2015.01.19 (Mon)
今年の元日 2013/01/02 23:16
せっかく一年一度のことなので、たまには、日記らしいことも書いておこう。
いつもの年は、日付が変わる前後に、つまり真夜中に、澄んだ夜空の星々の煌めきに見とれつつ
(星と言えば、先日、月のそばで、すばらしく煌々と輝ける星を見て、あれは金星なの?と思ったのだが、どうやら木星だったそうな)、
近所の神社へ向かうのだけど、その理由は、新年の干支を描いたカワラケに注がれた お酒が振る舞われるから。
これは、母が まだ辛うじて元気だったころ、一緒に お参りできるのが最後となった年に、初めて、そのお酒とカワラケを戴いた想い出へと繋がっている。
と言っても、私は本来、お酒が好きではないので、本当の狙いは、飲みほしたあとのカワラケそのものにあった。小ぶりで、絵がらも可愛いので、何かしらに使えるのだ。
で、大晦日も そのつもりでいたのだが、ふだんの怠惰が ひびいて、買い物の連続だけで早くも疲れてしまい、なんだかんだで、朝一番の お参りに予定を切り替えたのが、さらにずれて、お昼頃になってしまった。
前年の初詣時に、そのカワラケを もらえるものと思っていたら、飲みほしたあとで、絵が付いていないことに気づき、しかも、持って帰らないように言われたので、なんだか興醒めしたせいもあるかも。これも不況の影響なのかなあと思った。
まぁ、ともかく、きのうの元日は、うららかな陽ざしのなか、本堂に向かったあと、今回、みょうなことに気づいた。
本堂の傍らに、小高く区切られた狭い一画があって、そこにも小さな鳥居があり、それを くぐって すぐの位置に、お賽銭入れと、三方を載せた祭壇を設えてあるので、あきらかに何かを祀ってあるのは分かるのだが、肝心の、何をお祀りしてあるのかが分からない。
老齢の男性が恭しく参拝したあとに私も続いて進み、一応、お参りしてみたのだが、青空の下の祭壇の向こうには、何もない。
はてなと思い、とにかく、そこを退いてから、あらためて、後ろ側も覗いてみたのだが、やはり何もない。ただ、木々が立っているだけ。
謎だ。
もしかしたら、そこに立っている木が対象なのかな?
ひょっとして、空気を拝んでいるのか?
首を捻りつつ、まいっかぁ、と、いつものように、そこここの祠にも ご挨拶しつつ、神社のぐるりの森を、ゆっくりと めぐった。
実は私、「宗教」嫌いのわりには、神社仏閣をホッツキ歩くのは、子どものころから好きでしてw仏像好きでもあるww
それから、何年ぶりかに、おみくじを引いてみた。
ちなみに、私は、神社で引いた おみくじに「凶」が出たという記憶がない。わるくとも「小吉」までなので、神社の おみくじは、「凶」というものは敢えて用いていないのかもと思っていたのだけど、私の母は、「凶」を引いたことがあるので、実際は、そういうわけではないのだと分かった。
母は、「あんたと違って、おかあさんは、神社で おみくじ引くと、「凶」が出やすいのや」と呟いていたことがあるのだが、私の昔の同僚にも、同様なことを言っていた人がいたので、ちょっとフシギに思っている。
また ちなみに、
子どもの頃から、「霊感」が つよい人という定評があった母は(私は疑ってるけどww)、「おかあさんは仏教のほうやけど、あんたは神社系!」などと、イミフなことも言っていたw
だから、「あんたは巫女になったら よかったな」とか。はて?ww
で、その後は、にぎやかな境内の縁起物売り場を物色したり、新年らしい買い物もして、途中、お気に入りのシュークリームなどにも手を伸ばして帰宅したあとは、前日の夜更かしがたたり、猛烈に眠くなり、食うだけ食ったそのまま爆睡だ。
しかし、なんだなぁ。
参詣中も、和服を着た人なんて、老齢の女性の、晴れ着でもない、普通の和服を二人ばかり見かけただけ。
母が和服好きだったので、なつかしいというのもあるが、和服そのものが珍しいので、それだけで視線が行く。
ほんとに年々、お正月らしさが薄らいでいくなあ。いまどきの若い人が、ちとカワイソウな気さえする。
若い人には、クリスマスのほうがロマンチック気分に浸れて良いのかも。欧米圏では、お正月よりもクリスマスが重大なんだろうけど、日本でもそんな感じになってきてる?
さて、旧暦では2月10日が今年2013年の元旦なのだそう。
アジアの殆どの国では、いまでも旧暦重視のようだ。日本は何事も欧米追随だもんね(笑)そりゃクリスマスのほうが重要になるわな。しょせん雰囲気だけだけど。
鏑木清方『初東風』
この絵を見ても思ったのだが、凧が揚がってる空や羽子板で羽根つきなんて風景、もう何年前から見なくなったのか、それすらも曖昧になっている。私の子ども時代には、まだ少しは やってたんだけどな。
林家木久蔵「彦六伝」
以前のエントリーで紹介した木久さんの落語の動画、ちょうど お正月の時期のものだし、また見て笑えた。何度見てもフき出す(笑)
あらためて思ったけど、良い声だねえ、木久さんも。
カテゴリ: その他 > 日記
旧暦では、今年2015年の元日は2月19日にあたるそうだ。
それにしても、こうやって、旧ブログの記録を載せなおしたりの作業をしていると、つくづく、ネットのイイカゲンさ、儚さをも否応なく実感する。
2015.01.19 (Mon)
この17日は、「阪神大震災」20年だったという。あれから、もう20年か。。。
あの18日は、それから6年後だったわけなのか。
どちらも、せいぜい、ほんの数年程度しか経っていないような実感なのに。
以下も、旧ブログ記録よりの抜粋。
そういえば、きのうから きょうにかけては 2012/01/18 12:25
私にとって、個人的に、非常に辛い記念日だった。
なんと、今朝になって、ふと思い出したもんだから、われながら、いささか呆然としてしまったが、はたして、いいのやら、よくないのやら。。。
おまけに、
あの日、自分でも、生まれて初めてじゃないかと思えるほどに、まあ、形だけはマトモな体の和歌を、やっと詠めたと思っていたのに、とんだミステークをしていたことに気づいた。
十年以上も経過している。。。rz
たちまちにして よみがえってくる、あの朝の光景。。。
暁闇
わずかに まどろんだ刹那、脳裏に映し出されたテレビ画面の砂嵐
弾かれたごとく起きあがり
機械仕掛けのごとく移動し
なにを考えることなく
ただ感じる
芯まで凍りついてしまいそうに寒い早朝の澄みきった空気を
かすかな希望の残滓と、絶望の予感と混ざり合った白い息に変えながら
ひた走った
そして真昼に
それから夜へと流れ
つぎに やってくるであろう、容赦のない朝を、私は ただ恐れていた。
…
去年の きょうは、こんな記事を書いてあったけれど。
私ってば、思い出したのやら思い出さなかったのやら。┐(^_^;)┌
『「不条理」、「不合理」 』
http://schneewittchen.iza.ne.jp/blog/entry/2116846/
『やっぱり、メンタルかなあ。。。 』
http://schneewittchen.iza.ne.jp/blog/entry/2572017/
Friedrich(1774-1840)The Cemetery Entrance(1825)
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津波で助かった命 妻はなぜ、闇の海へ(2012/04/28 12:45)
「幽霊見える」悩む被災者 癒えぬ心の傷(2012/01/18 10:37)
「幽霊見える」悩む被災者 相談できず癒えぬ心の傷(2012/01/18 00:47)
カテゴリ: その他 > 日記
(続く)
2015.01.19 (Mon)
『「シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか」再度。』
旧ブログ(産経系列サイト「イザ!」でのもの:現在は、一般利用ユーザーを締め出し、つごうのいいメンツだけ残して継続しているサイトw)から、まったく忘れていた記録を。
本文中の抜粋は、多分、『【正論】拓殖大学総長・学長 渡辺利夫 条理にかなう言説の時代拓こう』からだろう。
「不安や理不尽」考 2013/01/01 08:00
~
いかに挑発的な行動を受けたにせよ、国家関係を「理不尽」などという感情表現で語ってはならない。どんなに非理性的にみえようとも、相手国には相手国の「理」がある。~
同様に、
私には、原発肯定・推進派でも、反原発派・脱原発派でも、互いに正反対を構えているようで、その実は、どちらも出発点を等しくしているように見える。
およそ世の技術、学問の、また原発も、「不安や理不尽」を産みの親としている側面はあろう。
~
ついに現代の日本人は「生命至上主義」の信仰にはまり込んでしまったのか。いや、信仰というほど高雅なものでもあるまい。むしろ「個体至上主義」と命名した方がいい。生命といえば、生きて在る人間だけのものではない。われわれを今ここに在らしめたものは、父母であり祖父母であり曽祖父母であり祖先である。われわれが今ここに在るのは、子供、孫、曽孫へと未来に向けて生命を継承するためである。生命というなら、過去と現在、現在と未来とを繋(つな)ぐ生命現象の全体を語るのでなければ意味がない。~
「信仰というほど高雅」とは何なのだろうか。
信仰というものも また、その出自は「不安や理不尽」を産みの親としているのではないのか。
しかし、子どものいない、持つことが できない私のような者が、原発に伴う諸弊害に関しては、最も楽天的ではないかとも思える。
原発の危険性を声高に問う人々の殆どは、ただに自分一個の身を案じてのことなのだろうか。
まだ見ぬ それを含めた、子どもや孫たちを、その先の将来を案じているからこそではないのか。
~
同時に、自国の歴史を顧みる視線が不可欠である。倫理や道徳の問題ではない。台湾、朝鮮、満州への領土拡大欲求に身を焼かれた時代が自国の歴史の中にありありと存在していたではないか。~
私は、くだんの時代を、身を以っては知らないのだが、
「欲求に身を焼かれた」それは、傲慢からか。
それとも、劣等感に苛まれてのことか。不安からだったのか。
~原初の情念を脱し、条理に適(かな)う言説の時代が拓(ひら)かれることを~
望むのは、まさに、「条理に適わぬ」理不尽への不安からこそだ。
~理性より感情~
感情こそは理性の源なのだ。
「感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。
むしろその逆が いっそう真理に近い。
感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり
知性こそ主観的なもの、人格的なものである。
真に主観的な感情は知性的である。
孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ」
――三木 清――
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カテゴリ: コラむ フォルダ: カルト・サイト関連
2015.01.17 (Sat)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて【続き】』
~
シャルリーの「風刺」画の場合は、さて、どうだろうか。
~
これに、もう少し、付け足しておくべきだったかな。
つまり、
ご開祖の似姿を描くべからずという、仮に、そこをこそズバリ風刺したかったのだというのであればだが、
それならそれで、ムハンマドの姿は一切描かずに「偶像崇拝を禁ず」という方針を、「風のごとく刺して」みせる方法も可能だったのじゃないかな?ということ。
ユダヤ教にいたっては、主だか神だかの名すら、みだりに唱えちゃならないのだそうで。
先回も述べたように、そういったところは比較的容易に譲歩できても、
まあ、こちとら生憎と「異教徒」なんだしね、こっちまでが、偶像崇拝禁止に合わせてやらにゃならんという筋合いは、もともと ないはずなのだけれど、それを主張してバシッと突っ撥ねなければならないとしたら、
あちらさんが、こちらの大事にしてる「偶像」などを破壊しに来たときだろう。実際、そういうことも過去にはあったみたいだが。
私自身は、「偶像崇拝禁止」云々とかよりも、もっと現実的に喫緊の事態があるだろと思ってるので。。。
何でもありのグダグダも、がちがち教条主義みたいなのも、どっちも困りもの、まっぴらゴメンだが、
人間とは、やはり、なんだかんだと、論理や筋の通ったことを求めたがるものなのだ。自然の摂理の厳しさ故もあるだろうし、また、人間の、そういった面での切実な希求、それなくして、あらゆる進歩・発展もなかっただろう。
けれども、宗教の教条主義的性質ともなると、あたかも、古惚けて硬い靴に、サイズの合わない足のほうを合わせることを強制するかのようなものだ。まさに、強制を「矯正」として。
これでは、足を守るどころか、痛めてしまって、歩けもしない。
いずれにせよ、今回、フランス国内で勃発した「イスラム」過激派の事件の下手人が、「フランス人」だということ。
そして また、天を仰いで嘆息したくもなるほど皮肉なことには、被害者・犠牲者側にも、彼らの同胞・同朋が含まれている。
だから、先日のエントリーで述べたことなのだが、
もとは穏健な「普通のイスラム教徒」だったはずが、どうして「過激派」になってしまったか、ということが気になったということ。
だって、まわり全てがイスラム教でガチガチの世界しか知らずに育ったのと違うではないか。
フランスで育ってるんでしょう?
彼らは、国内いたる所すぐ そこかしこにある十字架やキリスト像などを、これまでに破壊してきたことがあったのか?
話が少し変わるけど、
最近、なんだか立て続けみたいに、芸能界の人が、自分たちの言動やパフォーマンスを、あっさりと翻すみたいに謝ったりしてるので、そのへんの一個人に過ぎない私には、
なんだかなあ、、、腰抜けなのかよぉw
と鼻白む思いを抱いて揶揄し返したくなったほどなんだけれどw
しかし、よく考えてみると、
彼らには、たくさんの視聴者やファンの存在があるわけで、そっちのほうに、もしもの危険があった場合を配慮せねばならなかったことに気づいたのかも、と思い至った。
その分、責任重いんだわね。
ましてや、何らかの大きな組織体を統べる立場の人ともなれば、自分の腕に委ねられた膨大な人々の身の安全を第一に念頭に置かねばならないのだから。
その昔、お釈迦さまは仰ったそうな。
「縁なき衆生は度し難し」と。
それから ずっと下った時代、
当のフランスはヴォルテールの言ったという。或いは、こういう主義主張の人であったと。
「私は、あなたの意見に反対だ、だが、あなたが、それを主張する権利は、命をかけて守る」と。
『アジア歴訪中のローマ法王、「言論の自由にも限度」』
AFP=時事 1月16日(金)9時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000004-jij_afp-int
『<ローマ法王>「表現の自由にも限度」他者の信仰侮辱を戒め』
毎日新聞 1月16日(金)13時8分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000034-mai-int
「人みなを殺してみたき我が心その心 我に神を示せり」中也
2015.01.16 (Fri)
『“Charlie Hebdo”事件と「表現の自由」ということについて【続き】』
に加えて、時間もないので、できるだけ端的に追加しておく。
「芸術」と言うのならば、
それを一心不乱に拵えてみた結果が、思わぬ弊害や余波を引き起こしたという事態も多々あり得るだろう。
その場合は、すみやかに素直に謝罪するなりすればいい。
大概は、ましてや、せいぜいパクる以外に能のないような凡庸な者が、そういう高尚な精神のもとに行ったとも思えまいが、
高い視野と信念をもって確固としたヴィジョンのもと、無私の意志を貫いたのであれば、かんたんに謝ったりするのも、これもまたナサケナイものだが、
しかし、傷つく者が出るであろうことを、最初から分かっていて、すなわち故意に、
「傷つくほうが悪い」(ちなみに、これ、例のbragelonneの発言でもあるw)とか、
「この程度のことは耐えろ」とか、
いったい、誰が誰に対して要求する権利があると言うのか?
これは、あの「カルト連」も、私みたいな立場の弱いと見た、かつ、つごうの悪い他人に向けて言ってることと、自分たちの身勝手なつごうだけでやってることが、まったくチグハグだったことを思い起こさせる。
しょせん凡庸な、しかも悪趣味な者には、それでアタリマエの行動だろうがw
では、おまえさんなら、当事者として何を されようとも、平気の平左を通せるのかね?と問いたくもなる。
さしづめ「2ちゃんねる」あたりで跋扈している者も同様のパターンだろう。「カルト連」も、あそこの流儀にドップリ毒されてきたらしい連中だ。
思いやりは大事だよ。
ましてや、
「人の心を豊かにする、それが芸術というもの」なのであれば、
自分のやりたいほうだい勝手を最優先するしか能のない自己中心が、「芸術」だアーティストだと自称していても、どうして、他者の心を豊かにできるのか、そんな能も なかろうに、と思う。
ただ、イスラム教に限らずだが、
その教徒でない者に対してまで強制するのも理不尽なことには違いない。
ときとして、現代人としての厳しい視点と批判も必要だろう。
それが、世の多く人々のうえに、小さからぬ悪影響を及ぼす場合には。
私自身は、イスラム教の、昨今、特に問題になっている女性全体に対する考え方や態度については、あくまで昔においては、それなりの合理性もあったかと思っている。我が国やアジア全体におけるそれと、少なからぬ共通点もあるのだろう。
しかし、現代では、とっくに時代錯誤もいいところで、
あえて言えば、これは、男性側の弱さ、自制心の弱さ、女性という存在に対する無自覚で本質的な受け身の精神と甘え、コンプレックスまる出しにも見える。
ここにも、我が国古来の、たとえば、修験道や一部分野において、なお残る女人禁制になっているところと、やはり多少の共通性は見受けられるようだ。
しかしながら、同時に、時代が、どれほど変わろうとも、変わらないサガと言うべきものが強く残っていて、そこから起き得る弊害を防止するという側面があるのならば、ある面では、それも多少の合理性を、なお含むのだろう。
ま、ひるがえって、フランス側も、さすがのフランス趣味でもあろう。
なんせ、バタイユその他を出してる国柄だw
あ、そうそう、あの「カルト連」とか、彼らのシンパさんたちは、『眼球譚』とか お好みだそうなwww
そりゃあ、私とは趣味も感性も全く違うのは明らかだ(爆)
猫ばばサマは、「読め!!」だの「喰え!!」だのと頻りに強制にヤッキとなってたもんだが(嗤)
これまでのところ、私個人は読んだこともないのだけど、いまだに読む気もしないので、万一その気が起きでもしないかぎりは、食わず嫌いと誹られようと、正当な権利として拒否させていただいておくww
ところで、
そもそも、あの宗教で、教祖などの姿を絶対に描くなという厳正なる方針について、われわれ異教徒の側が、そこに譲歩したからとて、どれほどの理不尽さがあるというのか。
私は、そんなことよりも、もっと優先すべきは、
いまだに、現代女性たちが、かの地で味わい続けているという理不尽、残酷さ、人間としての基本的権利までが酷く損なわれているという事態のほうを、国際的に重視し、批判、啓蒙に努めていくことは、現代に生きる者として当然だと思っている。