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とりあえず、ひかりのくに
     
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Updated   
2016.08.26 (Fri)

天皇・皇室それ以外の人々全員もいにしえからの血筋を脈々と受け継いできてあることに何も変わるところは ない女系か男系であるかが無関係ならばね。

 

その昔、女性にして天皇となった少数の人たち、
たとえば、持統帝は、皇女であり、実の叔父にあたる天皇の后ともなったので、その子息は、母も父も天皇に直接、繋がっている立場だった。

 

二階自民幹事長、女性天皇を容認=認めねば「時代遅れ」
時事通信 825()1728分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160825-00000093-jij-pol

 

「時代遅れ」と言うのなら、

法的にも矛盾が隠せない「天皇制」「皇室制度」という器を後生大事に温存して しがみつくほうが、どう見ても、よっぽど「時代遅れ」じゃないですかw

だからこそ、
敢えて維持していくうえでの容認理由を据えなければならないのだ、賛成の立場であろうが反対の立場に くみしようが。

 

天皇さんも、その理由として、新しい天皇像すなわち「象徴天皇」の姿を模索し、長年にわたり突き詰めてこられたのが、先日の「お気持ち」表明のなかで吐露されていた。

 

 

タテマエか欺瞞であることが真相だとしても、皇室祭祀の主催者が男系子孫でないことにはマズイという特有の事情から、男系で続いてきたのだ、というのであれば、
そこにこそ、皇室ならではの家系の特異さが あるわけだから、

そこも とっぱらい、

女系も入り混じって いいことにするのなら、われわれ一般の家と差別化する理由なんぞ、何もない。

 

それでも、

「天皇」「皇室」という呼称だけでも存続させたいと願うのは、

それこそが、タテマエの権化なのであり、「ヤフコメ民」の誰やらが言った「天皇システムの奴隷」なる指摘は、まさに、自分たちへのブーメランであると知るべきだ。

 

なにを、そこまで、継続せんがためと拘っているのか?

という疑問は、「女系天皇」容認派についても同じことなのだ。

つまり、「天皇システムの奴隷」、無自覚な。

ちゃんちゃら おかしい。

 

 

それと、

小林?えーと、「ワシがワシが」と主張するので知られたウヨ派マンガ家?なのだそうだが、この ご仁が言ってたという「アマテラスは女性神だから」云々。

くだんの発言が、何を言わんとしていたのか、その内容を、私は全く知らないのだが、

「アマテラス」という、天皇家の女性祖神とされる公理的存在は、

イザナギという名の男神からのみ出生した

という伝説だ。

 

すなわち、そもそも、異性が介在することなく生まれ落ちた、ということになる。

キリスト教の言う処女懐胎の男性版みたいだわな()

 

また、ギリシャ神話『オルフェウス』の物語も そうであるように、

「アテーナー女神」の生誕物語とも酷似しているようだ。

 

 

もう一度、指摘しておこう。

女系容認にせよ、現代日本の憲法に則った「象徴」天皇にせよ、それらは、新しい天皇像」として、ここから新たな「伝統」の第一歩を始めようじゃないか、ということなのだろうが、

その必要性たるは、いったい、何なのだろうか。

 

なかみがゴロッと入れ替わっていても、なおも「天皇システム」に拘る、その意味は何なのかを考えるべきだろう、と。

それは、たしかに、「安定的な持続」を願う現天皇の立場からでは、公的には言うことも できないのが、憲法上の基本的スジとなっている。

主権者たる国民が考えなくちゃならないわけ。

 

 

「側室」あるいは「妾」、現代では「愛人」とでも呼ぶか、

とにかく、「一夫多妻」の形態を復活させたのでは、いくらなんでも、現代の国民感情が許容できまいし、「象徴」として、一般国民の前で、お手本を見せる、あるいは演じ続けるべき存在として、良きイメージが まる潰れになってしまう。

ならばと、

旧皇族を復帰させるとなると、いま以上に、多額の税金を用いなければ ならなくなるのも、目に見えている。

 

比較的に無難なのは、人格識見等が適切であると見受けられ、ご本人自身も受け入れる姿勢が明確であるならば、お一人に絞り、「養子」という かたちで、皇籍復帰していただく、というところになるだろうか。

ま、それは ともかく、

なるほど、「男系」にのみ拘っていては、「天皇家」「皇室」の存続さえ危うい、それも そうなのだろう。

 

しかし、私個人は、自然に任せておれば いいものを、と思っている。

「伝統」の なかみが入れ替わってしまうのに、呼称だけ存続させられれば それで よし、で済ませるのは、いよいよ形骸以外の何ものでもないと考えるからだ。

そうなると、どのみち、先行きは細る一方、と覚悟するしかない。

 

 

ただ まあ、

たとえば、和服に譬えてみれば、

形骸そのものでしか なくなってもいい、とにかく存続を!と焦る人たちの心情も、理解できなくは ない気がして くるのだ。

 

和服というものも、もともとは、渡来文化の影響が最たるものだった時代から始まり、王朝爛熟文化の華やかなりし「十二単」を通過し、それからも、長いあいだに幾度も、形状を変化させてきている部分は あるわけだ。

現代人の私から見て、むしろ、室町時代以前は、下着扱いだったという「小袖」スタイルのほうが、着付けも着心地もラクそうで、だんぜん、合理性が高いように見えるのだが、

現代では、豪奢な振り袖に代表されるように、ますます大仰なスタイルへと ぶり返し、したがって、日常に用いる人は皆無と言っていいほど廃れてしまい、業界や和服通の人たちが、あれこれの工夫を発表し、一般へ普及に努めても、もはや、特別な行事の日でさえも、和服を着用することは、年々減少している。

 

それでも、

では、「時代に合わせて変化し続けてきた」和服そのものが なくなってしまって平気か?

と問われると、やはり、消滅は してほしくないわけで。

 

本当を言えば、なくなっても全くと言っていいほど、困らない。

ある種の業務などに携わる人たち以外は。

 

それでも、

遠くから眺めるだけでいい、視界から完全に消えてしまうのでは、やはり残念なのだ。

 

私自身、生前は和服好きだった母に着付けてもらえるから、お正月くらいは着用していた。

それも、年々、めんどうくさくなり、実家を出たり、母が亡くなりしてからは、もう どれくらいになるのか、正月だろうが なんだろうが、全く、和服を着ることは なくなった。

プロに髪結いと着付け料を支払ってまで、一日じゅう苦しい思いを するのは、あまり、気が進まない。

 

それでも、

自分のは勿論、母や叔母の形見で譲り受けた大量の和服のうち、処分しきれずに、手もとに残してあるものが、なお多く残る。

 

 

けれど、

天皇や皇族は、和服じゃない。

物じゃなく、生きている人間であり、

人権面での不全を強いて犠牲にして、形骸化を承知で、矛盾を曝け出してまでの、何の価値を、彼我ともに、そこに見ているのだろうか。

 

 

天皇家特有たる祭祀の後継者資格を、従来のように拘る必要はない、また、それよりも、あくまで現憲法に則った「象徴」なる天皇の姿を構築し続けていくことを最優先すべきである、

と お考えであるのなら、そのように明言なさるべきでなかろうかと思うのだが、

現実、「政教分離」のはずの わが国でありながら、皇室祭祀に、莫大な国費を費やしていることの是非は、誰が判断しているのだろうか。

 

天皇ご自身は、言うまでもなく、天皇家内の神道の頂点であり、言わば、世襲教祖と目されるべき存在だ。

それだから、このことについては、天皇その人にしか、判断は下せまいはずなのだ。

国民の大多数は、それの信者でさえ ないのだから。

 

皇室祭祀に、実のところ、伝統の重みも薄く、実質の意味は ないのならば、

いや、ないであろうのは、とうに分かってるが()

そうとハッキリ認め、形骸でしかない程度に、思い切って縮小してしまえば いいのだけれど、
天皇ご自身が、じつは、、、と、皇室祭祀の無意味を明らかに述べてしまわれるのは、さすがに、気が進まれないのだろうか。それを言っちゃあ おしまいよ、とて(苦笑)

 

 

いずれにせよ、

まさにその時代の「国民の お手本」たる姿を維持できないと猛バッシングされるのは、芸能人と変わらないでは ないか。

なぜ、特定の人たちだけが、否応なく、選択の余地なく、それを引き受けなければ ならないのか。

 

 

日本の国民の知的レベルも、それほど高くは ないと認めざるを得ないが、

いいかげんに、無知のまま、やすっぽい情緒だけでは おさまらない時期に来ていることを自覚するしか あるまいに、と思うわけ。

 

 

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Updated   
2016.08.23 (Tue)

アメリカでの事件だが、下記の記事では、経緯詳細の不明点が多過ぎて、断定的なことは言えない。

ただ、まず言えそうだと思われることは、やはり、ここでも、ほとんどの人が指摘するように、「銃社会」ゆえの悪循環に陥っているのでは ないかということ。

こんにちの日本国内で、銃器による一般市民間での事件が少ないことの最大要因が、そもそも、敗戦後の日本において「刀狩」を行なった占領時アメリカの施策によるものというのだから、いまでは、「銃社会アメリカ」を軽蔑する日本人と併せて、なんとも皮肉なことだ。

 

スピード違反の命令聞こえず? 聴覚障害の米男性、警官が射殺
AFP=時事 823()134分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160823-00000020-jij_afp-int

 

旧日本軍の場合も そうだったらしいが、

誰もが「ゲリラ」である疑いが払拭でき得ないと、現代でも、“IS”あたりを中心とした「イスラム過激派」の「自爆テロ」等に対する警戒に窺えるように、疑心暗鬼のすえは、無差別殺戮に陥りがちだ。

 

さて、「ヤフコメ」をザッと眺めていて、やっぱりなぁ、と思ったことを記しておく。

 

聴覚障碍者は、のんびりしている人が多いんですわ。

 

そこへ加えて、もちろん、その個人の性格も左右するだろうが、

周囲の雑音が聞こえないゆえに、たまたま、何かに気を取られていたりすると、おそらく、健聴者には理解しがたいほどに、周辺情況に無頓着になりがちだったりすることが起き得るということ。

 

それだけに、聴覚障碍者が、何かしらの作業に没頭したりしているときは、非常に集中して できる人も いるだろうと思う。

 

聴覚障害者について、こういう障碍を持ったことがない人は勿論のこと、当の聴覚障碍者自身も、無自覚な人が多いのかもしれない。

専門家筋の人の指摘も見たことは あるが、私自身、自分で、中学時代頃には気づいていた。

それは、
聴覚障害者に往々見受けられる特性的傾向として、のんびり、おっとりした性格の人が多い、ということ。

 

この理由としては、健聴者が聞き取れる不快な雑音類から、ある意味では「守られている」ということが、理由として挙げられるかと思う。

言い替えれば、自分の世界に一人で没頭してしまう傾向が、多少は あるかもしれないということ。

 

 

視覚障碍者の場合は、一般的な人の場合の情報取り込みが、大部分は視覚から得るという通常パターンから妨げられていることで、かえって、聴覚その他の感覚が鋭敏になるらしいことは、世間でも比較的に知られているし、また、経験していない者にも想像しやすいことだと思われるが、

うちの母親などは、若い頃、友人の母親が全盲者だったことから、ある嫌疑を蒙って、非常に不快な思いを したことが あったと語っていた、
その内容も、閉鎖された旧ブログで紹介したことが あるのだが、ここでは省く。

 

要するに、
視覚障碍者、特に全盲の場合、普通に目が見える人が得る情報の殆どを、視覚以外から取り込むしかないので、うちの母親の表現を借りれば、「視覚障碍の人は、性格がキツイ」ということになりがち、なのかもしれない。

私なんかは、

「一番、情報を取得し易い視覚がアテにならない分、命に かかわるだけに、生きていくうえで、視覚障碍者は、鋭敏なほど、しっかりせざるを得ない」のだろうなと察するわけだが、

私自身が背負っている聴覚障碍の場合には、視覚障碍者と逆に出てくるということが、

のんびり、おっとり、自分の世界に没頭しがち、

という傾向だ。

 

 

補聴器が、ほとんどと言うか全く役に立たない私は、自動車免許を取得することなく きているが、やはり、その理由には、自信が持てないということが大きいのだけれど、

とは言え、大半の自動車事故の原因には、健常者でも圧倒的なように、横着慢心の他には、「どんくさい」、要するに、反射能力の鈍さが、最も致命的な要因だろうと思う。
こういった点で、老齢のドライバーが不利なのは自然当然だろう。しかも、もともとの田舎住まいほど、長年の慣れた道だ。

 

 

私は、自転車のベルなんかも、他に注意が行っている歩行中は尚更で全く聞こえないのだが、そんな私は、自分が自転車に乗っていて、歩いている人の背後で、しかたなくベルを鳴らすときには、遠慮がちに、できるだけ小さく小さく鳴らしているつもりなのだが、それでも、幼い子どもですら敏感に、後ろを振り向くし、大概の大人は、振り向くまでもなくササッと、道の端に よけてくれたりするので、なんとなく感心してしまう。

 

クラクションにも、背後から接近している車にも気づかず、
連れ立って歩いていたクラスメートに、「危ない!」と、腕を急に掴まれ、引き寄せられてビックリしたり、

実際、いまでも、少し気を抜くと、からだの横スレスレに、スピードを落としもせず すり抜けていく車に、肝を冷やす経験はゴマンとあるので、いつしか、外を歩行中などは、できるかぎり、道の端に端に寄り、なおかつ、しょっちゅう、後ろを振り返って歩くクセが ついた。

事情を知らない人が見たら、何者かに つけられているのを警戒しているのかと思われそうなくらいだ。

 

 

旅行の宿泊先で、いや、自宅でさえも、一人で就寝中、もしも、火事などが起きて、外から大声で呼び起こされても、たぶん、気づかないだろうと思う。その覚悟で いるしか ない。

そういうときは、ドアを思いっきりガンゴン叩いていただけたら、だいぶ助かるかと思うので、なにとぞ、よろしく お願いしますm(-_-)m

 

 

Updated   
2016.08.23 (Tue)

皇室制度・天皇制、

核兵器、

原発、

いろんなことが、モロに矛盾に満ちていて、真っ二つに分裂したまま。

それを、何事もないふうに、押し殺している層と、無知・無関心な層と。

そんな、日本という国。

 

これらの極端な矛盾や分裂相を、少しは なんとかしようとする気すらも ないみたいだ。

そのうちには、国家ごと病んでいることが隠せなくなるだろう。

 

まあ、病んでいる国なんて、日本だけでは ないようなのだが。
もはや、世界じゅうが病んでいる、のか。

 

 

核兵器禁止条約に向けた報告書採択 日本は棄権
朝日新聞デジタル 820()25分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160820-00000007-asahi-int

安倍首相、オバマ氏の「核先制不使用」に懸念 米紙報道
20168161608

http://www.asahi.com/articles/ASJ8J41J1J8JUHBI00T.html?ref=yahoo

 

 

Updated   
2016.08.18 (Thu)

最近、読みかけの続きもの小説の文庫版を、いつものように寝る前に、なかばウトウトしながら読んでいくと、偶然、葬儀を めぐる一連の場面に さしかかり、

そう言えば、今、お盆の最中だった?と思って、確認してみると、やはり そうだった。

 

どうりで、「盆の入り」に、妙な夢を見たわけだ。

というのも、

子ども時分から寝つきが悪かった体質のせいなのか、
20歳代に入って、ひどく体調を崩していた頃、睡眠の質が、どんどんと悪化していったせいか、いわゆる金縛りと悪夢の連続に陥り、しまいには、就寝すること そのものに、かなりの恐怖を感じるほどになってしまい、ものの10数分さえも熟睡できず、疲労が極度に蓄積していた時期が長かった。

 

この話も、たしか、旧ブログに書いたと思うけれど、

その頃は、「お盆」の日に入ろうが、そもそも、そういった方面に、殆ど無関心だったので、それと気づかないまま就寝中、特徴的傾向のある夢を見ては、うなされて目覚めることも少なくなかった。そのようなパターンが何年たっても続いて、

そのうちに、どうやら、「お盆」の入り、あるいは特に、「中日」と呼ぶ日に、どうも気味の良くない夢を見ることに思い当たった。

 

 
  Fuseli(1741-1825)The Nightmare

 

その後、

疾病治療の おかげか、極端なまでの睡眠障害の傾向は薄れていき、
数年後の あるとき、「お盆バージョン」的悪夢を見ずに済むようになっていることに気づいて、やれやれと、ホッとしたのだった。

 

 
                                                                        Dadd
1817-1886Titania Sleeping(1841)

『夏の夜の夢』


舌が二つの まだらへび
姿見せるな はりねずみ
いもりや とかげよ いたずらするな
われらが女王に近寄るな


ナイチンゲールよ いい節で
いっしょに歌おう 子守歌
ルラ ルラ ルラバイ ルラ ルラ ルラバイ


わるさも呪文も魔法の力も
お妃さまには近寄るな
お休みなさい ララバイ聴いて

【参考:http://www.e-freetext.net/mdnght.html

あれからも また数年が過ぎていき、その間、身内の何人かを見送り、

なおも、その時期に さしかかると、なんとなく、用心するような気持ちが消えなかったのだが、今年の「お盆の入り」日に見た夢は、摩訶不思議ながらも、意外なほど、不快感は伴わなかった。

 

目覚めてから、無意識に脳裏に浮かんできたメロディの切れ端が、
たまたま、その歌だった、そのせいか、ここ数日は、何か作業しながら、ふと、『黒いオルフェ(『カーニヴァルの朝』)』の歌を呟くように口ずさんでいた。

若い頃、愛用していたギターを爪弾きながら歌うレパートリーの一つでもあったので、原語の歌詞の ところどころが、いまも、辛うじて出てくる。

 

 

いと貧しき人々、いと高きところに ありて



 

この『黒いオルフェ』(1959年)という映画作品を初めて観たときも そうだったし、いまでも、あらためて観るたび、

高所恐怖症や足弱では、とても やってられないであろう急峻な山の上に建ち並ぶ、登場人物たちの素朴な住まい、
そこでの、息を呑むほど素晴らしい眺め、
のどかにして、どこか優雅でさえある生活の ようすに、思わず感嘆する。

 

 

 
                                              Edward Poynter(1836
1919)Orpheus and Eurydice(1862)

 
  Corot
(1796-1875Orphée ramenant Eurydice des enfers(Orpheus Leading Eurydice from the Underworld)1861

 

Updated   
2016.08.18 (Thu)

「あっ、そ~ぅ」
が つとに知られていた昭和天皇の御生前、侍従の どなたかに、

自分は口下手なので、、、

という お悩みを こぼされたことが あったそうな。

 

だからこその、万感を込められての

「あっ、そぉ~ぅ」

だったのだろう()

このエピソードを思い出すたび、

いずれ、「天皇」の地位に就くことになるのであろう立場に おられる人の苦悩を思わずに いられない。

 

仮に、
現皇太子家の一人娘さんである愛子内親王が、「女性天皇」あるいは「女系天皇」となられるとしよう。

これまでの各社ニュース記事等から窺える印象では、
見ず知らずの誰とでも気楽に雑談等こなすのが お得意そうなタイプでは、けっして なさそうに見受けるのだけれど、
長じるにしたがって、場慣れも あろうかとは思うけれど、
ある程度の変化は あり得るにしても、人間もともとの性質は、あまり大きく変わらないだろうし、しかし、そんなことを言って避けているわけに いくまいから、先々を想像すると、なんだか お気の毒な感じさえ するのだ。

 

 

昭和天皇までは、いかに悲惨な戦争そして敗戦という結末を招いた御代とは言えど、
最後の「帝王教育」を施されて生育したという天皇と、「現人神」なる刷り込みを施されていたシモジモ国民の時代だったのだから、

たった一言に、せいいっぱいの気遣いと万感を込め、鷹揚に頷いておられるだけで、人々は有難がって済んでいたのかもしれないが、

現代においては、すでに、そんな大らかなことでは通らなくなっている。

 

公務を怠けている!という俗世間でのイメージに左右されたか愚か者が、威丈高な憤りを見せて、目の前の皇太子妃に掴みかからんばかり口汚く罵りながらの無礼な ふるまいが、公衆の面前にて起きたことが あった。

 

いまの民衆は、情報が溢れるばかりの時代にあって、ますます、分かり易さ、かつ、自発的に そうあろうと努める存在を求めている。

だから、『日本会議系』御用学者の「八木」某あたりが言ったという、まさに、「菊のカーテン」の「奥に まします」的な やりかたでは、現代の民心は、もっと離れていき、もっと無関心になるだろう。

こういうところからして、『日本会議』系の連中は、時代錯誤が酷過ぎて、わざとじゃないのなら、何も分かってないとしか言いようがない。

 

それこそ、麻生さんの「ナチスに学べ」じゃないが、

民衆が気づかないうちに着実に遣り遂げられていた静かな革命、

現天皇のほうが、その辺の現実を、よく分かっていらっしゃったわけだ。

 

 

ところで、

一般人ならば、誰から敬意を以て遇されることも一切なく、ひたすら孤立無援の、しがない労働者として働かざるを得ない情況も、めずらしいことでは ないが、
そんな生活のなかで、どうにも性に合わない仕事に明け暮れているうちには、精神力が強靭でないことには、やがて、鬱にもなってしまうことだろう。
それだからと言って、
仕事を休むことも ままならず、医者に通うのも躊躇い続け、
最後は、人生そのものが転落していき、最低限レベルの生活を することすら困難となる、そんな事態も、現代日本の民衆に あり得ることとなって久しい。

 

世界有数の金持ち国にて生育しているはずの小児たちが餓えることも、殺められ、行方知れずになることも、さほど まれな現象で なくなった。

 

何々の「宮」と生まれ、名付けられた、ただただ それゆえに、とびっきり高価な宝冠で飾られて当然とされる、どう見ても、普通の人にしか見えない、何の実績もない若い女性。

 

あまりに強烈な対比の構図には、感想のコトバも容易には出てこない。

 

 

相変わらずの「ヤフー」名物()醜悪コメント勢揃いコーナーのなかには、

「天皇外交」の おかげで日本は云々と、むやみに有難がっている者が いるけれど、

カン違いしては いけない。

 

天皇家や皇室の外交というものは、基本的に日本国として、友好関係を確立できている相手国以外へは赴かせるはずがないのだ。

したがって、すでに友好関係に あると見做されている相手国との親睦を深める意義は少しは あるにせよ、

あたかも、国家間外交を、天皇家や皇室が切り開き、揺るぎなく良好な関係を築いているかのような有難がりは、これまた、あまりに短絡的で滑稽である。

 

むしろ、過去の歴史を少しでも振り返れば分かるように、

各時代の権力筋が、邪まに利用するため、つごうのいい存在となる危険性のほうが圧倒的に高かったわけだ。明確に主権を有していた時代の天皇でさえもだ。

 

 

それにしても、

現天皇の、先日の発表で吐露された「全身全霊」という、それは、
いったい誰が判断するのだろうか。

 

最悪のケースから考慮してみれば、

もし、どう見ても、「全身全霊」とは言えない、それどころか、傍から見ていても、普通、 まとも、とすら言えないほどの事態になったとしても、

天皇ご本人が、
「いーや、自分としては全身全霊で やってますので!」
と主張するなら、それが全てでしかないわけだろうか?

 

あるいは逆に、

ほんとうは「全身全霊」とまで いかなくても、
傍目には、じゅうぶんに、そのように見える演技力がキモになるだろうか。

 

当人の心情や状態と、外から見ている他者の受け止めが乖離していることも よくあること。

 

だいたい、精神を守るための自然の摂理で、
人間いつもいつも「全身全霊」が持続するはずも なく、

面識もない他人の幸せを つよく願い続け、不幸事には、深く心塞ぐような状態を続けておれるとしたら、それこそ「超人」と呼ぶに ふさわしいだろうが、あり得ない。

そんな状態を長年にわたって続けていたら、
ふつうに人間ならば、遠からず、
「燃え尽き症候群」
のごとくになってしまうはず。

 

ならば、

「全身全霊」と言っても、
自分個人の判断で、そうだと主張しているに過ぎないのではないか。

 

「全身全霊で」というのは、きれいごとではないのか。

 

 

いまの天皇さんは、いわゆる国事行為よりは、被災地訪問等の直接の「お出まし」公務を最重視なさっておられるようだが、

実際は、被災現地では、天皇や皇族を迎えるための準備で、かえって、負担が増すと言っていた。

そのへんは、どのように お考えなのだろうか。

 

もちろん、お顔を拝めたとて、リクツ抜きで感激する人たちは少なくないのだろう。

一般に、高齢者(特に地方の)は、自民党シンパと同様、天皇・皇室崇拝者が多いと聞くし、それでなくとも、大衆というものは、
それが天皇や皇族でなかろうと、ただ、有名人を、じかに見ることだけで喜ぶものだ。

 

もし、自分自身が被災したからといって、天皇さんや皇族がたの見舞いを受けても、何ら助けにならんし、べつに嬉しくもない、と思う私のほうが、現時点で圧倒的に少数派なのだろうけれど。

 

 

「静かなる革命」の実行者たる現天皇は、おそらく、以前までの天皇とは異なる、「新しい天皇像」を確立すべきと、邁進してこられたのだと察している。そうしなければ ならない時代の立場でも あった。

 

 

もし、天皇さんが、私の目の前に おられたら、ぜひ質問してみたいのは、

「皇室の伝統」とは、

なかんづく、皇室神道の祭祀の位置づけのことは、いかなることだと考えておられるのか?

ということ。

 

おそらく、ご本人自身、明確に応答することは できないだろうし、避けられるだろうが、

もちろん、皇室祭祀は、宗教行為そのものであり、
「(国民統合の)象徴」として位置づけている憲法のイの一番に掲げられる天皇が執り行うこととしては、日本国憲法に反するはずなのだ。

 

ことに「大嘗祭」は、莫大な費用が かかるそうだが、

これに対して、国費・税金を充当することも大きな問題であるのは明白だ。

 

 

そのうえで、なお敢えて、皇室を存続させたいのであれば、今後の天皇と皇族には、現天皇に ひけを取らない以上の人望を獲得でき続けなければ、たちまちにして、存続は危ぶまれ、

従来から ある、「天皇・皇室、いらない」という声が高まってしまうだろう。

つくづく、後継の かたがたには酷な話だと思う。

 

 

結局、どの方角から検討してみても、皇室の存続には、無理が あり過ぎるし、解決できない大き過ぎる矛盾が横たわっているのである。

だから、いずれは潰えていく家だ、と言ったのだ。

 

 

ま、『一世一元』という、敗戦後、一度は廃され、長らく そのままになっていたものをば、例の『日本会議』の猛烈な働きかけによって、再び制度化されるに至ったという この法が、

このたびの天皇さんの、ご存命中の「退位」という趣旨の発言によって、あえなくワヤになりそうな雲行きに立ち至ったことについては、
私としては痛快至極である。

およそ天皇家発の出来事で、これほど愉快を覚えたことは、これが初めてだ。()

 

【続】「天皇退位」について