2018.02.25 (Sun)
ザギトワ勝利の含み笑い、だってさ(苦笑)
まあ、それは見てないんだけども、
「恥じらいを込めて笑う、、、こっ、これは、、、できない」
(↑大島弓子『毎日が日曜日』参照)
ってとこじゃない?
なんてったって、15歳の女の子だよ?
さて、
私、好きが嵩じて、ほんのちょっとだけ やってたクラシック バレエの影響もあるんだろうと思うが、
いま話題の、弱冠15歳で金メダルのザギトワ選手について。
まあ、全部は見てないんだけど、この選手の演技を見ていて、「雑だ」と批判していた人たちの感想も、正直、まあ理解できるわなと思った。
「雑」と言うか、
これから後半に集中して跳ばなきゃならないジャンプのことに、全意識が行ってるのか、そこに全てを賭けているから、こまかい表現のことなんか構っておれるかぃ、二の次、三の次よ!みたいな。
と言うよりも、
私の眼には、やっぱり、15歳の、身軽い少女、という感じが した。
体操の世界で喩えるなら、
さしづめ、私もリアル タイムで見てた、あのコマネチ選手と、どこか共通するものを感じた。
でもね、
ロシアには、アンナ・パヴロヴァっていう、往年のバレリーナが いて、
バレエに疎くても、その名を耳にしたことが ある人は少なくないであろうけど、
むかし、私が実家に居た頃、テレビ番組で、彼女が踊ってる場面の短い記録映像を見たところ、そのとき一緒に見ていた母親が、
「大らかなと言うか、意外に大雑把やねえ」
と驚いてた。
私も全く同感だった。
プリセツカヤのほうが、よっぽど繊細で凝った踊りかただったが、
とも思う。
まあ、パヴロヴァの、そのシーンは、いつも そんな感じだったと限らないのかもしれない。
私は、オリンピックに関して、動画を見るということも、従来、殆ど しないほうなんだけど、あんまり「ザギトワ」「ザギトワ」言ってるもんだから、
ほう、どんだけスゴいのよ?と、こればかりは、まず見ないことには、なんとも、、、と、軽い気持ちで見てみたうちの一つが、メドベージェワ選手も引き受けているという女性コーチから、容赦ない徹底的ダメ出しされてた練習場面。
いや、私はね、全くの門外漢、どシロウトですよ。だけど、あのコーチがダメ出しして言ってたこと、すんなり理解できた。
特に、「退屈だわよ」とまで言われちゃってたとこ。
たしかに、いまのザギトワ選手から、その恵まれた容姿と、お得意のジャンプを奪ったら、何が残るの?
そりゃもう、かなり退屈ですわ。
見てたら、とにかく「あたしに対して御所望のジャンプを、言われたとおり上手に跳べたら、それでいいんでしょ?」ってな感じ。
だから、コーチさんたちも、あたま捻って考えた作戦なんでしょう。
いまの、この子の一番の得手を最大限に生かすには、、、前半は、エネルギーを温存しておいて、、、とかさ。
「勝たなきゃ、意味ない」んだもん?
だいたいは、この年齢に、「こまやか」とか「円熟味」みたいなものを要求するほうが無理なんだろうし、
今回、
得点とメダルを分け合った、同じロシアの女子選手であるメドベージェワ選手と比べたら、こういう分野の女子の場合は特に、ほんの1歳2歳差が、とても大きな違いを醸し出すようになるんだなあということも、あらためて思った。
たかだか2歳前後の年齢差でも、メドベージェワ選手のほうが「お姉さん」的雰囲気で、ザギトワには まだ欠けてる落ち着き、安定感を備えている。
メドベージェワ選手のほうは、容貌が、一見、ロシア人というよりも、アメリカの女の子みたいな明るいキュートさが あるね。
ザギトワ選手のほうが、むしろ、「クラシック美」な容貌で、白人女性には、そういう人が多いみたいだけど、素顔を見れば、まあ年齢相応なのに比べ、お化粧すると、とたんに、とても大人びて見えるのね。
…そうねえ、
今回、ジャンプ技術に偏っていたとも言えようザギトワ選手の場合、これに、こまやかな表現力とか円熟味さえも伴う安定感が付いてきたなら、ほんとうの「完璧」を手に入れたということになるんだろうな。
ただし、4年後、あの世界では、最も ほど良い年齢になるわけなのだろうが、なにしろ、「アシが早い」という表現が、本来の、時間に関わる意味であるとおり、年齢の問題を思うとき、どうなんだろなあ、順調に生き残ってるかしら、、、という気も、ちょっと する。
基礎訓練の一環として、表現力を養うために、新体操あたりでも、やっぱりバレエ レッスンを取り入れるらしいけど、
彼女のは、ジャンプ、結局それを中心に据えたプログラムと同じく、要求されたとおりしていることで、ザギトワ選手が、まだ15歳とは思えない「お色気~!」と騒ぐ向きに、ちょっと講釈たれておこう。
大昔のバレエは、たとえば、ドガの絵を見たりしても、それを窺わせるシーンが あるけど、貧しい、若い娘が、パトロンになってくれる裕福な男性を得る場でも あったらしいのね。
それに、
15歳ともなれば、ザギトワ選手の素顔を見たら、むしろ、まだまだ幼い しぐさ、雰囲気だよ。
アジア人そして日本女性である私なんか、この年齢当時には、すでに、おとなの女性と間違われてたもんだ。
ただ、学年でも常に1、2を争う高身長だったから、相応に、出るとこはリッパに出てただけじゃなくて、手指・腕・足は長く、全体にスラリとした体型だった。
ところで、
バレエはねえ、
実際、私が教えてもらってた先生とか見てたら、舞台での華やかさ優雅さは想像できないくらいに、アッケラカンと、かつ、「体育会系」な雰囲気ですよ。
これは、似た世界で言うと、社交ダンスでも そうだと聞くし(これ習ってた知人は、先生が、とにかく厳しくて、まさに「スパルタ」式の世界よ、人間性の面までズカズカ踏み込んで批判してくるし、と言ってた)、
これも個人的に、ちょっとだけ知ってるファッション モデルの世界についても言えそうなんだけど、私の知ってるモデルさんたちも、学生時代に、バレエじゃなくてー、バレーボールやってたんだ、とか言ってて、
あるいは、
ふつうに飲み食い、喋って、ぎゃっはギャッハ笑ってるの見て、
「おいおい、そのへんの女の子のほうが、よっぽど色っぽくて女らしいじゃんかよ」
と言いたくなるほど、まあー、はっきり言って、ガサツですわw
私なんか、シンプルなターンでさえ、呑み込み遅くて、みんなと逆の方向に回ったりして、指導の先生に叱られるというより、呆れられたもんね。
バレエはバレエで、固くてグラつくカラダを支えてもらおうとするあまり、強く握り過ぎで、一列に並べてあったバーが、私の所だけズレていってるしまつ。。。
やっぱりさ、
何によらず、カラダ張って競う世界の人って、外見の要素だけじゃなく、機敏さなんかも要求されるからね、
なかみは男っぽい、スポーツマン タイプの人が多いのかなという印象でした。
うむ、
バレエは、おのずからスポーツの要素も含んでくるが、やっぱり、表現・芸術。
フィギュアも、表現・芸術の要素を大きく含むが、基本的にスポーツ。
そういうことなんだろう。
重なり合うところが あるから、せめぎ合いというか、微妙さは、どうしても出てくるよね。
皆さん御存じのとおり、ロシアは、バレエ王国でもある。
「異次元」という称えかた、いまでも、彼に捧げたいとすら思う、
「天才」「完璧」「キング」という呼称は、まさしく、彼のためにあると、
どシロウトにさえ実感させたのが、かのプルシェンコ元選手。
どんなに素晴らしい選手でも、「帝王」プルシェンコの横に立ったら、まだ子ども、という感じが してしまうだろうなと思う。
余裕しゃくしゃく、ユーモラスでさえある、プルシェンコ氏の悠々たる演技のなかに、バレエの、あれは、ニジンスキーだね、『牧神の午後』を彷彿させるポーズが挿入されてた。
Blanche(1861-1942)Vaslav Nijinsky in Danse Orientale(1910)
(付け足し)
ぬいぐるみのことなんだけど。
きょう知ったには、かつて、ザギトワ選手が、坂本選手の『スヌーピー』を欲しがって欲しがって、根負けして譲ったことが あったって話だったが、ある意味、象徴的な話かも(笑)
で、体操のコマネチ元選手も、プライベートの姿を紹介したドキュメンタリー番組で、ヌイグルミた~くさん持ってたのを憶えてる。やっぱりファンからのプレゼントが殆どだったかもしれないけど。
羽生クンも、「プー」のヌイグルミ好きなのは有名だね。
男のくせに、みたいなコメント見かけたことあるけど、あんがい、若いうちは、男性でも、ぬいぐるみ好きが多いのかな?と思ったのは、うちの兄が大学生の頃、私のヌイグルミが、幾つも行方不明になったことが あってさ。
後日、真相が判明したんだが、全部、兄の下宿先の部屋へ、拉致されてた。。。
なかの一つは、なぜか、「火の神さま」とて崇拝の対象に選び出され、
おりおり、ひれ伏して拝んでいたようだ。
兄とは言え、理解できん(困惑)
ザギトワ選手は、12歳で、親元から出て、訓練の日々に入ったそうだけど、子どものうちから、ああいう過酷な世界に入れられるわけなんだから、それで、柔らかい感触のヌイグルミや何かに、癒されるみたいなことでもあるのかもな。ましてや、女の子なんだし。
まだ未読でも、この物語の結末を知ってしまっても いいと思われるかたは、どうぞ。
http://www.hagiomoto.net/works/122.html
『青い鳥』。
いやあ、久しぶりに思い出したわ。
萩尾望都さんも、大島弓子さん同様、小学校時分から始まって、若い頃の私が夢中になった漫画家さんたちの一人なんだけど、上記の作品も、バレエ ファンであるという萩尾さんのバレエ シリーズのなかの一つだったと記憶していた。
これも萩尾作品らしく、鬼気迫るほどのリアル感ながら、
美しく、ほんとに せつない、せつない物語でしたよ。
2018.02.19 (Mon)
受け流すのか どうするか、瞬時に判断しなきゃならないよね。
とにもかくにも、いったんは「受け止め」てからでないと、なんぼ素早くと言えど、判断の段階に移ることは不可能。
でも、そそくさと「受け流す」ことに決めたなら、その理由は、さて、何だろうか。
ましてや、最初から、まともに受け止めることを一切せずに、即、流すと決めてあるなら、それは、どういうことなのか。
軽侮。
恐れ。
この二つは、背中合わせのセットに なりがち。
もっとも、
守らなくてはならない自分の分際、その不利さ、劣等感、等々というものを、どこかしらで自覚しているということは言えるのかもしれない。そこが、無防備な あかんぼうとは違い、それだけの知性が大いに育っているから、冷静に、周到に、計算する。
「攻撃は最大の防御」なんていうコトバも あるわね。
冷静なる計算も、そのための武器を的確に使えるようにするためなんだから、おさおさ怠らない。
ここで、けっして、選手の誰を言うのじゃないが、
「表に出さない」タイプというのは、これは、一つの理由でとは限らない。が、
やたらに負けん気の強いタイプというのは、往々にして、自分を守ろうとする あまりであることの証左じゃないだろうか。
これも むやみやたらと「自分を試したがる」ようなことも、根底には不安が あるからこそ、それを払拭し、揺るぎない自信を得たい、という内心の目的は あるだろう。
ただ、オリンピック選手ともなると、なにも、もともと弱いからというのじゃなく、
目標を、より高度なレベルに設定したとたん、
たちまちにして困難な戦いのなかへ置かれ、今にも ひきずり降ろされてしまいそうな自分、
という「弱い」立場になるのだから、とにかく高いとこ高いとこへと目指して登りたくも なろう。
あとから登ってくる者たちを見おろせたら、上から攻撃しやすいし。
一番テッペンに登ったら、ゆっくりと、あたりを見渡してみたい。
それが最も安全、安心。
今度は、いつまで、頂上の座を、自分が占め続けることが できるか。
この頂上に居るのは、自分ひとりだけ。
間もなくして降りていかなければ ならない日は来るとしても、
一度は頂上を極め、そこからの眺めを知ったのだという満足と安らかな気持ちで、誇りを抱きつつ降りて行けるだろう、きっと。。。
それが、本当に目指している「最高のメダル」。
いまは まだ、その途上。
喜び浮かれるのは、もうちょっと先。
「楽園まで あと もうちょっと」![]()
(んっ?どこかで聞いたような?w。。。BL。。。辿り着くのは、やっぱり、そこでした)
2018.02.19 (Mon)
きのうアップした『「ナルシシズム」。。。』に加えて。
あとから見かけた「ヤフコメ」投稿の一つが、内容的に、ちと引っ掛かったので、追記。
いわく
「受け止めるメンタルの強さは鍛えられるけど、
受け流すメンタルの強さは天性の素質による所が大きいと思う」云々、
という投稿内容だったんだけど、
一見、もっともな見解のように感じられた人も少なくないかもしれないが、はたして、本質を突いているかどうかは、あやしい。
で、こういう主張を見ると、ついつい、黙っていられないところのある私(苦笑)
その理由は。。。↓
だって、この投稿者の主張の真意は、
(投稿者自身、自覚してないみたいでは あるけど)
早い話、従来から、ネットで よく見かけたセリフ
(いまでは殆ど見かけなくなった)
「華麗にスルー(しろ)」
ってことよね。
そして、そうできる者こそ、精神的に強いんだと、
それが言いたいんじゃないのかな。
で、例の「カルト連」からネチネチ言われていたせいも あって、この定番セリフにも、私は、ウンザリ気味。
まあ、いちおう、あくまで自分一個のためには無難な対処なんだろうよと認めても いいとは思うが(苦笑)
私自身、ただ受け流してばかりよりは、はっきりと異義を申し入れるほうなんだけど、この傾向は、ネット以外の「リアル」日常のなかでも、相手が誰であろうと、同様の基本的態度。
とは言え、もともと、人と争うとか殊更に波風たてるのが好きなわけじゃないのだから、現実的には、ある程度までガマンしてることも多い。
もちろん、だからと言うので、はた迷惑なヤツアタリ行為で発散したい、なんて全然、思わないよ。
ただ、
私が敢えて抗議なり異議申し立てするときは、
基本的に、相手が、せめて少なくとも自分と対等程度には知性や良心、人格といったものを備えているであろうはずという、一種の、まあ「期待」が あるんだろうと思う。
つまり、「話せば分かるはずなんじゃないか」という感じの期待なんだろうな。。。
それだから、
私が、途中で、抗議や異議申し立てを放棄するようなことが あった場合は、「もはや これまで」と、相手を見限るような心境になったということだと理解してもらって構わないし、
それ以上に、切実な理由も ある。
ネット上なんかで、何の義理もなく、見知らぬ者を相手に最後までトコトンやるほどの、メンドウみてやる時間と体力、根気も ない。
実際に対面してる相手ならば、関係の深浅によって、それなりの違いは どうしても あるだろうけど、
正直言って、それほど親切でもない私、
相手は子どもじゃなし、他人である成人のハシクレに、むりにでも分からせてやる情熱は ない、それで、こちらに支障が及ばないかぎりだが、
「ああ、そうか、こやつ、単に、分かりたくないんだな」
と見極めたら、さっさと見限る。
「んじゃ、勝手に やっとれや」と。
これも、「リアル」日常のなかの人間関係においてと、ほぼ同様。
そこらへんは、いわゆる自己愛性人格ナントカの手合いが相手だったとなると、こちらの意向にかかわらず、異様にシツコい争いへ、もつれ込まされるハメになりがちだから、こうした場合、自分を守るために、やはり、早い段階でスルーしておくほうが、難は少なく済むだろう。
私も身内のみならず、ネット上でも観察の機会は多々あったから、よーく知ってるw
いずれにせよ、
いつまでもワカランチン相手に構っておれない。
そして、
これも、私は、「リアル」と「ネット上」とを問わないんだけど、
それこそ最初から「華麗にスルー」、要するに、完全無視するという極端な態度を とる場合、もちろん、それは、
まともに応対してやるほどの知性も価値も、相手に対して感じられないからだ。
ただし、「スルーできない」特定傾向の人が いるというのならば、
まず、かつての私のように、ネットに、じゅうぶんは慣れていない場合が多いと思うし、
また、
基本的には、「リアル」での人間関係と同様、相手を真面目に受け止めていて、真摯に応対しているからこそだ。
それとは逆に、
「悪い慣れかた」を してしまっている手合い。
はなからフザケたような態度と発言、なにか殊更に「斜めに構えている」みたいな、フテクサレているみたいなのは、むしろ、小心だから。
その小心ゆえ、「リアル」日常では、はっきりと発言できないで溜めてきたあげく膨れあがった腹癒せを やりたいもんだから、
まさに「匿名にアグラを掻いて」、おおっぴらにデマやデタラメこいたり、むやみとケンカ売ってきたり、何の筋合いもない相手を見くびって、足を引っ張りに来たりする。
そのうえで、
「華麗にスルー(しろ)」
そうできる者こそは、精神的に強いんだと、
こう、のたまうわけw
要するに、
自分がデタラメとかデマとか、あるいは、誹謗・中傷的たぐいの、総じて無責任発言を した者こそは、不当な思いをさせた相手に反発されたり抗議してきたりすることを、事前に牽制しておきたいし、シャット アウトしたいがためのセリフだという感じがヒシヒシするのよ。
だとしたら、
「受け流すメンタルの強さ」ではなく、
むしろ、そもそもは弱いからである。
【続く】
2018.02.18 (Sun)
たとえ若く美しくても、意外にも女性の場合には、必ずしも そうならないというか、むしろ、よくない場合が多いような気がする、「ナルシシズム」、というやつ。
ところが、
若い男性の場合は、これが最高の武器となり得るのかもしれないな、と感じさせられたのが、羽生結弦選手と宇野昌磨選手。
まあね、
涼やかな切れ長の眼が魅力的、典型的な「日本の美少年」ふう羽生選手は、あれで23歳だそうだが、まだ高校生でも通りそうな華奢な姿だし、
ある意味では対照的な容姿の宇野昌磨選手は、弱冠二十歳の若さだけあって、否応もなく少年の雰囲気が色濃く残ってる。
あの年齢の男性ながら、全体の姿からは、いまだに「線の細さ」を感じさせるだけに、ちょっと不安感をも伴う反面で、いとも軽やかなシャープさとスピード感に転化させおおせているとも思わせた羽生選手の演技、もちろん、各種のジャンプも見事にキマッていたし、全体に「美」を感じさせるものだった。
この、「美」を中心に、という演技について、かつての『東京オリンピック』で爛漫に咲き誇った大輪の名花と称される、往年の女子体操界のレジェンド、ヴェラ・チャスラフスカ元選手が、たしか、コマネチ選手らが大活躍していた時代に、苦言を述べておられたのを見かけたことが ある。
サーカスの曲芸じゃないんだ、やはり、第一に「美」というものが なくては、といった内容の批判だったと記憶している。
そして、やがて、日本には、あの荒川静香選手が現れた。
続く浅田真央選手も、前回の『ソチ オリンピック』では、悔し涙のあとに、最終的に達することが できたと、会心の涙を流した、「美」というもの。
私には、見る眼が乏しいのかな、
やはりオリンピックか何かの大舞台に出場する合間の、荒川元選手の ようすを映しているのを、テレビで見かけたとき、コーチらしき人と、短く話しながら、滲み出る もの凄い意志の強さと闘志を漲らせているような表情に、ちょっと恐れ入った気持ちになったのを憶えているのだが、これに似た感じは、宇野昌磨選手からも感じていた。
とにかく、負けん気が強い、これだけ「狙っている」感じを受けるところを見ると、プライベートの素顔にも、どこか俗っぽいものが あるんじゃないかという感じさえ抱いていたのだが。。。
意外も意外に思ったのは、
荒川元選手が、日常生活のなかでは、「眠り姫」とかいうアダ名が ついていたというエピソード。
なるほど、あるときに見たテレビ番組でゲスト出演していた彼女は、眠たそうにさえ見える、ゆっくりした まばたきを繰り返していて、もの静かな、おっとりとした お嬢さんに見えた。
宇野昌磨選手も、
今回の『平昌オリンピック』での演技で、真っ先に感じたのは、あの若さに そぐわぬほどの、いかにも落ち着きはらった感じを漂わせつつ、見るからに滑らか そのものな動き。
その後、彼が、リンクを降りて、採点発表を待つあいだ、コーチの女性と、短くコトバを かわしているときの宇野選手の ようすを見ていて、ここでも意外に思った。
あの負けん気の凄さは どこへやら、という感じの、少年っぽいシャイな表情、小さく手を たたいて喜んでいた素直な しぐさ、
荒川元選手と言い、今回の宇野選手と言い、
この落差の凄まじさは、どこから来るんだろうか、と。
たとえば、ロック スターとか、あるいは、いわゆる「お笑い芸人」と呼ばれる人たちも、日常の素顔は、意外なくらいにシャイだったり、もの静かだという。
芸人さんに至っては、舞台でのサービス精神に そぐわぬほど、むしろ、無口で、むっつりしているくらいだという。
ところで、私はね、オリンピックも、あまり関心ないほうだし、夏季オリンピックは、せいぜい「シンクロ」を覗いて見るくらいで、ああ、やってたか、あ、もう終わったんか、てなことが少なくないのだが、
そこへ いくと、「雪と氷のページェント」冬季オリンピックのほうがトクしてるというか、フィギュア スケートが貢献している部分は、そうとう大きいんじゃないかと思う。
さて、
安藤美姫元選手の、今回のオリンピック・フィギュア スケート各選手を見わたした論評・解説を読ませてもらった。
やっぱり、何事にも言えるのだろうが、自分自身で経験・体験、喜びと同時に苦労してきた世界について述べる話には、たいへん説得力が あるものだということ。
そして、
ごく若いながらも、何らかの世界でトップを争い、また、トップとなった人は、世に言う「ひとかどの」という呼ばれかたが ふさわしいものだな、ということ。
私が、それだけ、トシくったということなのだろうが、
皆さん若いのに、こんなにシッカリしてて、、、と感心するばかり。
もう一つ、これは、従来から指摘されてきた「オリンピック」と「国家」との関係性において、私が若い頃に、がぜん言われ始めたことで、
「オリンピックは、国家と無関係、自分自身のために頑張るもの」
といった発言。
羽生選手に関する論評の あれこれを読み流していて、
やっぱり、「オリンピックと国家」そこからくるプレッシャーは、今でも、今後も、なくなることは ないものらしい、と思っていたら、
安藤元選手は、解説のなかで、そのことに触れつつ、同時に、「自分のために」というエールも送っていた。
そして、
彼女の解説と、各選手に送っていたエールを読みつつ、あらためて思うのは、
各自の「国」を代表していながら、そういうものを はるかに超越した視点でも捉えているんだなぁということ。
そう言えば、コーチが外国人、それも、ライバル関係の国の、である例なんて、こんにちでは、まったく、めずらしくもなくなっている。
国外で合宿し、オリンピックともなれば、舞台裏の宿舎では、各国の選手たちと、国の違いも、ライバル同士であることも意に介さず、お互い敬意を持って、うちとけ合って交流している。
そこに、「国威の発揚」だとか「汚い商売・ソロバンずく」なんてものは窺えない。
まっ、「羽生クンが、宇野クンの髪を撫でていた
」場面は、まさに「BL」好きとか「腐女子」といった類の歓喜を招いたであろうこと、じつに、想像に難くないなw
かく言う私も、この場面の画像を見て、思わずウッシッシと。。。w
だって、絵になってるじゃ~ん。
美しき、日本のオノコたち、これは珍しいよ、マジで。
めったと出るもんじゃない。
つくづく、
若い男の子は可愛いわねぇ~![]()
それに ひきかえ、政界の、
ことに自民党の、あぶらギッシュなオッサン議員とは、天と地以上の乖離ぶりだわな。
ストイックな羽生クンたちの、気高く清々しい姿を見たあとは、とうぶん、見たくないのが、このオッサンたちだ。
うう、見とうない見とうない。。。
眼が腐る。。。あっち いけ~~~w塩パッパ。
いや~、こっちも童顔マッチョな、ワキゲきゅんきゅん内村クンも、はや、家庭を持っちゃって、おとうさんになっちゃってるし、
せめて羽生クンたちには、いましばらくのあいだ、ヨダレを、ぁいや、歓喜と感激のナミダを流させてもらいたいものだ!!
2018.02.16 (Fri)
最近の私的日常から話題にしよう。
先日、日本の、いちおう有名レベルの化粧品メーカーの、アイライン ペンシルを購入しました。
その直前まで使用していた、アメリカ製の(М~というところの)ペンシルが尽きてしまったので、同じ商品を求め、自宅近くのドラッグ ストアへ行ったんだけど、見つからないので、店員に尋ねたら、『М~』は置いてないんです、と言うので、しょうがないから、冒頭の、日本の有名化粧品メーカーの範疇に入る製品を、とりあえずは購入したんだけど。
あきませんわ。
できるだけ安価な品をと求めた私も悪いのかしらんが、
芯が硬過ぎて、これじゃ、どだい瞼に のりにくいし、ただでさえ薄い皮膚を傷めてまうわ、ばかやろー。
全体的にも、使い勝手が良くない。
もしか、気温が上がってくるのを待てば、もちっとは、芯が柔らかくなって使いやすくなるかもと、買ったばかりで もったいないしで、いちおう捨てずに置いてあるけど、
あらためて別のドラッグ ストアへ出向いて行って、その店には、『М~』も置いてあるのを知ってたし、前回のと同じ品を、、、と手を伸ばしかけて、ふと、そばに、『R~』の商品も置いてあるのを思い出した。
『R~』はねえ、20歳代から30歳代頃まで、爪も弱い私が、マニキュア代わりに愛用していたネイル コートやネイル用品のシリーズが あって、そこそこ馴染んでいたメーカーで、
この1、2ヵ月前には、やっぱり、『М~』の、安価なカラーリップ クリームと比べてみようと思い、『R~』のカラーリップ クリームも購入していたんだけど、
『М~』は、もちろん、価格のわりには、じゅうぶんに優秀だったが、
『R~』のは、肝心の使い勝手、仕上がりとも、ほぼ、文句なしのうえ、
容器の可愛らしさも!
…ただし、さきの『М~』のシリーズのものとは、価格からして、ひとけた違うんだけどね。。。
まあ、すぐに消耗するほどのものでは ないし、たまには、と。
それで、
アイライン ペンシルのほうも、『R~』で試してみるか、という気になって、当初の目的だった『М~』のよりも、100円だけ高い品を購入してみたの。
とにかく、
見るからに、痒いところに手が届きそうな見た目からして、気が利いてる。で、やっぱり、使い勝手も良い。
量的にも、いかにもアメリカ製らしくタップリめで、総合的には、お買い得と言っていいんだろう。
それに比べて、
日本の有名メーカーの、あれは なんだ?![]()
そりゃ、安価なだけのことでしかないよ、と言われちゃうかもしれないけどさ、
最低限、普通に使えるんでなきゃ論外だろが、バカやろ。
メーカー名を晒すのだけは、情けでカンベンしてやるが、
なにやってんだ、いちおう、日本の有名メーカーなのによ。
というわけで、
最近の、化粧品比べの一事を以てしても、
「こりゃあ、日本は、やっぱり、アメリカの底力に勝てまいて」
ということを実感した。。。
アメリカ製で、感心したものの一つに、ピローケースというのが ある。
私とこには、ずばり「舶来もの信仰」だった叔母が、日用品の端々に至るまでも、アメリカその他の外国製を愛用してやまなかった影響で、
ちょっと使っては、すぐに飽き、次から次へ、新しい品物に入れ替えていった結果、まだ新しいファブリック類なんかも、いろいろ残ってるんだけど、そこへ さして、私が また、異様なほど、物持ちが良いと きてるもんだから。
私が若い頃、そんな叔母からの下賜品wの一つであるピローケースを使ってたのね。それは、アメリカ製だった。
アメリカ製のって、日本で言う、普通の「枕カバー」とは大いに異なってて、大ぶりで単純シンプルな袋状に仕上げてあるから、使うのも、手入れも簡単で合理的なんだな、と感心したことが あったわけ。
布地は厚みのある、じょうぶで良質なコットン。アメリカらしくも、あか抜けした明るい色と柄。
その後、
世界じゅうの高級・逸品ばかりを専門に取り揃えたカタログを見て、自分で稼いだ おカネで、イギリス王室御用達ブランドの、パーティ用コスチューム ジュエリーだとか、イタリア製やらフランス製の手刺繍を施したバッグやなんか買ったりしたけど、
ある日は、これも刺繍の あしらいが気に入って、ドイツ製のピローケースを購入したことが あった。
そのドイツ製ピローケースは、裏側に、大きめのボタンを幾つか留めて使うようになってるんだけど、
もちろん、見るからに丁寧この上ない、きっちりした つくりで、何度も洗濯機に放り込んで洗ったけど、いまだに、刺繍部分がホツレも しない。
でも、一回使ってみた時点で、
やっぱりアメリカ製のほうが、なんといっても合理的に できてるなあ、と、あらためて感心した。
まあね、
いわゆる「舶来もの」と言ったって、たとえば、やっぱり、くだんの高級カタログで取り寄せた、たしかドイツ製の脚立が、お値段のわりに、けっこう使いづらくて、あとから買い直した日本製の脚立のほうが、お手頃価格のうえ、だんぜん使い勝手が良かったという事例も あるから、一概には言えないんだけどね。
従来から、私は言ってきてるんだけど、
文明や文化の、そもそもの段階で、日本は、と言うか、これは、朝鮮半島の民も そのようだが、まずは中国大陸の真似しゴンべだったからね。
その傾向は、長い長い時代を経ていても、こんにち、なお濃厚に、人々の性質のなかに残ってるみたいだし、
まあ、現代では、逆流みたいな現象のほうが起きてるわけだけど。
日本って国はと言うべきか、日本の国民性はと言うべきなのか、よく分からんのだけど、
たしかに、少なくともパッと見は、気が利いてて、賢いように見えてるんだろうと思うし、それ相応のことは ないわけじゃないだろうと思う。
でも、
あえて私に言わせれば、
「小賢しい」
というほうが、多くの場合、的確なんだと思う。
最も肝心なことが後回しだったり、
そうじゃないのよねぇと呟きたくなるほど、こまかいところに気が回るようでいて、単に、ちまちまコセコセしてるだけに終わってたり。
だからなのか、ズバリ、
「イノベーション力」
というものが、なかなか遠い。
ちょっとは それらしいものを出せそうかいなと思えても、自分で育てきれないうちに、よそさんに さらわれて、当の自分とこはウヤムヤになってたりすること、けっこう多そうな感じする。
こうした、
「小賢しさ」
あるいは、目先のことに汲々とか小心、と言ってもいいと思うが、
さきの戦中における「大本営」手法なんかを見聞きしても感じることだし、こんにちの日本の政界を眺めていても、つよく感じる。
こういうところが、エリート級とシモジモとを問わない、概ねの日本人ならではの限界なのでは なかろうか。
もちろん、そんな日本にも、本当に すばらしい人たちは、一握りながらも いたわけだし、
かねがね私は、三木 清のことを挙げているけれど、知の世界において、たとえば文学者のなかで挙げるなら、夏目漱石は、さすがに日本人離れした先見性を感じさせる。ちっとも古くなってない。
小学生の頃に繰り返し読んで面白かった『猫』を読み返すにつけ、自分が年齢を重ねると共に、ますます、その際立った知性に唸らされる。
『猫』あたりを読むにつけても、昨今の日本国内の、むしろ、「エリート」であるはずの連中とシモジモ大衆が呼応し合っているが如きに、愚かしい傾きをば、いよいよと実感させられ、暗澹の思いが してくる。
「『AI』が、一般の人々から、様々な労働の場を奪っていく」であろうという、楽観よりは不安を もよおさせる予想を考えたときに、そうした事態を乗り越えて、生き残れるのは、どういった人たちなのだろうかという点は、やはり、
まず、その労働に、何らかの高度な付加価値、『AI』には望めないような(←と言っても、『創発』という現象なんかを考えたとき、あり得ないと断言できないのじゃなかろうか)豊かな創造性を伴い、そして、周囲とともに、それを積み重ねていけるような働きが できる人だろうということは、多くの人にも、ある程度なりの察しは つくだろう。
日本の企業の、いまだ見果てぬ夢らしき「コスト カット」は、じつに人件費に直結している。
人を雇わないで済むということ。。。
もちろん、『AI』そのものに携わる職業も また、開発とかメンテナンスとか、いろいろな方面で、当面は あるわけだろうが、誰でも、そういう仕事に就くか就けるかは分からないのだし、
だいたい、ほとんどの人の場合は(人に限らないのだろうが)、あまり余裕のない日々、判で押した如き生活のなかで、付加価値や創造性ある働きを できるというのは、偶然のキッカケでも なければ、まず、難しいものでは ないだろうか。
余裕のなかから生み出せるのか、
余裕が ないなか、目先のことに汲々のみで終わるのか。
だから、当ブログで、以前も指摘しておいたように、たとえば『ベーシック インカム』などの社会的施策を、こんな愚かしいもの、とバッサリ切り捨てられる人のなかに、当の自分も自分の子孫も入っていられるはずとウヌボレておれる場合じゃないよ?ということは、ほとんどの人に あてはまるのだ。
「勉強したら」できる、というレベルでは、凡庸の範疇でしかないのよw
「可もなし、不可もなし」な人、すなわち、日本人の典型タイプのような、(エリート、地位が高い等々のことも関係ないし、ましてや、資産や金銭を潤沢に持っているかも全く関係ない。)概ね、この世の最も多数層に属する人に、どれだけの可能性が あるだろうか。
その可能性を左右する条件は、どういったことなのだろうか。