、いきなりバッタリ転んだのを見たことが あった。
その頃の私は、自分自身、駅の階段を上がりきるにも四苦八苦していた病身、その日も、遅刻スレスレで、助け起こしてあげる余裕もなく、眼を逸らして横を通り過ぎ、会社に着いてから、トイレのなかで泣いたことを思い出した。
さて、
障碍者を含めた社会的弱者、ここへ、「コロナ禍」によって、「非正規従業員」を中心に、仕事を失い、たちまちにして経済的に立ち行かなくなった人々も含まれるようになった もよう。
このなかには、
「ヤフゴミ捨て場」の「ヤフゴミん」、「自民党ネトサポ」、「ネトウヨ」のように、
かつては、「弱者バッシング」に加わっていた者、積極的には やってなくても、内心で侮蔑や攻撃的な意見を持っていた者も いるかもしれない。
以前のエントリーでも述べたけれど、
まさしく「あすは我が身」を地で行くこととなった このような人々が いるのなら、現在の思いを聞いてみたいもんだが。
【続く】
2020.12.30 (Wed)
という題名の映画が ありましたな。。。
当時新進だった「バンドール」というかたが作曲したそうだが、テーマ曲も名曲で、
私が初めて聴いたのは中学生の頃、兄が くれた、映画のテーマ曲だけを集めたシリーズ盤らしきレコードの1枚だった。
もらって すぐに視聴してみて、『ブーベの恋人』とか『マルセリーノの歌(『汚れなき悪戯』)』などと並んで、この曲が流れてきたとき、針仕事か何かを しながら、そばで一緒に聴いていた母親が、
「なんとも言えず寂し~い感じの曲やね」
と、感想を漏らしていたのを憶えている。
私たちが、そのレコードで聴いたのは、「サウンド トラック」では なく、シンプルなピアノ ソロのような演奏が中心だったせいか、より哀感に満ちた印象だった。
いま聴いても、ロシアあるいは東欧の どこか寒い国の素朴な民謡のような感じが漂っているなと思う。
映画そのものは、長いこと、いつか鑑賞したいと思いつつ、近年、『ユーチューブ』で、部分的にだけ見ることが できたのだけど、当時の『ユーゴスラビア』を舞台に、ナチスのユダヤ人迫害時代の体験を もとにしたという原作だけ あって、やはり、たいへん悲劇的なストーリーのようだ。
ナチスの場合は勿論、古今東西の権力や国家が犯した犯罪から、民衆レベルの犯罪にいたるまで、それが凄惨を極めるような内容であるほどに、どうして、こんなことが できるんだろうか?と、つい絶望的な、暗澹とした気分に陥ってしまうのだが、
要するに、対象を、自分と同じ人間とは思わない、また、同じ命ある者とは思わないから、とことん冷酷なことを平然とやってしまえるのだろうか?
さて、実は、このエントリーは、冒頭の映画の話題とは全然、関係ないんだけど(笑)
先日の夜、かなり遅くなってから、外へ出て、
街灯などの光を防ぎつつ少しでも、よく見えるようにと、左右の眼の周囲を、両手の指でもってメガネみたいな形にして覆い、南西の空を見上げてみたのだが、
「見えないよ?」
あたりまえだった。
よく見えるという時間帯を、全然、間違えてたんだから。
かのガリレオの生前から、ほぼ400年ぶりという時を超えたランデブー。
『木星』が『土星』をオンブしたみたいな重なり。
なかばは薄い雲に隠れていた月ばかりが、とろりとした橙色に滲んだ姿を見せ始めたものの、星のほうは全く見えないながらも、なお少しの間、未練がましく、寒さに震えつつ、思わず集中して見上げていたあとで、
ふと、われに返ると、すぐ前の道を、そそくさと、お勤め帰りらしき女性の姿。
続いて私も、もう諦めて、自宅に入ろうと歩き始め、なんとなく、今しがた通り過ぎた女性の後ろ姿を見送っていたら、なんだか、怯えているように感じられ。
考えてみれば、
この寒いなかを、パジャマ姿のオバハンが、両手で「指メガネ」つくって、呆けたように、あらぬ方角の夜空を見上げ、立ち尽くしておる。
たぶん、あたまオカシイ人だと思われちゃったのかもw
ところで、
うちには、私が若い頃に大奮発して買った、本格的な大型の双眼鏡が ある。
ほんとうは、天体観察用の望遠鏡が欲しかったんだけど、予算の つごうと、できるだけ、収納スペースを取らないほうが、と考えて、用途も広そうな双眼鏡にしたんだけど。
これは、お月さんなら、すぐ目の前で見ているような錯覚を起こすほどの大迫力かつ鮮明に見える優れもので、いきなり覗くと、思わず、自分の足が地面に着いているかどうかも心もとなくなる恐れが あるので、よろけたり、ひっくり返らないよう、気をつけながらでないと、ちと危ないくらい。
過去エントリーでも書いたことが あったかと記憶するが、
これでもって、クレーターまでもクッキリした月を眺めた人は、まず間違いなく、溜息を つきながら感動のコトバを洩らす。
「うぅーーーん。。。丸いなあ」
とかw
むかし、親父が、中国へ観光旅行することになったとき、憧れの『万里の長城』あたりで眺めたいから、おまえの双眼鏡を貸してくれよ、と せがんできたけど、
私が大事にしているものほど、破損したり置き忘れてきたりする兄の父親だけあって、よく似た粗忽者なので、断固として断った。
逆恨みされたけどねw
『木星と土星が最接近 400年ぶりのランデブー』12/21(月) 19:16配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b86e55ae15dce90c9b681a283c9155fdab12ccf1
翌夕刻にも、ほぼ同様の光景が見られるということなので、じゃあ、寒いのガマンして再チャレンジするかぁと思いつつ。
そして、翌夕方になった。
今度は抜かりなくと、時間を確認し、寒いので、戸外には出ず、室内の窓からベランダ越しに、南西の空を見てみると、たしかに、薄雲が かかっている そのあいだから、わりと明るい星が見える。あれが『木星』なのかな??でも、、、一つしか見えない。
自慢の双眼鏡を使えば、『土星』も、『木星』の衛星たちも見えたんだろうけど。
クローゼットの高い位置に収納したっきりなので、探して出すのがメンドクサイ。
それにしても、
近年、夜空を見上げるたびに思っていたのが、「満天の星空」というやつが見えなくなったこと。
うちの母親は、そういう夜空を見ると、思わず窒息してしまいそうになる感じがして恐いと言ってたもんだが。
やっぱり「光害」ということの影響なのだろうか。ここいらは それでも、私が子どもの頃は、比較的に田畑も多い、田舎っぽい地域だったせいか、裸眼でも「星くず」さながらの夜空を見ることが できたんだけどなあ。
ところで、これも数ヵ月前に書きかけのまま放置していたんだけど、今回の『木星&土星』の話題で、そうだったと引っぱり出した。
「宇宙――究極のリサイクル世界」という、マイ・チョイ仮説ですw
私個人は、願わくば、この「リサイクル」プロセスから永遠に脱出したいと思うんだけど(苦笑)
「死後の世界」、当然、ありますでしょ、ええ。
ただし、ハッキリ言えるのは、「物質」世界としてのこと。
だって、この世は、どこまでも物質の世界だから。
ゴチャゴチャした感情やら様々な思いや考えを めぐらしたりやらも、脳を含めた肉体という物質が あってこそ、
そこから発生する「保全欲求」が基盤なので。
もちろん、それは、われわれにも理解できうる範囲内の世界のことだろう。
古来、人類究極の知的希求、すなわち『宇宙』発生前後の時点を考えると、いまのとこは「お手上げ」しか できないものね。
最初はギュウ~ギュウ~と犇めいててですな、
そっからドッカー――ン!!と、、、
…どう表現したら いいのやら(苦笑)
生物が、無生物から発生したことと、どこかの段階で、ある意味で、似ているのかもしれない。
すべての「生命体」という物体・物質は、死後、原初の最小のレベルまで還元されたあと、
長らく、あるいは しばし、とどまっていた この地球上の大気圏から、少しずつ少しずつ、大気圏外へ、宇宙空間へと漏れ出していくのだろう。
やがて、辿り着くのは、『ブラック ホール』の崖っぷちかな?
この宇宙空間から、別の宇宙空間へ??。。。
だとすれば、
「お空の お星さまになりました」
って、あながち、嘘でも間違いでもないかも(笑)
――ホラ、遠くの空で、石ころが光ってる。
『キャプテン フューチャー』のテーマ
CUSCO“Saturn”
どこか、イギリスの古謡のような。
ホルスト 組曲『惑星』から『ジュピター』
『ユピテルとセメレー』(部分)Moreau(1826-1898)
2020.12.29 (Tue)
『近頃の事件簿から~昔の「シェアハウス」』の続き。
ところが、この話には、まだまだ続きが あってね。
こういう場面では率先して世話を焼きたがるタイプだった うちの母親が言うには、
やれやれ、危ないところだったが、住人どうし協力して、なんとか、うまく運べて良かった良かった!
とは ならず、
いささか、後味の悪い結末になったそうなんだけれど、
スペース上、ここでは割愛する。
過去エントリーでの記録が見つかるかもしれないし、まあ、またの機会が あれば、ということで。
そのアパート内外で起きた、様々な「事件」のことは、私も、おりに触れては聞かされていたので、いまでも、だいたいの内容は憶えている。
学校時分は、将来、作家になろうかと思っていたので、母の話をネタ帳にメモしておき、
いつかは、それを、『喜劇・女のアパート』とでも名付けようかなwとか思ったりしていた。
しかし、なんだか『昭和』調だね、この題名は(笑)
「喜劇」が付いてなかったら、エロかと誤解されそうだし(苦笑)
そうそう、昔の、『森繁久彌』だっけ?なんたらシリーズみたいな題名の、ああ、『駅前シリーズ』??
知らないんだけど、ほんとうに同じような題名の映画が あったのかもね。
というわけで。
昔のアパートを考えたら、いまどきで言う「シェアハウス」と、基本的には大差ないんだろう。
私も、そのへんのことは、詳しくは知らない。ただ、
昔の「シェアハウス」では、今回、ニュースになった犯罪事件のようなことが、どれだけ起きていたのかな?ということを考えるに、
まず、男女混合でも、独身の入居者ばかりでは ないよね。
特定範囲の人たちが入居するための寮とかじゃなく、一般的なアパートであれば、むしろ、あの時代、ほとんどは夫婦と子どもの世帯よね。
それと、おふろは、おふろ屋さんへ行ってたわよね。
これって、わりと見逃せないポイントかも。
と言うのは、
私が実家で生活していた頃のことを先述したように、
血を分けた家族でも、油断は できないんだよねえ。
ましてや、
そもそもから邪まな下心を秘めた、犯罪者予備軍みたいな男が、「シェアハウス」の一員になっててみなさい、
女性が就寝中に、入浴中に、更に言うと、トイレを使用中にも、その間、何を やってたやら。。。
漏れてくる音に耳を澄ませ、あらぬ想像を掻き立てられ、妄想を逞しくしながら、残り香やら漂う臭いを嗅ぎとらんと、鼻ヒクヒクさせつつ、あちら こちらを うろつき回る、、、
そんなとこですよ。
石鹸の香りにも、排泄の臭いにも、どっちにもコーフンする。
男って、そんな生きものですw
たいへん失礼なことを言うようだけれど、
この性向を否定しきれる男性が、どれだけ いるかしらね?
だからこそ男性は、
「頭と下半身が別人格なんだ」
「理性を強く保つように、女性以上に苦労してるんだー!」
と訴えたくもなるんでしょうね。カワイソウね(苦笑)
もちろん、女性は女性で、男性には窺い知れない苦労が多いよ。
だって、男が悪いじゃん!!
いーや、女がガマンすべきだ!!
などと罵倒し合ってばかりでは、どうにも ならないよね。
だからこそ、一度はジックリと、お互いの身になってみて、実際たいへんだろうよなあという想像力を はたらかせてみないとね。
あ、そうだ、「男性が混じってるほうが、むしろ安全」という指摘ね。
これはねえ、もう一度くりかえすと、
「邪まな下心を秘めた、犯罪者予備軍みたいな者が、シェアの一員に」
という事態を考えたら、「危険に決まってる」ということにカンタンに逆転するわけだけど、
「新型コロナ ウイルス」が問題になってから、『スウェーデン』の国家的な対処法が、かなり独特だというので、それを取材しに行った、という記事を読んだら、そこに登場した女性は、「シェアハウス」に住んでいて、「コロナ」のことが あるから、以前よりも、住人どうしの交流が増えたとかで、共有リビングに、希望者が集まり、瞑想だか健康法なんかを、皆で和気あいあいとやってる場面も紹介されていた。
もちろん、男性の住人も混じってた。
思うに、
まあ、日本では、ちょっと無理なのかもねwもっとも、日本に限らないかもしれないけど、
個人個人がシッカリ確立されていないと、男女間のことも、ずるずるアヤフヤになりがちなんじゃないかなと。
それに、
日本では、男女の、とか性的な方面のことについて、まだまだ「奥手」と言うのか、あるいは、じめじめ陰湿と言おうか、
いわゆる「欧米圏」の男女のような、良い意味でカラッと開放的な雰囲気には ほど遠いでしょw
どーしても、コッソリねちねちドロドロど修羅場の、
秘すれば淫靡な花が咲く~、
みたいな方向へ行ってしまうというかww
そういうのが好きよねえ?www
アダルト ビデオなんかの演出とかにもモロあらわれてるじゃない?w
たとえばアメリカだったら、たしかに、体格も迫力も凄いけど、セクシーってかよりも、むしろスポーツの世界、アスリートみたいだよ?ww(なぜ知ってるんだ私?)
そこへ いくと、
人里離れた、湯煙もうもう「温泉宿」で、しんねり みっちり、熟女が浴衣の前はだけ、、、
枕ふたつ並ぶ布団の上、あれえ~、ゴム体な、みたいな??(爆)
ああッ、お義父さんとか、いいぢゃないですか、お義母さんとか、
いやよぉ、お兄ちゃんとか、おれの妹が~、とか、うふんセンセとか、
もう、何でもアリぃ(爆)爆)
そういうの好きでしょ?そこのチミwww
まあ、その分野も、私個人的には、よくは知りませんけどねw
むかし、人んちで、「お勉強だよ!」と勧められてwちょい見たくらいでww
「あのな、なにも正座まで しなくていいよ」
と笑われたけどwww
日本男性は、どこか、何か「痛々しい」と同時に、その分が、ある意味での甘えの傾向になってドップリな人が多いしね、
まさに女性に母親を、まんま重ねてるみたい。
また、そのへんを「利用」している多くの女性側の現実も あるしね。
ちなみに、
イスラム諸国の、女性のみ用いる被り物が あるでしょ、『ブルカ』とか『チャドル』とか?
ああいうのも、女性側の性的被害防御のためというより以上に、
要は、弱い男性の甘えゆえだと思っています、私個人は。
ま、なんせ、あのあたりの女性たちはグラマラスで、彫りの深い美人さんが多いからねえ。
でも、ある面では実用を兼ねた衣装なのだろうし(強烈な直射日光を避けるとか)、あの被り物のなかは、外からは想像できないくらい、思いっきりハデな装いだそうな(笑)
むかし、とある記事で、たしか、アラブ方面へ旅してきたという女性の話を読んだのだけれど、彼女が言うには、あちらの男性たちは、総じて、「眼ヂカラ」が凄くて、全身から、何か こう、ムラムラ立ち昇ってる雰囲気みたいなものが漂ってて、日本では感じたことがないような恐怖心すらも覚えたとか、そういう内容のことを言っていた。
そりゃあ、チャドルでもブルカでも、急いで かぶるわ、強制される前に、自発的に(苦笑)
まあ、女性の側に、より多くのガマンや犠牲を強いがちなのは、どこの国や地域でも、大昔からだったのだろうけれど。
われわれ、男女ともに、顔もカラダも、ひらべったい人種だからこそw
「露出過多ファッションだろうが、個人の自由!女の権利!」
なんて言ってられるのかもなww
昔の日本の漁村あたりじゃ、着物の上半身を脱ぎ、乳房まる出しにした女たちが、えっさ えっさ えんやこらと、太い綱を担いで、漁から戻ってきた船を海岸べりに引き上げている、そんな光景の、古い写真を見たことが ある。
日焼けした、逞しい腕した かあちゃんたちだ。
鼻の下が伸びる男どもも いなかったことだろう(笑)
わが国においては、「パンツ」なる下着が なかった時代までは、着物の裾と腰巻の下はスッポンポン。おりからの強風に捲り上がって、女性のアソコが剥き出しになろうが平気の平左で、かまわぬとばかり、スタスタ歩いて行ったものだという。
やがて、パンツという西洋の下着を知ったとき、恥ずかしさに赤面したという。
局部ピッタリに添わせて隠すことこそ恥ずかちい~と。
それが、昔の日本人の感覚と美意識だったのだな。
なんか中途半端だけど、ここで終わりますわ(笑)
カゼぎみだし、疲れてんのかな?w
機会が あれば、また。
2020.12.28 (Mon)
このエントリーは(も)、数ヵ月前の書きかけだったものです(笑)。
いわゆる「シェアハウス」という場所で、(性犯罪的)暴行事件が起きたというニュースが ありましたね。
驚くと同時に、さも ありなんという感じも持ったのが正直なところ、
「ヤフゴミん」のなかには、どうだ、するどいだろ?とばかり、同じ内容のコメントを連投して得意げな者が いて、その指摘というのは、
窓から侵入して待ち伏せしていたという情況から、
このような男なら、要するに「普通のアパートやマンションであっても同じ事件を起こしていただろう」という指摘なのだが、
それは そうかもしれないけれど、本質の問題は、そこでは ないだろう。
「シェアハウス」式の形態ともなると、「普通のアパートやマンション」よりも、リスクは もっと高くなるはずと考えなければ ならないのでは なかろうか。特に、日本では。
私なんかも、ヘンに神経質な面が あるし、実際、自分の親や きょうだいですらも、感覚の違いなどがハッキリあって、共に生活するのは鬱陶しくて しょうがなかった。
たとえば、
これは、幾つか同様の感想を述べている投稿者らも いるが、
やはり、私自身も真っ先に思ったのが、いわゆる「水回り」の共同使用ということ。
私が実家で生活していた頃までは、
まず、うちの母親、
もともと、自分が食べるのが第一目的である料理以外は、家事全般を怠けるほうなので、特に台所の洗い物を、シンクいっぱい、うず高くなるほどまで溜めっぱなしにしたり(イッキに洗うほうが、節約になるからだとか言い訳w)、
また、煮炊きして残ってしまった おかずを腐らせ、鍋に入ったまま放置、といったことも多いので、夏場の夜間ともなると、「ゴキカブリ」の楽園と化すのは確実だ。
学校や仕事から帰ってきて、疲れている私が、まずは飲みもの一つ作るにも、カップやグラスが ない!という状態も しょっちゅうだったから、仕方なく、イライラしながら、洗い物を かたづける、といったパターンが、小学生の時分から延々続いていた。
加えて、
母親が、洗面所に入り、ひとたび、顔を洗ったあとなど見ると、大型の鳥が水浴びでもしたのかと思うくらい、あたり一面ビシャビシャになっているのを、私が慌てて拭き掃除したり、そういうことが重なってくると、
しまいには、母親が使用している最中から、「水を撥ねかさんといてよ!」と、背後でガミガミ言ったり、雑巾を手に待ち構えたりで、イライラは募る一方。
まったく、どっちが親なんだか。
で、
「酉年だから!」と、本人自身も言うとおり、おふろは「カラスの行水」そのまんま(苦笑)
うちの母親は、どういうものか、とりわけ私に対しては、手伝ったり、代わりにしてもらったことについて労うとか感謝のコトバを言うことが少なく、
それどころか、大概は、
「それくらい しても、バチは当たらん!」
という定番セリフを投げつけてくるのが せいぜいだった。
このセリフには、さすがの私でも、聞くたびにカッチーンと来たよ。
親父のほうはと言うと。
本人は、せいいっぱい清潔にしているつもりでも、やっぱり男親だからなのか、
わりと だらしないほうだった母親ですら、
ましてや、若い頃は病的なくらい潔癖なところが あった私から見ると、やっぱり「なってなーい!!」とダメ出ししたいところが多々だった。
けれど、
「おれはキレイ好き!」
と信じて疑わない本人ばかりは、当然、私らの指摘に対して、キゲンが悪くなるだけw
しかもだ。
こういうことは、一般の家庭でも、水面下に潜んでいることであるらしいのが、近年、専門家筋からも警告されるようになってきたが、
うちでも、
私の入浴中、親父が覗きにくるということが頻々と起きるようになった。
まあ、それ以外にも、
古くなっていた家屋だとか、隣家のオッサンが凝りまくっていた果樹栽培など園芸趣味が原因で等々、いろんな虫やら、果てはヘビちゃんまでが、遠慮会釈もなく、家宅進入してくることなども相次ぎ、
なかば、ほうほうの体で、実家を逃げ出したわけだ。
何年前かの事件で、
姉が、二人だけで同居していた実の弟を殺害し、遺体損壊して、トイレに流したとかいうことが あったよね。当ブログでも取りあげました。
あの事情も、姉と弟のあいだで、生活上のテリトリーやルールを決めてあったのに、弟側が守らなかったとか。要するに、「シェアハウス」で起きる恐れのある問題と共通したことだった。
以下の話も、旧ブログか過去エントリーで、思い出して綴っておいたことが あったと思う。
タイトルのとおりで、「シェアハウス」すなわち、昔のアパートのこと。
私自身も、長いこと忘れていた話だ。
いまどきの若い人なら、想像も つかないかもしれない、
昔ながらのアパート。
いや、しかし、言われてみれば、現代でも、学校や会社の寮などと大差ないのかもしれない。
私自身は、「寮生活」というものを経験したことが ない。
さて、
うちの母親が、「ダブル不倫」を切っ掛けに、最初の夫との家庭を捨て、ひとまずは、私の姉にあたる娘を連れて移り住んだアパート。
かつて、富裕層の別荘や邸宅が建ち並ぶことで知られていた、由緒ある町だけに、そのアパートも、もとは個人所有の屋敷を、アパートに改造したものだったらしい。
母の述懐によると、台所が共有だったという。
そこに住んでいるときに、私が生まれたのだけれど、1歳半くらいの頃、親父と、その連れ子の義姉・義兄らとの同居を始めるため、別の市へ引っ越したので、私自身は、さすがに、全てを憶えているわけでは ないのだが、物干し台だとか、玄関ホールに据えられた大きな下駄箱とか、それらの共有スペースや共有設備のことは、いまだに憶えていて、なんとも言えず懐かしい。
母親に聞かされていた話の一つで思い出したのは、やはり共同で使用する台所のこと。
そこで、しょっちゅう起きたのが、まず、食器洗剤が早く減ることだったという。
ついには、台所内で保管して あった、うち用の糠漬けの甕に漬けてある野菜類が、はじめは ちょっとずつ、やがて、減るスピードも上がっていき、ついには、殆ど全部が盗まれるようにさえ なったらしい。
しかし、母親は、そういう面では、わりと大らかなところのある性格だったので、早くから、盗まれていることに気づいても、敢えて、知らないふりを しておいたそうだ。
恐らくは そうだろうと察していた対象の家庭も、幼い子らを抱えており、家計が苦しいことを知っていたからだと言っていた。
日本の、あの時代というのは、やっと、戦争が終わり、その当時、まだ小学生だった母らの世代は、じきにハイティーン、やがて結婚し、母となり、世のなかは、まだまだ戦後すぐから引きずる、生活の苦しさが残っていながらも、気分的には、これからは!という明るさも あったのだろう。
ほとんどの家庭が、遣り繰りの厳しさを抱えているなか、「お互いさま」と理解し合う気持ちも あったようだ。
なかでも代表的な話は、
会社の上司と不倫して、産んだばかりの子と共に、くだんのアパートで「囲われ」生活を始めた、どこぞの お嬢さん育ちの女性。
不倫相手の、もと上司の足が、だんだんに遠のき、日々の生活費にさえ困る状態に追い詰められていき、しかし、そんな状態に陥っていることを、実家の親にも言えなかったらしい。
いまどきで言う「シングル マザー」だが、
あの時代、そこそこの学校を出て すぐに、普通の会社に就職、いわゆる「OL」以外には勤務経験が なく、他で稼ぐ手段や技術など、さっぱり持ってやしないのだから、しかも新生児を抱え、身動きも ならずで、たちまち、あかんぼうのミルク代にも事欠く ありさまだったそうな。
親子そろって、いっこうに、居室から共有廊下へと出てくる ようすすらも ない。
ただ、あかんぼうの か細い泣き声が漏れてくるばかり。その泣き声も、日に日に弱々しくなっていく。
そういう ようすを不審に思ったのが、同じアパートの廊下で繋がる、それぞれの部屋の住人どうしだった、うちの母親ら。
とうとう或る日、何か見過ごせない異変を感じ取っていた母らは、強制的に、くだんの母子の部屋へ乗り込み、そこで、もう少しで母子心中になりかねなかった真相を知ったあと、早急に、住人たちで手分けし、各自が可能な範囲内で分担して、その困窮した母子の生活を立て直すために奔走したというのであった。
【続く】