2014.10.13 (Mon)
で、また「人権」の問題だ。
これも先日のエントリーで述べたことだけど、
人権というものは、徹底的に及ぶ及ばせるものあって、
たとえば、加害者だから例外、とできるような安直な概念ではないよ。
まあ、哲学的なセンスの一切ない、簡単に「自己責任」だの「自業自得」で済ませてしまえる日常レベルの思考だけで満足できてる人には、おいそれと理解し難いものだとは思うが。
どうあっても、許さない赦さないなら、それも自分の好きにしたらいいことで、許す赦すも許さない赦さないも、心のなかのことは、他者の強制できることでは ない。
ただ、「感情」や「感情論」を蔑む資格は、誰にもなかろうと思う。
およそ人間社会を 成り立たすルール、法というものは、人々の素朴な感情を基にしているはず。
現実として問うべきは、妥当性だ。
「自分が、同じ経験をしてみたら」と言うけれども、これも考えようで、
むしろ、自分が、ある事件の直接被害当事者ではないからこそ、
「目には目を」のつもりで、つい、
「目」だけでなく鼻も耳もと、先祖返りの世界にならず、
冷静に、妥当な判断ができる、そこを期待しているからこそ、
そもそも「無関係」なはずの第三者に委ねて裁判するのであって。
もちろん、「第三者」とは、最も、当該関係の情報に欠けているわけで、
だから、綿密に調査・検証を行なわねばならない。
そもそも人間的な想像力に欠けているような第三者では困るけれど。
さて、
自分の判断と行為で自分を守れない幼い子どもは、自己責任を持てないのだから、強制的教育を施すのは、基本的に、自分の判断と行為で自分を守れる養育者側としての責任となる。
ならば、他者の人権を尊重できる能力なき者、幼児並みの判断力の者も、同様としてしかるべきだろう。
「もうコリゴリだ」
と思わせるためというのが、刑罰の目的であるのならば、それも また、強制的教育のうちだ。
性犯罪を例にとって考えたら分かりやすいが、
幼児自身が主体的に起こす性犯罪などあり得ないだろう。
しかし、精神や知的のレベルが幼児並みだとしても、肉体としては人並みであれば、やはり、性犯罪は起き得る。
だが、性犯罪を性犯罪として認識できない者に、それを理由に処罰したところで、
反省するどころか、かえって、被害意識を募らせ、「歪」を拗らせてしまう懸念のほうが大きいのではないかと、これも先日に述べておいたことだ。
「被害者意識からくる報復によるものなのだから許しが必要なんだよ」
それ以上に大事なことは、未然の防止。
このことは、
ある意味、最大の不幸者である加害者自身の不幸というものを考えてみれば、
ただ野放しにしておいて、事が起きたら赦しておけばいい、では済まない。
なぜ、そうした「被害意識」を持つに至ったのかを的確に分析する必要がある。
真の「責任」を負うことは、予防のためであり、畢竟、社会全体にかかってくる。
再犯に対して滅法無力では困るので、厳罰化を主張する声も多く出るのだろう。
しかし、これでも到底、追いつかず、本当の予防にはならないだろう。
私なりのヒントは、先日も述べたことだが、
例の佐世保で起きた「同級生殺害・遺体損壊」事件の加害者宅へ、詳細は分からないけれど、
定期的に訪問を繰り返していた担任教師が、とにもかくにも無事でいられたという事実だ。
(続く)
2014.10.13 (Mon)
『なぜ心神喪失者を許せないのか /新潟青陵大学 碓井真史』
THE PAGE 10月12日(日)8時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141012-00000005-wordleaf-soci&p=1
執筆者の碓井先生とは、だいぶ以前に、少しだけ お話させていただいたこともあって、そのおりの印象からも、個人的には、とても真摯な紳士でいらっしゃると思っている。
ただ、この先生も、公的に知られている、他人を指導する立場もあってか、とてもとても用心して述べるよう、慎重に律しておられるのだなあということがヒシヒシと伝わってくる。
それだけに、無難第一で、従来的・公式的見解に則った、啓蒙的なスタンス、
はっきり言わせていただくと、これというほどの具体策が見当たらない分、いかにも優等生的で、つまらない感じは、しないでもないw
でも、碓井先生は、
「加害者への刑罰以外にも、被害者保護の方法を考えなければなりません」
「重罪を犯して心神喪失で無罪になる人はほんのわずかです」
とも仰ってる。
たしかに、
重篤な精神疾患に陥った状態で、手の込んだ計画的で凶悪な犯罪が やりおおせるものかなあ?という気は する。
ただ、最近起きた佐世保の「高校生殺害・遺体損壊」に見られるような、「サイコパス」とか呼ばれるような者となると、はたして、どう考えていいのやら戸惑うところ。
本当の「公平」とか「公正」という観点では、「消費税」の問題にも共通した課題はあるよね。
なんか まあ、いろんなコメ投稿者が出て来て、ゴチャラゴチャラ言ってるけど、
まずさー、
「身内」と言ったって、
「精神疾患」と言ったって、
内情はいろいろだよ。決して、簡単に一括りして済ませることはできないよ。
この記事に付いたコメントのなかで、
bou*****さんとやらいうハンドルの投稿者は、
「精神疾患や心の病の人達は自傷行為(自分を傷つける行為)や自殺などは多いかもしれないが、他人を傷つける行為はしない」
なんて断言してるが、
嘘だね。
再び言うが、
「精神疾患」と、ひとくちに言っても、いろいろ。
同じ環境下にあって、疾患になる者と、ならない者がいる。
同じく、
どんなに怒っていても、怨んでいても、およそ犯罪行為に走らない人のほうが圧倒的に多いし、そうかと思えば、
ふざけ半分に、他者を脅かし、傷つけて楽しむ者もいる。
これが、しかも、被害意識に凝り固まった自分よりも、多くの苦難を味わってきた人に対してだ。
うちの身内らの場合、精神的な病(統合失調症でも、人格障害でも)によって、他者に重大な危害を及ぼしかねない危険行為に走ったし、
自分が死にたいからと言って、他の者を道連れにしようとしたこともある。
幸い、身内の一人は、治療は可能だったので、私らの尽力と、他人さまの力添え、また犠牲の お陰で、その後、まずまず回復したけど。
ただねえ、
私から見ていても、本人らは、精神状態が明らかに異常事態に陥る前から、もともとの性格や思考性向に偏りや問題はあったのよ。
決して、本当に、いきなり、おかしくなったとは言い切れないの。
回復してからも、もともとの軽薄さや自省心の希薄さに変わりはなかったし、
そんなこったから、おかど違いの他人にまで、不当で大きな迷惑を及ぼしてしまうのだろうかと思えた。
そして、
犯罪にも いろいろある。
公の法律自体には違反していなくて、犯罪者として呼ばれ、処罰されるには全然至っておらずとも、世間に隠れた罪を犯した者などゴマンといることだろう。
うちの親なんかでもそうだよ。
私は若い頃、ぶっちゃけ、いつか、父親を殺すかもしれないと思っていたこともあったので、
もしも、ここで、コメント投稿者たちによって想定されているような、家族の誰かが誰かを殺してしまったとして、
私の場合は、父親が、母親を殺してしまったとしたら
(現実にあり得る状態だった)、
裁判の結果、親父が死刑になっても当然だと思っただろう。
悲しいなんてもんじゃないよ。
はらわた引きちぎられる怒りだわ。
逆に、母親のほうが、亭主である親父を殺したとしても、ムリもないかと思ったかもしれないし、
それくらいだから、死刑になるはずもない。
悪いのは、圧倒的に親父のほうだったから。
もちろん、母親のほうも、問題は大きかった。
私が、もしも、父親を殺してしまったとして、
では、母親が、私の死刑を悲しむかって?
そりゃ分からないw
まだ私が、母親の役に立つ存在であるうちは(無意識に依存してたから)、必死の涙ながらに、助命嘆願なんかをしたかもしれないけど。
そうでもないとなったら、アッサリしてたんじゃないかなww
あのひとは、さすが、アル中親父に相応しくと言うか、脳に異常があっただけに、
いまとなっては、娘の私でも、一番わかりにくいところがあるwww
自分個人の欲得が最優先で、責任を持って対処せねばならない子どもの将来なんか二の次にしておいて、こんな不出来な親でも、本人たちは、親として正しいと信じ切っているオメデタイ者だって現実にいるよ。
彼ら自身も また、彼らの親に対して、深い怨みを抱いていたんだ。
でも、憎しみだけだったかというと、そうでは ない。
父親と母親とでも違っていたり、いろいろ微妙で複雑なんだ。
私自身は、もう幼い頃から、恐らく、人並みの意味での幸せというものは、自分には ないかもしれないと、まだ、言語にする能力もない子ども心にも漠然と予感していた。自分の親らを見ていたら。
中学生になってからは、早くも、自分は、子どもを持つまいが よかろうと、心のうちに思ってきたし、実際、持たないできた。
だから、少なくとも、代々の親の、なさけなくも醜悪な連鎖を、自分のところで止められる。
どんな障碍でも、自分と無関係でおれる保証はないのだ。
これも「理不尽」な現象だし、「不条理」なことではないか。
思えば、
人類の壮大な闘いの相手は常に、「理不尽」「不条理」だ。
しかも、ここには、人という存在も含む。
(続く)
2014.10.12 (Sun)
あなたなら、どんなときだと思うのだろうか。
『口論の客を暴行後、席に戻ってラーメン完食した元ラガーマンの素顔とは…』
産経新聞 10月11日(土)9時30分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141011-00000505-san-soci
「ギスギス社会」の象徴的事件ってところかね。。。
私個人は、ラーメン店とか、カウンター中心の店、またはセルフ方式の店とかもだが、
いままで、食事しようと入店したことは、連れに誘われて以外では、ほとんど経験がないという、いまどきの基準を大幅に外れたような人生なのでw大部分は想像するしかないのだが、
最初、この事件の一報を読んだとき、真っ先に思ったのは、
店の外に出ての事か、店内で起きたのか?
やっぱり、店主や従業員は勿論だが、
詰めて座らないとならないほど混んでいたのか?そうなのであれば、
周囲にいた少なからぬ男性客らは、黙って見ていたのかな??ってことだった。
ごく個人的な話だけれど、
私なんかは、実家の親父が酒かっくらったときは特に、ほぼ判で押したように暴行を始めるというパターンだったので、「そら、まーた始まるよ」という予見も、ある程度は できたものの、
大概は、外で飲んで、すっかり出来あがってから、なぜか、這ってでもw無理やりに帰宅して、
それから、家族を歯牙にかけ始めるというパターン。
なので、普段から母は、勤務先や取引先の人たちに対して、
「うちのに飲ませないで、どうしても飲ませたときは、泊めてやってください」
と頼んでいたのだけども、結局は皆、無責任で。
酒に呑まれてしまう、だらしない男だということを知っていても、本人も大好きだから薦めて、飲ませるだけ飲ませておいて、最後は泊めもせずに、ほいほい帰すわけよ。
と言うか、
本人が敢えて帰りたがるので、ということも聞いてはいたがw
わが家の玄関前の、少し先の路上あたりから、もう、何事かを喚き散らしている怒声を、耳ざとい母が聞きつけて、「そーら来た」、
次の瞬間、親父の怒鳴り声と共に、玄関のドアが、どっかーんと開く。
自室で静かに机に向かっていた私は、思わず震え始めた指から、ペンを とり落とす。
あとは、お定まりの地獄図絵が始まる。
もともと、義理のきょうだいたちが、何の役に立つわけでなし、
親父の長女(←自己愛性人格障害であり、長年にわたる精神科患者。身内から見ても性格は悪いよw)なんかは、自分さえ逃れられるかぎり、後妻である母や私が、親父に暴行されていること自体は、悦んで楽しそうに眺めてたからね。
親父のほうの連れ子たちが、母の辛苦のすえ、それぞれ人並み以上に有利な結婚なり進学・就職なりで独立してからは、
いよいよ、残った末娘の私と母親二人だけが、親父の暴行の餌食になるわけだ。
元来、私自身は、どちらかと言うと、何にせよ、落ち込んでいる人や荒れてる人を上手に宥めこそすれ、
わざわざ自分から、不穏なネタを探してでも焚きつけて刺激するようなことを好き好んで言ってのける性格では ない。なので、
私とは真逆に、
わざわざ、落ち込んでいる者や荒れてる者に向かっては、もっと煽るようなことを言って刺激するという、実に奇妙な癖のあった、弾丸みたく素早い口達者で、からだは持病だらけのわりに、気性は非常に激しい、
そんな母に対して、親父も毎度身勝手なブチ切れ開始、
続く暴行も、最初のうちは、親父の後妻である母に向かって集中する。
私は、まだ幼児の時分から、こんな母親を庇って、今度は自分が殴られるハメになるのを分かっていて、敢えてなっていたわけだが、
さすがに、年齢と共に、生意気になっていった私の不満や怒りは高まり、必然的に、親への咎めや批判は舌鋒鋭くなり、
親の身長を追い越した頃には、すでに、親父の暴行も、もっぱら私相手に、いっそう激しくなっていった。
そんな頃の あるとき、
また始まった大騒ぎのなか、いつもの身代わりで、私が集中的に、親父からの暴行に耐えているのを見かねた母が、親しくしていた お隣へ駈け込み、助けを求めたところ、
たまたま、その夜は、当時、府警巡査部長であった ご主人は宿直か何かで不在、
その おじさんさえ在宅だったなら、
「○○さん!何ば しておられますか!!」(←鹿児島出身)
と、一声発するが早いか、
ただちに、腕なり手首なり、あるいは、指の一本を捕えただけでも、暴れている親父に、
「あいたたたー!!痛い痛い」
と呻かせ、たちまち制圧してしまうのだが。
(私も、指一本の護身術を、この尊敬する おじさんから教わったことがある)
ところが、かつて、ソ連抑留経験者でもあったという、この おじさん、
郷里の親きょうだいを養うため、酷く苦労していた戦後の若い頃は、うちの親父以上の暴れん坊だったそうな。
で、
しかたなく、おばさんと母が連れだって、うちに戻って来て、こっそりと窓の外から恐る恐る、室内のようすを窺ってみると、
親父がバカ力で叩き割ったガラス扉の、ぶ厚い破片が、あたり一面散乱する上で、髪を掴まれ、引きずり回されている最中の私を目撃し、
母は、連れて来た おとなりの おばさんに向かって、
ここで自分が入っていったら、逆効果になるだろうから、うちの亭主を止めてやって、このままでは、娘が殺されてしまう、と頼んだのだそうだが、
おばさんのほうも当然のこと怖れをなしていて、
「そんなこと言われたって、私だって怖いわよぉ」
と、震えながら断られたということだった。
中学時分だったか、
あるときには、近所の幼なじみの家に駆け込み、そこの おじさんに、
「○○ちゃん(私)は、うちで泊める。が、あんたは、自宅に帰るべきだ」
と言われた母だけ出て行きかけたので、
母の身こそが心配で たまらない私もアッサリと翻意、
メチャクチャになった自宅へと、
夜中の道を、結局は二人して、ひっそりトボトボと戻った。
その道すがら、
「おかあさん、、、死にたいネ」
と話しかけて、
即座に「何を言うか!」と、母に叱られたものだ。
ま、つくづくと、はた迷惑な夫婦だった。
たしかに、そのときの現場に、もしも自分がいたとしたら。
元来ぼんやりした性質な私は、おいしく味わっている目の前のラーメンのほうに気を取られていて、
しかも、聴覚が不自由なもので、そうとうの怒号が飛び交い初めて、そこで やっと、何ごとか異変が起きたらしいことに気づくのだろう。
しかも、すでに、あっと言う間に、凄惨な暴行へと移行してしまっていて、
あわてて止めに入るどころか、少なくとも一瞬間くらいは、ぽかんと呆気に取られることだろう。
せいぜい、そこからハッと気を取り直して、店の人を促すなり、すみやかに自分なりが、警察へ通報しに かかるだろうことだけは確かだが、
疎い私には不明だけど、それにしても、「ラーメン セット」ってのは、すぐに出来あがるものなのか?
現場からは、交番が、ごく近かったという話も出ているようだが、
どんだけ食うのが早いか知らんが、
下手人が完食しおおせるまでに、警官たちが駆けつけて来て、逮捕するまで、どれだけの時間を要したのだろうか?そこだけは、いまも少々疑問に思っている。
まあ、しかし、この加害者、一応、会社員だということにも、まず驚いたが、
身内ではなく、まったく外部のマトモな会社に就職したサラリーマンでは、とうてい勤まらなかったのではないかなと思う。
まして、入墨してたというのが事実なら、その身内の会社も怪しい気がしてくるのだが、
これでは、どこにも拾ってもらえないというので仕方なく、身内に引き受けてもらったのか?
うちの兄なんかも、教師という公務員にさせておいたのは、母らが、
「この息子は、性格からして、普通の会社勤めはムリムリ」
と見越していて、
しいて言えば、幼い子どもが好きで
(だからか、親父の連れ子のうち比較的に兄のほうだけは、年齢の離れた私を可愛がってくれた面も少しはあるのだが、母としては、兄が子ども好きなことを、些か危惧していたw)、
言って聞かせて、その気にさせて、お尻を叩いてさえおけば、まあ勉強だけは真面目に するし、
公務員や教師といった安定職ともなれば否応なく、環境的縛りが強いからという、親として期待ゆえの判断でもあったらしい。
最後に、心理的な面で付け加えておくとすれば、ヒントの一つは
「パーソナル スペース」
ということもあるかと思う。
これは、女どうし、友人相手等でも、べたべたイチャイチャするのに、わりと慣れている女性たちよりは、男性のほうが拘りが強いようだと見受ける。
でも、プロレスラーとかには、なぜかベタベタ触ってるけどねw
私も、幼児の頃から すでに、なまじ添い寝なんかを すると、かえって寝つきが悪くなる傾向の子だったということは、母から聞いていたが、
学校時分でも、成人してからでも、他の女性たちと比べると、あまりベタベタ触られたりするのは好きではないし、はっきり宣言したことは ないけど、
彼氏や親ですら、同室で寝泊まり等するのは、本心では抵抗感が つよい。
それでも、自室に友人を泊まらせたりもしたし(自分では極力、泊まらないようにするのだが)、
いまは、近所の猫に、まともに歩かせてもらえないほどベタベタいちゃいちゃされて、頭が痛い事態に陥っている(苦笑)
まして、通勤時のラッシュの乗り物やら、社員どうしの机が くっ付いていて、肘を曲げたままでも、隣席の同僚に容易く届くといった職場環境には、自分でもハッキリと苦痛で、そうとうのストレスとなっているのは感じてきた。
ただ、ラッシュアワーの電車や駅構内、職場の昼休みに、昼食を とりに入った飲食店の狭いカウンター席でも、文句や争いの声を あげているのを見たことはあるが、それは いずれも男性だった。
一般に男性は、女性よりも肩幅があるし、大股も広げたいものなのかと思っていたがww
暴力団組員等では顕著な傾向として、「パーソナル スペース」の問題に非常に敏感ということを、専門家の話で読んだこともある。
こうした類の人間の、たとえば、電車等での座りかたというものをイメージに浮かべてみたら、正直、なるほどと思った。
ただでさえ、日本は何につけてもセセコマシイなあ、とも思うし。
ちなみに、うちの暴力親父だが、べたべたするのは好きだったみたいよ(爆)
2014.10.10 (Fri)
実際には、アメリカ軍が守ってきたのだから云々と言い募ってる、おバカさんたちが、あまりにも多いので、もう一言。
『理念は大事だよ。』
アメリカは、図体もデカいが、俗に言うイメージどおりの
「大男、総身に知恵が」
とは ならず、
ひるがえって日本はと見るに、ともすれば、
「小男は、総身の知恵もタカが知れ」
と、いみじくも(笑)言った人がいるように、
疲れを滲ませ始めたとは言え、
やはり巨人アメリカは、リスクの高さを ものともせぬ健啖ぶりで呑み込み続け、維持し続けてきた多様性を尽きせぬエネルギーの源泉とするのか、
いまだ、日本には逆立ちしても真似しきれぬ馬力と底力のある国だ。
旧ブログにては、ずっと前から言ってきたことだが、
アメリカは、いささかでも利用価値を見出し、それを認めているかぎりは、相手を決して手離さず、とことん利用し尽くしてきたし、日本に対しては今後いっそう、その傾向を強化するつもりなのだろう。
ならば、日本とて、多少は逆手にとってもバチは当たるまい。
中国政府の決めゼリフでは ないが、冷静な「互恵」関係の構築を心がけていく、 いやしくも歴史の上まわる独立国が、単なる「アメぽち」で終わらないためには どう手を打って、立ち回っていくのか。
もしも本当に、「憲法9条」が なかったとしたら。
日米安保・日米同盟の存在も、その ありようも、どうなっていただろうか。
なぜ、決して放棄してはいない防衛権の(←誤解してる人多過ぎ!)ために、あくまで「自衛隊」という名称を崩さない組織が存在するのか、
核兵器を自前では持つことが許されなくとも、こっちが お断りだよと啖呵を切ってみても、特段の外勢脅威には晒されず、経済活動に邁進でき、それでこその平和(札束?w)外交によって、かつて敗れたりと言えども、アジアに、いまだ日本ありという存在感を失わず、やってこれたのか。
一度じっくり思い起こし、しかるべき書物なり資料なりを ひも解き、考え直してみたら どうなのかな、おバカさんたちは。
「北方4島」にしても「竹島」問題にしても、どこの国が一番、「内政干渉」してきたのか。
無知無教養なままの私なんかでさえ、そんな手間かけないまでも、すぐ察しが つくほどに基本的で明らかなことだと思えるんだけどもね?
2014.10.10 (Fri)
手足の前の「骨格」「背骨」なのだから。
『「憲法9条の理念はノーベル平和賞に値する」 署名集めに奔走した人たちの「思い」』
弁護士ドットコム 10月9日(木)15時53分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141009-00002146-bengocom-soci
かねがね、日本語が奇妙過ぎるひとたちのコメントに、首かしげつつも、とにかく、いち早く投稿しようとするあまりなのだろうか?とも、おぼろに推測してきたのだがwそれとは また別の問題で、
たとえば、
「中日同盟」なんて、つい書いてしまうひとのコメントを見て、ははん?と思ってしまうのは、これも「下種の勘ぐり」と言われてしまうだろうかw
しかし、私にはイマイチわからんのよ、これも。
何がって?
「ノーベル平和賞」を、「憲法9条」のもと、実際に保持に努めてきた実績ある日本国民に受賞を、とかいう斬新な話題について、
この運動を支持しているのは
「中韓だ」
「反日だ」
「反日工作員の陰謀だ」
って決めつけてる向きがよ。
だってさ、
特に韓国の人々なんて、日本人が「ノーベル賞」受賞のたび、敬意と同時に、非常にクヤシイ気持ちが起こるのだそうだし
(こういうところがねえ、何かにつけても、過度に、日本が日本人がーと、情熱的過ぎて?みっともないくらいだから、たいがいにしておけば?って言いたくもなる。だってさ、日本人のほうでは、もともと関心薄かったんだしw近頃では、大々的アピールが奏功してきてか、やっと「嫌韓」ブームを展開するとこまで漕ぎつけてるけどww)、
「反日」とか日本人嫌いならば、それこそ、受賞を阻止したいはずでしょうに?
それと、日本国民でない「在日」さんたちには、多少なり疎外感を持ってしまう人もいるかもしれないしなあ。
ま、「ノーベル平和賞」と言えども、世界的動向を見るうえで、国際的な「ミスコン」同様、いろいろ思惑、裏の取引もあるのだという指摘は、多くの一般人も知っていることだろうが、そこは さて置いても、
日本人としては、「わが国は古来、平和を尊んできて」と信じたいところだけど、
国際的評価では、どちらかと言えば?好戦的な国民性という印象のほうが強い(少なくとも、強かった)のでは ないかな。
敗戦直後は、軍人を中心に一部で未練もあったのだろうが、一般国民の殆んどは、あんなドえらい思いは二度とマッピラだというのが本音だったろう。
それでも、
「尖閣」を めぐっての、中国からの挑発行動騒ぎなどが、もしも、かつての時代に起きていたことなら、日本は、ただちに戦端を開く構えを躊躇しなかったのかもしれない。
やっぱり、わが国の憲法9条という、その明瞭な宣言は、
日本にとっても、また、中国にせよイスラム系諸国等にせよ、アメリカ側と敵対関係にある外国から見ても、やすやすと戦争を始めるには躊躇うだけの力を持っているのだと思う。
たとえ、そこに、日本の好戦性を警戒してきたアメリカを始め、各国の思惑も絡んでいたとしても。
ところで、
最近、「イスラム国」とかいう軍事組織の求人(!)貼り紙(!!)が、
なんと、日本国内にあったという、
しかも、それに応募しようとしていた学生がいたということには、思わず仰天させられた。
テロ活動が、わが国のなかで頻々と起こるやもしれない恐れが、「集団的自衛権」どころか、こうした かたちの経緯からでも齎される可能性なんて、想像してなかった。
しかもしかも、
ひどくナサケナイのは、応募しようとしていた学生の動機。
なんとも まあ、これが、いたって個人的な動機なのである。
それは、過去に、同様の行動を実践していたという若い男性も同じような理由の動機を説明しているのを見たが、(このひと、一見して、眼つきが普通でない感じが した。「PTSD」ってやつなのかな)
でも、少なくとも現在のところは、テロ活動してるってわけでもなさそうだったが。警察や公安はマークしてるのかなあ?
双方とも、なんだかヘリクツを並べていたが、
早い話、要するに、「いじめ」やら就職失敗やらで、個人的な悩みがキッカケなのであるらしい。
男性特有の典型的な趣味・嗜好・思考傾向なのだなあと思えたが、
不甲斐ない、弱っちい自分を鍛えたくて、「けんかカラテ」等を習おうとするのと、どれだけ違うのだろうか。
そんなことのために、国民としても個人的にも何らの怨みもない、見知らぬ人々を殺傷しに赴くのだという。。。
いやはや。
それこそ、わが自衛隊とか機動隊とかでシゴいてもらえばいいのによ。