2015.06.09 (Tue)
「2007年」当時というと、安倍第1次の頃ですね。
『「ヘイト」を追及し続けるジャーナリスト・安田浩一インタビュー(前)
両論併記に逃げるメディアの傍観者たちは「ヘイト」の意味も危険性もわかっていない!』
http://lite-ra.com/2015/06/post-1160.html
■大江の安倍批判はヘイトじゃない! 言葉の定義すら知らない新聞社
──この2年間、ヘイトスピーチに関する報道も増えました。安田さんから見て、この2年間でメディアの報道姿勢は変わっていると思いますか?
安田 変わっている部分と変わっていない部分、両方あります。在特会が社会に出てきたのは2007年でした。外国人労働者の取材をライフワークとしていた僕の視界に、彼らの姿は嫌でも飛び込んできたんです。
それで取材を始めましたが、同業のライターとか編集者に彼らについての企画を持ちかけてもみんな断られました。「あれは一部のバカがやっていることだ」「いずれ消えてなくなる」といった理由をさんざん聞かされた。反発心はありつつ、一方では僕自身もそうした理屈を受け入れつつありました。
そういう当時の状況と現在を振り返って変わったのは、この問題にしっかり精通して、正当な批判を加えることのできる同業者が増えてきたこと。存在を知っていながら意図的に無視したり、自分の手を汚すことなく彼らの存在を論じていた人々が、今は少なくとも現場に出向くようになった。もちろん、数としては少ないですよ。でもそういう人が出てきたということは、やっぱり僕はメディアも変わったと思います。
ただ、まだまだメディアの無理解というものがなくなったくわけじゃない。ヘイトスピーチをめぐる議論がこの2年間活発に行われてきた一方で、例えば産経新聞は憲法記念日に行われた護憲集会で大江健三郎が行ったスピーチのなかで安倍晋三が呼び捨てにしていたことを踏まえ「一国の首相を呼び捨てで非難するのは、『ヘイトスピーチ』そのもの 」と報じました。ヘイトスピーチとは人種・民族・国籍・性などのマイノリティに対して向けられる攻撃で、一国の首相を呼び捨てにすることはヘイトスピーチでも何でもありません。新聞社が未だにそうした報道をすること自体驚きですが、普段周りの同業者と話したり、メディアの学習会に参加すると、近い考え方をする人は決して少なくないと気づかされることもあります。
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(一部文字強調は、当ブログ主による)
あはは。
だいたい、各分野の有名人・著名人ともなれば、どんなに偉くて業績の高い人でも、敬称を付けずに紹介されたり呼ばれることは、世間で普通にあること。
ましてや、主権者は国民。
言わば主人が使役する者に対して、敬称を付けないことに、なにほどの問題があるというのか。
むしろ、
国民から主権を剥奪せんものと狙う、あの思いあがった暴走シュショウには、今後は、どしどしと呼び捨てにしてやったほうが似合いだとさえ思っとります。
安田さん、
ご存じ「安倍政権御用達・煽り」産経新聞社のね、
けっこう名物記者と言っていいのだろうか、私は よく知らないけど、
あひる、じゃなかった、
あびらびら、でもない、
たしか、「あびる」ナントカとか言う記者が居るんですけど、
「世を憂」えるあまりに「われとわが身を甘やかし」?ているのらしい
(贅肉プヨプヨおデブちゃんなのだろうかね??)、その記者は、
元首相の菅氏を指して、
「アレ」
と呼ばわっていたのですよ(爆)
なんでも、当時、首相の名前を普通に呼ぶのすらも厭だとかいうので。
まあ、数年前、ろくに何も考えてなかった私が、たまたまブログを始めたサイト先が、たまたま、「産経」系運営サイトだったので、その頃に、たまたま目撃したことで、細部に関してまでは記憶が曖昧になってますが。
だからね、
到底まともに向き合って真面目に読むもんじゃない産経、自称「新聞」も、
そんな産経「新聞」を愛読していられるオツムの連中も、
「バカウヨ」「ネトウヨ」」と呼ばれるような投稿を繰り広げている愚衆も、
私に言わせれば、
「自分棚上げ」方式の典型タイプ、
これぞオポチュニストであり、
一定程度なりに知性と論理性、良識ある判断力というものを持ち合わせている人々には相手にされず、軽蔑されていて当然なんです。