2015.06.07 (Sun)
の続き。
とにかく、成績が良いというのは、一緒に授業を受けていれば、こちらにも、すぐに察せられることなのだけれど、単に、学科全般が良くできるというだけでなく、
私の身内にも、そういうタイプは いるのだが、そもそも、知能指数がズバ抜けているという話だった。
そのA君は、見るからに、頭脳の優秀さが現れたような外見で、
他の男子どもが、汗臭くも、浅黒い顔にニキビを爆発させていたのとは対照的に、
神経質そうな青白い滑らかな肌、澄んだ切れ長の目、ちょっと捉えどころのないほどクールな表情を常に浮かべていて、
要するに、絵に描いたような、透明感のある、繊細な優等生の風貌であり、およそ「体育会系」とは程遠いタイプだったのだが、それでも、本当に優秀な人って、いわゆる「文武両道」だとか言われるものだけれど、A君も、じゃあ、体育系が苦手かというと、そういうわけでもないようだった。
小学校時分から、「女番長」などと呼ばれたこともあるほど、五月蠅くチョッカイを出してくる男子ども相手には真っ向からやり返すことを辞さなかった私にも、その名物優等生男子A君が、感情を少しでも表に出した場面を目撃したことは、ついぞ なかった。
もちろん、A君が、私に対して殊更に何か言ったり仕掛けたりしてくることは一度もなかった。
したがって、こちらとしても、彼が、すごい評判の持ち主という噂を聞きつつも、遠巻きに眺めているだけのことで、私にとっては、大変な優等生だとかいう以上に、単に、もの静かで大人しくて、この年頃にしては珍しいほど非常に冷静な男子であるという以上の印象は希薄だった。
入学して、私が最初に希望していたクラブ活動は、
およそスポーツが得意なわけでもないのに(フシギなことに、両親、特に母のほうは、国体候補になったことがあるほど、スポーツ万能だったのだが)、
単なるミーハー精神だけで、かっこ良さげなテニス部を志望していたのだが、さすがに、ここは希望者が あまりに多かったそうで、とりあえず別のクラブを考えないとならなかった。
前後して、
クラブ選択するにあたり、全新入生のためのレクチャーを兼ね、各クラブごとに持ち時間を与えられた、主に三年生の先輩方が中心になって、「ぜひとも、わがクラブへ!」という勧誘演説が、講堂にて行われた。
私は、それらを一応真面目に聞いていて、テニス部以外に、とある文化系のクラブに興味を持った、と言っても、
その内容も名称も、こないだまで小学生だった身には聞き慣れないもので、活動自体に興味を持ったというほどではなかったのだが、
なにしろ、そのとき勧誘演説していた三年生の男子先輩の呼びかけが、とても情熱的で知的で、いわゆる「意気に感じた」わけだった。
小学生あがりには、三年生は、なかなか大人っぽく見えた。
しかも、そのクラブは、人数が少な過ぎて、存続は風前のともしび、ということで、先輩の演説には、まことに悲痛なものがあった(笑)
ミーハー憧れのテニス部がダメだというので、一転、その潰れかけ文化系クラブのほうに心を決めた私が、そのことを、帰宅後の夕食時に、親たちに報告すると、
ふだんは何ごとにつけ反目し合っていた父と兄が、このときばかりは口を揃え、なぜか大反対した。理由は、
「これ以上、ナマイキになっては困るじゃないか」w
どういう意味?とムッとした私は、わが家の父兄の意見は全面的に無視することにして、その潰れかけたクラブの部室へと乗り込んで行った。
先輩がたの、涙ながさんばかりの熱い歓迎のコトバ(笑)、懐かしい思い出の ひとこまであった。
ある日のこと、クラブ活動の日に、部室へ赴いたところ、なぜか、くだんのA君が、そこに居た。
私は思わず、
「あれぇ?A君、このクラブに入ってた?」
と話しかけたが、
相変わらずクールなA君は、まともに返事もせず、ただ、口の端を微かに曲げて、ニヒルな笑みを浮かべて返しただけであった。
あるとき、男子女子合同でドッジボールを やる機会があった。
体育の通常授業の一環だったのか、特別なイベントだったのか、いまでは記憶が曖昧だが、
とにかく、相手グループのなかに、くだんのA君が加わっていた。
さて、
対戦相手の一員として加わっていたA君、なぜか、集中的に、私だけを狙ってきた。
コートのなかで、私が、どの位置に逃げていようと、A君の眼は常に、私のほうを見ていた。
私が必死に かわしても かわしても、
A君は、こちら目がけて、執拗なほど、ボールを投げつけようとした。
実際、当てられてしまった私は、怪訝な感じを持ったが、その頃は、それだけで、あとは忘れていた。
二年生になる頃には、クラス替えもあったし、時おり、A君の相変わらず優秀さを窺わせるエピソードを漏れ聞くことはあっても、私にとって、それほど興味ある対象ではなかった。
やがて、
飽きっぽい私は、放課後のひとときを、仲の良い友人たちと遊ぶほうを優先し始め、
顧問の先生が、私の将来性を高く買ってくれていたにもかかわらず、クラブ活動をサボり始めて、遠ざかっていき、
ついには全く、顔を出さなくなっていた。
ある日の学校行事で、たぶん、文化祭だったかにて、講堂の演壇上で、各種クラブ活動の一端や成果を、全校生徒と来賓たちの前で発表しているとき、その頃すでに別のクラブに所属していた私が、とうに やめてしまった、あの潰れかけクラブの、相変わらず少ないメンバーたちも登壇していた。
その代表として、A君の姿もあった。
彼は、あのあとも最後まで残り、
先輩たちが卒業していったのちは、彼自身が部長となって、クラブを率いていたのだった。
彼の発表ぶりは、立派なものだった。
私は、いささか恥ずかしい気持ちを覚えた。
それから、
人生最初の受験シーズンを迎え、それぞれが高校へと進学する頃には、クラブのこと、あのドッジボールのときのことも、すっかり忘れたまま、最近になるまで、記憶の底に沈んでいた。
ときおりは、
あの風変わりな男子の記憶を、ふとした機会に連れて、少し思い起こすことはあっても、なんだか怪訝な印象だけが先に立ち、すぐに忘れていた。
要するに、私にとっては、その程度の思い出だった。
彼の名前も、もう思い出せない。
どこに進学し、どんな職業を持つ大人となったかも一切、知らない。
ただ、あの神経質そうな青白い肌と、澄んだ切れ長の眼と、感情の見えないクールな表情だけは、わりと先日会ったかのように思い出せる。
2015.06.07 (Sun)
このコラムの元ネタになった提起の案件は、私も先に、勝部氏の、その記事を読んで、そう言われてみれば、なかなか興味深いものを孕んでいるなーと思っていた。
そして、自分自身の学校時分の、長いこと、記憶の底に眠っていたことも思い出された。
『ドッジボール ケガの実態から考える』
2015年6月6日 5時33分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20150606-00046369/
~スポーツのなかに潜む悪意ある暴力を顕在化させた点~
~スポーツはルールに従って健全におこなわれているようで、ときにそこに悪意のある暴力が隠れていることがある。~
それはね、言わば「暗黙の了解」みたいなものは、たぶん、もともとからあったよねえw
要するに、「敵」である相手を負かそうとするわけだからね。
そりゃ、「悪意」と容易に結び付く下地はあると言えよう。
だからこそ、しっかりしたルールを設けたうえで、順守が必要なわけで。
~悪意ある暴力は、その競技種目の問題ではなく、暴力的な人間関係自体が問題である~
~ゲームをしているように見えて、悪意のある加害者がボールを力いっぱいに、特定の相手にぶつけているかもしれないということだ~
だいたい、勝ち負けを競う世界だからこそ、「マッチョ」の世界であり、ヒエラルキーの世界、
こういう所では、ありとあらゆるセクハラ、パワハラの類が花盛りとばかりに付きまといがち、あらゆる権勢欲が渦巻き、ついには国威発揚の世界ともなる。
そういうのって、リクツでなく、本能的なものが支配する世界だからこそ、世間で大称賛の反面、
「体育会系」
「体育教師w」
「しょせん筋肉脳」
だとか言って、裏では、ひそかに嘲笑と侮蔑の対象になることもある。
どういうわけか、これも親に似なかったのか、運動系は好まないタチには違いない私なのだが、ダンス系と球技系だけは、わりと好きなほうで、サッカーの授業時なんかは、ヘディング上手いというので、男子に感心されたこともあるのだが、私は、腕に力が上手く入りにくいのか、ボールを投げて遠くに届かせるのが苦手で、このドッジボールというのは、数あるスポーツのなかで一番キライと言っていいものだった。
やはり、小さからぬ、空気がシッカリ詰まっていると張りつめた硬さが あるゆえ、まともに受けると痛いボールを(私らの時代は そうだった)直接、狙う相手の体に向けて思いっきり ぶつけるというやり方に、明確なコトバにして思ったことは なかったけれど、間違いなく、一歩違えば「いじめ」のツールになりかねないことは感じ取っていたし、野蛮な種類のスポーツだという感覚は、どこかにあった。
なにより、衣服が汚れるのが厭わしかったなあ。
高校では、ドッジボールは全くやった記憶がない。
なので、あれは、せいぜい、中学生までのものだと思ってた。
さて、
中学校に上がった頃、
同じクラスになった男子のなかに、ちょっと有名人みたいな子が いた。
というのは、その男子(仮に「A君」と呼ぶ)の場合、中学に進学する前から評判で、すでに、職員室の先生たちのあいだで、すごい子が入ってきたぞというので、ひそかに噂になっているらしいという話が早々、私の耳にも聞こえてきた。
【続く】
2015.06.07 (Sun)
なので、
こと日本については何によらず、良くも悪くも、あれこれと言わずに おれないようだ、とは思ってた。
まあ、やられた側は忘れない、ということもあるにせよ、
しかし、
「やった側」の常と言うべきなのか、
日本はというと、これも良し悪し抜きに、基本的に無関心だった。
だから、韓国、朝鮮人は、ますますムキになる。
それでも日本は、日本人は、もともと関心が薄いゆえ、
何を言われようと鷹揚に、
まずいことは水面下で、うまく抑え込んでおき、
表向きの顔だけは、つるりと平静を装っていた。
むかしは、少なくとも、私が若かった頃までは、そんな印象だった。
私は、むかしから、
「もっと無関心になるくらいのほうがいいのに、韓国、朝鮮人は」
と思っていた。
これじゃ、まさに、痛々しいほど片思いの体じゃないか、と。
いまや逆転したかのように、
日本人は、韓国、朝鮮人の言動に、いちいちと拘り、
不快さに全身掻き毟っては吠え続ける猿のよう(苦笑)
そのグシャグチャ粘っこさ具合、まさに、
韓国、朝鮮人が引きずってきたという、やりきれない劣等感ぶり、
加えて、
「同族嫌悪」による分断争い、
ソックリと引き継いだみたいに、まるで「恨」(嗤)
これが、いまやインターネットを得た おかげで滂沱と溢れるに至った。
韓国、朝鮮人は、そこにハマったかのような日本人の姿を見て、
してやったり、と ほくそ笑んでいるのだろうか。
それとも、
「あわわ、、、」と、
予想外の激しい反応に、多少は戸惑っているのだろうか。
さだかには分からないが、
「ネトウヨ」的投稿を繰り返し煽る連中が、
その、いかにも奇異なほど粘っこい劣等意識に満ちているだけに、
実際のところ、右翼団体等の構成員にも少なからぬ存在が指摘されているように、
なかには、その正体、韓国、朝鮮人自身のナリスマシではないのかとの疑いも持たれたりするようで、
さても屈折した劣等感と合体した同化願望にせよ、
実は日本人自身、劣等意識の深い国民性であるのは明らかなること、
そこを刺激されれば、
たちまちにして、隠し持っていたものが噴き出してくるのが露呈した。
自己投影し合う泥沼。
「千年忘れぬ」とか言ったという韓国人も、その場そのときによって、案外あっさりと感覚が変わる性質でもあるようだが、
忘れっぽい日本人とて、このへんは、お手のもの、かなりイイカゲンで、ご都合主義なところもあるし、
ただ、執拗さの点では、ある意味で、韓国、朝鮮人以上に、もっと独特のものを隠し持っているかもしれないし、
また、
彼ら以上に、一般国民は単純なところもある。だから、皮相的な正義感に陥り易くもある。
相反する性質を同時に含有するのは、どこの民族や国民にも見受けられるのだろう。
しょせん人類、なかでも一衣帯水、同じアジアの隣人は、「近くの親戚」みたいなもの。
隣国の災害を悦び合うなどは、このうえもない醜悪な姿だが、
韓国政府は、福島原発大事故勃発当時、わが国で不足に陥ったヨウ素を、自国民用に備蓄していた分すべて、日本に送ってくれたという報道があったことなどは、誰も言わない。
アメリカ等については、「トモダチ作戦」の、いささか滑稽な後日譚について、ほとんど誰も触れない。
たとえば、台湾の「親日」ぶりをアピールする者の二言目には、東北の大災害時の義援金が多額だったことを言うし、
こういった傾向は、どういうわけか、やたらと肩入れするあまりに、まるで「回し者」「工作員」の、わが国内に居る手先なのかと思わせるほどのものがある。
実際、
それこそ米軍基地の密接な関係者等は、この日本国内に居住しているわけだしw
「良き無関心」というものもあるだろう、
お互いに、もう少し遠くのほうを眺めておくくらいが、ちょうどいいのだろう。
腐れ縁のバカップルみたいに永遠と痴話喧嘩も、そろそろ傍迷惑。
2015.06.05 (Fri)
まことに遺憾。
『与党参考人が安保法案「違憲」 “人選ミス”で異例の事態 野党「痛快」 憲法審査会』
産経新聞 6月4日(木)18時58分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150604-00000538-san-pol
ぐおっほっほwおもろい記事やのうww
三流週刊誌に負けてない産経さんは、たま~に、おもろいwww
このくらいだと、素直に笑えるわぃ。
この記事に付いた「フェイスブック」のコメントにも、いくつか大笑いした。
この投稿者さんたち、愉快だな。
「改憲するための基準が厳し過ぎ」云々言ってるのは、いわゆるネトウヨに多い言い分だけど、
しょせん中途半端な受け売りで言ってるだけか、
まじめな勉強の不足が甚だしいか、ひらきなおりのデマに過ぎない。
こういう投稿する者がいるから、ネットは有害なものに堕してしまいがちなのだ。
そりゃあ、腐っても学者なら、学問的見地に照らし、飽くまで事実を述べるしかないでしょうもの。
ここに出席された小林 節先生などは、もともとが改憲派の立場で、自民党の指南役でさえあったかたですが、
安倍ちんらの、あまりのワカラン珍ぶりに、ついに匙を投げたって話ですわ。
小林先生は、改憲の立場においても、あくまで、きちんと筋を通しなさいってことを おっしゃってるんだと思う。それには、現憲法の拠って立つところの立憲主義とは何かということを理解しなさいよ、と。
でも、
それが、どーしても分かんないんだってさ、あの政権の連中のオツムには。
しまいにゃ、「自分は、そういう憲法観ではないから」とかなんとか言って歯向かってきたとか。
小林先生からすれば、こんなデキの悪い生徒らは初めてだったでしょうよ、絶望するほどにw
そういえば、
平沢勝栄氏が、あのひと、東大卒だっけ?
安倍ちんご幼少のみぎり、家庭教師つとめてた頃に、その晋三ぼうやのオツムの、あまりのヒドス具合に、思わず、定規で叩いたとかって話ww
さぞかし、教え甲斐のないガキ、いや、お坊ちゃんだったのでしょうwww
それでも、わが国では、二度も首相になれちゃうという、、、
終わっとるわ。
まあ、私のシュミでは、東大はツマランというイメージだし(学生時分は、だんぜん京大のほうが良いと憧れてた)、
平沢さんについても「ウィキペディア」をサッと読んでみたけど、かなーりイイカゲンな、わけワカラン考えかたしてるひとみたいだw
私自身、大学は行ってないし、もともと、ガッコの勉強かったるくてキライだったけど、まあ、得手不得手の差が大きいタチなもんで、べつに好きでなくても何故か得意な分野に限っては、全然勉強しなくても、いつもトップ クラスの成績だったよ。
本来は苦手な分野でも、当然のこと全く やる気が ないにも かかわらず、
これ何故か、やっぱり、勉強しなくても、わりとスムーズに、本質のことが理解できちゃう部分ってあるもんで(たとえば、数学なら「集合」概念とかは得意だった。ちっとも好きなわけじゃないのだが)
昔から、「好きこそ ものの」何とやら言うけれど、
私の場合、得意分野と言えども、好きか嫌いかは、ほとんど関係ないのだよ。だって、勝手に できちゃうのでな。
もちろん、苦手だし、できない、という分野のほうが多い凡人だけどさ。
そんな私でも、
人並みか、それ以上に環境が(遺伝とかも含め)ととのっていて、それなりの努力もして勉強してても、
なぜか、ふさわしい結果が出せない、全般に成績が悪い、なにやっても、もひとつ、な人というのは、ちょっと、理解できないなあと思ってた。
しかし、
世のなか、まともな筋を通した思考力も、初歩的基本的な論理能力すらもないのに、醜悪なほど狡猾なチエだけは異常に発達しとるタイプもいるらしいな。
『ネトうよ脳:』
安倍政権が主張するところの、「密接な同盟国」というのが、どこかの国から攻撃されたからと、うちが押っ取り刀で駆けつけ助太刀したとすると、日本に「やり返された」相手国は、今度は、日本に向けて報復するであろうのは、容易に想定内。
「巻き込まれる」もクソもないわけよ。なんせ、「積極的」に、というんでしょ?
だから、安倍ちんは、「巻き込まれることはない」の一点張り。
核兵器、ネット、要らぬトラブルのタネ、いつもアメリカから。
だいたいね、「世界の警察」気取りやってたアメリカが悪い。
(「八紘一宇」を振りかざしてた日本)
世界の末弟の分際で。
(アジアの末っ子の分際で)
引っ掻き回すだけ引っ掻き回しておいて、
結局、ろくに責任とれないまま、背中向けて、自分ちのことに手いっぱい。
私には、メルケル女史の「G7エルマウ・サミット」にあたっての宣言文のほうが、安倍ちんのアメリカ議会での演説なんかよりも、よっぽど、未来に向けて、先進各国が持つべき責任の提言として、耳を傾けるに値する内容と思えました。
まっ、ね、
わが日本国憲法の優秀さというものが、紆余曲折を含みつつも、何十年このかた、ほぼ、そのままで通ってきたことに現れているのは、
もちろんのこと、その間の人々の、縁あった これをば維持し続けようとする、つよい意志と柔軟な努力の賜物でもあったにせよ、
それらを可能にしたのは、この憲法の文言の余白というものに負うところが大きかったのではないかと。
喩えてみれば、和服みたいに、「おはしょり」「身八つ口」が利くと言いますか、
洋服みたいに、細部まで個々に合わせて、ぴっちり つくってあると、融通が利かないから、少しでもサイズが変化したら、無理して着られなくなるし、作り変えないと いけなくなる。
しかし、いくら「おはしょり」等が利くとは言えど、当然、限界はあるわけで、
昨今、現政権は、いよいよ、日本国憲法の身八つ口に、その むくつけき手を、狡猾にも突っ込もうとしている。
さて、この無礼狼藉の手を、ぴしゃり撥ねつけるか、
本来は融通が利いて重宝なところを敢えて縫い閉じてしまうのか、
いっそのこと思い切って、一切合切を仕立て直すか。
しかし、「余白」につけ込む手を用心するあまり、キチキチに仕立てあげてしまうと、以降、他国のように、何度でも、つくり変えることを余儀なくされるかもしれない。
洋服のように、ちょっとでもサイズが合わないとなると、それ以上、着続けるのは動きにくいし見苦しい、
そこここが合わなくなった、世間の流行に そぐわないからとて、やすやすと脱ぎ捨てるものならば、もはや、理念たる背骨とは言えまい。
少なくとも、わが国の憲法は!
諸法を従えて君臨する、国の背骨としての理念であり、
国の恒久的品位を如実に表すものである。
2015.06.02 (Tue)
の続き。
同時に、
私個人は常々、
「障碍者の甘え」以上に、無自覚な「健常者」の思いあがりというものを、日常生活のなかで実感せざるを得なかったし、ブログでも指摘したことがあるが、
世の「健常者」のなかには、「隠れ精神異常者」や隠れ障碍者も、少なからず紛れ込んでいるのだ。
毎日のように報道される各種の事件を見ても、あきらかなこと。
特に、
ネットのように、ほぼテキストだけの世界では、よほどのことが ないと、
さだかに見分けられ難いだろう。
どんなに異常な精神の者でも、それらしく文字と文章を打てさえすれば、これでも立派な「発信者」として まかり通る。
私個人の経験上からも、
「精神異常」「き●がい」と激しく罵ってくる当人自身が、まさに、その病や障害を持っていた患者ということも めずらしくは なさそうだ。
そして、
実は、世間の各家庭や個々人の周囲に、そういう者が、そこここに存在しているらしいということも、私の実生活のなかで経験しているし、
そういう者の正体を見破れずに、言うことに従ったりすると、あとで、自分自身が追い詰められて困った仕儀に陥る。
ところで、
『在●会』系だか『チーム関●』だか、そのテの集団の街頭活動に おける、ある動画を、ひょんなキッカケで見たときに、
仲間たちのヤンヤの喝采に励まされて、大音量のマイクを握りしめ、
とても嬉しそうに演説していた男性は、どうも、知能面に問題があるのでは?と思えたことがあった、それは、演説の内容自体からではなく(このテの演説内容なんぞ、誰が がなろうと、いずれ大差はないw)、ほかの要素から感じられたのだが、
もしかして、こういう方面の障碍者をも誑かし、イイ気分にさせて利用しているのではあるまいな?ということにも危惧を覚えた。
世のなかの おエライさんの威勢や勢いのある政治屋、
そのバックにヘコヘコ控えている集団の言うことに、素直に従っていると、大変なことになる。
だいたい、どの分野でも、人の上に立って権勢を振るう、振るいたがる者には、「サイコパス」と分類される者が多いというデータもあるんだそうで、これは、個人的経験からも頷ける現象だ。
世のなかが、いつまでたっても、なぜだか、良くなり難い、
きみょうにも、問題の多い方向へと敢えて突き進んでいってしまうという現象の裏に潜んでいる原因かもしれない。
世のなか、ごく聡明な者よりは、思考停止のオメデタき愚か者のほうが、数としても断然、上回って多いことだろう。
だからこそ、「サイコパス」にとって、つごうよく あやつり易い愚衆だ。
少なくとも平均、それ以上の生活レベルに恵まれて、身体的障碍もなく、大学を普通に出ているということが、イコール自分は「人並み」か、それ以上であるに違いない証拠だと思えて、
そんな自分の判断を、人並みか、それ以上にマトモなはずと信じている、
そのことによってのみ、かろうじて、プライド、精神的に支えられているという自覚がない者は、、、
そりゃあ、それらの条件すらクリアできていない者を見下すわけだ。
同時に、そこには、
「この自分でさえもクリアできているのに、こいつらは」
という、屈折した卑下意識が潜んでいるのではないだろうか。
ましてや、
「『人並み』の条件すらクリアできなかった者」という存在が、
まぎれもなく「人並み」だと信じている自分よりも、何らかの有利な立場を得て満喫しているらしいと思えば。
さぞや業腹だろう。
この自分よりも、「人並み以下」な連中のくせに、と、ひどい理不尽だと思えるのだろう。
(ついでに再び言っておくが、病人にせよ障碍者にせよ、こういう存在がなければ、およそ医学や療法等の発達・発展もないw)
たとえばだが、
配偶者の不貞を、酷く恐れるあまり、とうとう妄想の域まで嵩じて、現実には貞節そのものな配偶者であるにも かかわらず、自分を裏切り、隙を盗んでは、他の誰かと親密に交わっているに違いないと疑い、ついには信じ込んだ者が、実は、
相手の不貞で裏切られることを恐怖している、その当人の内側にこそ、自身による裏切りと不貞願望を秘め持っているのだという説がある。
要するに「自己投影」だ。
私の見解では、
こうした類の人は、むしろ、その焼け付くように苦しい妄想のイメージによって掻き立てられ、飽かず「マスターベーション」に耽っているかのように思える。
また、
あまりにも依存している対象には、愛情というよりは、むしろ、憎しみが背中合わせに貼り付いているようにも思う。
つまりは、
心底で、ある意味、相手側に、自分自身の生殺与奪権を奪われたごとく支配されきっていると感じてしまっているので、
万が一にも、重要この上ない相手によって、この上なく可愛い自分が裏切られるなんて、あってはならないこと。
そんなわけで、いつしか、怨み・恨みにさえ似た思いを抱くに至っているのかもしれない。
要するに、被害意識へと繋がっていく。
なにも恋愛関係等だけでなく、親子間にもあり得ることだ。
それは さて置き、
「排外」的になってしまうのは、心理的に恐怖心が絡んでいるからという。
ならば、これまで何度か言ったように、国家と自分個人とを重ね合わせ、投影・同一視し過ぎてしまう者は、どうだろうか。
いま、日本は、日本人の全体的な空気として、「排外主義」に陥り、
かつ、自信を失っているようだという。
その大きな理由としては、やはり、経済力のことだろう。
特に、国家権力と、男性の「マッチョ」思想とは、パターナリズムと同様に結び付き易いもののようだ。
実際、世間一般的にも、男性の自信は、主として経済力に左右され易い傾向を見受ける。
これが危ういと、今度は、ドメスティックバイオレンスに走ったりもする。
結局、
日本には、経済力、カネの力しか、信じられるものは なかった、
なのに、
それが、昨今、揺らいできていると感じる向きが増えているらしい。
かつて、アジアの各地域で、暴力を振るう、鉄拳で殴ることを好む性質だと思われてきた日本人、
直接的暴力を振るうことが禁じられたのちは、手に握った札束で間接的に張り倒すことを覚えた。
いま、それも危うくなっているということで、いたく、自信を失っているらしい。
やっと、せっかく手に入れた「安定」を奪われるのではないかと、
努力を尽くさぬ怠け者の「格下」どもと見做していた連中、
「羊を人間にしてやった」はずが、
そう遠くなく取って代わられる恐怖に怯え、
「打つぞ撃つぞー」と威嚇しながら、ちっぽけなプライドはズタズタ。
近隣国の嘲笑や悪口、挑発に、神経をピリピリ尖らせ、
国内では、社会的弱者に対して侮蔑の唾を吐き、恩に着せたか放題、
無理難題、イチャモンを吹っ掛けて見せ、
その反面で、
めいっぱい、自分で自分を持ち上げ、ウットリと自慰に耽る。
褒めてくれる相手には大喜びして縋りつき、
「ボス」からの お達し、お叱りに一喜一憂。
これが、
「分断統治」策を練る為政者にとって、扱い易い愚民の姿。
戦争によってこそ安定すると詭弁を のたまう、戦争のせの字も知らぬに、無責任なボンボン育ちの愚かな為政者に引きずられるがまま、
カネの力を頼めないとなれば、たちまち、武力に頼らねばなるまいと、あっさり先祖返り。
パターナリズムに育てられたオポチュニストたち。
やっぱり居心地が良いのらしい、
慣れ親しんだマッチョ思想とパターナリズムは。
先日も指摘した、これが、しょせん「エコノミック アニマル」なれの果て。
アメリカ等の白人映画で昔から描かれる典型の姿、
狡猾で出っ歯のメガネの胴長短足ちんちくりん。
相変わらずの姿。
この70年来は、いったい、なんだったのだろうか。