2014.09.06 (Sat)
前回のエントリーでは、こういうことを述べたのだけど。
こういうニュースがあった。
『ネットカメラのぞかれる危険…弱点、乗っ取りも』
読売新聞 9月5日(金)16時10分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140905-00050134-yom-soci
~
このカメラはネットにつなぐと、カメラごとにURL(ネット上の住所)が割り当てられる。そのURLが分かれば、パスワードなどの情報を入力せずに第三者がカメラの映像を見ることが可能になる。
~
とーっくに、これまでも思ってきたことだけど、企業側や、そこの内部者については安心していていいのだろうかね?
個人的には、例の「カルト連」に遭遇した お陰もあってw
「匿名での投稿は卑怯」だのなんだのと、いっしょうけんめい煽られても、私は早々から、
「実名?変質者がウヨウヨしてるネットで、そんな危ないこと やってられるかよww」
と割り切っていたから、旧ブログのほうでも、
「ハンドルはハンドルでいい、防犯のためにも仕方ないこと。その代わり、どのサイトで投稿しようとも、同一人による投稿であることが、一般にも見分けられるよう手立てを講じておいたほうが よかったのではないか。そのほうが、ナリスマシやら煽りだのといった、ネット特有の悪質トラブルも防げたのでは」
と述べたこともあった。
だいいち、誰の「実名」であろうが なかろうが、
結局、問われるのは、投稿した意見の なかみ如何と一貫性なのでね。
まあ、ネットというものが、あらゆる面で「見切り発車」をもって開始されてしまっている以上、この問題も、いまさら、遅きに失し、どうしようもないのだろう。
さて、先日のエントリー
~
いったい、こんなことを述べてばかりいるブログなど、誰かに頼まれてやっているのだろうか、
そうでは なく、
自発的に、あるいは、自らの抑えきれぬ欲求に駆りたてられてやっているというのか。
~
この疑問に対するヒントや答えの一つは、これかもしれないし、
~「嫌韓系まとめブログの6割以上が、韓国系ブログサービスを利用し広告収入を得ていた」~
もう一つは、これ。
『「バイラルメディア」安易なシェアに潜むリスク うまく付き合う3つのポイント』
THE PAGE 2014/9/2 18:46
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20140902-00000022-wordleaf-nb
~
シェアされればデマでもいいという考えのリスク
1. 新たなメディアの形として注目された
2. BuzzFeedという成功例が存在する
3. 誰でも簡単に作れる
という3点から、ここ1年程で国内でも注目を集めるようになり、既に40近い「バイラルメディア」が乱立しています。
誰でも簡単に情報発信ができるようになると「記事の質や、内容の信憑性は保障されない」という問題が生まれます。かつ、バイラルメディアは「事実」を伝えることを目的としてはおらず「話題になりやすいネタ」を競い合い「閲覧数」を追い求める傾向が強いメディアです。
中には明らかに「虚(デマ)」である情報を掲載して「閲覧数」を稼ぐ、モラルのない運営者も出てきています。こういったデマをデマと知りつつ掲載し、拡散することは「名誉毀損」や「風説の流布」で逮捕されるリスクもあります。
~
(続く)
2014.09.04 (Thu)
「ヤフー」に限らずで、
個人的には、IT系企業全体に対して不審感イメージを持ってしまってるけどさ。
私も、今回の「アイメイト」(盲導犬)被害についての記事に付けたコメントのなかに、視覚障碍者にも聴覚障碍者にも誤解を招くような、作り話としか思えないような悪質投稿を見かけたので、
こうしたIT系サイトの運営方針ならびに実行ぶり、スタッフの質に、早くから不審と危惧を抱いてきた私は、「OKウェイヴ・おしえてgoo」で懲りてるゆえ、あくまで期待はせずに、一応、通報だけしておいたばかりなんだけど。
悪質な作り話を用いた、タチの悪い中傷とは違って、
きょう見かけた、「運営は何を考えてる?」的、一目瞭然的、単純で分かり易い見本というのが、こういうやつ。↓
『盲導犬つける男を目撃 大学生風ロン毛茶髪でニヤニヤ』
スポーツ報知 9月3日(水)7時5分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140902-00000279-sph-soci
・「射殺しろ」
・「ゴミ屑はとっととあの世へ行け。」
この場合、
上の投稿の「射殺しろ」つうのは放置、
下の「ゴミ屑」云々のほうは、「不適切な表現」カバー(←すぐ外せるし、意味も効力もないに等しい空しいカバーw)で覆ってあるのね。
(だいたい、こうした口汚い系単語を出す者というのが、ある種の主張や傾向性が高い連中らしいことは、私も とっくに気が ついてるのだけど)
この二つ並んだコメント投稿の、一方は剥き出しのまま、一方は、すぐに外せる「カバー」を一応は被せてある。
この判断基準というのが実に不可解で、モロに奇みょうの見本なのだけど、こうした例は、ネット上では、とても多く見かける。
これも、ある種の傾向を持つ連中の主張のなかに、よく見かけてきた決めゼリフの一つで、
「自分のアタマで考えなさい」
とかいうやつ。
私は、
「そう言うアンタこそ、たいがい受け売りで、エラソーにモノを言う癖ついてんじゃないのぉ?w」
とツッコミたくなるやつが、やけに多いことも感じてきたけど、
「自分のアタマで考えよ」「勉強しなさい」こういうことを毎度トクトクと言う者こそが、
胡散臭い「いいね!」やら「参考になった」とかいう、いわゆる「支持」ボタンの多さを誇ったり、
それによって、自分のコメントの正しさの根拠にできると信じているらしいのだから、(kiguru●iなんか、ズバリで言い放ってたもんなw)
なにをか言わんや。
こういう、ケッタイな、しかも俗物根性まる出し現象は、IT系企業が、世のなかの大衆に齎してしまった、大きな罪の一つ。
これ以上、世のなかの風潮を悪くする前に、サッサと やめんかい!!
と、いつも思うの。
2014.09.03 (Wed)
こっちのエントリーを先に書く予定だったのだ。
『「社会還元」』
私も、お役所特有の経済観念というのか、なんとも独特の処し方があることについての疑問は、若い頃から持っていた。
とは言え、
ただ、「ムダ」を削減する努力は当然としても、そこで、何を どう「ムダ」と考え、何を「必要だ」と判断するのかということにも、少なからぬ危惧感がある。
『社会保障財源から国・企業負担減らし「日本に財源がない」という政府・財務省の異常、消費税が壊す社会保障』
井上 伸 | 国家公務員一般労働組合執行委員、国公労連書記、雑誌編集者
2014年8月27日 15時11分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140827-00038624/
「社会保障費の増減を見るには、額面上の数字を見るだけで判断するのではなく、国庫負担割合の低下を見る必要があるのです」
そこで、
「国における社会保障以外の支出(65兆円)がどう使われているのかという分析」
こういう作業は必須である。
数字の表面だけを見ていたら、本質を見誤るということは、よくあるのだろうし、詐欺的テクニックとしても、たびたび利用されてきているのだろう。
さて、「たかの友梨」問題でも、経営者の詭弁的言い訳やらの典型的な現象が見られたが、
要は、あまりの格差と乖離、これが平気で罷り通っていると、
「自分だって!」「自分だって!!」と思ってガンバった、そのことが化けて、俗に言う「姑根性」的いやらしさの連鎖を生じさせ、それが やがて、世間全体を殺伐とさせる大きな要因になって蔓延していくのだと思う。
「私だって!!」「ガンバったんだから!」とは、基本的に自分視点のみからの主張であり、おのれの言い分に過ぎない。
その主張、言い分に過ぎないものを、むやみ単純に押し付けていっても、目前の表面には見えてき難い何処かでシワ寄せが溜まってくるだけ。
その何処かとは、
およそ「弱者」と呼ばれる位置にスッポリ嵌めてしまわれることとなるのは必然。まず、乳幼児や子ども。
あらゆる個体間にも、差は大きく、いろいろあるものだ。
やはり、「最低限」としての基準設定は必要だし、そこからも外れていってしまうなんてものは、全体から見て、そんなに、割合が大きいはずも ない。
まあ、私とて、会社なり組織なり、その立ち上げ人に共感して、たとえ、相手が経営者、上長で、自分は単なる雇用者関係に過ぎなくても、相手も、自分と同様にボロを纏い、粥を啜って、苦しい状況のなかで頑張っているさなかの姿を目の当たりにしているなら、「意気に感ず」というのか、一心同体のつもりになって、自己犠牲精神とやらも辞さず、ついて行こうとする、かもしれない。
だが、自分の野心だけしか眼中になく、歪んだ手腕でもって成功にアグラを掻き、すっかりと思い上がり、人を人とも思わなくなった者を崇拝したり、黙って従い尽くすほど、おとなしくもオメデタくも ない。
もう一つ付け加えておく。
ネットというものに入り込んでも、あの「2ちゃん」の存在と同じく、数年に わたって、私が全く知らないでいたことの一つなのだったが、
近頃、例の「在特会」あたりが流行らせたものだろうか、「(どこそこ)から出て行け!!」なる要求。
これってね、
私個人的にも、なんか反射的に苛立ちや腹立ちを もよおさせるのだけれど、
考えてみれば、
うちの親が、かつての私に向かって、しょっちゅう言い放ったセリフを思い起こさせるんだな。
「おまえは、なんだ かんだ言っても結局、うちが居心地良いからこそ出ていく気がないんだろうよ」と。
こりゃ、単に、うちの親側の とんだ己惚れであって、
私自身は本当に本当に、一日も早く、実家を出て行きたかった。
けれども、
当の親自身が、このことを、世間に知られぬよう圧力を かけ続け、
私の自己認識を、自分たちの つごうに合うように、はたらきかけ続けた長年の その結果、
健常者からも、同じ障碍を持つ人々からも、孤立を余儀なくされたままで生きていた私自身の障碍ゆえに、容易に予測された職業上かつ生活上の困難が、
もう一つは、
父を、人として信用でき難かった私にとって、どんなに疎ましい親でも、母だけは、たった一人の「同志」という感覚に近かったというか、
ここでは、まさに「子の心、親知らず」という逆転が起きていて、
生まれながらの宿命のように罪悪感を背負わされた私にとり、母の存在は、この世で一番の心配の対象だったから、しょっちゅう凶暴になる酒乱の父のもとに残したまま、盾になってきた私が、ついに、母を捨てて出ていくことも含めて、怖かったのだ。
私自身は、幼い頃から、「おまえなんか捨てて出ていく」と、いつも脅されていたにも かかわらず。
そうして、それでも、やがて来た日に、(ある程度の親からの資金援助も含め)そうとうの無理を押して、意を決して、私は、実家を出たけれど、
そのことを、母の本音で、「おまえは、家を捨てて出ていった」という言い方をして寄こされたこともある。
なおかつ、反面では、
障碍にも かかわらず、健常者のなかに立ち混じって働きつつ、いつしか病気が重くなってしまっていても、やっとの思いで出た親の家に、以後、決して決して、戻ろうとはしなかった私の本音を、ごく少しだけでも理解したようだった。
そう。私は本当に、本心から厭だった。
己惚れやさんたちよ。少しは分かったかなw
2014.09.02 (Tue)
『「悪意」を見た』
さて、先述したコメント投稿者だが、
「私は視覚障害の方ではないのですが、以前、聴覚障害者の方と接する生活、仕事をしていたことがあります。大半の方は、」云々とある。
まず、
「聴覚障害者の方と接する生活、仕事」とは、
いったい、どういう生活であり、仕事なのだろうか?
しかも、「大半の」という断定的文言ときた。
もしも、専門的な立場とか、あるいは、何らかの施設職員といった立場に就いていた経験からとして、そういうことを言うのであれば、
マッタク、そんなことだから、
「思いが伝わりにくくて短気を起こし、暴力的になる人とかも…」
出てきてしまうのは、ある意味、当然かと思ってしまった。
くだんのコメント者の投稿内容、これも また、冷静に、少しばかり緻密に検証さえすれば、如何にも奇みょうなことを述べていることが すぐ分かるていのものだ。
分からず、そのまま鵜呑みできる者は、世のなかに疎い子どもか年寄りか、よほどの迂闊者だろう。
このコメントが言うところの、「存在が近ければ近くなるほど」とは、まったく限ったことでなく、
手当たりしだい、
(まさに、今回、被害を受けた盲導犬のように)
見知らぬ他者であれ、あかの他人であれ、
自分と比べて、状況的に、絶対的に負ける恐れはないものと直感的に踏んだら、ひとたび目についた対象相手に向かって早速実行、身勝手な欲求を押し通すことはある、脳や精神面に異常なところがあっても、こういうときの判断だけは、なぜか、じつに素早いものがあるのでは ないか。
「自己保身」のための他者犠牲といった、ほぼ特徴的、類型的な迷惑行為を及ぼして恥じないという共通した性質は、私の経験では、家族内に、身内に、職場内の同僚にも、ことごとく見受けたけれど、
これは、たとえ、どんな「身体的障碍」を持っていたとしても、あくまで、
その個人個人の内面的資質、精神のほうの問題ゆえの発露
なのだ。
そういえば、
うちの母親も、むかし、本人が、まだ若かった頃、友人の家族である視覚障碍の人から、ひょんなことで誤解を受け、全く不当な、いわれなき疑いを向けられた不愉快な経験を したというので、ずいぶんと、視覚障碍者全体を指して、あれこれ批判めいたことを聞かされたことがあった。
そういう当の母はというと、
すでに述べてきたとおり、脳に一部異常を抱えていた、しかも、要領の良いこと人後に落ちない優等生だったのだから、
わが母親とは言え、聞かされた こちらも、なんとも返事に窮したことを憶えている。
で、彼女の娘である私自身は、聴覚障碍者の端くれだw
当事者の端くれである私自身も言っておきたいのだが、
聴覚障碍者は、必要な音声を拾うことが できないと同時に、ほとんどの雑音や不快な騒音の類からは必然的に免れているという現象でもあるので、そのせいか、
それこそ、「大半の」人は、
どちらかと言えば、もの静かで、のんびり・おっとりタイプな性格の人が多いのが特徴と言われている。これは、私自身も少なからず思い当たることで、
つまりは、
「障碍も個性となっていく」
という一つの喝破に繋がっているのだなと実感する。
ただ、中途で聴覚障碍を負うことは、高齢になると誰しも珍しくない。なので、ただでさえ気が短くなる人が多いという高齢者で、家族のなかにいても孤立した感じに苛まれてしまう場合、イライラと、身近の家族に当たるということは、あるのかも しれない。
私なんかは、父が歳を取れば取るほどに、持病の影響でか、ますます、聞き取りにくい喋り方をするようになり、母は、とうに亡くなっていて、他の きょうだいたちも皆、他人事で、私だけが、めんどうを みている状態のなか、
もともと、暴力的で、きらいな親だったこともあり、
だんだん繰りごとのような話を聞き取るのに、難聴者の私は骨が折れ、ますます、疲れとストレスを溜め込んだ時期があった。
私の障碍についても、過去、親としての義務を果たさず、いっこう無関心であり続けたことも、私のやり切れなさに拍車を かけたと思う。
でも、イライラしていても、私は、暴力は振るわない。暴力を振るうのは、いつも、「健常者」たる父のほうw
私は、人生の殆どを、辛うじて「健常者」のフリを とおして生きてきたので、私以外の同分野の障碍者に接した経験は、いまだに、ごく ごく少ないままだ。
そっち方面の、数少ない知人のうちで、私よりも、もう少し重い等級ゆえ、子ども時分から発語訓練や補聴器を手離さずにやってきていた人は、長年の補聴器使用自体の苦痛からも、重いストレスを訴えていたことがある。そのために、仕事も辞めざるをえなかったそうだ。
まあ使ってみないと分からない鬱陶しさというのは、そうとうトシを喰ってしまってから、遅れて使用する機会が訪れた私も、早々に音をあげたくらいなので、少しは理解できている。
さて、
「そういうので八つ当たりとかをされるのは、自分の子供だったり近場のごく親しい人だったり。盲導犬も近い存在かつ、刃向わないなので、そういう風に扱われる事もあったりするのではと」いう、くだんのコメント投稿者。
だが、
私の知るかぎりで、聴覚障碍者というのも、一般的な業務に従事していれば、まず間違いなく必ず要請される的確なコミュニケーションと、日常生活上のあらゆる場面で多かれ少なかれ危険性が伴うため、周囲の人たちを巻き添えにしてしまうような迷惑を かけまいとするあまりに、がまんを重ね続けてきた結果、かなりのストレスを溜め込んできてしまっているのが大部分の現実だ。
はっきり言わせてもらおう。
私自身の場合は、一応「健常者」として、家庭においても職場でも「健常者」なみの仕事と、
どうかすると、それは、「弱みにつけこまれて」というべきだったのかもしれないのだが、
並居る「健常者」たち以上にも重い役割を果たさざるを得なかったことが一番大きい原因だろうが、
こういう立場にいる者の、知られざる苦労や困難の かずかず、
そのなかには、誰あろう「健常者」たち自身
(↑ことに、「隠れ」的と言うべき、要するに「共有」ということを できていなかった精神的問題のある者たち)からの悪意ある言動の端々から齎される苦痛や、それに対して堂々と抗議し、対等にモノ申すことすら、往々難しい立場であったことも、このブログでも幾度かは言及してきた。
私にストレスを齎してきた主な相手は常に、家庭内においては、私の親であり兄弟姉妹だったし、
一歩、外に出れば、職場の同僚なり上司であり、つまり、「健常者」たちだ。
その彼らも また、全員が、精神面あるいは脳における、何らかの異常や歪みを抱え持つ「隠れ」的障碍者だった。
このことは当然、あかの他人であれば勿論のこと、いちいち確証を得るわけにいかなかったものの、
のちに、いろいろと知識を得た私が、あらためて、当時を検証した結果、あきらかに思い当たることであり
(たとえば、1時間以内に提出しなければならないものを、上司が黙っているかぎりは、2時間でも3時間でも、ヘタすると一日じゅうでも!かかりっきりで同じことを繰り返し確認し続けている、要するに強迫的行為である それは、自分のミスが発覚して叱責されることを異様に恐れ過ぎるほどプライドが高いゆえだったかとも思われ、
そのくせ、シワ寄せを及ぼされても、責めることなく引き受け、その先輩社員が1時間かけるものを、30分、15分、10分とガンバって仕上げていく私に、口を極めて居丈高なセリフを吐いたとか、
くそ真面目以外にトリエがなく無能な部下を、どう教育することも できず、ただ、優秀な部下一人に、薄給ながら押し付けて犠牲にし、そうして誤魔化すというセオリーでやってきた、管理職である自分自身の業績を守ることしかアタマにない、個人としてはヤリ手、上司としては無能者は、私の場合にも、こちらの障碍を いいことに、捌ききれない分すべてを背負わせていた、とか。
どう見ても、思考回路や精神がマトモでは なかろうというものだ)、
うちの家族や身内の場合なら、もう、はっきりと、それぞれ何らかの精神異常だったり、脳の一部異常だったりしたことは判明している。
何らかの専門的立場にでも従事していたのか?と匂わせつつも、根拠と言える根拠なく、ただ、目的は、聴覚障碍者全体への誤解を招き、重ねさせようという悪意を感じるコメント。
ひいては、障碍者全体、特に身体障碍者全体への偏見に繋がっていきかねず、拡散的効果が高いと思われる「ヤフー」コメントで、こうした問題投稿。
これは もう、社会問題と捉えるべきであり、はなはだしい卑劣ぶりと言わざるをえない。
とにかく、今回の「アイ メイト(盲導犬)」事件の加害者は、必ず捕えてもらって、
捕えたら、その内面性、動機等を、よくよく調査してもらいたいものだ。
内面性の問題があることだけは明白。
2014.09.02 (Tue)
私も、「盲導犬」の存在については、そもそも動物としての、犬の本能的生理に、かなり無理を させている、つまり「虐待」スレスレと言われかねないのではあるまいかと心配するところがあったので、犬という動物が、ことのほか、人間からの情愛を得て、人間の役に立ち、褒められることに喜びを感じる傾向が高いらしいから、飼い主さんが精いっぱいに報いてあげられるのなら、それは それでと割り切りつつも、いささか複雑な思いはある。しかし、
なにも「盲導犬」でなく、そのへんの普通の犬でも、人間からの虐待は多い。
首輪を嵌められ、鎖に繋がれ、一日の殆どを、狭い場所から出て行けないことだけでも、本来、犬にとって大いに迷惑なことだろうし、極端な最後は、最悪、保健所送りで始末されることだ。
しょせん、動物の一種である人間、記憶力と知恵だけは突出して発達したので、ありとあらゆる生き物を上手く利用しながら、自身を延命させているわけで。
大昔から、使役する牛馬等家畜には、人間さまを差し置き、真っ先に、水を飲ませてやり、餌を食べさせ、丁寧に からだを洗ってやり、気候に合わせた寝床を拵えてやる。それも これも、結局は人間自身のためなのだから。
さて、↓この記事に付けたコメントのなかに、こういうことを投稿している者がいる。
『盲導犬の後つける若い男 沿線駅で目撃情報 オスカー事件との関連捜査』
産経新聞 9月2日(火)11時24分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140902-00000516-san-soci
あの「カルト連」のうちの誰それかと思い当たるような、まことに奇みょうな特徴ある言い分の投稿を見たとき、そのことを指して、当ブログで述べておいたことがあったと思うけど、
その時のハンドルと、今回の、この主コメ投稿者のハンドルというのが同じであっても、間違いなく同一人物の それだか どうかは、一般閲覧者には、もはや分からない。
一応、過去投稿の確認できるところを見てみたかぎり、やはり、そうとう殺伐とした趣きからして、あのときと同一人だろうかという印象は つよい。
ところで、なによりも、この「pom*****」という投稿者。
コメントが、これ一つっきりかwなるほどねww
さてさて、
とある「盲導犬」が、外部の不明なる通行人から悪意ある被害を蒙ったという、この話題のもとで、なぜに、聴覚障碍者の「わがまま」ということを挙げて指摘せねばならないのか、その必然性もサッパリ不明なのだが、
ことわっておくけれど、聴覚障碍者だから「わがまま」ということには全く ならない。
むしろ、私の知る限り、「わがまま」どころか、がまんにガマンを重ねつつ、世渡りしてきた人のほうが圧倒的に多いだろうことを指摘しておく。
ただ、
どのような障碍であっても、軽度・中度クラスの、ことに、内部障碍者の場合、それと分かりにくい状態で、「健常者」を主体として構築されている社会の ただなかに出て行き、働き、やがては高齢を迎えたからとて、障碍者としての特別な年金等を望めるわけでは ないので、周囲の理解が乏しい場所で、たとえ屈辱的なことがあっても、がまんして、身を置かざるを得ない苦労を強いられている人も少なくは ないことだろう。
こういう立場というものは、見て、すぐに察しが つくとか、
たいがい鈍くて、想像力に欠けるうえ、しまいには、あべこべに「障碍者に迷惑かけられる被害者」という偏見に満ち満ち、じつに無神経だったりする「健常者」にさえも、わりと追体験可能な重度障碍とは、また異なる苦労と苦痛が付きまとう。
しかしながら、
人間が視覚から得る情報は、はかり知れないのに、まったく見えないといったら、本当に、危険と隣り合わせを文字どおりで、生活されてきたであろうと、私なんかでも普段から思いは する。
もちろんのこと、重度障碍は大変なのだし、周囲も否応なく関わらざるを得ない度合いは飛躍的に高くなる。
およそ障碍者が、極端なほど社交性に欠けていたりすると、苦労も飛躍的だ。
「人嫌い」を打ち出してばかりいては、やっていけない。
それだけでも、実際問題として、「わがまま」は慎まざるを得ないというもの。
どんな人も、一人だけで生きていけないのだ。まして障碍者は。
だからと言って、「健常者」に、見下されたり、むやみと居丈高な発言を されていい理由には ならない。
ましてや、昨今、にわかに大っぴら叫ばれるようになった、「弱者の弱者叩き」。
私もコメントを受け付けなくなった原因に、精神科患者でありながら、私の身体障碍を嘲笑し、口汚く侮辱し続けたアラシのつきまといがあった。
やれ、
「身体障碍者は、精神障碍者よりも劣っている」
だの、
「目に見えない障碍のほうが苦労が多くて大変なのだ」
とか、
いったい、ネットのなかでは、何度ズケズケと言われたことだろうか。
それで、私が、
「では、内部障碍者で、かつ、身体、精神ともに障碍を抱えている人の場合は、どう考えているのか?」
と問いただしても、まったくダンマリ。
ただ ただ、同じ凄まじき勢いを落とさず、相変わらず「身体障碍者は~」と、ひたすら罵り続ける。
この不可解な現象は、何かとも共通しているなあと思っていたら、そうそう、
(主に親が金持ちとか、不労所得があるからという以外での)「ニート」やら、働けど働けど「ワープア」が、「生活保護」受給者を叩きまくる、つまり「弱者が弱者を叩いてる」という構図。
先日も、あるブロガーさんに対するコメントで見かけたけど、
「生活保護を受給するようになった者は、たちまちにして、良い服を着るようになったのを、自分は、身近で何十人も見てきた」
と、いかにも、おかしな話を平気で する。
この者は、自分も精神障碍者であると、自ら言っていた。
そうそう、また、
在日韓国・朝鮮人または中国人を「特ア」とか称して、反日許さんぞ!と叫ぶ、そういう「ネトうよ」と呼ばれている輩に、在日の友人・知人で、仲良しが何人もいるし、居住地域には、在日が大勢いると言う。
この奇みょうさのことも、先日のエントリーで指摘した。
いつだったか、ずっと前にも、
「ケースワーカー」だか何だったか専門職として、「生活保護」受給者たちと関わってきたキャリアありというので、そこで見聞してきたケースとて、いろんな話のなかで、「生活保護」受給者たちへの中傷すべき ありさまを、これでもかと言わんばかり述べたてていたが、
だが、こちらが少し冷静に検討しつつ読んでいけば、どれも これも作り話(=デマ)めいていて奇みょうで、ツッコミどころ満載なのだ。
このうえもなき悪意まんまんで、少し読んだだけで、胡散臭さが鼻につき、げんなりして、すぐに閲覧を中止した。時間のムダ以外のなにものでもない。
けれど、直接に詳しい知識や経験を持たない一般人のなかには、ただ驚いて、「正義」の怒りを掻き立てられてしまうことも、まま多いことだろう。だから、こんにち、おかしな風潮が蔓延し始めている。
いったい、こんなことを述べてばかりいるブログなど、誰かに頼まれてやっているのだろうか、
そうでは なく、
自発的に、あるいは、自らの抑えきれぬ欲求に駆りたてられてやっているというのか。
こういうところが、正直言って悪いけれども、精神障碍または精神科患者と自己申告しているひとたちのことを理解するのにも、はなはだ困難であると感じてしまうところ。
もっとも、精神障碍者、精神科患者であると一口に言っていても、その資質、内実、現実も様々だ。
(続く)