2022.07.24 (Sun)
政治のレベルとは、すなわち国民・民衆のレベルである、
ということを、きょうまで私は何度も述べてきているのだが、
これとても、じつは、外国の偉人が昔から指摘していたことだというのを全く知らないまま、世間を観察しているうちに、私自身が自分のアタマで考えて思い至ったことを、指摘してきたものである。
たしかに、日本に限らず、およそ一般大衆が得られる情報というものは概して通り一遍のもの、しょせん表面的なものに過ぎなかろうし、そこを敢えて押し分け、その もっと深奥に至ろうとすることなどは、現実として不可能と言っても過言でないだろう。
しかも、故 安倍晋三氏が射殺された あととなった今、ようやっと、水面下で深刻な状態に陥っていた真相が あかるみに出始めたとおり(「←いまココ」。まさしく)、殊に、この国においては、マスコミ・メディアというものが、どうしても政権・与党寄り、と言う以上に、要は『自民党(ジミンだっぴ党)』寄りの(そのまた奥には『アメリカ』が居る)傾向が顕著であるということは、これも、主に国外から指摘され続けてきた事実である。
このことも、すでに以前から指摘してあるが、
一般の国民や大衆が、それぞれに、ひととおりの学生時代を終えて、社会に出て、生業に忙殺される日常に入った以降は、かつての「学校」に代わる「教育」の機能を持ち、陰に陽に影響を及ぼすようになるのは、まず、マスコミ・メディアなのである。
そのマスコミ・メディアが、みずから標榜するような「社会への警鐘としての木鐸」だの何だのという立派な自負に反して、きちんと報道しないでいる。
それどころか、権力側の私利私欲と同調し、まさに「情報操作」を受け持つための強力な役割を任じているとなったら、一般の国民・大衆は、どうやって、その「教唆」的影響を廃したうえで、われわれ自身のための大局を判断することが可能だろうか。
おまけに、
特に近頃は、新聞記者やらジャーナリストと名乗る者たちのレベルも、全体が、いよいよ劣化の一途を辿っていると思えてならない体たらく。
先日のエントリーでも指摘した、
「なぜ、報道しないのか?」という疑問。
故 安倍氏が主宰していた『創生日本』の集会、
そこで、何がブチあげられていたか。
その事実を、一般の国民に、単なる事実として知らせただけで、大変な怒りと反発を呼ぶであろうほど、ひどい ありさまなのだ。
私は読んでいないので、詳細は分からないが、
最近の例では、たとえば『朝日新聞』が、またぞろ叩かれている。その原因が、
今度は、新聞紙上で、何やら「川柳」投稿欄か何かに おいて、故 安倍氏に関わる批判的な表現の作品を掲載したからとかいうことらしいのだが、
そうかと思えば、
宮台 真司氏へのインタビューを もとにした記事では、
当の宮台氏に言わせると、
最も肝心の批判的見解を述べておいた箇所が削られてしまったので、その本来の発言を、補填的に『ツイッター』にて云々という事情だそうだが、こちらも、私は読んでいないので、詳細までは分からない。
ただ、「ヤフゴミ捨て場」の投稿のなかには、
「まずは、(単なる)川柳と、(報道たる)本記事というものの違いを理解すべきだ」といった指摘も見受けられた。
そこには、「裏付け」や「証拠」というものが要請されるか どうか、新聞社自身が扱う差というものが あるからだ、と言いたいらしい。
一見、ご尤ものように思える。
だが、私は、それも当たらないと言っておく。
ヒントは、
主としてネトウヨらが、ふだんから、得意げに喚くところの、「報道しない自由」ってやつさw
なぜなら、
先述のとおり、
私の旧ブログ当時から指摘してきた、『日本会議』や『世界平和統一家庭連合/(旧)統一教(協)会』あるいは『勝共連合』あたりの問題を看過できないという瞋恚の警告は、少なくとも、その頃には、明白な「証拠」や「裏付け」に でき得るような動画がアップされ、残されていたからである。
だが、新聞社やテレビ局などのマスコミ・メディアは、申し合わせたかのように、どこも報じることは なかったようだ。
なので、
最近は、『自民党(ジミンだっぴ党)』支持者すなわち『日本会議』シンパや『世界平和統一家庭連合/(旧)統一教(協)会』信者や諸々の右翼系団体構成員の巣窟である、その代表格の一つたる「ヤフゴミ捨て場」に おいてさえ、「政治のレベルは、国民のレベル」ということを言い始めたなwと見受けていたものの、
ここへ来て、今度は、
「国家権力による情報操作のせいなのだから」、悪いのは国民でなく、政治家が悪い、
という意見も見られるようになった。
むろん、政治家と言うよりも「政治屋」と呼ぶべき、
しかも、
「私たちを利用してちょうだい利用してちょうだい」
と、宣伝しまくった安倍夫妻の如き、
すなわち国家権力の中枢の座にアグラを掻いている「ご用聞き政治屋」が悪いのは、論を俟つまでもないことだ。
だが、しかし。
私のように、ごく若い頃から、少なくとも、『自民党(ジミンだっぴ党)』を、与党・政権として営々信用するに値するか否かを疑い続けて、
こんにちまで、なかんづく「安倍政権」を豪も信用することが なかった、そんな一国民も存在するのである。
もちろん、私は、何らの「識者」でもない。
いたって平凡な民衆の一人、と言う以上に、
一般水準よりも、環境の不利や障碍などの重荷を背負って生きのび、ふだんは、ぼーっとして、てんで回らないアタマを持て余している、
無知・無教養な範疇に属する「底辺層」の一人、に過ぎない。
これは、どういうことなのか。
生育環境条件、身体条件、学歴、その他、あらゆる面で、私よりも恵まれていながら、「国家権力の情報操作」に、いとも容易く従い、踊らされてしまう国民・民衆は、どこで、こんな私でさえも惑わされないシロモノに惑わされ、すっかり、その気に させられてしまうのか。
そこの違いを、よく考えてみるべきじゃなかろうか。
とにかく、
私よりも頭脳明晰な、かつ、エネルギーにも恵まれた諸氏には、その せっかくの優秀さ有利さを、汚いことや狡いことのために浪費するのは、即刻やめていただきたいものだ。
それだけで、世のなかが、世界じゅうが、ずいぶん大きく変わるはずだから。
えせ「国葬」の実施も、『東京オリンピック』と同様、彼らには、いい商売ネタなのだ。
宮沢賢治の、この詩は、そのまま、マスコミ・メディアにも通じる。