2015.01.29 (Thu)
“IS”いわゆる「イスラム国」人質事件。
前回投稿をもって最後のメッセージとなるとか言ってたようだったけれど、思いがけず、また新たに、後藤健二氏とみられる音声での投稿があったらしい。
前回の、椅子椅子(ISのことよw)による投稿でも、あの音声が、後藤氏本人の声であることに間違いないとするなら、2回目投稿画像の後藤氏の姿が、さすがに、いよいよ憔悴が募っていると思われたものの、音声のほうには意外と まだ力強さが残されている感じもするので、これは、せめてもの、唯一の救いという気がするところ。
さあ、椅子椅子の宣言で判断するかぎりでは、この事態の決着を見極める時は、さして遠くないはずだ。
そこからあとは私も、ここで、いままでの不審と疑問と不満とを、思いっきり ぶつけるかもしれない。政府、外務省、特に、安倍ちんw
覚悟せえよww
色とりどりの宝石でできた、秘密の果樹園に、足ふみ入れる主人公の胸のときめきを共感し、
凶悪な盗賊どもに狙われて、自宅の玄関扉に印しを付けられた場面で、主人公と共に、思わずゾッとし、
盗賊の襲撃を かわすため、町の家々すべての玄関扉に同じような印しを付けて、難を逃れた場面では感心したこと。。。
最近、頻りに思い出す。
子どもの頃、ワクワクしながら読んだ記憶がある、かの『アラジンと魔法のランプ』の煌びやかな絵本を。
あの頃、アラビアは、子ども心にも、ゴージャスと神秘に満ちた、憧れの国の一つだったのに。
https://www.flickr.com/photos/palma3/2243221123/
私は、ボロディン作曲のオリジナルを直接聴いたことがないままでいた若い頃、たまたま初めて聴いたのが、エレキ ギターでのアレンジ バージョンだったのだが、これが、すごく印象に残ってて。
たぶん、ベンチャーズだったのかな?
原曲のほうは、さすがに壮大で大時代的で、全部を聴き通すのは、ちと疲れるが、バレエの伴奏としてなら、なんとなく聴けてしまうけど。
『パラダイス ア ゴーゴー』
本場ロシアの歌姫だそうです。なかなか良い感じ。
de Dieudonne(1845-?)An Oriental Girl In The Palace Garden(1882)
2015.01.25 (Sun)
――Liberte――ポール・エリュアール
ぼくの生徒の日のノートの上に
ぼくの学校机と樹々の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く おまえの名を
読まれた 全ての頁の上に
書かれていない 全ての頁の上に
石 血 紙あるいは灰に
ぼくは書く おまえの名を
金色に塗られた絵本の上に
騎士たちの甲冑の上に
王たちの冠の上に
ぼくは書く おまえの名を
密林の 砂漠の 上に
巣の上に えにしだの上に
ぼくの幼年の日の こだまの上に
ぼくは書く おまえの名を
夜々の奇蹟の上に
日々の白いパンの上に
婚約の季節の上に
ぼくは書く おまえの名を
青空のような ぼくの襤褸(ぼろ)の上に
くすんだ日の映る 池の上に
月のかがやく 湖の上に
ぼくは書く おまえの名を
野の上に 地平線に
小鳥たちの翼の上に
影たちの粉挽き場の上に
ぼくは書く おまえの名を
夜明けの一息ごとの息吹の上に
海の上に そこに浮ぶ船の上に
そびえる山の上に
ぼくは書く おまえの名を
雲たちの泡立てクリームの上に
嵐の汗たちの上に
垂れこめる気抜け雨の上に
ぼくは書く おまえの名を
きらめく形象の上に
色彩のクローシュの上に
物理の真理の上に
ぼくは書く おまえの名を
めざめた森の小径の上に
展開する道路の上に
あふれる広場の上に
ぼくは書く おまえの名を
点く ともし灯の上に
消える ともし灯の上に
集められた ぼくの家たちの上に
ぼくは書く おまえの名を
二つに切られた くだもののような
ぼくの部屋の ひらき鏡の上に
虚ろな貝殻である ぼくのベッドの上に
ぼくは書く おまえの名を
大食いで やさしいぼくの犬の上に
その ぴんと立てた耳の上に
ぶきっちょな脚の上に
ぼくは書く おまえの名を
扉のトランプランの上に
家具たちの上に
祝福された焔むらの上に
ぼくは書く おまえの名を
とけあった肉体の上に
友たちの額の上に
差し伸べられる手のそれぞれに
ぼくは書く おまえの名を
驚いた女たちの顔が映る窓硝子の上に
沈黙の向こうに
待ち受ける彼女たちの唇の上に
ぼくは書く おまえの名を
破壊された ぼくの隠れ家たちの上に
崩れおちた ぼくの燈台たちの上に
ぼくの無聊の壁たちの上に
ぼくは書く おまえの名を
欲望もない不在の上に
裸の孤独の上に
死の足どりの上に
ぼくは書く おまえの名を
戻ってきた健康の上に
消え去った危険の上に
記憶のない希望の上に
ぼくは書く おまえの名を
そして ただひとつの語の力をかりて
ぼくは もう一度人生を始める
ぼくは生れた おまえを知るために
おまえに名づけるために
自由(リベルテ)と。
2015.01.25 (Sun)
『まさに「クソ」なみw 』
さて、今回の一連の凶悪事件のように、大変な災いは勿論のこと、もっと日常レベルの不幸事でさえ、直接の当事者でない者たちからは、他人事だとばかりに突き放されるだけでなく、笑い・嗤いのネタにまでされたら、それは もう、当事者は、もの凄い人間不信と孤立と孤独感に、一気に陥るだろう。
そのショックは、やがて沈潜して、自覚の有無に関係なく、根深い怨み・恨みの沼となり、いつか どこかで、テロ行為を はたらく動機ともなり得るだろう。
つまり、「クソコラ」の精神も、「シャルリー」の精神も、根底で共通しているのは、他者への共感性の欠如が甚だしいということに相違はない。
ところで、私が「カルト連」と呼んでいる連中について、この事件が勃発して以降、これまた、問題点の共通性が大ありだ!ということにピンと来ていたわけだが、最近になって、また一つ気づいた。
すなわち、
あの連中が、やたらと「フランス」に関係している立場の者たちだったということへの怪訝さ。
まさに、今回、がぜん注目のまととなった「シャルリーエブド」のような、「表現の自由」「風刺」に名を借りた、じつに質の悪い厭味や中傷、これをば「芸術」だ「文学」だ「哲学」だと標榜して恥じなかった、あの「カルト連」にも通底だったってわけ。
数年前、「首都大学」というところの学生たちが起こした、ゲージュツ活動と称しての不祥事があったけど、うちのブログの開始時点でも、旧ブログから引き継いで載せ直してある、あの騒ぎと、ほぼ同質なのよね。
なるほどね、
おフランス留学経験ありというケッタイな主婦だの、フランス語を習っております、といった胡散臭い者らが、複アカ駆使しまくって、「OKウェイヴ/おしえてgoo」で、やけにワラワラ湧いて出てきてた不審現象、やっと思い当たったわw
こりゃあ、京都はO大の仏文助教「惡の華」H氏が絡んでいるとかいう「ブラ下論ぬ」の話は、たいへん珍しいことに事実、本当なのかもしれない。
そうそう、
ブラげろ自身、あの潰れたカルト サイト「フィロトピア」最古参メンバーの一人だった「M夫」の個人ブログへ、初めてコメントしていた時の何年も前のハンドルが また、フランス語だったもんなあww
…
点から線へと。
2015.01.25 (Sun)
『イスラム国「人質動画」コラ画像に海外反応 仏メディア「日本人もまたシャルリーだ」と評価』
J-CASTニュース 1月23日(金)19時1分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150123-00000006-jct-soci
おまえら、そうやって、あまく考えてヘラヘラ笑ってるうちに、ひどい目に遭うぞ、みたいに、先方の「イスラム国」が凄んでた、ってな話があったらしいけど、
そのとおりになっちゃったみたいだな。。。
ま、何でもかんでも笑いのめしておけばいいというもんではないな。
イスラム系の人々というのは、特にアラブのほうの人々は、やはり、根がクソ真面目な気質らしいという印象を、あらためて持った。
たまたま先日、
「ユーチューブ」の動画で、愛嬌たっぷりな中国人女子留学生の司会のもと、日本国内にて勉学中の仲間たち数人を集め、納豆やらレトルト カレーといった、日本の庶民的食品を食べ比べてみる趣旨の、ほほえましい集まりのようすを紹介しているのを視聴したが、
台湾出身の青年にしても、東南アジアの何国だったかが出身の女性にしても、冗談を言い、ふざけ合って大笑いしている屈託のない姿は、日本の青少年たちと何らの違いはない。
しかし、一人まじっていた、パキスタンだったかイスラム系の青年だけは、他のアジア出身の若者たちとは真面目さの度合いが異なっているのが、あきらかに感じられた。もちろん、彼も好青年だったし、良いとか悪いの話なのではないよ。
われわれ日本人から見れば、まさに「狂信者」としか言いようのない先方「イスラム過激派」から見れば、日本人てのは、想像以上にイカレてて、よっぽど、とち狂ってるわい(呆)と思えることだろう。
ただ、ふと思ったのだが、
まさしく「武士」「さむらい」の時代であれば、これと同じような事態の渦中に置かれたとき、たとえ、血を分けた親であっても、お国の、お家のためとならば、どうぞ、わが子の命を犠牲にしてやってくだされとか、敢えて、言うのだろうなあ。そういう内容の伝統芸能の演目もあるもんね。
さきの戦時中なんかも そうだったか。
でも、いまどき、そんなのが美談になる時代じゃないし。
それと、フランスにおける「自由」の徹底した主張ぶりについて、
とくに、現地に住んでいる個人のブログ等を参考に、いろいろな描写や報告を通して思ったには、
要するに、「何は ともあれ、自分は どう思うのか発言せよ。それが一番大事」
というので、その際、傍の誰が傷つこうが感情を害しようが、そんなことを気にしていては いけない、カンペキ無頓着でGO!ということなのらしい。
ここまでになるとねえ、
じゃあ、あれか、よっぽど、自分の意見を表明するのが、本来は苦手な民族・国民性だったのかあ?おたくらは、と怪訝に思えてくる。
われわれ日本人の習性じゃあるまいに(苦笑)
もう一度、紹介しておく。
『黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚』
プラド・夏樹2013年12月13日
http://webronza.asahi.com/global/articles/2913121300004.html
人権の国、フランスで人種差別が広まりつつある。そのことをはっきりと認識したのは、10月25日、アンジェ市を訪れた、黒人であるクリスチャーヌ・トビラ(Christiane Taubira)法務大臣が、11歳の女の子に
「このバナナは誰のでしょう?雌猿のです!」と野次られた事件を通してだ。
~
それと、フランス在住という女性の個人ブログ。
やはり、現地で生活しておられるだけに、「シャルリーエブド事件」について、つよい実感を伴った鋭い批判を展開しておられる。はっきり言って、この前のエントリーで とりあげた、フランス文学者たる鹿島センセイの お説よりも、よほど腑に落ちる。
私自身は、フランスに行った経験の一つもないけれど、おおかた、こんなことではあるまいか?と思っていたこと、ほぼ、そのとおりだった。
『しつこくシャルリー』
http://mayumigb.blog.fc2.com/blog-entry-702.html
『しつこくシャルリー②』
http://mayumigb.blog.fc2.com/blog-entry-703.html
あちらの小学生への教育内容。これよ、知りたかったの。
『血塗られた歴史』
http://mayumigb.blog.fc2.com/blog-entry-700.html
『フランスでも、「行き過ぎた風刺」は論点に 表現の自由は、無制限の自由ではない』2015/1/24
http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%e3%81%a7%e3%82%82%ef%bd%a4%ef%bd%a2%e8%a1%8c%e3%81%8d%e9%81%8e%e3%81%8e%e3%81%9f%e9%a2%a8%e5%88%ba%ef%bd%a3%e3%81%af%e8%ab%96%e7%82%b9%e3%81%ab-%e8%a1%a8%e7%8f%be%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%af%ef%bd%a4%e7%84%a1%e5%88%b6%e9%99%90%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1%e3%81%a7%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%84/ar-AA8wtFH?ocid=FUJITSUDHPあくまでプライベートのこととして、個々の宗教に関し、「公の場には出さないこと」という方針の観点から考えれば、
一般に流布させる出版物も、また「公」のものであるのだし、ならば、
いっそのこと出版物においても、宗教にかかわる話題やテーマを一切、扱わないこととし、とり扱い禁止、ということにしたらいいじゃないかしら?
もちろん、それを、すべてに押し通すとなると、純粋な学問や研究の方面で大きく支障があるのだろうけどね。
人数が増えるにつれて、発言権が増す、そうして、われらの祝日や食物(この点、日本人はマメと言うかサービス精神と言うか商売熱心と言うか、「ハラル認証」とかいうものに対し、こっちから協力する気マンマンなくらいじゃないの?w)なども、公式に認めろー、という要求が出てくる、
じゃあ、それらも一緒に、公的に認めてしまっていいんじゃないの?細かい すり合わせは、なんとか調整して、、、と思うんだけど。
ただ、各々で異なる祝祭日となると、何かと「皆一斉に」という方針が根強い習い性にもなってる日本人は、抵抗あるかもなあ。それとも、新たに祝祭日が増えるだけ、ということでオッケーにしちゃうかな??
『私がチラ見したイスラム世界(シャルリー・エブド事件によせて)』
2015年1月15日 11時23分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/watanabeteruhito/20150115-00042264/
「テロだ」「テロ」と叫ぶけれど、
中東地域における猛烈な空爆によって、やはり、一般の住民たちまでが殺されるハメになってしまった。
彼らの身の実感にしてみれば、西側諸国が「テロ」と呼ぶところのものと、なにほどの違いがあろうか。
(続く)
2015.01.23 (Fri)
こういうセンセイの授業を受けてる学生だったら、私なんか、手を挙げてツッコみまくりだろうなあw
『仏紙襲撃事件は、強烈な普遍主義同士の衝突』
東洋経済オンライン 1月21日(水)6時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150121-00058478-toyo-int
~
4つの類型のうち、「直系家族」は「自分たちとそれ以外」と考える。思考パターンはそれしかない。これを拡大していくと、「日本人とそれ以外」と考え、「日本人と外国人は違う」と、なる。ドイツ人や韓国人もそのように考える。「直系家族」のグループ同士はぶつかりやすい。ドイツ人とユダヤ人、日本人と韓国人がそう。
これに対して、「平等主義」のフランス人の考え方は、人間はホモサピエンスであるから、同一であると考える。そのことに比べると、「人種」「言語」「宗教」などは微細な違いでどうでもよいことでしかない。「男女」の差異すらも大きいことではない。これは例えば、フランスのフェミニズムと米国のフェミニズムの違いに現れている。フランスのフェミニズムは「女性という性」をまったく強調せずに、ただ、同権を要求するだけだ。こうした考え方が「一にして不可分」ということであり、フランス人になってしまえば、皆同じということ。
~
トッド氏の「家族類型」説は、私も以前、どこかで読んだときに、なかなか興味深いものだと思った。
でもね、あまりに何にでも当てはめて、それこそ「信じる」ようでは、無理があるかもよ。
そういえば、このトッド氏、日本も核兵器装備したらいい、とか言ってるんですってねw日本国民として喜んでいいのやら、よくないのやらww
だって、
しかし、日本とドイツは、同盟組んで仲良くしてたんじゃないんですか?(笑)
実質、植民地だった、「2等国民」扱いだった朝鮮の人たちには、彼らのハングルを、こちらから逆に学ばせてやったと恩に着せる反面で、日本語を厳しく強制したともいうし。どっちやねんw
いま、何かと衝突しがちな中国の問題もありますがね(苦笑)かの国では、家族や仲間と見做せた、ごく限られた関係者以外には、まず、本心から気を許すことはない民族性だか国民性があると、あちらの人の話を読んだこともありますよ。
フランス人が、「人間はホモサピエンスであるから、同一であると考える」のは、私自身も基本的には、そういう傾向なので、他の日本人たちから、「あなた、日本人離れした思考だね」とか「日本女性らしからぬ性格だ」とか言われることがあるのだけれど、
「人種」「言語」「宗教」などは微細な違いでどうでもよいことでしかない。「男女」の差異すらも大きいことではない。
本当に どうでもよいのなら、気にせず流すでしょうにw
むしろ、すごーく気になってしょうがないからこそ、とことん差異を消し去らせて、しかも、自分たちに同化させようとするんじゃないんですかね?
それと、私は、フランス語は、英語以上にサッパリ分かりませんが、聞くところによると、この世のありとあらゆるものに、男性名詞・女性名詞と、性別分けしたコトバで名付けてあるというじゃありませんか(笑)
そうそう、余談ですが、あちらでは、ちょっと道を尋ねた警官にいたるまで、女性へのナンパが激しくて、もう油断も隙もないと聞いたこともありますがw
さて、前回のエントリーでも、再度、この疑問を述べた。
『センセイ、質問です。「人を殺しては、なぜ、いけないのですか?」の続き 』
私は、これも、先日のエントリーで言ったように、
イスラム教の教義からくる問題云々以上に、現にフランス人としてフランス国内で生育しながら、ああいう事件を起こしたという経緯や原因のほうに関心がある。
それでも なお、今回の事件では、犯人となった兄弟が、孤児院育ちであったということで、ということは、イスラム系としての個々の家庭内ではなく、よりフランス公共の精神に近い場にて生育したわけだから、本当なら、彼らの同胞たちより もっと、イスラム的なものから脱していてもいいはずじゃないのかと思えた、その疑問は氷解しきれない。
それと、
日本人にとっての不快な記憶としては、先ごろの、わが国 東北方面の大災害において、原発事故に伴う被曝問題をネタにした、品性のカケラもない「風刺画」が、いっとき問題になったけれど、これについては、当該記事における指摘が、どう当てはまるのだろうか。
しかも、
同様に、わが国の被曝者のことをネタにした「風刺」の問題は、イギリスのテレビ番組においても見られたという、これも、いっとき、話題になっていた。
イギリスといえば、こんにちまで尾を引き続けるイスラエルとパレスチナの厄介極まる問題を引き起こす原因を つくった国なのだと、学生時代の歴史の授業で習ったことは、印象に つよく残っている。
まあ、日本とは、伝統的宗教観のありかたも根本的から異なっているのであろうし、多分に、日本の宗教なるものが、そもそも「宗教」の域に達し得ていなかったという見解もある。
他国では、一般個々の生活・人生の背骨を成すほどにまで一体化した重い規範として営々と続いた存在感を、明確な「宗教」という存在に求める人が少ないほうである日本において、ある激烈な個人崇拝の続いた特異的時代を通り過ぎてからは、いよいよ切実さにも欠けることとなった「政教分離」なる看板に、いまだ、あくまで上っ面だけの面が残るのは、私も、過去から何度かは言及してきたことだが、
言わずと知れた「天皇制」のこともあるので、否応もなく譲歩しておくものだという、わが国では、一種の習い性にならざるを得ない面はあるのだろう。
これを敢えて真正面から突きつけ、喫緊の問題化しようとしたら、どういうことになるか、その隠然たる影響の存在は、日本国内で生活しているのであれば、ほとんどの者が、なんとなくながらでも分かっているからだ。
反面で、
そのへんにだけは触れないよう、それこそ「スルー」しておくことで、よけいな深入りせずに、気楽に気ままにやっておれるという現実もある。
日本の、これも表面には出てきにくいが、水面下には横たわり続けてきた、こうした問題は、私は特に、そうなっていくであろうことを見守るしかないと見当を つけているように、
また、
日本的「パターナリズム」的父性の面影を慕うような側面と共通しているかとも思われるイスラムの問題にせよ、
その他の各国が抱える、長い時代を経て、いろいろと根の深くなっている諸問題の多くは、一気呵成には困難なので、急激なショックや、一般民を巻き込む多大の犠牲を可能なかぎり避けるためには、時間を かけながら、理想に近づいていくという根気も必要なのだろうと考えている。
だから、その過程では、「優先順位」の見極めも必要になってくると述べた。
けれど、イスラム系移民にも見られるという、往々、発展途上国系民族に顕著な人口拡大のスピードは、多数の移民層と、まさに、いま現在を かかわっている国々においては、時間を かけて徐々に、という余裕を失わせるほどのものがあるのかもしれない。
そういう切実さも、いまのところ、わが国では、自国自身の大きな悩みとまではなっていない。
しかし、なんですわね、
あれ以来、当の「シャルリーエブド」社は商売繁盛、あちこちからの寄付や援助金も集まったそうで、まるで「焼け太り」状態じゃないですか?w
彼ら自身が、この状態を「風刺」してみせることは恐らく、ないのだろうし、かわりに、どこかの誰かが、「シャルリーエブド」顔負けに、思いっきり品性下劣を厭わず「風刺」してみたら、どんな反応があるものだろうか、見てみたい気もするww
『黒人女性大臣への差別発言が示すフランスの人権感覚』
プラド・夏樹2013年12月13日
http://webronza.asahi.com/global/articles/2913121300004.html
人権の国、フランスで人種差別が広まりつつある。そのことをはっきりと認識したのは、10月25日、アンジェ市を訪れた、黒人であるクリスチャーヌ・トビラ(Christiane Taubira)法務大臣が、11歳の女の子に
「このバナナは誰のでしょう?雌猿のです!」と野次られた事件を通してだ。
~