2015.10.01 (Thu)
の続き。
そこで、
SEALDsやフォーラム4の かたがたの、次の、そして最終的目標としては、この懸案を最大のものと考え、手を打たなければならないはずじゃなかろうか。
また、同時に、大手メディアも(但し、アベぽち『産経』ならびに『読売』は外すしかないがw)、この忌々しき問題について、国民の一大「後の祭り」になってしまわぬよう、大々的に警鐘を鳴らすことを、次回選挙を見据えて、やっておくべきじゃないか。
特に『朝日』新聞が、安倍政権の画策と、『朝日』新聞自身の身から出た錆的なワキの甘さによって、あっけなく骨抜きの体たらくに堕した昨今、『毎日』新聞社には、『朝日』の分までも気を吐いてもらわなければならない。
もし、それを怠るようなら、
二度と、日本の新聞社というものを、自民党に対してと同様に、金輪際、信用することなく、完全に見限るだろうと思う。
あとは野となれ山となれ。
私は もう、ことにネットでは不愉快な思いばかりしてきて、
あたかも「カサンドラ」になってしまったような気分、ものを言う顎もダルくて、うんざり。
自民党政権によって、主権を踏み躙られた日本国民の再びの地獄は、そこからスタートするだろう。
そうした事態を舌なめずりして待ち続けている連中もいるのかもしれない。
この連中にも、ほぼ2種類あって、
日本という存在に対する、何らかの理由から、水面下での怨嗟や、または魂胆を持ち続けているらしき者、
もう一つは、
為政者でありながら、歪んだエリート意識以外には、一般国民に対する責任意識がない、すなわち「愛がない」ということに等しいわけだが、
それらの自覚すらも ない。
あっても、罪の意識がない。
こうした者が、世襲家業よろしく、政治家なんぞになっては いけない。
それと、自分一個の野心や野望で政治家になる者も。
こうした連中は、本来ならば、政治家になっては いけないのだ。
のちの世の若い人々には、自分自身が生まれる前から存在するものを、なぜ、そこに存在しているのか、根本を問い、疑うことも、そのために知ることも、もはや大いに困難。
『安保法案』賛成側の主張で しょっちゅう見かける、「(仮想)敵」が攻めてきたら どうするんだ!というのも、相手側が、そうとうにハッキリした敵対行為を起こさぬかぎりは、こちらから手出しできないのもアタリマエな話。
何もしてないうちから逮捕しまくれるような警察が居る国って、まともな国か?ってことさw
「抑止!抑止!!」と叫んでも、
以前から指摘しているように、一回ズドンと来られたら、そこでオシマイになるだけ。
日本の現憲法で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと 決意した」云々と言う宣言は、なにも奇特なものではないよ。
それこそ、ごく普通のことを言ってるに過ぎないと思う。
だって、われわれの卑近な日常生活でもそうでしょ。
一応にせよ、他者の良心や善意なり良識や理性なりを前提にしていなければ、おちおち、家の外にも出られないわな。
だいたいは、それで通せる日常だから。
通せなくなったら、それは異常事態だけど。
ふだん、そのことを、ほとんど意識してないだけのことで。
ある意味ノーテンキでないと、普通に生活もできやしないもの。
【オマケ:オマージュみたいなつもりでw】
『60年安保』闘争のとき、国内では、この歌が流行したんだそうな。
『アカシアの雨が やむとき』(藤 圭子さんで)
『いちご白書』――アメリカの60年代、コロンビア大学での学生闘争が題材だそうです。その主題歌。
『サークル ゲーム』
そういえば、『いちご白書を もう一度』というのがありましたなあ。
この歌が流行ったのは、リアルタイムで、私の記憶にも残っている。
映画の『いちご白書』を観たこともないまま、
ギターを習い始めたころ、カバーレパートリーのなかに加えていた1曲であった。
懐かしいので、youtubeで探してみたけど、やっぱり、カラオケばっかし。あの当時、レコード出してた『バンバン』ご本人のも あったけど、、、
ハッキリ言って、私のほうが上手いかも(爆)
もっとも、いまでは、私のノドも、サンザン掻き鳴らしていた相棒ギターの弦も、すっかり錆びついてしまってるけど。
『青春の光と影』