2021.09.20 (Mon)
『宗教が争いの原因になり易い理由』の続き。
それでも、
特に、釈迦が言い遺したことのなかには、現代人にとっても有用な教えは あるように思うし、
私は、釈迦が直接に説いたという内容は、「宗教」と呼ぶよりも、むしろ、よく言われるように、『心理学』に近いもののように思う。
死者に対する仏教的弔いの行為にも、残された者の心の癒しのほうを考慮している感じが するし、
死後の世界を問われて、「無記」とだけ答えたという話にも、それは科学者の基本姿勢に等しいものだと思える。
他の宗教なら、死んだあとは、こうなって、ああなって、、、
まぁ いろいろと、まさに「見てきたような」尾ひれが付くのが定番よねw
なので、
死んだあと、どうだ こうだ、などといった「脅し」に近いような教えは、それは それとしての「方便」のようなものなのかもしれないが、
おそらく、ほとんどは「如是我聞」と前置きした、それぞれの弟子や後世の信者たちが付け加えていったものだと思う。これも古今東西、ありがちなことだ。
弟子や信者は、始祖たる釈迦本人よりも、もっと世俗の考えかたや感覚から脱け出しきれなかっただろうし。
なお、『ヴェニスの商人』のことも挙げている者が いたけど、
この、一見は単純な作品こそ、シェイクスピアの、世界に冠たる文豪としての価値を示しているものかもしれない。
私も、小学低学年の時分に、身内の誰かに買い与えられた、児童向け『ヴェニスの商人』を読んだことが あるのをハッキリ憶えている。
憶えている理由は、
キーとなる、そして、「ヒール」的役回りの登場人物でありながら、本当の主人公であるとも言えよう、ユダヤ人『シャイロック』が、少し、気の毒にすら思えたからw
かつ、ヒロインの『ポーシャ』のほうは、なんかヘリクツ言ってるな、後出しジャンケンかよ、くらいに思えたしww
ポーシャのカレシなんぞときたら、まったく憶えてない。影が薄いw
だんぜん、シャイロックが光ってるwww
もっとも、
シャイロックの頑なさ、冷酷さには、多くのユダヤ人が生業としていたらしい金融関係の商売で、徹底した厳格さや容赦のなさ、それゆえの恨みを買って、地域社会から白い眼で見られるような存在となったことの鬱屈や恨み返しのような心情を抱えたユダヤ人という存在を、一身に象徴させているのだろう。
このように、シェイクスピアが生きていた時代は、ユダヤ人に対する蔑視や差別意識は、当然とされていたそうで、そんな時代に生まれ育ったシェイクスピアも、一人の人間的限界は免れず、
彼自身も、ユダヤ人差別について、問題意識というものは全く持ったことが ないという。
だからだろう、作品『ヴェニスの商人』に おいても、キリスト教徒側からのユダヤ人観と、あらまほしきことの要求ぶりが徹底的に描かれたうえでの結末となっている。
それなのに、
『ヴェニスの商人』で活写された、非情で冷酷で無慈悲な悪徳商人は、「人間たるシャイロック」だ。
これを、作者シェイクスピア自身は、無意識のうちに描きあげたというのである。
それと、
シャイロックの娘については、ごく善良なタイプとして描かれている。
親が こうだからと言って、子のほうも、親に似ているとは限らないということを明示している。
そして、ユダヤ人の子であろうと、善良な者には、豊かな恩恵が与えられてしかるべきという話に仕上げている。
なので、
いかにも昔のキリスト教徒的な「教育的指導」臭がプンプンしているようでもあり、
シェイクスピアの作品は、実は、異国の伝説などを下敷きにしていることが よくあるそうなので、ストーリーそのものの画期性よりも、人物描写が、やはりイキイキしているということだろう。
で、
「もしも、お釈迦さまにインタビューできたら」
どのように お答えになるか。
やっぱり、「のり越えるように」と仰るんじゃないだろうか。
「互いが寛容に」と。
不寛容こそは、争いの原因になるのだし
(『シェヘラザード―ー千夜一夜物語』にも、「不寛容の罪」というテーマの小話が出てくる)、
例の『イスラム教・原理主義』を見てたら分かるように、
結局、力で強引に押さえつけ、従わないの従えないのとなったら、最後は、力と力の悲惨な競り合いになる。
「革命か死か」?w
これも仏教説話の一つで、
『阿修羅と帝釈天』の争いってのが あるでしょ。
事のスジは、そもそも、『阿修羅』のほうが、そりゃ尤もなんだろうけど、
わが娘は『帝釈天』にレイプされたのに惚れちゃってるし、阿修羅パパのほうは、「スジ通さんかーーーい!!
」と激怒して、とことん戦ったと。
でも、
「やったもん勝ち」帝釈天のほうがゴリ押しバカぢからが強くてwやっぱり勝っちゃう。
って、
途中、ちょっとした番狂わせを挟んでいるんだけれど、ま、ごくごく大まかには、そんな話。
そう、この世界、とにかく強い者が勝つんだぜという、身も蓋もない、
そして、じつに くだらない世界よねw
なくていい世界だ。
なんで あるの??
という疑問は、「考える葦」にとって、宇宙の発生の謎と共に永遠だわww
だったら、せいぜい楽しむしかないね♪
と言いたくなるが、そんな甘いことばかり言ってられない現実も重い。
オマケの考察だけど。
『帝釈天』というのは、現地名を『インドラ』と呼ぶこと、それと敵対したというストーリーのなかで登場する、もう一方の主人公『阿修羅』に、もとは『ゾロアスター教』のなかで「最高善神」という位置付けであった『アフラ・マズダー』との関連が あることを考えると、『インド』と『イラン』の関係性をも鑑みるに、興味深い大逆転が見受けられるわけだ。
かくのように、
「神」とは、人間の つごうで、いかようにも変転させられるw
【続く】
2021.09.20 (Mon)
日本に おいても、こういう問題が続いていたことを、私は知らないでいたのだけれど。
『経典の中の差別語問題 真宗大谷派が謝罪 書き換えられない文言、問われる解決のかたち』京都新聞9/18(土) 19:21
https://news.yahoo.co.jp/articles/51c31f28dfd79f5e868567397e0be1522bd5396d
そりゃそうよね。
仏教って、『インド』が発祥の地だし、
あちらの習慣とか事物などを、こっちの それに置き換えるのは よく あることだ。そもそも、翻訳言語だって そうだもの。
よく思うことなんだけど、
こういうとき、当の人物にインタビューできたらなあと。
でも、はるか遠い時代の人なので、
ここは、ひたすらに想像してみるほかは ない。
で、想像してみた。
もともと、『釈迦』自身が、生まれ育った当時の生活習慣や宗教観(現代よりも、もっと強く、生活のなかに密着していたであろう)から逃れることは できなかったはずで、
しかも、それだけでは納得いかない悩みや苦しみを持ったからこそ(人間だもの)、「カウンター」としての、新しい思想を得たわけで、古今東西の何事によらず、古いもの(前世代)は新しいもの(次世代)の母体である。
で、特に、釈迦の場合、布教するに あたって、ほとんどは、学も教養も ない民衆に説き聞かせるうえで、彼らにも、できるだけ分かりやすくと、「たとえ話」など、くふうした あとが豊富だということだそうで、
すると、昔からの言い伝えとか、当時の一般的だった宗教説話なども、大いに取り込みながら説いたわけだろう。
「ヤフゴミん」らのなかには、そういう理解から、こんにちでは、明らかに「差別的用語」としているコトバでも、それを用いているのは何のためかということを考えるべき、といったコメントを寄せている者も散見するが、これは尤もだろう。
ただし、
私自身は、およそ経典というものを詳しくは知らないまま、単に、実家の宗派が『仏教』の一派であるというだけだから、彼らが指摘するように、「差別は良くないということを説くために、従来の差別習慣から来るコトバを敢えて用いているだけ」というのが本当のことか どうかは分からない。たぶん、そんなところなのだろうとは思えるけども。
であれば、
いわゆる差別用語に該当するコトバを含んでいる経典を、よく理解していない信者などとともに読誦したりするときは、その前に、必ず、丁寧に噛み砕いた「講義」、レクチャーを行うことが望ましいのではと。
すでに実行されているらしいが。
「ヤフゴミん」は「ヤフゴミん」ならではの通常運転で、
「時代の価値観」とか「コトバ狩りは やめろ」とか言い募って、自分のなかの「差別したい!!」「差別できなくなったら、自分にとっては不自由!!そんなの、暗い社会だ~」という本音を正当化してるようだけど(嗤)
私の眼
は誤魔化せないのよんw
もしも、当の釈迦自身が、差別対象を差別して当然という思い込みを持ったままだったのであれば、そこは、やはり、一個の人間だったのだなと、私は思うだけ。
そもそも「出家」した動機を聞けば、まさに人間ならではのことだもの。
こないだ、『クルアーン』には、だいたい、どのようなことが説かれているわけかな?と、『ウィキペディア』なんかをザッと読んでみたかぎりでは、どうも、『ムハンマド』が生きていた時代の規範や模範を もとに、言わば「生活指導」みたいなことを、フシつけて唱えやすく、覚えやすく まとめてあるんだなという印象だ。
やはり、よく言われることだが、宗教の もともとは、当時の人々の生活上で、避けたり忌むべきことや、やるべきこと、望ましいことを教え諭すのが目的であったという感じが伴う。
自然環境が厳しい地域ほど、その教えは厳格になるように見受ける。
『クルアーン』には、特に、わが国の学校の「風紀委員」だの「生活指導」みたいなものを連想させられた しだいw
だからだろうか、
私が少々知っている、ある『イスラム』教徒の日本人女性は、これは、『キリスト』教徒にも共通すると聞いたことは あるのだが、教えの内容を、自分なりに、どう解釈して、生活のなかに、どのように取り入れ、実践していくのか、常に「神と対話、問答」するのだというふうに言っていた。
つまりは「自問自答」だろうと、私は思うけど。
でも、そういうことが できない人なら、それは一字一句、コトバどおりの「原理主義」に陥らざるを得ないのかもしれない。
「なぜ」、「どういうわけで」を考えることが できないから。
要するに、「思考停止」。
もし、『ターリバーン』あたりの「原理主義」者の前に、
これこそが、ほんものの『ムハンマド』が説いたものだった、ということが明らかである経典が発見された、と しよう。
そのなかに、
「男に教育は、いっさい無用」
「頭から足先まで全て覆う布を被ること」
「常に、母や姉の言いつけに絶対服従すべし」
などと書かれてあったら、そのとおりにするんだろうか?w
当然、
昔から現代まで、基本的に変わらないことも あるけれど、
変わってしまっていること、変わらないと困ることも多々あるわけで。
だから、
大昔の人が、当時の生活習慣とか、それが土台になっている倫理観などで、こうしたほうが良いとか、こうするべきと説いたコトバを、こんにちになっても、一字一句も変えず、その書かれたコトバどおりに死守することなんて、ナンセンスである以上に、不可能なことだ。
現代の利器の一つで、たとえば、コンピューターやパソコンというものを、『ムハンマド』が禁じていたとしたら。
むろん、それは ありえないこと。
なぜなら、ムハンマドと言えど、それらの出現も存在も、夢にも想像できなかった時代の人だから、どこにも何も書き残してない。
冷蔵庫も洗濯機も電話も電子レンジのことも、書き残してないのだから、たとえ『イスラム教』でも「原理主義」の信者でも、ほいほい使っていいのだろう。
ムハンマドが知らないことだからw
それだけだし、
それを もって、どんなに立派な始祖や御開祖と言えども、「時代の限界」からは逃れ得ぬ、一個の人であったという証左となる。
というわけで、
「個人崇拝」は、愚かしい、ということだ。
【続く】
2021.09.18 (Sat)
つくづく呆れた。
『防衛省、芸能人らインフルエンサー100人に接触計画 予算増狙い』9/17(金) 6:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/11ef75943353e076b60a9a6253e643feb8c029b9
~
働きかけの対象は「国民に影響を有する防衛・安全保障が専門ではない学者、有識者、メディア関係者」。100人程度をリストアップするため、省内に推薦を求めている。具体例として、国の財政や予算のあり方などを議論する財務相の諮問機関「財政制度等審議会」の学者や経済界幹部のほか、テレビのニュースや情報番組に出演する有識者や芸能人、ユーチューバーらを挙げている。
なにそれ?![]()
『自民党』のマネか。安倍政権のマネか。
その安倍政権の あいだ、国民の福祉を削りまくっておいて、防衛・軍事費を、どんだけ爆上げしてもらったんや?
それだけじゃ足りずに、まだ、こんなバカなことに税金つぎ込もうとしてるとは![]()
すでに『自民党ネトサポ』などの存在や、「雇われウヨ」どもが存在してるのは知られてるが、
要するに、それの延長を、まだまだ、やろうという魂胆だな。
またぞろ税金で。
そして、『消費税』を上げると。わかりきっとるわ(嗤)![]()
「識者」とは名ばかりの「テレビ芸人」やら、お笑い芸能人やら『ユーチューバー』などの「ネット芸人」なんざ、ほとんどは知識も浅く薄い、
そのわりには、まことしやかにデマを こく、見識も甚だ軽薄、と言うか、
それ以前に、一般人社会に疎いからなのか、常識からして欠けてるか偏ってる者が多いだろうに、
そして、政治屋と癒着する者が多いことでも知れているように、典型的なカネと権力に弱い俗物が多いのはハッキリしてるだろうに。
そんな連中の浅はかさをこそ利用して、
しかも、特に浅はかな者を選りすぐって、
それへ、なおもカネで釣って、プロパガンダのために雇うってことか。
私も何度か指摘してきたように、
『自衛隊』は、むかしから、『自民党』支持者が多く、強固な支持基盤となっている組織の一つだ。
「島田和久事務次官による指示」
怪しからんな
じつに怪しからんぞ![]()
![]()
私も、あとで、できる範囲で調べてみるけど、
良識と見識あるメディアは、この人物について調査・確認のうえ、事実に間違いないのであれば、徹底的に糾弾すべきやね。
…
あぁ、やっぱり。
アベシの息が かかってるやつだった(嗤)
警察庁長官に就くという中村 格氏と同じ類やんか(嗤(嗤)
いいか。
国民の生活を搾りあげてでも、軍事に税金を注ぎ込む国は、どんな国か。
たいがいは、発展途上国や独裁国家、
そうでなければ、
しょっちゅう、外国にケンカふっかけて戦争ばかり やってるか、
他国を焚きつけ、意のままに動かそうと策謀したり、「武器商人」やって、血まみれのカネを稼いでる国だ。
若い国民が、学費を稼ぐために、「経済的徴兵」に応じ、
それこそ『アフガン』あたりへ赴き、気が変になるほど恐ろしい思いをして帰国してきて、今度は自国の街なかで、銃を乱射したりする国だ。
『朝日新聞』もね、ソンタクして甘いこと書いてる場合じゃないよ!
「予算増ありきの世論喚起策」どころじゃない!!
これって、明らかに、国民全体への洗脳計画じゃないか。
『アフガニスタン』と言えば、
『ターリバーン』から緊急避難したい現地の協力者だった人々を救出するについて不手際が あったとして、
自国民と現地人あわせて1500人以上を退避させたオランダで(イギリスでも)、外務大臣や防衛大臣の責任が、議会に おいて厳しく追及され、辞任した大臣も いるとか。
『オランダ外相が辞任、アフガン退避めぐり』
AFP=時事9/17(金) 15:57配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/130142a6b95584de0040f5f65145c25498d53afc
『オランダ外相が辞任 アフガン退避めぐり引責』
時事通信9/17(金) 8:43配信 最終更新:9/17(金) 12:46
https://news.yahoo.co.jp/articles/07bc5e413763f225104a6ca5294d056ecff24bd9
『オランダ外相もアフガン巡り辞任 退避の混乱で英国に続き』共同通信9/17(金) 9:09配信 最終更新:9/17(金) 9:27
https://news.yahoo.co.jp/articles/7098a81791ddda0a6df142d69d4e2f85986b9f23
いずれも、「ヤフゴミん」の姿、ごく少数w
そのうえ、
その少ないコメントの殆どはトンチンカンで、いつもどおりの「野党ガー」「政府責めるな、野党が悪い」の繰り返しww
…ほんとうに、この国はバカが多い。多過ぎる。
いやいや、なんせ「ヤフゴミ捨て場」だからね?と思いたいけど、
やっぱり、バカが多いんだろう、政府もマスメディアも国民も。
亡国三拍子そろっとるわ(嗤)
このままだと、やっぱり沈没まっしぐらやな。![]()
『アフガニスタン』からの退避について、駐留米軍撤退が迫る先月末頃、私が読んだ記事では(『朝日新聞』だったと思う)、伊勢崎賢治氏が、8月の始めから、『自衛隊』派遣などの退避支援を政府に進言していたというんだけどね。無視されたのか、あのとおり、初動から遅れた。まあ、毎度のことだけどね。
で、
たしか、自国民(ジャーナリストらしい)一人だけだったか、日本国が退避させることが できたのは。
結局、何人だったのかな、やっぱり、一人だけ?
外務大臣は?
防衛大臣は?
え~と、誰だったっけ??
ありゃりゃ、まじでド忘れしてるわ。。。
あ、思い出した、モギさんキシさんだったっけ。
タムラさんニシムラさんもゴッチャになってるまんまだしw
「子どもの使い」に終わった体の『自衛隊』も赤っ恥だわな。
くだらんプロパガンダを目論んでる場合じゃないぞ。
もっと他のことにアタマ使いなはれ!!![]()
![]()
2021.09.16 (Thu)
『死ぬまで勉強って本当だ。』の続き。
先述のコメントの話に戻すと、
私は、子の親になったことが ないので、親の心情というものについては、あくまで想像するしかない。
自分が知っている範囲に おいて、子に先立たれた親の思いが、どのようであるか、目の前で見てきたことも幾度かは あるので、ある程度の察しは つくし、実際に、息子さんを亡くした女性の述懐を、直接、聞いたことも ある。
同じ悲痛の思いでも、
やはり、親の立場と、子の立場とでは、微妙な違いは あるように思う。
私自身が、母親を亡くしたときの思いは、まさに、自分の足が立っている固い地面がグラグラと激しく揺れたあと、突如として、わが身が宙づりになってしまったかのような、なんとも寄る辺ない感覚だった。
私にとって、母親の存在と、その発するコトバとは、
幼い子どもの頃に、わけも分からず読み聞かされたまま、まる暗記せよと命じられた「クルアーン」や「シャリーア」のようなものだった。
亡くしてから間もない頃に、自宅から ほど近い、人通りの多い街なかを歩いているときに感じた、強烈な違和感と孤立感。
それまでにも、他人の話で聞いたことが あるような、
「この人たちは、なぜ、何事もなかったみたいに、楽しそうに笑ってるの?」
という、じつに子どもっぽいほど理不尽な感情だった。
『エンド オブ ザ ワールド』のように。
母親に関しては、もともと病気の多い人だったし、思いがけなく得た難病も抱えていたので、どのみち長くは生きられないと、アタマでは分かっていたはずのことだった。
私も、自分自身が長らくの病気の あと、仕事を続けながらだったので、子として、できるだけのことは したつもりだが、それでも、亡くなった直後は、もっと、こうしてやっていれば、ああしてやっていればと、自分の至らなかった点を、あれこれと自問し、答えの出ないモヤモヤを持て余して、とある相談機関に、悩みを打ち明けたことも あった。
そのときの担当者は、みずからも経験したことだと前置きして、そういう場合に自責したり、悩んだりするのは、同じような経験を した場合、多くの人に共通していることなのだと答えてくれたのを憶えている。
親父のときは、私も けっこう冷静で、悲しいとかは殆ど なくて、むしろ、どっちかというと、なさけないというか、やれやれ、という感じだったけど(苦笑)
親父のほうは、男性に ありがちな、まあ分かりやすいというのか、暴力としては単純な図式だったが、むろん、これだって大問題だ。
二人とも、いわゆる「毒親」ってやつだったし、
でもね、
むしろ母親のほうが、よりいっそう、タチが悪かったんだと、いまでは分かる。
親父に対するようには、冷静に突き離せないものが あったから尚更。
知らず知らず、私だけが親父の犠牲になるよう仕向けていた母親の、
それが無自覚だったか、意識的だったのか、見分けるのは困難だが、
エゴと悪意が入り混じった計算に引っ掛けられていたことが、やっと理解できるようになった今でさえ、
もしも、母親が相変わらず生きていて、親父に対してと同様の冷静さを持って あしらうことが できるかというと、やっぱり、自信は ない。
心底うんざりしていても、冷たく突き放したり、捨て去ることだけは できなかったと思う。
それは、「恐れ」というより、「懼れ」、つまり、母子が逆転していて、私のほうが、母親を心配していたから。
幼い頃の私は、いつだって捨ててやると脅され、怯えて泣いていたのに。
生育環境が、いろいろな事情で、恵まれなかったのは、両親ともだが、
劣等感やらコンプレックスやら、なんとも言えない寂しさやら複雑な心情は、父母それぞれに異なるニュアンスで抱えていたと察している。
あかんぼうの頃に、強く乞われて、伯母の養子となった親父の場合、
おのれよりも ずっと若い女房が先立った あとは、代わりに娘である私を、あたかも女中扱いしようとしたことの遠因に、今ごろ思い当たった。
子どもの頃の親父は、まさに、養母の死後、たちまちにして養父のための家事を させられ、通学にも差し障っていた惨めさ辛さを語っていた。
とんだ お門違いの相手に向かってでも、「復讐」しようとするんだね。
自己愛の つよいタイプは、歪んだプライドをテコに、「八つ当たり」を、よく やるようだ。
もとが全くの他人である養父と二人きりになってからの親父の苦労よりも、
後妻を迎えてから豹変した実父の裏切りに苦しんだ母親のほうが、精神の根っこが脆かったようにも思う。
二人とも、何人も巻き込んで、陰に陽に不幸にしてきたことを、自覚することも直視も できない性分の人たちでは あったけれど。
ま、でも、なんだかんだ言ってエネルギッシュで、自分勝手なエゴを通せた人生でも あったわけで。これで満足できてないとしたら、底抜けだ。
親が、子を思う、自分のこと以上に、子を案じて、その幸せを、心底から願う、とはかぎらない、
こういう疑いや、信用に足りないという諦念は、「毒親」のもとで生育した人には共通する心情かと思うのだけれど、
このような場合、
いとも単純に、「親に愛されていた」はずということを大前提とした慰めのコトバを言われたら、ちっとも慰められないどころか、かえって不快になる人も、そりゃ、いるだろう。
私の場合なんかは、演技力のズバ抜けた、エエカッコシイな親が、他人だけじゃなく、身内や親戚じゅうに至るまで、「賢明で、面倒見が良くて、立派な自分」「なのに、娘は似てなくてアホバカ出来損ない」てなイメージを振り撒いてきてるからw
じつは、少なくとも私にとっては悪い親だったんだということを訴えようとしても、言うが早いかピシャリと却下されるw
「おまえが、いちばん可愛がってもらってたじゃないか?」と。
しょせん、表面しか見えてないのよね。
だから、
やっぱり、身内とか他人とか第三者とかを問わず、ほんとうに、実情を知っている場合以外は、ただ善意で慰め、力づけようと思っても、それが裏目に出ることも あり得るコトバに、重々、心しなければ ならないんだと思った。
ちょっと似たようなことだが、
私は障碍を抱えているので、これを通して見える人間性の違いにも、けっこう興味深いものが ある。
私の経験した範囲では、若かった頃は、全体の8割か それ以上が、バカにするような、侮蔑するような、あるいは、ヘンな興味を示す人が圧倒的に多かったように思う。
そうでなければ、哀れみ、憐憫とかね、善意のつもりなんだろうけれど。
母親の厳命で、あくまで「健常者」として生きてきたから、そのフリを するのが上手くなってる私ですらだよw
職場でも、いろんな面で、困惑したり、辛い思いを してきているし、就活の面接時に、罵倒されたことさえ あった。
こんにち、社会啓蒙が進んできた おかげも あるのか、良く見積もれば、まあまあ6割強くらいにまで減ったのかなと感じる。
で、
むかしから、全体のなかで1割2割、いまでは、良く見積もって3割くらい いくか いかないかの感じで、
侮蔑感やら悪意とか特には持たない、「フラット」と言うのか、少なくとも、剥き出しには しないでくれる人が、けっこう増えたと思う。
けれど、むかしも今も、ずっと変わらないのは、
善意でもって積極的に気遣ってくれたり、先先と親切にしてくれる人が、たまには いること。
それは、
その障碍なら障碍についての事情や扱いかたに詳しいというわけでは なく、世間の通り一遍なイメージに もとづくとか、その人なりに、なんとは なしに想像していたことを駆使してみようとする気遣いや親切なんだけど、
皮肉な、残念なことには、殆どの場合、役に立たない気遣いだったりも する。
あまり、役に立たない親切だったとしても、私は丁重に礼を述べ、笑顔の一つも交わし合って、先方は満足し、ではではと去っていく。
でも、これは正直に言うのだけど、腹なんか立てたことは一度も ない。
障碍の原因だった実の親ですら、いっさい、理解しなかったんだから、
他人でありながら、素朴に親切しようと思ってくれた気持ちだけで有難いわよ。
侮蔑せず、悪意を持たないでいてくれただけでも有難いし、
無自覚な独り善がりによる親切で あっても有難いです。
ただし、
独り善がりの思い込みで、中途半端にした「親切」のために、かえって困ったり、危険な状態に陥りかねない場合も、時として、あり得るだろうとは思う。
障碍者である私自身、自分と異なる種類の障碍や、未経験の病気の人のことは、よく分からないのだから、気を利かせた親切のつもりが、
むしろ迷惑な思いを させていたことが あるかもしれないのだし、
やっぱり、知ること、気づかないままだったのを気づかせてもらえる機会は大切だと思う。
2021.09.16 (Thu)
ふだんは、立場の弱い人を徹底して侮蔑し、しかも、高市さんみたいに、「さもしい」とかいう悪意の こもったコトバ以上の、凶器(=狂気)のような罵倒を繰り返して飽きないふうの、おそらく、そのうちの何割か、あるいは殆どが『自民党』や『日本会議』系シンパが投稿してるんだろうけど、
なので、
私は、だいたいにおいて「ヤフーコメント」は、社会的に有害であり、閉鎖すべきと主張してきた。
もちろん、全く邪悪なコメントの類ばかりでは ないし、
「ネトウヨ」と目される類の連中でさえも、ニュースや話題の内容によっては、いたって たあいないコメントを していたりもするんだけれど、それでも、圧倒的に有害度のほうが高いと断言できるほど、「ヤフコメ」は酷いと思うから、やはり、閉鎖すべきと思う。
しかし、この記事に付いたコメント。
『「母さん、会いたいよ」 9・11から20年、遺体見つからぬまま』
9/11(土) 21:16配信 最終更新:9/12(日) 4:55毎日新聞
https://news.yahoo.co.jp/articles/5753139d4f69e21fc57d1c06b5f87f793ec903ad
まずは、ちょっと言っとくね、
「そう思わない」=「バッド ボタン」ってやつね。
これは、間違えて押しちゃった人も、けっこう混じってるんだろうと思うよ。私も何度か やっちゃってる。
あとは、わざと、っていう、子どもっぽいヒネクレかなwいちばんか二番めくらいには多いのかね。
それ以外は、やっぱり、相応の経験や体験したとか、何らかの理由を、その人なりに真剣に持ってるんだろうと思う。
で、
この記事に付いた、しょっぱなの投稿コメント。
「息子さんが助かったこと、お母様の願いだと思います」。
この主コメに対する反発めいたコメントのほうに、私は、今回は教えられたと思う。と言うのは、
私は、例の「カルト連」と呼んでいる連中と遭遇するキッカケになったQAサイトにおいて、たまたま見かけた「質問」、
父親が急死したことが、ずっと辛くて、結婚後の平穏な生活のなかでも、つい思い出しては落ち込んでしまう、といった内容の問いを投稿している女性に、「回答」を寄せたことが あった。
彼女は、まだ独身だった当時、職場に出勤するため、おとうさんが運転する車で、駅まで送ってもらっていたという。
その日の朝も、駅に着いて、じゃあ、と軽く お礼を言って降りようとする間際、おとうさんは、「がんばれよ!」と声を かけて、見送ってくださったそうな。
そのあとで、思いがけない事故による急逝となったらしい。
振り返ってみれば、かれこれ十数年以上も前のことになるのだが、
そのときの遣り取りを、いまでも概ねは記憶している。
「回答者」として、私は、質問した人の おとうさんが、もしも、生前同様に話すことが できるものなら、きっと、最後に明るく、親子の会話が できたこと、別れ際、「ありがとう」と言ってもらえたことが嬉しかったと、このように おっしゃるに違いない、と述べた。
私自身、親を亡くしているし、
思い出すと悲しいこと辛いことも あるけれど、「心の引き出し」に、そっと しまい込んで、ふだんの生活を過ごしているというふうに言い添えたかと思う。
「質問者」の女性は、幾分かでも、重い気持ちが やわらいだらしく、私の「回答」を、とても喜んでくれているようだった。
そのおりに、私と並んで「回答者」としてコメントを寄せている人が他にも幾人か いて、なかでも、「質問者」の人以上に、つよい印象が残っている「回答者」が いた。
母一人、娘一人の家庭で育ち、
やがて結婚して、母のもとから離れ、かなり遠距離に住まいする状況になったあと、その人の おかあさんも、入院先で急死されたとかで、俗に言う「死に目に遭えなかった」ということを述べておられて、回答の最後に淡々と、「今夜は、母が好きだった炊き込み御飯に しましょうかね」と、呟くように おっしゃってたことを、いまでもハッキリ憶えている。
さて、先述の記事と、それに付いたコメントのこと。
最初に「主コメ」として掲載されている短い内容、
「息子さんが助かったこと、お母様の願いだと」
これは、
私自身も、残されて辛い立場の当事者を前にしたら、似たようなことを言ってしまうかもと感じた。
実際、かの『阪神・淡路 大震災』が起きたとき、連日の報道の嵐の あとで、しばらく経って、今度は、身内や親しい人を亡くした人たちの述懐を、特集記事などにおいて掲載されるようになった頃だったかと思う。
読んでいた それらの新聞記事のなかで、当時20歳代あるいは30歳代の男性の おかあさんが、息子さんの入学か就職を切っ掛けに、以後、一人暮らしになっていたところ、あの大地震で倒壊した家屋のなかで亡くなったということを語っておられた。
それを読み終えて、私は、実家の茶の間で、目の前の母親に向かって、こういう内容の記事が載っていたと伝えた。そのおりに、
「でもさ、その おかあさん、家が崩れるなかで、息子が、ここに いなくて よかった、と思ったかもしれないよね」というふうなことを言った。
母親も同意していたけれど。
たしか、旧ブログのときにも、ずっと前の過去エントリーでも取りあげた話。
同じ大震災のとき、崩れた家屋のなかで、母と娘が同時に押し潰される状態になり、おかあさんのほうは、辛うじて、隙間の おかげで命拾いした結果になったけれど、大切に育てた娘さんのほうは、タンスか何か大型家具の直撃と圧迫を受けており、間もなく瀕死となってしまい、泣きながら苦しがる娘さんを、暗闇のなかで叱咤しつつ、二人とも、全く、身動き できない状態のまま、すぐ そこに聞こえている娘さんの呻きも、やがて、徐々に微かになり、ついには途絶え、、、という経緯だったのだが、
あまりに気の毒で、読んでいる途中、もらい泣き、
しかも、最後のほうを読み進んで、なおも胸が痛むような後日談。
それは、
ある日のこと、1、2年後だったかもしれないが、しばらく経った頃に、
くだんの被災死した娘さんの おかあさんが、ご近所で親しくしていた人と話している途中、亡くなった娘さんのことを口に上せたら、
いつまで言ってるの?と、厳しい口調で咎められたという。
これは、私は少し憤りすら覚えた。
過去エントリーに おいても同じことを言ったと思うけど、
深く傷ついたままの人に向かって、そういう「咎め」を、何の理由や正義で言い放つのだろうか?
いまでも、思い出すと、憤りというより、ただ哀しい。
くだんの おかあさんは、なんとか気を取り直して、せめて平穏に暮らしておられるだろうか、時おり、心のなかで案じてきた。
けれども、
この おかあさんを慰めたい一心から、
「娘さんは、おかあさんが助かったことを、きっと喜んでくれていますよ」
などと言えるだろうか。
さすがに、それは ない。
しかし、
子の側は助かり、親が、というケースで あっても、
「あなたが助かったことは、おかあさん(おとうさん)の願い」
こういう、つい言ってしまうかもしれないことを、迂闊に言わないように、自戒して おかなければ ならないと、今回、初めて学んだと思う。
いや、私と母親のあいだでのように、
「その親御さんは、家が崩れるなかで、子どもさんが、たまたま、別の所で暮らしてて よかった、と思ったかもしれないよね」
と、あくまで内輪のなかで言ったぶんには、まあ許されるだろう。
だが、当事者を前には。。。
心得事だと、つくづく思った しだい。
考えてみれば、
事故や事件あるいは戦争で、辛うじて生きのびた人の多くが、心理的に、一種の罪悪感を抱えてしまうことは、よく聞く話だ。
あなたは助かって良かったとか、亡くなった人のためにも、その分まで、しっかりと、幸せな人生を、とかいう、「善意」のコトバが、かえって傷口に塩するような、いらぬプレッシャーを与えてしまうかもしれないということも、心に留めておかねばと思う。
【続く】