2014.09.29 (Mon)
【三からの続き】
やはり、詩の解釈、とらえかたは いろいろ微妙。
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
:今度は、こんなに私のことばかりで、お兄さんが苦しまないように 生まれてくるね。
私は学校では、こう習った。以下のリンク先にある解釈と同様である。
:また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る
http://www.chukai.ne.jp/~mechinko/kenji03.htm
最初のリンク先のサイト主が おっしゃっているのは、おそらく、生前の母が視聴したと言っていたテレビ番組と同じものだろうか。
実は、うちの母、この詩に詠われているヒロイン、賢治の妹と、字は異なるけれど、同じく「としこ」と読む名前だったのだが、それもあってか、
ああ とし子
この絞り出すような呼びかけに、どうやらググッと来たものらしい。(笑)
そうして、母も生来が病弱の身だった。
そのうえ、奇しくも宮沢賢治の亡くなった年生まれで、
旧暦で いけば、その亡くなった9月が誕生月であった。
とし子さんは、11月に亡くなられたそうだが、誕生月も11月、西洋歴では、これも、私の母と同じである。
くだんのテレビ番組で、この『永訣の朝』という詩を知りそめし母は、
どうも、自分は、この「とし子」さんの生まれ変わりではあるまいか、と心中ひそかに感じたようであった。
また、
母は、自分が長子に生まれ、兄というものを一人も持たなかったせいか、宮沢賢治に対し、そこはかとなく、淡い、一種の恋情に似た思いさえ感じたようであった。
ああ、ロマンチックである。。。
時空を超えた恋である。
子持ちの主婦が中高年になっても、こういう、昔の女学生みたいな、まぼろしの恋もできるんである。
お写真が美しいサイト。
http://oikawaroom.blog46.fc2.com/blog-category-4.html
http://www.miyazawa-kenji.com/kinenkan.html
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