2016.03.06 (Sun)
【旧ブログの記録より】
『哲学詩』の続き。
~
一昨日あたりに、
「哲学とは、フシギ発見!のこと」
とか書いたのだけど、金子みすずさんの、この詩は、まさに、そのことを詩っていると思う。
「不思議」
……
わたしは不思議でたまらない
誰にきいても笑ってて
あたりまへだといふことが
「薔薇の木に薔薇の花咲く なにごとの不思議なけれど」フシギだな!
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/tarita/page16.htm
そして、この作品、まさに哲学者、思想家としての視線だ。
「わたしと小鳥と鈴と」
……
鈴と 小鳥と それから わたし
みんな ちがって みんな いい
「つもった雪」![]()
上の雪
さむかろな。
…
下の雪
重かろな。
…
中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)も みえないで。
「土」
……
ぶたれぬ土は
ふまれぬ土は
いらない土か。
いえいえ それは
名のない草の
おやどを するよ。
「日の光」![]()
おてんと様の お使いが
そろって空を たちました。
みちで出会った みなみ風、
(何しに、どこへ。)と ききました。
……
のこった ひとりは さみしそう。
(わたしは「かげ」を つくるため、
やっぱり一しょに まいります。)
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/misuzu0,.htm
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みそを歌で熟成 金子みすゞの子守歌CD付き(2010/10/25)
カテゴリ: コラむ
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2016.03.06 (Sun)
【旧ブログの記録より(少々加筆等あり)】
哲学詩~みすずさん 2010/10/26 06:12
味噌にも音韻波長の効果ってことかな。
乳牛にモーツァルト聴かせると よく乳を出すとか、そういう話、もう ずいぶん前に、テレビでやってたわ。
「大漁」
朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ
浜は祭りの
ようだけど
海の中では
何万の
鰮(いわし)の弔い
するだろう
私も子ども時分は特に、こういう傾向の感性があったので、この詩には、一読して胸が詰まる感じがした。
あるいは また、この作品のような発言を忌み嫌う人もあるだろう。(私の身内には、そういう者が多い。)
けっこう有名な人だったと思うけど、どなただったか、この詩を読んだ人が、
「この感性では、とうてい長生きできなかっただろう」
とか おっしゃってた。
たしか、金子みすずさんは、自死なさったのだっけ。。。
「お魚」
……
けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたづら一つしないのに
かうして私に食べられる。
ほんとに魚は かはいさう。
この詩は↓今回初めて知った。
「鯨法会」
……
はまの お寺が鳴るかねが、
ゆれて水面(みのも)を わたるとき、
村の りょうしが はおり着て、
はまの お寺へ いそぐとき、
おきで くじらの子が ひとり、
その鳴るかねを ききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしと ないてます。
海の おもてを、かねの音は、
海の どこまで、ひびくやら。
こういう感性って、「青い目の お人形」という童謡にも みられるものだ。
青い目をした お人形は
アメリカ生れのセルロイド
日本の港へ着いたとき
いっぱい涙を浮かべてた
「私は言葉が分からない。迷子になったらなんとしよう」
やさしい日本の嬢ちゃんよ
仲良く遊んで やっとくれ
仲良く遊んで やつとくれ
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-aoimenoningyo.html
~
「青い眼の人形」は大正12年、野口雨情によって作詞されましたが、<セルロイド>という歌詞があるところから、キューピー人形から想を得たと思われます。これに本居長世が作曲して国内で大流行し、アメリカ公演でも歌詞と相俟って、“Blue Eyed Doll”と呼ばれ、大盛況だったようです。
しかし、青い眼の人形のイメージは何かしらフランス人形的なものが想起されます。これはこの曲の5年後の昭和2年、アメリカから親善使節としてパスポートや切符付きで送られてきた、12,000体ものビスクドール(ジュモーなど)人形などのイメージでしょう。即ち、この曲とこの寄贈された人形には直接の関係はありませんが、贈られて来た人形たちが<青い目の人形>と呼ばれたのは、間違いなくこの曲の影響でしょうし、戦後、この戦争を乗り越えてきた青い目の人形が発見される度に、新聞報道され、青い目の人形=フランス人形のイメージが定着したものと思われます。
こういう心温まる民間の交流も、イケイケドンドンの人たちによって、わずか10年ほどで、日米は犬猿の仲となるのです。
当時を知る91歳のかたのサイトだそうだ。
この世代の生きた声は、どんどん消えていく。。。
私も、あとで、ゆっくり拝見するつもり。
http://www.urban.ne.jp/home/safuro/ongaku34.htm
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/furusato/sousei/ningyou.htm
http://www.padoma-net.com/chichibu/ningyo/aoime4.htm
http://www15.ocn.ne.jp/~marifu/html00805.html
【この項、続く】
2016.03.03 (Thu)
かねてから聞きたいと思っていたことの一つに、
「ヤフコメ」あたりを眺めていたら、これにもドドドっと付く、
「親を死刑にしろー!!」
あるいは、
「子どもに やったのと同じことを してやれ!!」
という類の要望コメント。
それの理由が、虐待された子どもが、あまりにも可哀そうだからと言うのだが、
「ネットウヨ」(その殆どは、自民党と安倍政権支持者であることが分かるし、『日本会議』の主張に共通した内容のコメントを並べる(そう、一人で何人分も装ってw)ところを見るにつけても、やはり、ああした連中の主張には、浅はかさと不審と疑問を感じるのだ。
それは、私も虐待された側としての経験に事欠かない身なので、親側に対する強い憤りの感情は、むろんのこと理解できる。
だが、
ああいう「ヤフコメ」(同時に「2ちゃんねる」常連でもあろう)連中の、
「虐待された子どもが可哀そう」と本気で思っているのやら、甚だ怪しいもんだという不信感を持たずにいられないのだ。
だって、
いわゆる全体主義的縛りを(無自覚にせよ)渇望するパターナリズム的根性である愚衆、
あの連中は、
「自己責任」とて弱者叩きが、三度の飯よりもウマいと感じてるんだろうにw
一つ、聞きたいと思うわけ。
すなわち、虐待された子ども(子どもに限らずだが)、この子どもたちが、なんとか奇跡的に生き延び、成人してのちも、残念ながら、家庭を持つ気になれなかったり、自分の子を持つ気になれなかったり、つまりは、
「家庭」や「家族」とか「血縁」「地縁」といった人間関係や組織体を、心底では信用できないし、価値を置く気にもなれないままとしたら、
「ヤフコメ」
(同時に「2ちゃんねる」常連でもあろう、その殆どは、自民党と安倍政権支持者であることが分かり、『日本会議』の主張に共通した内容のコメントを並べたてる連中)
のアンタがたは、自分たちとは真逆の価値観であろうゆえに、
つまりは(繰り返して述べるが)、
「家庭」や「家族」とか「血縁」「地縁」といった人間関係や組織体を、心底では信用できないし、価値を置く気にもなれないでいる(かつての)子どもたちを、責めまくることにもなるのかな?という不審だ。
ごく最近、個人的なことで、ちょっとした或ることに気づいた。
世間で報じられる虐待事件の記事に伴って時おり載せられる、被害当事者の子どもの写真等を見かけるたびに、
「この年齢の子どもが、こんなに暗い眼や表情を するものだろうか」
と思わずにいられないし、そのたびに、胸が詰まるような思いを してきた。
このような暗い眼や表情は、戦争や内戦時環境の ただなかに置かれた子どもたちにも共通して見受けられる。
ところで、私自身も、幼い頃の、正確には、父と、その連れ子たち(一回り以上も年齢が離れた義理の姉や兄)と、いよいよ一つ屋根の下で暮らし始めた頃の写真の自分自身の表情が、それに近いものを漂わせていたことに、本当に、つい最近になって気づいたのだ。
(どこか不安そうな、同時に、どこか悲壮感に伴い、ある種の諦念感すらも滲む、なんとも侘びしげな表情と言ったほうが、より正確かも)
自分の事でも、なんとなく見過ごしていることが多いのだなと、あらためて思った。
たまたま、優しい他人たちの記憶だけで、じゅうぶん満たされていた、私の人生最初の出発点、その、ほんの僅か1、2年のあいだだけが、私にとっては平穏な時代だったのだということには、早くから自覚していたのだが。
その、たった1、2年すらも持ち得なかったなら、はたして どうなっていたことやら。
背筋が冷たくなる思いもある。
だって、肝心の親たちの記憶が、当時の私には、ほぼ全くと言っていいほど、ないのだから。
先日のエントリーでも述べたように、「奇跡の記憶力」を持っていた私をして、こと、父に関しては全くの空白だ。その おかげで、辛うじて、理性を失わずに済んでいるのかもしれない、と思えるほどではあるのだが。
皮肉なことに、
私の母親も、自分の親なんかより、他人のほうが よっぽど、、、というのが、彼女自身の人生への感慨としての口癖だった。
もちろん、母と私とでは、人生の軌跡からして全く異なっているけれども。
2016.02.29 (Mon)
【旧ブログの記録より】
コンキスタドール 2010/11/19 07:57
このニュース記事は、すでに見かけていたのだけど、エントリーするのは気が進まなかった。
やめて!!と叫ぶことは
残酷、と呼ぶことは いけないことなんだろうか。
日本にだって、国内外からの評判が悪い、「残酷」な風習がないわけではないけれど。
すぐに やめてほしいというのは 失礼なんだろうか。
闘牛も、どこがいいのだか、幼い頃から怖ろしくて理解不能だった。
子どもの頃に読んだ『ドリトル先生』にも出てきたっけ、
スペイン人は、闘牛をやる点だけが残念だ、みたいな。
炎のなかで立ち尽くす牛は何を思っているの
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モ~勘弁? 伝統の「火の牛」(2010/11/16)
カテゴリ: 世界から > 世界の話題
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モ~勘弁? 伝統の「火の牛」(11/16 01:42)
【追記】
民俗学的領域になるのだろうが、心理学的にも、
どこの国や地域においても、こうした類の風習を見聞するにつけ、
この世は惨い所ゆえ
(それは、肉体すなわち、どこまでも完全に物質の世界であるということ、誰しも、これを逃れることは できない)、
大昔の人々の、自然界に対する深い深い恐れと、強迫観念の域に達したかのような凄まじさをも感じさせられる。
2016.02.29 (Mon)
ペスト。人々は、夕べの さわやかな大気のなかで、鳥たちの囀りを――あるがままの世界を楽しむこともできない。なぜなら、鳥たちの囀りは いまや歴史の分厚い雲に覆われてしまい、鳥たちの言葉が われわれの耳に達するためには、それを突き抜けねば ならないからだ。その結果それは変形されてしまう。それ自体にとってさえ、その囀りの なにものも感じられぬのだ。と いうのは、世界の一瞬一瞬に、一連の死の、あるいは絶望のイメージが結びついてしまっているからだ。もはや苦悩のない朝は、牢獄のない夜は、恐るべき殺戮のない正午は訪れぬ。
(参考に お借りしました:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Christie/7125/b9.htm)
下記のインタビュー記事を読んでいるうち、
終盤に差しかかってきたあたりで、
私が ごく若かった頃、その著作の殆どを読んだ作家の一人であるカミュの作品の一つを思い出していた。それが、上掲した『ペスト』。
『想田和弘監督が安倍政権を斬る!「安倍さんは民主主義をやめようとしている」「アベノミクスはただの筋肉増強剤」』2016.02.14
http://lite-ra.com/2016/02/post-1976.html