2016.11.10 (Thu)
『多摩美術大学の佐野研二郎葬式ごっこ問題を考える』
2016年11月7日 8時20分配信 常見陽平
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tsunemiyohei/20161107-00064160/
【上記に続く】
『多摩美術大学 佐野研二郎葬式パフォーマンス 弔辞全文』
2016年11月8日 13時28分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tsunemiyohei/20161108-00064222/
私は、最初に、この「葬式ごっこ」についての記事を、他のメディアで見かけたとき、
まあ、いかにも学生っぽいと言うか稚拙なパフォーマンスなのでは あろうが、
もしかして、
むしろ、誰が「故人」を死なせたか?というような問題提起のつもりなのかしらん、
また、せめても、それくらいのヒネリは ないとなあ、と思っていた。
当の佐野氏ご本人も、その後、相変わらず、お仕事ご活躍なのだそうで、「佐野氏に何かあったら」という心配も余計なことだろう。この程度で何かあるような御仁なら、とっくに、何か あっただろうし(苦笑)
然り、
「パクり」こそは、知恵ある人類発展の みなもとにして、われらが教育、文化や芸術の多様と洗練に欠かせない。
だが、そこには、新たに加えられた発展的意図と、それを表現する豊かな工夫が なければ、ただの安易な真似ごとでしかない。
私の、去年の過去エントリーでも、オリンピック エンブレム問題によって、初めて、一般世間で知られるようになったデザイン界の流儀やら慣例、その業界人特有らしき感覚、佐野氏の(その部下の使いかたも含めた)仕事の やりかた等について、幾つかの感想を述べてある。
最近のエントリーでは、上記のことを少しく思い起こしつつ、このようにも述べた。
『『【最終】「ありえない」デフォルメの許容範囲とは。』に追記。』
自分が社会人になる頃、そもそもは、
もの書きだジャーナリストだライター志望だという前に、むしろ、デザインや美術のほうを志向していた私個人は、以前から、特に、例の「カルト連」ら、芸術や学問に対する俗物的崇拝グループの連中に向けて宣言してきたように、
芸術?それが どうした、
ってなもんでw
「芸術」だからと、是非もなく礼賛は しないし、
むやみに「芸術」というコトバを戴いただけで有難がってる人種も、私にとっては、嘲笑すべき俗物どもに入る。
けれど、上掲コラムにて、この筆者が紹介されておられるところの、
『~「芸術は社会に与える影響を考え、それをコントロールできて初めて芸術たり得る」』
これは、そのままで肯定は でき難いですな。
まず、倫理的な思想が絡む面と、表現上の効果的技術面に おいては、じつに分かりやすい示唆であり、そう言う考えかたや心情も理解できないわけでは ない。
もちろん、「社会に与える影響」その辺を考えたり、まさに「コントロール」することが、現実として切実に必要な場合も まま ある。
だが、
「社会に与える影響を考え」たり、ましてや、それを「コントロールでき」るかどうかなんてことは、芸術家が やるべき仕事なんだろうか?
それを重視するのは、なかでもデザインという世界には、関わりが切れない商業的・商売上には必要になるわけだけれど、純然たる芸術家や芸術本来の仕事なのだろうか。
禁じられた女体の美を描きたいあまり、神々の名に かこつけた以上に、
女体を描けば、すけべいなパトロンの歓心を買い、高く売れるからというような算盤尽く、とても不純な動機でないかという気すら してくる。
私にも、佐野氏や佐野氏を擁護する同業者たちの姿勢や意見に、どうしても拭い難い不審と反感が残ったのは、そのあたりも あったからかなと思う。
ここで、ちょっと言い及んでおきたいのだけれど、
最近、神宮外苑にて、どこぞの工業大学(!)が、「ジャングル ジム」形状の構築物を、子ども向け展示会場に出品していて、そこで、大変なことが起きたという、この詳細は、いちいち ここで記すまでもないことだが、この悲惨事を引き起こすことになった第一の原因が、
白熱電球を、可燃物の傍らに用いると、どうなるかという、いたって生活上の常識レベルの欠如が災いしたという、呆然とするほかない現実。
一般からのコメント投稿には、やれ「偏差値がー」「Fランが」と嘲笑の渦だが、そんなの以前の問題だ。小学生でも知っててフシギは ないことなのだから。
しかも、
やることを変えたのなら、主催者なり監督者なりに申し出ることも せず。こういう場合は、すみやかに、事前に許可を申し出て、チェックを受けること、とするルールもなかったのだろうか。
しかもしかも、主催者なり監督者なりも また、全く、目が届いてなかったという、二重三重の失態。。。
引火等が起きる可能性のある材質を多量に用いているのに、消火器の一つも備えていない。
このように、おとなの愚かさ、失態は、すべてが、まず子どもにシワ寄せされることの典型だ。
被害者の親御さんを責めるつもりは毛頭ないのだが、私自身は、もし、子どもを連れて行ったとしても、くだんの「ジャングル ジム」、画像で見ただけでも、そもそも、造り自体が、どこか危なっかしい感じが したので、子どもが登ったりしたら、落っこちるんじゃないかと、瞬時も目を離すことが できなかったろうし、たぶん、最初から禁じて、遊ばせなかっただろうと思えた。
くだんの学生たちは、驚くことに、建築系とか建築デザインとかの専攻だそうなのだが、それを知って、声を大にして言いたいと思ったのは、、、
よりによって、建築方面の仕事に携わらないでもらいたい!!!![]()
頼むわー!!![]()
これからの日本、発展途上国なみの不良建築物が そこかしこに建ちまくるんだろうか。。。この大地震国で。ゾッとする。
まあ、これは、また別の話になるけど、
安藤ナントカいう有名建築家も、物議を醸した民家の例が あるね。
およそ、現実の住まいとしては向かない造りなのに、そこに入居した、氏の信奉者みたいな人が、体調が悪くなったりしても、頑張って長いあいだ住み続けているのを知って、当の安藤氏自身が大いに呆れた、っつう、笑えない話。
「コンクリ打ちっぱなし」が好みの人も多いとは聞くが、やっぱり、普通の住まいには不向きだというし。
くだんの建築家氏も、デザイン コンセプトだか思想的スタイルだかが最優先みたいよね。
ファッション デザイナーならば、ショウに おいては、どれほど実験的作品を発表しても、現実的に、顧客に販売する衣服は、実際の生活で着用するに耐えるものを売るわけだけど。
着て歩けない服や靴なんて、論外。それでは、たった一日も生活できないから。
でも、建築物となると、より長期にわたって、人命にまでもモロに作用してくるからねえ。
ちなみに、
実家の、むかしの隣家の御主人、こないだも書いたように、ソ連抑留後、帰国してからは、長らく、府警に お勤めされていたんだけど、ご趣味の一つが、住まいの建て増しとか大型家具づくりとか、そういう、ものづくりが大好きなかたで、
当時の うちの実家が手狭だったので、その隣家の おじさんの大工仕事で建て増ししてもらったり、私の部屋の本棚までも造ってもらっていた。
なんせ、おじさんは、趣味やボランティアのつもりで、嬉々として やっておられたので、実費以外はロハ。お陰で、本職に依頼せずに済み、親らはホクホク。
これが とにかく丈夫な出来で、のちに、お隣が、新居に引っ越され、その跡を取り壊すとき、本職の人が、「誰が造ったんや?むちゃくちゃ頑丈にシッカリ造ってあるわ~」とビックリ仰天、壊すにも、これまた非常に苦労したという。
こういう日本人、希少になってきてるのかねえ。
あっちでも こっちでも、いいかげんな手抜き・無責任仕事や劣悪な商売品、どうやら、日本人と その社会の劣化は、間違いないところかも しれない。
ところで、話を戻すと、
キューバの女性だったが、往年の名プリマドンナは、
芸術とは、人の心を豊かにするもの、それが芸術だ。
というふうに言っていた。
言い替えれば、
人心を殺伐とさせるものは、芸術とは言えない、ということだろう。
芸術、それは、命ある人間から生じるもの、人間の排泄物の一種みたいなものw
だから、人間の命を奪ってしまうものは、芸術ではない。
芸術に「善悪」なし、ならば、
命そのものにも、もともと、善悪は ないように、
命あってのモノダネ、命あっての芸術。
命が なくては、芸術も生まれてこれない。
きょうの おまんまは大切だ。
おまんま なければ、命もないのだから。
だから、人の おまんま、ひいては、命を奪う輩は、芸術の敵!(笑)
今回の「葬式」ごっこ、あるいは、問題提起や告発のつもりだったらしいパフォーマンスも、どうせなら、あたかも「キリスト受難」から始まって、「復活劇」あたりまで やり抜けば、訴えんとするところが もうちっと分かりやすくマシな出来になって、「社会に与える影響もコントロール」できたんじゃないかな?(嗤)
それでも、「コントロール」すべき一般社会からの根強い反感を消すことまでは叶わなかったかもしれないけどさw