2014.03.08 (Sat)
この事件の騒ぎが もちあがって間もない頃だったか、
近く閉鎖されるはずの「イザ!」の、とあるブロガーさんに、この件に関してコメントつけたところ、
IT系だかPC系企業に勤務という、そのブロガーさんは、
「こんな犯人、すぐに明らかになりますよ」
というふうに力説、豪語しておられたw
だが、やっぱり、私の当初予想どおり、お蔵入りさえしかねない状況のようだ。。。
だいいち、「遠隔操作」ウィルスにせよ、「トーア」とかいうのにせよ、
そのへんの一般人は おろか、中学生でも利用できるって実態。朝日か どこかの新聞のネット記事で読んだよ。
こないだも、一般人が、目を つけてた女性のPCに、「遠隔操作」できるソフトを仕込んだのがバレて、つかまったという記事が出てたじゃないか。
ましてや、一応、専門筋の仕事に従事してきた片山某が、そういうウィルスを作成するスキルがないのだとか、いったい、どーいうことなんだか。
サイバー系犯罪は、今後、いっそう複雑巧妙化し、かつ激しくなることは当然だろうし、警察・公安方面は、この分野を特に重視して早急に有効策を打ち立てていかなければ非常にマズイぞ、ということも指摘してきたんだけどね。。。
ところで、上記のブロガーさん、
私は普段から、問題の大きい見解の持ち主だなあと、正直、呆れていたのw
特に政治方面等に関して、ご開陳なさる思想性、というよりも思考回路については、ご多分に洩れず、実に小賢しく俗物的の見本、あからさまなレイシズム的排他性が全体に満ち溢れていて、大いに疑問を感じさせると同時に、
こりゃーよっぽど、日常生活に不満マンマンなので、こうやって、せめて、ブログのなかで、オステリー的鬱憤晴らしを しているのかもなあと察するところで、気の毒にさえなってくるほどだったのだけどもww
ただ、このひとねえ、
実生活では真面目な勤め人で、奥さんを丁重に扱ってるみたい(というか実態は、尻に敷かれて怯えてるみたいw)だし、
なんと言っても、犬など動物に対して、ボランティアで、誠実に面倒みてきたらしいので、まあ許せるかなぁ?と(爆)
アカラサマにケンカ売ってきた理由も全く意味不明なら、その自慢たらしさの内容もイミフなana5とかいうブロガー(←これも、「カルト連」の一員の別ハンなりすましの可能性高しと察している。「OK・goo」のWレタ●とかいう会員にソックリだ)
こやつほどには、私に対して無礼極まる もの言いをすることは、恐らく慎重に避けておられたと思うし、
つまらんホラや詭弁を尤もらしく吹聴せずにおれないという困った癖も、 かろうじてana5らほどは持っておられないので、個人的には、あまり腹が立つというわけではない。
ケッタイ極まる演説を、さも気持ちよさそうにトクトクと展開するだけでは済まず、そのうえ、ワケわからんケンカまで売って寄こすストーカーana5のごとき輩のほうが、もっとムカつくし
しかし、このブロガーさん、「イザ!」では、特定カテゴリーで1、2を争うかという「人気ブロガー」なんだぜえ
まあ、実際は、嫌われ度も高いということの、ネット特有の証左にもなってるわけなのだそうだがww
とにかく、
信用するに足らないのは、なんせ「産経」系「イザ!」は勿論のことw
ネット全体が詐欺の温床みたいな、致命的システムになっとるんだもんなあ。
2014.03.08 (Sat)
私が高校時代、学校のレクリーション行事で上映してもらったなかでも、対照的な2種の映画の思い出。
映画史上、不朽の名作の一つに数えらる「禁じられた遊び」、
ならびに、比較的、当時の近年に撮影されたと思しき、とある恋愛映画。
静かなる反戦映画であるのみならず、優れて恋愛映画である「禁じられた遊び」のほうは、すでに中学時代から、私もテレビ放映で何度か観ていたもので、そのたびに、垢抜けした美意識にウットリし、観終わっては、あらたな衝撃を味わい直したものだが、
翻って、
いまでは題名も忘れてしまった後者については、私に言わせれば、「お涙ちょうだい」まる出しの、やすっぽさ鼻につく、まさにメロドラマなのだが、
わが校の女子ども、各作品に対する、それぞれの反応ぶりのアカラサマな違いについて、当時の私ですら極めて愕然とした鮮明な記憶のことを、旧ブログでも述べてある。
もしも、何かの目的があって、ある書籍を、ノンフィクションだからということで購入し、参考にしたところが、実はフィクションだったとしたら。
インターネットでは、この、「書籍の形」にすら、基本なっていないわけだから、もっとタチが悪くなってしまう恐れは高いわけだ。
例の、消滅したカルト サイトの一つ「フィロトピア」メンバーによる「カルト連」なんかは、私に対する逆恨みで、すでに、虚偽によって、時間的損害を与えていたのみならず、
バレても謝罪するどころか、逆に罵倒を寄こし、
これをして「芸術」なのだ「学問」なのだ「おまえを鍛錬させてやった」のだと言うバカげた主張をもって、
以後も、徒党を組み、「OKウェイヴ」「2ちゃん」その他のサイトで、(正確な規模については、さすがに、私には不明だけど)
別アカウントを駆使したナリスマシ等あらゆる小細工を用いて中傷、不当な人格攻撃を実行し続けたわけで、
これでは間違いなく、一種の「ヘイト スピーチ」に類する行為だし、私自身の精神的不快に関しては、大いに実害あったことは事実。
これこそは、あの連中の言うところの「芸術」活動なのであり
(つまり、これが、数年前の「首大事件」との共通性ということを、私は指摘していたわけ)、
かつ、私個人に対する、そもそも何かしらの逆恨みを晴らす目的でもあったのだということは、いまでは、じゅうぶん察しているがね。
だが、それに伴って、
まったく無関係の人の、科学方面の著作や論文を掲げて、それが自分の業績だと名乗ってみせたり、
某大学の仏文助教(専門はボードレールだそうな。個人ブログもあるようだ)の実名を挙げたりもしてきているので、
これらのことが、もしも、「OKウェイヴ・おしえてgoo」最古参会員stomachmanをボスと仰ぐ「カルト連」による詐称だとしたら、間違いなく犯罪的行為である。
それにしても、「OKウェイヴ・おしえてgoo」常連会員であるブラげろんぬ爺さんの古い友人だという、もの書き稼業または文春系小説家の城島●彦氏の疑惑と同様、
実際に、これら人物たちが、あの「カルト連」の仲間うちなのが裏の実態だとしたら、これは これで、別様に、非常なナサケナイ事態ではある。
日本は、精神の内側からダメになってしまうのではという予感ヒシヒシだ。
こうした問題は、インターネット以前の放送時代開始から、すでに起きていたことだと考えられるし、私も、数年前に、ウェルズの「火星人襲来」であるとか、あるいは柳 美里さんの「石に泳ぐ」ナントカなどを取りあげて論じたことがある。このときも、
あの始末の悪いQAサイトにて、「カルト連」または、その便乗組連中につきまとわれたし、ほぼ毎度のことだったけれど、
なぜか「OKウェイヴ・おしえてgoo」運営サイドからも常々、言わば、体のいい言論弾圧をされたようなものだ。
だからこそ、「2ちゃん」と共に「逝ってよし」なサイトのうちに入るというのだ。
ちなみに、
「火星人襲来」については、これが、世間で大パニック騒ぎを巻き起こしたという話は有名だが、のちに起きた関連事件では、実際に死傷者まで出してしまったということだ。
最近の例では、さしづめ、テレビドラマ「明日ママがいない」についても、基本的問題点に共通性は大いにあると思う。
まさしく「芸術への冒涜」と糾弾すべき事態があるとしたら、それこそ、何かの印籠のごとく、われは芸術家なり、と内外に のたまってみせて恥じない似非ゲー術家らこそは、いとも真剣に軽薄に やってのけてしまうということ。
自覚あってか、自覚なしなのか。。。たぶん、自覚なしだと思うけど。
私は、人の世の、こうした現象にも、いわゆる「パーソナリティ ディスオーダー」の或る面が大いに関わっていると睨んできた。
また、
陰に陽に強制・強要といったことは、しかも、それが、本来不必要であるのみならず、邪まな自己中心的動機であるほどに、「人格障害」者の場合には必ず、つきまとってくる特徴であることも。
そうして、必然的に、
次の新たな強制・強要を、より広範に呼び込むということ。
人類全体の普遍的問題。
2014.03.08 (Sat)
まず、ご本人の聴覚にまつわる現象についての説明内容には、この私自身も身につまされると言っていいほど理解でき得る部分と、それでも、なお大変怪訝に思う部分が残されたこと。
そして、
このひとの受けた最初の診断において、ほぼ全聾ということだったにもかかわらず、こんにちでは明らかに、あくまでも障害手帳の等級には当てはまるレベルにないまでに回復した、ということの甚だしいギャップへの不審は残った。
だが、まあ、同じ「難聴」「聴覚障碍」と言えど、これほど、個々人によって、実際の症状の出かたが微妙複雑にわたるものも珍しいということは言えよう。
そして また、
なにしろ、これほどまで、生活全体に密着して絶えざるコミュニケーションの問題が つきまとってくることになる、
それは、おのずと、人間心理の問題にもつきまとわれることであり、同じ名称の障碍者どうしであってすら、常に誤解と偏見に晒されつつ、家族でさえも癒しきれぬどころか率先して誤解してくる、という孤独を内に秘め抱えながら、耐えて生きていかなければならない、世に筆頭レベルの障碍だろうとも思う。
『不寛容社会と、あの手この手で詐欺手口、のコンビ』
『「芸術」ビジネス――精神論好き日本の偽装「道」』
ともあれ、このエントリーでは、下記の記事を読んだうえで、あらためて「佐村河内事件」における作品についての問題点、つまり、「芸術」とは何か、という根本問題に立ち返らざるを得ない点について、再び三たび、述べておく。
このことは、私の新旧どちらのブログでも一貫して提起してきた、あの「カルト連」に象徴されうる、インターネットの基本的問題に関わってくることでもあるので。
『実話のように語られた「創作の物語」 真実と思った読者は「慰謝料」をもらえる?』
http://www.bengo4.com/topics/875/
この記事中で、弁護士さんの敢えて おっしゃる「勝手に感動した」というコトバ。
こちらのブログ主さんは、「誘導」という単語を用いて、異議を申し述べておいでだ。
http://stcreativedock.seesaa.net/article/377987193.html
この御主旨と、お気持ちは、私も大いに共感するところ(笑)
もっとも、法の実践世界においては、どうしても必要最低限の範囲に留まり、ドライに傾きがちなのは仕方ないことではあるだろう。
ところで、
「虚構でもって真実を描く」
というコトバがあることも、すでに述べたことがあった。
また、よく聞かれる、
「犬が人を噛んでも、ニュースにならないが、逆はニュースになる」
という喩え話。
荒唐無稽な、ただの絵空事も、それを現実、本当に事実だと信じる者にとっては、まさに「ミラクル」。
この「ミラクル」を、麻薬に溺れるかのごとく、貪らずにおれないひとも、けっこう多いように見受ける。
キューバの、往年の名プリマが、
「芸術とは、心を豊かにするもの」
と言っていたと記憶するが、
芸術に限らずであろうけれど、人類と、その精神進歩に豊かに寄与する、優れたるものは、すなわちフェア、正々堂々たるものであるはずだろう。
裏切りによる心の深い傷と、時間の損害は、いかに金銭を積んでも償えないのだ。
これの どこが、「芸術」を標榜できる価値を損なわず備えているというのか。
愚かなことだ。
さて、「佐村河内事件」。
一般人のみならず、むしろ専門筋においてさえも賛否両論と言っていい状態のようで、
作者が健聴者であったなら、逆に、そうでなかったのなら、くだんの楽曲自体としての価値は、どうなったか。
実際問題として、あるレベル以上に達し得ていないものだったら、いかに全聾者が作曲した珍しいものとは言え、さすがに、ここまでの評判を得るわけには いかなかっただろう。
しかしながら、「交響曲ヒロシマ」などは、識者によれば、マーラーなど、すでに評価が確立している巨匠クラスの作品から、あちこち切り取って繋げてあるということらしいのだが、このへんは、クラシックに多く親しんで、相応の知識ある人なら、すぐに気づくはずのことだ。
芸術に強制・強要などナンセンスだということを、先日のエントリーでも一言述べておいたが、
私に言わせれば、要するに、現実のなかから、いかにも中途半端に剽窃してきて利用する、という姑息さ卑怯さを、「芸術」「創作」表現であるぞと宣言されると、大いにアタマにくるってことさ。
(続く)
2014.03.05 (Wed)
本心では認めとうなかったことを、
かえって、世界に向け、公にハッキリと、
みずから積極的にコトバに表わして、
認め直さざるを得ないという仕儀に次々なってきとるやんかー。。。
ああ、、、なんでなん?
こういうのも、一種の「ブーメラン」なのでせうかw
『「事実誤認」と菅長官…NYタイムズ社説に抗議』
読売新聞 3月5日(水)5時57分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140305-00000206-yom-pol
~
これに対し、菅氏は「首相がそのような発言をしたことはない」と反論。「日本政府の基本的な立場は、1937年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害、略奪行為があったことは否定できないというもので、安倍政権も全く同じ見解だ」と述べた。
最終更新:3月5日(水)5時57分
2014.03.05 (Wed)
なにしろ日本の場合、アメリカとのあいだに、「安保」という特異なものがあるからね。。。
これ一つとっても、デメリットと同時にメリットの側面も小さくなかったわけで。一筋縄でいかない。
『安倍首相「解釈改憲」発言で注目 立憲主義とは?/早稲田塾講師 坂東太郎のよくわかる時事用語』THE PAGE 3月4日(火)11時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140304-00000002-wordleaf-pol
『室井佑月 安倍首相に「あのぉ、三権分立って知ってます?」〈週刊朝日〉』
dot. 2月28日(金)16時7分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140228-00000007-sasahi-pol
室井さんのを読んでみて、テレビ見ない即ち国会中継等も、まず見ていない私も、じつに疎いものだから、「法制局」とだけ述べてあれば、それは、おかしいよな?と思う。
ただ、正確に「内閣」とアタマに付いてれば、ああ、それは内閣のだもんね、くらいは、私でも比較的すぐに気づく。けれど、それでも、
首相を相手に、というのと、内閣法制局長官を相手に質問するというのでは、いかに首相が、ある限度内で最高責任者ではあっても、おのずと多少の意味合いは異なってくるのではないかとも思う。
『内閣法制局は「法の番人」なの?-池田 信夫』
アゴラ 2月17日(月)13時58分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140217-00010001-agora-pol
暴論w
だいたいねー、基本的に個人の一般企業経営と、国家の運営・首相職とを一緒くたには できないでしょ。
外交絡みの国益問題なんかには特に、そのへんの違いが出てるでしょう。
この池田さんてかたは時々(しょっちゅう?w)こうした論を展開なさるようなので、あまり信用しないほうがいいのかなあという印象を持ったのだけども(苦笑)
「使えない権利をもっていてもしょうがありません」
あ そう。じゃあ、捨てたらいいがww
まあ でも、
「国会で審議すべき」
最終的には、そういうことですな。
…
なんせ、信頼というものが、わが国の歴史において、どれだけ台なしにされてきたことか。
直近では、あの大震災と原発事故にまつわる経緯。
にもかかわらず、一つには「おかみ」意識のもとでか、世界有数の おとなしさ、従順さで知られてきた日本国民。だが、ま、一言で言って、
水面下では、やっぱり多くの国民に、底の知れない不安があるわけよ。
安倍さんは、この前には、国民投票!ということで騒いでたようだけどw
96条だっけ?「改正」反対者に対し、「国民を信用しないのか?」などと、産経あたりは殆ど恫喝的論調な記事を出してたしww
まあ、私自身は、旧ブログのほうで、まず信用できないわなあという旨を述べておいた。そりゃそうでしょう。
どこの国でも同じことが言えるのだろうけれど、国民の圧倒的大多数が信用に足る先見の明ある聡明な人々だったら、わざわざ、議員だの何だのと特別大がかりに選抜・委託する対象を設ける必要もないこと。
しかし、いわく「最高責任者」たる者が本当に責任を とったためしはなさそうなのだが、
主権者にして最終責任者である一般国民は実際、まさしく最終の責任は とらざるを得ない。さしづめ、あの原発事故は典型的だった。
切実さが違うわってもんだが、悲しいかな、心理学においても、「分散されると希薄になる」理論と似て、各人の自覚の重さは いたって軽いかもしれない。投票率等にも如実に表れてるみたいな。
下記の抜粋は週刊朝日という「朝日」系列、その朝日の、興味深い過去記事だ。
私も、少し検索してみて、目についた部分をササッと流し読みしただけなので、全部読んではいないけど。
これらを掲載当時の日付が、記事部分上下には見当たらないようだが、文中から察するに、民主党政権のとき書かれたものらしい。
はて、自民党安倍政権の いまと比べて、どうなのだろうか。意外な皮肉も生じているように見えるし、たいへん興味深い展開になっているようではある。
『問われる「法制局頼み」あるべき役割分担は山口進』
http://globe.asahi.com/feature/100614/04_1.html
~その認識のように、時代は動いていくだろう。ただ、内閣法制局が果たしてきた役割がすべていらなくなるわけではない。
人々が法律を信頼して行動できるように、法律同士が矛盾したり、法律やそれを支える考え方がころころと変わったりしないようにする。また、むき出しの多数決による政治の暴走をチェックし、バランスをとる――そうした役割を果たす法律の専門家、広い意味の「法曹」は必要だ。そして同時に、法曹の側には、変わりゆく社会に開かれたものとして法をつくり、とらえる姿勢が求められる。
そうした役割を、立法、司法、行政それぞれがどう担うべきなのか。
まず重要なのは、裁判所だ。これまで内閣法制局の存在感が大きかった背景には、法律などが憲法に違反していると判断することに最高裁が消極的だったことが挙げられる。
議員立法が増加したり、いわゆる「政治主導」の名の下で内閣法制局の審査がスキップされたりするようになると、いわば「できそこない」の法律が成立する可能性もある。すると、最高裁に対する期待は、今後一層強まり、あるいは質的に変化するのではないか――東大准教授の宍戸常寿はそう予測する。
~
法制局長官の答弁禁止について、元内閣法制局参事官で内閣府副大臣の平岡秀夫はこう話す。「政治家よ、もっとちゃんと勉強しろよ、ということだ。過去の国会の議論がどういうものだったのか、なぜ政府の統一見解がそうなっているのか、ちゃんと踏まえた議論が政治家同士でできるようになるべきだ」
~
『「政治の復権」と「法の支配」それが憲法の要請だ佐藤幸治・京大名誉教授』
http://globe.asahi.com/feature/100614/04_2.html
内閣法制局を今後どう考えるかは、裁判所のあり方、国会のあり方、政党のあり方など、すべてに結びついている。
「法制局頼み」にならないためにはどうすべきか。一つは、政党がガバナンスを高め、自前で法制の管理をできるようになることだ。
もう一つは、裁判所がもっと力を持ち、違憲審査や行政訴訟に本格的に取り組めるような体制を作ることだ。
政治家のなり手をどんな層に求めるかも重要だ。~
~
明治憲法体制が瓦解(がかい)したのは、色々と努力が試みられながらも結局は政治が衰退したからだ。政策的ビジョンを明らかにしつつ、全体を統括し、責任を持って推進できる政治が重要だ。憲法で重要なのは、「政治の復権」と「法の支配(人権保障)の強化」。政治改革・行政改革・司法改革などはそのためのものであり、粘り強く取り組んでいくことが必要だと考えている。
(文字強調等はブログ主による)
「政治の復権」と「法の支配(人権保障)の強化」。
現行の安倍政権を見ていて、こういう点は特に奇妙な矛盾と危うさを感じさせられるのだが。
『法制局の意見は十分に尊重。解釈の変更は内閣の責任で
石原信雄・元官房副長官』
http://globe.asahi.com/feature/100614/04_3.html
~
――民主党主導で、国会における内閣法制局長官の答弁を禁止しようとの動きを、どのように見ていますか。
~
ありゃりゃ?(爆)
...
『憲法解釈変更「最高責任者は私」 首相答弁に党内で批判』
2014年2月14日07時51分
http://www.asahi.com/articles/ASG2F4DWVG2FUTFK005.html
~
安倍首相は12日の衆院予算委で、憲法改正ではなく解釈変更により集団的自衛権の行使を容認できるか問われ、「(憲法解釈の)最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任を持って、その上で私たちは選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは内閣法制局長官ではない。私だ」と答弁した。
~
首相は、憲法解釈を担当する法制局が内閣の中の組織であることから、憲法解釈を最終判断する権限は内閣の長の自身にあることを強調したとみられる。一方、時の政権の判断によって、法制局が積み上げてきた憲法解釈の変更が頻繁に繰り返され、憲法の安定性が損なわれることを危惧する意見も根強い。
首相は13日の同委で「政治の場で私が決めればいいということではない。安保法制懇(首相の私的諮問機関)で慎重に深い議論をして頂いている」と答弁し、自らの判断だけで憲法解釈変更を決断するわけではないとの考えも強調。~
『<内閣法制局長官>公務に復帰「首相の方針に従ってやる」』
毎日新聞 2月24日(月)20時45分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140224-00000091-mai-pol
『解釈変更「厳しい制約」=小松法制局長官』
時事通信 3月4日(火)20時49分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140304-00000168-jij-pol