2014.10.06 (Mon)
そう言うけれど。
どうだろうか。
私は、こういうコトバを聞いて、あまり納得したことも、信じたことも ないけれど。
「チョチョイと人生、こんなもん。とにかく努力さえしておけば、報われないはずは ないんだ。この俺を見ろよ」
こういうウヌボレを持ってしまうと、自分の目前の障害物を素直に認め、それと真正面から対峙することは避けるだろう。
要領良く「チョチョイと」避けて、いつものように自分の思いどおりに突き進んで行こうとするだろう。
ところが、
どうやっても、そうは問屋が卸さないことがあるのだと思い知ったときに、初めて絶望するしかないのだろう。
自分の幸せ、自分の野心や栄光のためなら、いくらでも身軽に頑張れた、そして、頑張りが報いられてきた人は。
本当の意味で、「メンタルが弱い」のは、こういうタイプと言えるのかもしれない。
なにしろ、耐性の芯は鍛えられていないのだろうから。
なるほど、自分一個のために頑張るのは、いとも容易すかったろう。
この世に、報われぬ事態があるなんて、
少なくとも自分の身に起こるなんてことは想像もしなかったろう。
自分の身から出た錆のごとき子どもと言えど、あくまで他者なのであり、これまでのように自分の頑張りしだいで上手くコントロールできることとはワケが違うのだということも。
『加害少女の父親が自殺か=自宅で首つる、佐世保高1殺害―長崎』
時事通信 10月5日(日)20時46分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141005-00000082-jij-soci
「わたしは生きていていいのでしょうか」
仮にも弁護士、当事者の親としての事後処理の重大さは承知していたはずと思うけれど、
「ネット民」の多くが言う「逃げた」とか、はたまた、「娘の代わりに責任を、自殺という かたちで」とかいうよりは、
本人には、とにかく もう持ち堪えていくことが、これ以上は到底できないと、そうとしか思えない、精神ガタガタ状態にあったのだろう。
つまり、もはや余裕のカケラも、残された長男、迎えて日も浅い後妻と、これから生まれてくる予定の子をも顧みる余裕一片も残っていなかったのだろうと察する。
以下、抜粋部分は、下記の記事より。
『長崎・佐世保の同級生殺害:識者に聞く』
毎日新聞 2014年08月20日 東京朝刊
http://mainichi.jp/shimen/news/20140820ddm012040044000c.html
~
少年事件の場合、捜査当局に本人が供述した動機が本当ではないケースがある。私は神戸家裁時代に児童連続殺傷事件を担当した。14歳だった少年は検察に「祖母の死を通じて人を殺すことに興味を持った」と話していた。疑問を覚え、精神科医に「本当の動機を調べてほしい」と依頼した。その結果、性的サディズムがあり、残虐なシーンで性的な満足を得ていたことが分かった。捜査段階の供述とは真実が違っていた。
今回の佐世保の少女も供述が報じられ、神戸の少年とも年齢が近く、犯行態様や小動物を解剖した過去もあることから、類似性を指摘されるかもしれないが全然違う。性別の差もあるし、成育環境も異なる。父との関係や母の死、友人関係。誕生時までさかのぼって調べる必要がある。
調査結果は社会に公表されるべきだ。犯罪を起こした少年の実像を供述報道だけでしか世間が知ることができなければ、凶悪なイメージだけが植え付けられ、社会復帰の支援が難しくなる。
~
この事件については、以前のエントリーで、私も指摘したかと思うが、「性同一障害」とかいうのも絡んでいそうだし、なんと言っても、この加害者少女の脳は、男の子のそれのように思えるのだ。
人体等の生命体を、一種の機械とかメカニズムそのもののようにとらえて、好奇心を募らせ、ついには直接に把握したがるなどは、男性に多い傾向とされる理系脳的でもあるし、
支配欲的、暴虐・残虐的で、概ねは男性に顕著な性的動機も窺えるようでもある。
近頃は、どういうものか、女性にも増えてきているらしい感もあるが。
まあ、こうした女性は、良くも悪くも、歴史上に名を残し易いのかもしれない、たとえば、「希代の悪女」として、男性顔負けの野心家だったり。
それでも、当該事件の加害側少女は、性別自体は女性に違いないのだから、全く男性的な特徴性だけを備え持っているのではないはずだろうし、犯行動機の面において、もう少し複雑な心理性が潜んでいるのではないかという気は する。
~
加害行為は「大切にされていない」と感じる被害体験が背景にある。いじめや虐待だけではない。親の期待に沿うようないい子でいることを強いられるのも一種の暴力。少年が何らかの加害行為を起こした場合は、まず「やってはいけないこと」だと理解させ、背景の被害体験を把握して本人の抱える問題を検討する必要がある。こうした対応は学校や家族では難しく、加害者対応の専門家が関わった方が良い。非行の一般相談を受け付ける地元の少年鑑別所を活用する方法もある。
鑑定留置後、送致を受けた家裁が加害少女の処遇を判断するが、検察に逆送し刑事罰を科しても何も解決しない。医療少年院で適切な教育と治療を受けさせ、社会復帰後の再犯防止を図ることが最善の選択だ。家裁は事件の調査結果に基づき、子どもを加害者や被害者にしてしまった社会やおとなの責任についても問題提起してほしい。
~
「非行の一般相談を受け付ける地元の少年鑑別所を活用する方法もある」
少年鑑別所には、こういう活用法もあるとは知らなかった。
さて、
「加害行為は「大切にされていない」と感じる被害体験が背景にある」
これは、本当には大切にされていないことに気づかず、それどころか、まったく逆を信じ込まされていたことを、親が死んでしまってから突きつけられたという、私のような迂闊な例もあるので(苦笑)
その子の持ち前の性格も左右していると思う。
また、親や養育者の側で、自分のエゴが潜んでいることを気づいていなかったり、薄々には自覚していても、気づかれたくない、決して認めたくない心理もあるだろう。
かわいそうな動物の話などに同情心が非常に強く、いたって子どもらしい純真な性格だと、小学生時分、担任教師からも評されていた私は、もちろん、親の醜い真相を知ったからと言って、いまさら自暴自棄になり、犯罪行為に走ってやろうとも思わないし、それならと、自分よりも力弱い他者を掴まえて、陰湿に、いたぶって楽しむ気もサラサラ起きない。
だが、私とは正反対で、生来おっとり穏やかでない性質、容赦ない性質の子は、ある意味、非常に鋭敏・敏感と言えばいいのだろうか、要するに、自分を絞めつけてくる真綿の感触でさえも決して見逃さないのだろう。
そうして、長じるにつれ、歪を拗らせていくのかもしれない。
これも、バランスが悪いのか、
「良い子」にしていなければ ならないという言外の圧力の半面では、
やはり、ウヌボレを親から受け継いで、非常にワガママに育ってしまった面もあるのかもしれないと思う。
ただ、ある種の障碍を持つ場合、どんなに注意しても諌めても禁じても、まったくの「馬耳東風」状態から頑として動かない子どももいるのは現実だ。
~
情報の真偽を見極めるメディアリテラシー教育が必要だ。フィルタリング率の低下も心配。フィルタリングをしていれば、違法・有害サイトにアクセスできなくなり、効果的だが、無料通信アプリを使うためフィルタリングをかけない子が増えている。カスタマイズという機能を使えば両立可能だが、あまり知られていない。大人が知識を持って子供を守りたい。もはや待ったなしで、試されているのは我々大人の側だ。
~
インタビュー記事最後に ご登場の
兵庫県立大准教授(生徒指導論)竹内氏が仰るように、
システムの問題、情報拡散の問題は喫緊の解決課題だと思う。
特にネットの問題が、教育上においても看過できない事態になってしまっていることは、私も、数年前から、たびたび言及してきた。
昔は、江戸川乱歩あたりの作品さえ、子どもには読ませない親御さんもいたそうだが、
うちの親ですら、私が幼いうちは、テレビ放送でも、大人向けのもの等は、極力、見せないように制していた。
子どもに与える情報の類も、取捨選択に当たっては、養育者の権限のうちにあるはずであろうが、いまどきは、親自身が完全放棄なのだろうか。
そりゃそうなのかもしれない。
私が、これまで目撃してきた者(=ヤジウマ&つきまとい、なので、私の怒りの対象連中)のなかにも、自分の子供らの(下の子は、何かの後遺症で、知能の問題があると言うし、上の子には、白い目で見られていると言うほど)食事の世話等、家事も疎かに、「OKウェイヴ・おしえてgoo」での説教投稿に夢中になっていた輩もいた。
案の定で、最近は、「ヤフコメ」のほうに出没しているらしいのが窺えたがw
そのコメントの、さも尤もらしさの陰に潜めた、非常にタチの悪いエゴの放出ぶりには特徴があり、(このひとも、自覚は薄いと思う)、
「まっ、相変わらずだこと」と呆れてしまったばかり。
これまた、宗教系だか政治系だか何かの団体にカブレてるらしいのは、この主婦も同様なのだが。
【続く】
2014.09.29 (Mon)
【三からの続き】
やはり、詩の解釈、とらえかたは いろいろ微妙。
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
:今度は、こんなに私のことばかりで、お兄さんが苦しまないように 生まれてくるね。
私は学校では、こう習った。以下のリンク先にある解釈と同様である。
:また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る
http://www.chukai.ne.jp/~mechinko/kenji03.htm
最初のリンク先のサイト主が おっしゃっているのは、おそらく、生前の母が視聴したと言っていたテレビ番組と同じものだろうか。
実は、うちの母、この詩に詠われているヒロイン、賢治の妹と、字は異なるけれど、同じく「としこ」と読む名前だったのだが、それもあってか、
ああ とし子
この絞り出すような呼びかけに、どうやらググッと来たものらしい。(笑)
そうして、母も生来が病弱の身だった。
そのうえ、奇しくも宮沢賢治の亡くなった年生まれで、
旧暦で いけば、その亡くなった9月が誕生月であった。
とし子さんは、11月に亡くなられたそうだが、誕生月も11月、西洋歴では、これも、私の母と同じである。
くだんのテレビ番組で、この『永訣の朝』という詩を知りそめし母は、
どうも、自分は、この「とし子」さんの生まれ変わりではあるまいか、と心中ひそかに感じたようであった。
また、
母は、自分が長子に生まれ、兄というものを一人も持たなかったせいか、宮沢賢治に対し、そこはかとなく、淡い、一種の恋情に似た思いさえ感じたようであった。
ああ、ロマンチックである。。。
時空を超えた恋である。
子持ちの主婦が中高年になっても、こういう、昔の女学生みたいな、まぼろしの恋もできるんである。
お写真が美しいサイト。
![]()
http://oikawaroom.blog46.fc2.com/blog-category-4.html
http://www.miyazawa-kenji.com/kinenkan.html
カテゴリ: その他 > メモ
2014.09.29 (Mon)
【旧ブログより】
『永訣の朝』 2011/03/03 10:45
きのうあたりから、また少し寒さが戻ってきたようだ。
宮沢賢治
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kennzi.html
http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/konitan/eiketsunoasa.htm
「永訣の朝」 宮沢賢治
けふのうちに
とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ
みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から
みぞれは びちょびちょ ふってくる
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)の もやうのついた
これら ふたつの かけた 陶椀に
おまへが たべる あめゆきを とらうとして
わたくしは まがった てっぽうだまのやうに
この くらい みぞれのなかに 飛びだした
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの 暗い雲から
みぞれは びちょびちょ 沈んでくる
ああ とし子
死ぬといふ いまごろになって
わたくしを いっしゃう あかるく するために
こんな さっぱりした 雪のひとわんを
おまへは わたくしに たのんだのだ
ありがたう わたくしの けなげな いもうとよ
わたくしも まっすぐに すすんでいくから
(あめゆじゅ とてちて けんじゃ)
はげしい はげしい 熱や あえぎの あひだから
おまへは わたくしに たのんだのだ
銀河や 太陽、気圏(きけん)などと よばれたせかいの
そらから おちた 雪の さいごの ひとわんを……
…ふたきれの みかげせきざいに
みぞれは さびしく たまってゐる
わたくしは そのうへに あぶなくたち
雪と 水との まっしろな 二相系をたもち
すきとほる つめたい雫に みちた
このつややかな 松のえだから
わたくしの やさしい いもうとの
さいごの たべものを もらっていかう
わたしたちが いっしょに そだってきた あひだ
みなれた ちやわんの この 藍のもやうにも
もう けふ おまへは わかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうに けふ おまへは わかれてしまふ
ああ あの とざされた 病室の
くらい びゃうぶや かやの なかに
やさしく あをじろく 燃えてゐる
わたくしの けなげな いもうとよ
この雪は どこを えらばうにも
あんまり どこも まっしろなのだ
あんな おそろしい みだれた そらから
この うつくしい 雪が きたのだ
(うまれで くるたて
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる)
おまへが たべる この ふたわんの ゆきに
わたくしは いま こころから いのる
どうか これが兜率(とそつ)の 天の食(じき)に 変わって
やがては おまへとみんなとに 聖い資糧を もたらすことを
わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ
…
(四へ続く)
2014.09.29 (Mon)
【旧ブログより】
時代が違うと、感覚も印象も違うってこととか 2012/04/17 17:07
現実を思い知らされるような。
実際、よくあることだが、私は久しぶりに、けっこうショックを受けた。
ああ、あの『星の王子さま』が。。。(苦笑)↓
http://www.lepetitprince.net/sub_manuscript/manuscript-3StEx.html
(読み比べるとオモシロい)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0016.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA
しかし、そりゃそうか。
いまでこそ、航空機パイロットというと、エリートの一種という感覚だけど、
わが国が黎明期の飛行機技術を輸入する前の、先行していた本場の操縦士たちなんて、ほとんどサーカスの曲芸芸人に近い存在みたいだったのかも。
芸能人も そう、作家も そう、その始まりには、大なり小なり軽蔑を含んだ対象だったという話は実に多い。
ところで、例の「象を呑んだウワバミの絵」のエピソードで思い出したのが、
手先の器用だった うちの母は、食器掛けや、ちょっとしたカバーなどに使うため、無地の生成りの布帛等に刺繍を施すのに凝っていた時期があって、そのころ仕上げた力作の一つには、帽子が仰向けに置かれた そのなかに、色とりどりの花々が盛りだくさんと投げ込まれてあり、周囲にも点々と蝶のごとく小花が舞っている、という図案のものがあった。
(似てないけど、まあ、こういう↓)
『「帽子の中の色々な花」』
http://mnnoblog.exblog.jp/14769254/
時間を費やして出来上がった それを、母が得意げに広げたとたん、父が一目見て、
「なんだ?どんぶり鉢に蝿が たかっているところか?」![]()
と言って、またも、プライドの高い母を激怒させた。
父には わりに よくある類の言動なのだが、このときも、からかったのでも何でもなくて、まじで言ったのである。(余計に悪いわ;)
しかも、
たまたま、その場に居合わせた、母の妹である叔母までが(←アーパーなのに、美意識だけは高い)、このときは、うちの父に同調して批判的な意見を述べたものだから、あとで私が、母の怒りと嘆きを一頻り、聞かされるハメになった
まあ、私にも、少しだけ似た失敗はあって、友人の父が描いたサボテンの絵を、完全に野菜と間違えたとか。
友人は、そのことを、おとうさんに言ったらしいが、ご本人はオモシロがって笑っておられたそうだが。
さすがの石川啄木の この短詩は、つつましくも、泰西名作映画の一場面のようでもあり、宮澤賢治あたりに共通した、卓越した浪漫的美を感じさせる。
『「飛 行 機」 』
http://schneewittchen.iza.ne.jp/blog/entry/2410988/
(上記urlは旧ブログのもので、すでに、このサイトは廃止されてます)
カテゴリ: 話題! > 話のタネ
関連ニュース
【逍遥の児】初めて空を飛んだ日本人 (04/10 12:11)
2014.09.29 (Mon)
ダメなものはダメ。
なぜか、それが分かるということ。
『転機の心象写す資料発見=宮沢賢治、友人宛て書簡など』
時事通信 9月24日(水)20時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140924-00000176-jij-soci
~
このほか、背表紙を自ら塗りつぶしたとみられる「春と修羅」の単行本も発見された。同書を「心象スケッチ」と称した賢治は、背表紙に詩集と記されたことが不満で、ブロンズの粉で文字を消したと別の友人に伝えていた。発見された本は書名や著者名まで粉が塗られ、川島学長は「それだけ否定したい気持ちが強かったのでは」としている。
~
田中一村画伯の幼少時のエピソードを、また思い出した。これについて、かつて、例のQAサイトの悩み相談に対し、回答中で紹介したことがあった。
それは、画伯が、まだ小学生くらいの年齢だったかに、やはり美術関係で、たしか彫刻の仕事を されていたという父上が、ご自分の子息(のちの一村)が初めて、ものされた絵を見て、ごく部分的に、ちょいと手直しされたところ、幼い画伯が俄然激怒、
それは子どもの手になるものとは到底思えないどころか、プロの大人も真っ青かというほどに早熟な描きようだったものを、怒った一村ご本人が間髪入れず破ってしまったのだという。
(弐へ続く)