忍者ブログ
とりあえず、ひかりのくに
     
<< | 2026年03月 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 | >>
[84]  [85]  [86]  [87]  [88]  [89]  [90]  [91]  [92]  [93]  [94
Updated   
2022.02.11 (Fri)

【続】昔の「ヤング ケアラー」と、現代の母親たちの」続き。

 

義祖母が やって来る前の事情なのだが、

長女である母親は、小学低学年の年齢で、実母(私の実祖母)を亡くしているので、幼い弟妹たちを、自分自身も まだ幼いうちからメンドウみていた。

間もなく、日本は、『太平洋戦争(第二次世界大戦)』開戦、

経済的には裕福な家庭だったと言えど、見たこともない田舎へと、弟妹たちを連れて移住し、祖父が借りあげた一軒家で疎開生活を始めたものの、妻を亡くした祖父とて、大阪での仕事が あるから、なるべく定期的に訪れるのが精いっぱい。

そのたびに、まとまった生活費も、長女に一任して託し、次に来るまで、それで やっていくんだぞ、と言い置いて帰っていくが、私の母親だって、まだ小学生だ。

 

お米などは、祖父が、近辺の農家と契約していて、あの当時でも、母親らは、基本的に白米を食べていられた。

けれど、米だけで生くるに あらずで、

まだ聞き分けのない弟妹に ねだられたり、ぐずられたりして、どうしても、生活費の割り振り予算をオーバーしてしまう。

 

そこで、小学生だった母親は、近所の商店に頼み込んで、掃除や洗い物、井戸水汲みなどのアルバイトに雇ってもらい、下校後や休みの日に、僅かな日銭を稼いでは、足りない食料品や日用品を買い足しつつ、父親(私の祖父)が訪れるのを待ち焦がれていたそうな。

 

生まれつき病気がちで、子ども時分は痩せっぽちだったという母親が、
うんしょ、うんしょと、井戸水を汲み、洗い物に掃除と、いっしょうけんめい働いているあいだ、

おなかを すかせた下の叔母が やって来て、めそめそ泣きながら、
「ねえちゃ~ん、ねえちゃ~ん」
と、まとわりついてくるのを、店の人に見つかるとマズイ、家に戻れ!と叱って追い返すのが辛かったと、

この話を、私に聞かせるときの母親は、いつも涙ぐんでいた。

 

いま盛んに言われている「ヤング ケアラー」そのものだったわけよね。

 

 

私自身も、ある種の「ヤング ケアラー」に該当していたのだろうと思う。

両親とも、それぞれに、手間の かかる親だったからねw

 

母親を庇って、酒乱の親父を なだめ、どつかれ、

家のことも、近所の人たちが感心するくらい、よく手伝っていたはずだけど、それでも、母親にとっては、大いに不満足だったようで、

きょうは、どれだけの手伝いを したのかと詰問し、

もっと手伝いなさいと怒り、

溜まりに溜まっていた洗い物や掃除を やっといたよ、と告げると、

「それくらい やっても、バチは当たらん!」と返してくる。

 

そんな母親が、めずらしく、私について褒めていたのは、皮肉なことに、

私は、素直に喜ぶ気性で、素直に、お礼を言える性格だ、ということ。

プライドが高い母親には、それが できにくい傾向が あったからだろうか。

 

それ以外は、常に、

「おまえは、皆から嫌われる」と、

私に向かって呪文のように唱えていたけどね。

 

あと、

「おまえは、負けてクヤシイとか、他の人に できることを、自分は できないことが悔しくないのか!?」

と、小学生時分に、よく責めてきたものだが、

おっと、おっかさん、

くやしくても、努力で できるようになるわけじゃないからね。

不治の障碍を背負っている身で、他の人たちがアタリマエに できることを、自分が できないと、自分で自分が許せないのなら、もう、自殺でも するっきゃないわ。

 

「悔しくないのか??」

と問い詰められた私が、

「…べつに」

と、困惑して、力なく答えると、

母親は、心底、フシギで ならなかったようだ()

長じるに従い、諦めたのか、だんだん、それだけは言わなくなったw

 

たぶん、
他の人たちに できることが できなくても、

私に できることが、
母親も含めた、他の人たちには できないことも ある、

それが、なんとなく、私の余裕になっていた部分は あると思う。

 

まあ、でも、私だって、何度か自殺を はかったけど。

 

 

で、

私がマメに家事を手伝うのは、母親が病気の多い人だからと、子どもの頃から心配して思ってたからだが、

加えて、

いずれは親父と離婚する基礎づくりのためだったらしいが、東京の叔母の所で、まとまった おカネを貯めるために、長期間、家を出ていたので、少なくとも、自分のことは自分で殆ど やらなければ ならなくなった当時、私は小学低学年だった。

その後、大阪へ戻ってきた母親は、親父と、どういう結論を出したのやら、いちばんの理由は、私が、転校することを嫌がったからだと言ってたが、ほどなくして、割烹店を始め、数年後に交通事故で長期入院。

 

この間に、私は、年齢が大きく離れている腹違いの姉らのイヤミやイジメに晒されながら

(特に、義姉は、私を殴るように仕向けるため、親父に告げ口して唆す等、かつては義兄も同様の目に遭っていたらしいが、今度は私を餌食にしようとした)

いよいよ、自分で自分の身の回り全般を始末するのは勿論、
家事にも親しまざるを得なかった。

 

もっとも、このトシになって、ほんとうに手抜きばかりのズボラと化してるけどw

 

正直に言うと、

病気の親というものは、特に母親が そうだと、いつも、なんとなく、気分が重苦しく、鬱陶しいものだ。

特に精神面の問題を抱えている親は、ほんとうに、子どもは災難だろう。言って悪いけどね。

 

 

昔から、日本の庶民は、たくさん生まれた順繰りに、上の子が下の子を負ぶい、めんどうを みるのがアタリマエの習慣だったという。

母親も、農家だったり家内工業だったりで、夫と共働きがアタリマエ。

出産翌日には、野良仕事に出ていたという。

 

いまの時代なら幼稚園児に相当するくらいの子でも、あかんぼを背負わされ、あかんぼが今にも背中からズリ落ちそうになりながらも負ぶい続けていた、それは、現代では、「ヤング ケアラー」と名付けられ、虐待のうちと見做されるようになった。

 

常に、あかんぼをアタリマエに負ぶっていた、昔の、幼い子どもから見れば、現代の中学生や高校生ともなると、ほとんどオトナに等しいだろう。

オトナのように見えるであろう中学生や高校生は、幼い弟妹を負ぶわされたら、早々に殺してしまうかもしれない。
そんなことを懸念しなくては ならないようになった。

 

それどころか、実の母親ですら、産んだ端から、持て余して、殺す。

そんな時代に、どこが どうして、こうなったのか。

 

いやいや、

大昔から、母親は、わが子を間引いていたのだ。

「母親だからといって、母性を期待するほうが おかしい」

ナルホドよね。

 

 

……

おどんが うっ死()んだちゅうて

(だぃ)が泣いて(にゃあて)くりょか

裏の松山 蝉が鳴く

 

 

PR
Updated   
2022.02.11 (Fri)

昔の「ヤング ケアラー」と、現代の母親たちの続き。

 

『発達障碍』などが要因で「手の かかる子」でなくても、
愚かな親は、自分の配偶者や家族に対する不満や怒りを、
「手の かからない子」でも、全面的に ぶつけるよ。

生活が荒れぎみで、身も蓋もない殺伐ぶりだと、なおさらだ。

うちの母親は そうだった。

そりゃ、周囲の猛反対を押し切り、自分で選んだ道が、想像以上の苦難の道だったら、

自分が選んで、それが期待外れだった男の血を引く、まだ幼く、抵抗できない、何も分かってない子に ぶつけるのが、いちばん容易いもの。

プライド高い性格や意地っ張りな気性だと、自分を責めるのが最も辛いだろうしね。

おかげで、子どもが大迷惑。

 

そして、避妊したがらないのも、バカップルの特徴。

子どもを手離したがらない虐待親のキミョウな傾向は知られているが、
これは、
抵抗力の弱い存在が、思いっきり、苛めや虐待の対象として安心できること、かつ、俗に言う「子は鎹(かすがい)」えせバージョンで、
バカップル間の「えせ絆」を保つことに利用できるからだ。

 

だから、虐待を実行するメインとサブ間で、弱っている者の ようすを報告し合ったり、画像を送ったりと、ケッタイなことを やってるよね。

ま、「支配・被支配の確認」と「連帯感の醸成」だ()

 

 

私が近ごろ疑わしく思ってるのは、

昨今、「猫も杓子も」という勢いで、盗撮犯罪が、あまりにも蔓延しているようすだが、これらと同様、
いわゆる「闇サイト」のような所で、小遣い稼ぎにも利用しているのでは あるまいか、子どもの虐待光景を。

 

 

ところで、
うちの母親に、私がハイティーンか20歳代くらいの頃、問いただした事が あった。

体質や持病の問題も あるのに、避妊しなかった理由をね。

答えは、

「おとうさんが、いやがるから。。。」

だったよ。

 

根っから、気が強いのも通り越し、気性が激し過ぎるような母親だったけど、本質は「ファザコン」で、男に弱い。
本人は無自覚で、真逆のつもりだったろうが。

叔母も そうだったが、
叔母の場合は、子が できない体質だったからマシだ。

 

いいかげんな父親でも、
実母を早くに失ったうえ、継母の仕打ちが酷かったせいもあるだろう。

言ってみれば、私自身が、ほんとうは、いちばんタチの悪かった母親にベッタリぎみで育った理由が、酒乱の暴力親父のほうが剣呑で、まったく信用できないやつだということが、子ども心に分かりやすかったから。

 

 

あとね、

親父も、母親(実の伯母)を、小学生時分に亡くしてから、継父の世話を含めた家事を やりながら育った。

なので、家事に関しては、一般的な男性よりも慣れてたし、母親よりも、よっぽど、気にして、小まめに かたづける性格だったけど、
ヨメである母親自身は、乱雑なほうが落ち着く!と言い放ち、
亭主である親父に、黙って任せる普段の家事は、せいぜいトイレや浴室掃除くらい。
これは、母親がデブ過ぎて、狭い所で しゃがんで掃除するのが至難のワザだったからだろうw

なぜか、特に台所に入って、親父がゴソゴソやる場合、たちまち、盛大なヒステリーを起こすw

母親が言っていたには、「台所は、主婦の城」なんだそうで。

なんぴとも侵してはならぬ聖域であるみたいに主張していたw

たしかに、母親の料理の腕前はプロ級だったわけだが、

世間で言う、料理したあとの かたづけを しない夫という批判と同じで、

ここは娘の私が、流しに いっぱいの洗い物を かたづけたり、乱雑な鍋や食器の整理を するのは、大いに満足して、キゲンが良いww

むしろ、知らん顔してたら烈火の如く怒るし、やっといたよ、と言うと、

「それくらいしても、バチは当たらん!」と、憎まれ口が返ってくるわけ。

 

 

出産・子育てを除けば、私も、老人の介護なら多少の経験してるけど

(フルタイムの仕事も同時進行で、同居したら、ヘルパー制度を利用できなくなるから、別居のまま通ってて、近所のオバハンらに、「人の道」をば説かれたもんですわw親父のメンドウみるために同居せよ!とね。私に暴力ふるってた親父のねw)

そりゃあ、
若くて体力旺盛なうちから、産んだばかりの あかんぼうを持て余すようでは、
自分自身もトシくった あと、老親の介護なんて、もっとムリだろうねえ。

 

うちの親も、突然、倒れたりしたから、たちまちにして介護の必要性が迫ってきたけど、やっぱり、その方面の経験や知識の ある人に、利用できる公的制度のことや届け出書類のこと、いろいろな くふうの やりかたなどを教えてもらったよ。

 

ま、出産・子育ては大変よという話や経験談は、いろいろと聞いていたんじゃないのですか?世の妊婦さんや子育て中の おかあさんがた。

実際に自分自身が出産・子育て開始する前は、何を考えておられた?
って言ってるの、先日のエントリーでもね。

 

ただただ、
「サポートがー!サポートをー!カモーン!はよーサポートぉ!!」と、他人まかせか?

あなたの人生のパートナーや、子の父でもあるダンナさんとは、何の話合いも打ち合わせもナシ?何も言えんのか?

 

 

ところで、

私の実家や特に母親、腹違いの姉らに関して、まだまだ、このブログでも明かしてない、えげつない話や出来事は ある。
みなさん、聞けば恐らく、「げげっ!?」と驚くような話ですよw

でもね、

かつての同僚などから打ち明けられた話のなかにも、私ですら、ううーむ、と、コトバを失うような内容が、多くは ないけど、あるには あるのよね。

で、やっぱり、母子家庭だった。

と言っても、

彼ら彼女らの御両親それぞれの性格や行いなどは、みな同じでないのは当然で、情況の内容も、いろいろだ。

 

 

これは、私の母方の叔母の一人で、

「猫いらず(殺鼠剤)」とかいう毒物を あおって、自殺してしまったという、ごく若くして亡くなってる人なのだが、私が生まれる ずっと前のことだから、もちろん、会ったこともなく、顔も知らないままなんだけど、

と言うか、

私の実祖母を始め、母親や叔父、叔母たちの子ども時代の写真なども、実祖母の形見の品と一緒に、義祖母が、一切合切、捨てたり燃やしてしまったとかで、写真1枚すらも残ってないので、
私の母親らの話によると、まさに『エリザベス・テーラー』に似た、絶世の美女だった、という実祖母の顔も知らない。ちと残念。

 

で、

その、服毒自殺してしまった叔母というのは、これが また、母ら三姉妹のうちでも、いちばんの美人という評判だったそうなんだけど、
最も可哀そうな人生でも あった人で。まさに「美人薄命」。

この叔母のことは、私、初めて、ブログに書くんだけども、

先日のエントリーでも、
義祖母の性格のキツさで、私の母親ら全員、たいへんな苦労するハメになった経緯を述べたけれど、

母親や2番めの叔母は、良く悪くも要領が良かったというか上手いこと逃げる すべも心得ていたから、まだ少しはマシだったらしいけど、

くだんの叔母は、次女にして、最も美人で、楚々として女らしくって、性格の穏かな、おとなしい性格だったという。

そのせいか、義祖母に、いちばん酷く虐められていたそうだ。

 

あるとき、何が切っ掛けだったのやら、些細なことから、義祖母の逆鱗に触れた叔母が、服も下着も剥がされ、素っ裸にされて、寒い戸外に放り出された。

そろそろハイティーンくらいの お年頃に さしかかっていた叔母は、それまで、義祖母に逆らうことなど なかったのに、このときは、義祖母の隙を見て、家のなかに戻り、そこに あった「裁ち鋏(バサミ)」を掴んで、義祖母めがけて、思いきり投げつけた。

裁ち鋏の鋭い刃は、義祖母の太腿に突き刺さり、救急車を呼ぶ騒ぎになった、そのあいだじゅう、義祖母は、狂ったように泣き喚いていたという。

 

たぶん、そのあと、ほどなくして追われるようにだろうか、くだんの叔母も、家を出て、『京都』へと向かい、住み込みの仕事に就いたというのは。

 

【続く】

 

 

Updated   
2022.02.11 (Fri)

いやはや、この数日間だけで、何件の子殺しや、むごい虐待事件が起きたやら。。。

 

で、やっぱり、パターン的に、いちばん多いようなのが、

子連れの女が、おおかた「SNS」たら言うんだろうか、

いまどきの小学生の女児すらも、小遣い欲しさにか、ほいほいと「ラブホ」あたりへ連れられて行き、そのあとノコノコと警察に駆け込んで通報という、

しかも、相手の男らは、世間で昔から「お堅い」と定評あるはずの職業、たとえば、よりによってガッコの先生だとか公務員だとか、あげくは警察官そのものだとか、いったい、何を信用していいのやら、呆れ果てる事件と同じく、やっぱり、ネットで知り合ったのであろう男を、みずからの自宅に出入りさせて、自分の幼い子どもや、生後数ヵ月の あかんぼうにまで暴行されるのを黙認していた、あるいは、積極的に加担して死傷させた、かような件を、これまた呆れるほど頻々と起こしている。

 

それどころか、

実の母親が、ほんの数日前に産んだばかりの新生児をば、
いともアッサリと殺している事件までが起きた。

 

ちょいと話題を転換するが、

むかし入居していたマンションの隣室の女が、やがて、カレシを出入りさせるようになったらしく、てきめんに物音が酷くなったので、たまりかねて、管理会社に通報したりも したんだけれど、案の定で、埒が明かない。

あの当時は、こちとら、手術後の病みあがりで、傷の痛みを こらえつつ、身のまわりのことを自分で こなしながら、一人しずかに養生していた頃だったから、いきなり響きわたる物音の大きさに、いちいちビックリするわ、夜に寝ていても、騒音で、目が覚めるわで、だんだんノイローゼみたいになってきたから、ついには、隣室の男女が連れ立って出て来たところを、物音が あまりに大きくて煩いので、体調が悪化してきて、すごく困ってるということを告げたんだけれど、

すると、

居候というか同棲してる状態に近かったのであろう、一緒に出て来た男が威丈高に、おのれのカノジョの肩を全面的に持ちつつ、ヒステリックに猛反発してきた。

この子(←おのれのカノジョ)は、いたって行儀の いい子だし、自分たちは、なんにも悪くない!!と。

 

あのな、

言ってるオマエさんが出入りするようになってから、とたんに煩くなった!つってるの!!バカヤロが。

その おとなしい女つれて出て、テメエで借りた部屋で同棲してろや!

だいいちなぁ、

このマンション、ほんとは一人住まい専用で、勝手に同居人を連れ込んだらダメなんだぞ!

と、マア、心底、腹が立ったが、

しかしながら、いっぽうで、
それまでの経験から、どうやら共通している大きな原因の一つだと察していたのは、

この国では、いつの頃からか、賃貸マンションやアパートの類が、見かけとはウラハラに、けっこうな高額の家賃のわりには安普請なのか、防音などが、てんで なってない、全体に、質の悪い造りになっている物件が増えてしまってるせいなのか、ふだんから、よくよく、あらゆる動作に気を つけていないと、うっかり無神経な動作を したとたん、物音が大きく増幅されて響くこと。

それが分かっていた私は、極力、動作を静かにと心がけるのだが、そうすると、隣室の住人は、自分も静かに できているものと思い込む。

 

この一部始終を話したおり、うちの母親は、一言。

「だいたい、自宅に、男に上がり込まれるような女はダメや」。

 

ダブル不倫で「通い婚」のアパート暮らししていた過去のある母親が、
そんなエラソーに言えた立場か?とも思うんだけどw

 

ただ、あのバカップル、いずれ結婚するつもりだったのだろうが、どちらも、当時まだ独身のようだったから、虐待事件で連れ子が云々という話とは関係ないのだが。

 

でも、

言われてみれば、私も、親や身内であろうと、どんなに親しくなった男であろうと、誰かを自宅に勝手気ままに出入りさせるようなことは、決して なかった。
合鍵なんかも、ゼッタイ、誰にも渡すもんか、と当初から決めていた。

なんせ、やっとのことで、厭な厭な実家を出られたんだから。

私の住まいは、私だけの世界!という思いが、心のなかで強かったから。

 

 

で、

相も変わらず、「次に生まれたときは」だの「天国では」てなノンキな他人事まる出しで言ってるヤフゴミんを見るにつけても、
判で押したような「リセット」願望しか言えないのかと呆れるばかり。

 

こんなだから、
いつまでも、ラチの あかない政治屋を支持し続け、あるいは、われ関せずのまま、四方八方が、ラチの あかない国に なってしまったんだろうなと思う。

 

「次」もないし、「天国」も あるかい、あほか。

個々の命は一回性。

 

失われたら、どうやっても取り返しが つかないから、二度と繰り返したくない悲惨な事件だっての。

「リセット」あると、安易に思っているうちはダメだわな。そこで止まるわ。

 

それから、

やれ、女性が忙し過ぎるから!母親にばかり負担が かかるから!と、出産・子育ての辛さを言い募るヤフゴミんも相変わらずで、
雁首揃えて、

「サポートが ないなら!」「実家の親に預かってもらえないなら!」

などと愚痴ったりも してるようだが、

先日なんかは、

預かったものの、孫のメンドウ見きれんと苦悩したあげく、あっさり殺しちゃった祖母の事件も報じられてたわね。

だいたい、体力のある若い女でさえ、しんどいシンドイ言うてるのに、

トシくったら、一人で子育てはシンドイのがアッタリマエだろうし、

うちの母親なんかは、私が、出産どころか結婚も遥かに先の、まだ学生時分に、何を思ってか突然、

「おまえに子どもが生まれたって、こっちは、孫のメンドウみる気は一切ないからな!!」

って、

いきなりピシャッと宣言されたよw

私は何も言ってないのにww

 

 

考えてみたら、
私らの子ども時分から、社会人になったあたりの頃の『昭和時代』。

つらつら思い起こすと、

あの時代は、たしかに、父親が「大黒柱」として稼ぐ中心で、

母親は「専業主婦」か、せいぜいパート勤務、

子どもは二人か、せいぜい三人まで、

というのが標準的な家庭として最も多かったと思う。

 

かく言う私とこは、ぜんぜん、別よw

まさに「スクラップ家族」なる呼びかたが ふさわしい、
世間から大きくハズレた、はっきり言って、かなり異常なケースの所帯だったからねww

 

それは さて置き、

「24時間戦えますか?」

てなキャッチ フレーズがブームになったコマーシャルは、あの頃だったかと思うんだけど、

田舎でなければ、ほぼ完全に、いわゆる「核家族」で あたりまえの時代だったから、ほとんどの家庭では、

おとうさんは、早朝から深夜まで会社で仕事だし、

おかあさんは、家事と子育てに加え、時々、町内会の行事やら『PТA』などの活動にも、だいたい いつも一人で参加し、

そのうえ、場合によっては、時期が来たらば、主にダンナの親の世話や介護も あった。

 

でも、私の記憶では、
あの頃、いまどきみたいに、家庭内で子ども殺した事件なんて、そうそう聞いた覚えが ない。

 

家庭内というのは、事故も事件も、実のところ、最も多く勃発する現場なのだそうだが、

私の実家なら、まあ、そう聞いて驚かないケースだったにせよw

世間一般では、さすがに、めったと なかったように思える。

と すると、

やっぱり、性犯罪的な虐待も含めて、実際は多いのに、ひっそり隠蔽されてきたのだろうか。

 

【続く】

 

 

Updated   
2022.02.08 (Tue)

近頃の所感いくつか。の続き。

 

ちょうど、
その頃から、『法善寺』の『水かけ不動尊』が、あのように苔に まみれていったのは何故、という話題が出た先日、
それは、くだんの『不動尊』「脇侍仏」の石像が、「器物損壊」だとかいうので、警察沙汰になりかけたというニュースが あったからだが、

聞けば、『コンガラ』『セイタカ』両像とも、頭部の苔が剥がされており、

いつ、誰が、というので、防犯カメラの記録映像を確認してみたら、とある老年の男性が、たぶん、あそこの備え付けの柄杓を使ってだろう、「脇侍仏」の頭をゴーリゴリやってるところが映っていたという。

 

一報を目にしたとき、私が真っ先に思ったのは、

「なに?!怪しからんなあ。しかし、このジイサン、よそ者なのか?」

ということ。

なぜなら、あの『不動尊』は、苔に覆われていてアタリマエという感覚が、大阪人なら、幼い子どもにすら共通しているであろうからだ。

 

私自身、あの苔を剥がそうなんて、ついぞ思ったことが ない。

あそこの近場で生まれ育った母親に連れられ、祖父宅へ訪問した帰途などに、お参りしたことが何度も あるが、
初めて、あの『不動尊』像を見たときは、たしかに、少々ギョッとした感覚は あったかと思う。

でも、それが、ここの『お不動さん』の姿なんだと、すんなり納得していた。苔だらけになっているのは何故かと、親に尋ねることもなかった。

 

だって、見たら分かる。毎日毎日、みんなで寄ってたかって、水を かけるんだからさ。

「お頼()申します」と祈りを込めて かけ続け、
それが積もり積もって、あのモコモコの緑の衣装だ。

 

地元の人だろうか、一人だけ、

「寄せられる信仰の厚さが、そのまま、あの苔の厚さなのだ」

というふうに、『ヤフー』コメント欄に投稿していたが、要するに、そういうことだろうよ。

 

んで、

「脇侍仏」は、おつむのテッペンからスムーズに水を かけやすいけれど、真ん中の『お不動さん』自体には、うまく水かけするのが、けっこう難しいのよ。おとなでも、見上げるくらいの大きさだから、私なんか、子ども時分から、『お不動さん』のおつむに水を、なんとかして かけようとチャレンジしたものだけれどw(この意味、わかるね?ww)

なかなか、うまく いかず、せっかく かけた水が、こっちへ跳ね返ってくる。なので、
むき出しの石像にパシャッと かけるよりは、水を吸う苔に、みっちり覆われているほうがイイくらいなのね。

 

やっちゃったジイサンは、きれいにしてあげたいと思ってのことだったそうだが、たしかに、一週間後くらいに、またぞろ訪れて、手には、ペーパータオルみたいなものを、「脇侍仏」のオツムを拭くために持って来ていたらしいから、ま、悪気で やったわけじゃないのだろう。

お寺側も、穏便に済ませたそうだから、それで良いだろう。

 

ただし。

信心の表現も いろいろだ。

ふつうなら、こんなはずは ないのに、ということが まかり通ってきているということは、何らかの理由なり事情の積み重ねが あろうかと察し、それでも疑問や問題に思うのなら、この場合、まずは、そばに ある寺務所に尋ねれば いいんだよ。

それも せずに、勝手に、いきなりだからね。

おとなの やることや ないよ。

『法善寺』ならぬ、まさに独り善がり。

しかし、このテの独善的な性格の者って、なぜか、老人それも爺さんに多いような印象は あるなぁ。

なんでやろ?

 

それと、

「ヤフゴミ捨て場」のヤフゴミんのなかには、

言わば「お不動さんの意思で、そうさせた」かも、

みたいな、わかったようなオカルトこじつけ言ってる者が いたが、

だったら、この世の全ての災厄、それは、あくまで人間にとってのだが、それら災厄の類の全てをも、「(神仏の)思し召し」として、素直に受容できるのか?

 

なべて「神仏」、それへの信仰というものは、人間の恐れ、苦しみ、不安、納得いかなさ、それこそを母胎に生まれたものだろう。

 

ともあれ、

子ども時分から、私は、『法善寺の水かけ不動』さんへ お参りするたび、なんとなく、「わが家に帰って来た」ような安らぎを感じていた。

あの お寺さんは、いまだ「戦後の復興」途中であるとは知らなんだが、
言われてみれば、子ども心にも、どこか変わった雰囲気の つくりでは あった。

 

『不動明王』が「本尊」に当たるという、うちの母親が亡くなってから、ほぼ全く、訪れることも なくなったので、なんとも言えず懐かしい。
いつか、機会が あれば、また お参りしたいと思った。

 

そして、母親は、私に言ったのだった。

「疎開から帰って来たら、難波から梅田まで、すかーっと見渡せるんや。ほんまに焼野原。おまえ、想像できるか?」と。

 

思えば、その、一面の焼け野原のなかで、くだんの『不動尊』だけが、轟々たる石の炎を背負ったまま、立ちつくしていたというわけだ。
どんな光景だったやら。

 

「あんたたち、想像できるか?」

以前にも紹介したとおり、これは、『広島』で「二次被爆」したという恩師のコトバ。

道端に、腕やら足やらゴロンと転がってる。誰も驚かんし、見も せん。
いまやったら、指一本でも大騒ぎで警察を呼ぶやろ?と。

 

おとなでさえ、大事な話と分かっていても、同じような内容を何度も聞いたりしているうちには、緊張感も薄れてくるし、ましてや子ども世代なら、なおさらだろう。

 

戦後となってからは、『平和教育』として、生々しい体験談を直に聞くことは、あの時代を生きたことが ない、体験できない者にとって、たいへんに得難いことだ。

けれど、
いつしか、もう だいぶ前から、『広島』や『沖縄』などで、重い体験を話してくださる人への礼儀を欠いた態度や、無関心さを あらわにする子どもが目立ち始めているという問題が報じられるようになり、
私も、どうしたものかしらと思っていた。

 

さて、先述の記事で、

横井氏が長年、『グアム島』で隠れ住んでいた地中の穴の空間を、実物大の断面図で、シンプルかつ的確に表現したパネル ボードを作製・設置し、子どもたちに体感してもらったという。

なるほど、「体感」!

とても良い発想、着眼点だと思う。

 

これまでにも、ちょっとした追体験的なイベントなどは、各所で時おり実施していたことと思うが、

たとえば、「すいとん」を作って試食してみたとか。

で、意外に美味しいと、子どもらが喜んだとw

 

ま、いかに美味しくても、年がら年中じゃ苦痛になるというところまで味わわないと、ほんとうの追体験には ならないんだろうな(苦笑)

 

話を聞いたり、見たりだけでなく、自分の身をもって、「自分事」体感してみる くふう。

「体感」。

今後の平和教育に大きなヒントと できうるのでは ないだろうか。

 

 

 

現在の『ミャンマー』などに おける、「民主主義の危機」的騒動を報じる記事を読んでいたら、なぜか、どうしても、自国のことを連想させるものが あり、

しかも、この日本のほうが、水面下でジワジワ進行しているのでないかという特徴的な危惧は、年々、確かさを増しているように思われる昨今。

 

「権力は腐敗する」。

長期権力は強固になった分、なおさら厄介だ。

こんなことくらい、世のなかの多くの凡人も指摘しているし、「ヤフゴミん」ですら、それくらいのコメントは しておる。

 

ただ、辛うじて選挙だけは やってるからと、「民主主義国家」として機能している、とは言えまい。

 

悪しき権力は、いずこに おいても、長く続けば続くほど、装いも巧妙に、手が込んでくる。

 

『民主主義』のはずの選挙も、あっけなく、機能しなくなるものなのだ。

 

装いの下が、どうなっていることか。。。

 

それを見分け、見抜いて、どう判断するのかは、有権者の知性しだいだ。

 

装いを凝らす必要すらも なくなったら。。。

とんだ「先祖返り」だわな。

 

文字、読むこと、書くことは、大昔は特権者のものだった。

悪しき権力者は、民衆の知性を、最も恐れるもの。

 

しかも、

辛うじて「間引き」せずに残した子どもには、さっさと働いてもらいたい、嫁入って口減らししてもらいたい、

うちのセガレや娘どもに、読み書きソロバン、学問なんぞ不要!

小難しいこと言うやつぁ目障り!

「お上」に間違いは あるはずない!すべて おまかせいたしやす!

と、

自分から言ってしまうのが、愚かなシモジモ庶民。

 

現代の日本人なんか、

「お上の間違いは、良い間違い」

てなことまで言いかねない。

なっ?『自民ダッピ党』支持者や、その周辺()

 

民衆の あさはかさを、悪しき権力者は、最も悦ぶ。

手間いらずだからねw

 

 

民衆の知性が、良く はたらくのなら、

独裁権力でさえ、良く はたらかざるを得ないだろう。

 

結局のところ、『民主主義』も、独裁の道具たりうる。

 

『民主主義』自体で自動機能するわけでは ないから。

 

 

Updated   
2022.02.08 (Tue)

まずは、
先日の、電車内タバコ注意したら凶悪暴行で返されたという事件ね。

これも あとから詳しく報じていたけど、

暴行犯は女連れだったそうで、「優先座席に寝そべり」という最初の情況は、ははあ、連れの女の膝にでも頭のっけてタバコぷかぷか、なんてな光景だったのか?wと。

 

で、
キッパリずばり真っ向から注意した男子高校生側も、数人連れだった。

 

「恥かかされた!」「メンツへし折られた!」
それも「女の前で!!」みたいな、か?ww

女連れの男、特に、屈折した劣等感のカタマリみたいな若造ほど、そりゃイキりたつもんねぇw

 

 

うちの母親が、親父と抜き差しならぬ不倫関係になり、とあるアパートで「通い婚」的な生活状態だったときに、階下の一室に入居していた家族連れの男性と、私の母親が、切っ掛けや理由は、私は聞いたのに憶えてないのか忘れてしまったか、とにかく、険悪な状況になったのだそうだ。

敗戦後の余韻も まだ少しは残っている時代だったのであろう。

くだんの男性は、戦時中、うちの親父よりも、ずっと下位の軍人だったとかも言ってたかなぁ?

で、親父が、私の母親の訴えを聞いてイキリたち、

「俺の女にガタガタ言うんじゃねえ!!」

とかナントカと怒鳴り込みに行って、ソッコーで相手の男性を問答無用に屈服させたらしい。

「俺の女」だった、私の母親は、うっとり

なーんてことも あったらしい()

男女絡みは、リクツじゃないからねえw


 

で、次は、横井庄一氏に関する記事。

そうだった、そうだった。

30年近くも『グアム島』内で隠れ住んでいた横井氏が帰国されたときの大騒ぎは、私は まだ子どもだったが、世間も、うちの親も、もちきりの話題だっただけに、さすがに憶えているし、例の、「恥ずかしながら」というコトバが、一種のブームのようになっていた影響で、クラスメートの男子たちが、軽薄にもフザケて真似したりしていたことも あったように思う。

 

これが横井庄一さんの隠れた「穴」の断面図原寸大を前に小学生たちも息を飲む~
2/1() 15:00配信 最終更新:2/1() 16:26CBCテレビ

https://news.yahoo.co.jp/articles/6782b34dd492dbdd9e6d85af3efd4666a968409e

 

この記事のなかでアップされている動画を見てみて、
あの頃の私は、やはり、戦後の子どもだったのだと再認識した。

というのは、
帰国後の記者会見の席に おいて、「恥ずかしながら」と話す、横井氏の表情の意味するところを、当時の私には、理解しきれていなかったなと気づいたから。

 

いま、このトシになって、やっと多少の理解が及ぶようになったのだろうか、

「恥ずかしながら、生きながらえておりましたけど」

と絞り出す、その表情は、帰国できた単純な嬉しさよりも、むしろ、
「ああー、やれやれだった」という深い深い疲労感と共に、どこか苦渋の入り混じった、なんとも複雑な表情だった。

 

のちに、今度は、『ルバング島』で小野田寛郎氏が発見されたわけだが、

かつての上官を、現地に呼びつけ、「情報将校」としての長い、あまりにも長い任務を、キッチリと手順を踏んで解除させてのけた、そのうえで、あくまでも「命令」に従ったのである、と言わんばかりの帰国を果たした小野田氏の表情からは(横井氏のときよりは、私の年齢も少し上がって、中学生になっていただけあってか)

もはや、話に聞くしかなかった時代の、まさに、ほんものの兵士の、現に生きて、立っている姿に、凄まじい意地と気迫を感じさせられたものだが、

そこのあたりの差が、横井氏の、いつの時代も変わらずに共通する庶民の柔軟な雰囲気が失われず前面に出ていたこととの違いだろうか。

 

それでも、

お二方とも、内に抱え込んだまま、目を逸らさなければ、やってられない重苦しさ、全てを言い尽くせることは なかったであろう。

 

横井氏の場合は、期せずして、現地住民に見つかり、もし最悪の場合は、その場で、二度と、故郷の土を踏みしめることも叶わぬまま終わったかもしれない、その いっぽうで、小野田氏の場合は、身内や戦友たちの一団が、自分を探しに来たことを知っていながら、なおも頑なに潜んでいて、ついに捜索を打ち切られた。その翌年、
みずから攻撃的にという「装い」だったのだろうか、今度は積極的に出てきて、日本の青年と遭遇するまでの、更に その間は、それまで以上に、よりいっそうの孤独と深い葛藤、後悔にさえも苛まれた1年だったことだろうと察する。

意地を張っていた本心では、なんとしてでも、自分を見つけ出し、無理にでも連れ帰ってほしかっただろうと思う。

 

もし、日本から やって来た「冒険家」青年の存在が なかったら、
小野田さんは、そのままだったのだろうか。。。

 

お二方とも、と言うよりも、日本兵は、現地の人々からの多大な恨みを買っていたのだ。

 

恐らく、横井さんや小野田さんのように、出るにも出られず、あるいは、敢えて、故国に背を向け、その地で黙って死に絶えていった人たちは、私たちの想像以上に多いのでは なかろうか。

 

小野田氏の場合、『日本会議』と深入りしてしまっていたというのも、残念なことだった。

 

ちなみに、

戦時中、まだ二十歳前後という若さだった うちの親父も、小野田氏と同世代であり、軍隊での階級なども近い。

以前から思っていたが、

それぞれの入隊、士官した頃の青年時代の風貌を写真で見ると、なんだか、似ているのだ。

晩年に至ってからも、やはり、共通した感じが ある。

もっとも、小野田さんのほうが、うちの親父なんかよりも、もっとキリッとしたハンサムだけどw

ただ、

親父も、もともと細身で細面(ほそおもて)なせいか、一見は、軍人それも将校クラスのバリバリ軍人にしては そぐわない、どちらかと言えば知的・柔和な雰囲気と言うか、軟弱にさえ見えるくらいなのだが、

しかし、なかみは、外見と大いに異なっていて、意外なほど「剛毅」と言うのか、いや、それよりも、以前から指摘していたように、

アメさんじゃないけれど、ずばり、

クレイジーemoji

としか言いようのない、
独特のガチガチゴリゴリした硬直性を保っていた。

 

これは、私らの世代も勿論だが、いまどきの若者、いやいや、

「疎開児童」世代であり、戦後の「墨塗り教科書」に、おとなたちへの猛烈な怒りと反発心が湧き起こったと言う世代の私の母親ですらも、

親父らの世代は、ほんとに独特、逆立ちしたって、あれは真似できない、と言い切っていたものだ。

あの時代の教育ぶり、ってことかな。。。

 

 

先日のエントリーで、再び、隣家の おじさんは「シベリア帰り」の人だったという話を少し述べたけれど、

どうりで、この おじさんが、ご自宅は勿論、うちの実家の台所やら水回りを始め、物置部屋、私の部屋の内装などをも含めて、ほぼ一人で黙々と建て増しや拡張していったあとに、やがて引っ越されたため、ご自宅の分を解体しなければならないので来てもらった専門業者が、あまりにも頑丈に造り過ぎていると言って驚き、非常に難儀していた、という理由も分かった。

そう、知ってる人は知ってるね。

「シベリア抑留」経験者だったからこそなんだ。

 

でもね、

この おじさん、「仏の」何タラさんと呼んでも通るくらいに、およそ不機嫌な感じの表情を、ついぞ見たことが ない私らにも、ご家族に対しても、常に穏かで、いつも、ひたすら優しい人だったけれど、

あるとき、おばさんから聞いた話では、

戦後になって、やっと、日本に帰って来て、まだ年数も浅かった頃までは、お酒を飲んで、酔いが回ったかなと思ったとたん、何が気に障ったのやら、無言のまま、いきなり、出刃包丁をグサーッと畳に深く突き立て、その包丁の柄を握ったまま、一畳分まるごと高々と持ち上げ、ぶんぶん振り回すほどの怪力で暴れていたんだという。

とても信じられない話だったけど。

あの おじさんも、戦時中そして抑留中の、コトバに できないものを深く、抱え込んでいたのだろうか。

 

 

で、私の場合は、
皮肉なことに、戦時中が、人生で最も輝かしいエリート時代だった親父は勿論のこと、
「疎開児童」世代だった母親にしても、
祖父は裕福だったので、戦時につきものの苦労、衣食住の どの面でも、基本的には、酷い不自由までは なかったから、都会っ子が田舎に疎開したときの定番話で、土地の学校の同級生に ねたまれ、特に、男子にサンザンいじめられて、だから、田舎者は大嫌いになったんだ、
とかいう、せいぜい、その程度なので、

本人にとっては、いろいろ大変な思いを したと精いっぱい言いたいわけであっても、

私には、うちの両親からの話だけでは、それほどの切迫感も感じられず、さりとて、学校の授業も、「臭い物にフタ」的通り一遍。

 

言っとくけど、

ウヨどもの主張とはウラハラで、

われわれの学校時分も、「平和教育」と言うよりは、単に、日本にとって つごうの悪いことは全てサラーッと駆け足で流して終わってたのw

 

だから、

うかうかしてたら、あの時代のことについて、ほとんど無知なまま成人し、親に なってしまうかもしれなかった私には、なんとなくながら危機感が あり、ゆえに、
学校の授業や親らの話には、あまり期待できないのならと、その かわりに、原爆投下や敗戦前後の話題が特集される時期の新聞記事、テレビならドキュメンタリー番組、若い兵士が書き遺したものや、当時の子どもたちの ようすなどを、ひととおりは知っておかねば なるまいと思い、自発的に読んだり見たりに努めていたものなのです。怠惰な私でもね。

 

私らの世代だって、いまの若い世代と同じく、「平和な時代」しか知らない。

だが、親や体験者から直接に聞かせてもらうことは、まだ可能だった。

 

けれど、
同時代を生きていた人どうしでさえ、全く同じ体験を したとは限らないのも現実なのよね。

 

たとえば、戦地の前線へ赴いた人と、国内から出ることが なかった親父とでは、同じ軍人でも、苦労の度合が全然、異なっているし、

母親の場合、祖父のツテで、地方に疎開していて、戦争が終わってから、生まれ育った大阪市内の実家へ戻ってきたので、『大阪大空襲』の直撃を、じかには知らない。

その頃、たまたま、事情が あってか、疎開せず、大阪市内に とどまっていた同級生とバッタリ遭遇し、そこで、あの『大阪大空襲』の凄まじかったことを聞いたのだ、と。

 

【続く】