2016.01.09 (Sat)
の続き。
「人権」思想というものを、自民党、特に、現政権の連中は拒否してるという話を、どこかの記事で読んだことがあるけど、
だから、彼らの憲法草案にも、そのへんのところが陰に陽に反映されているということだ。
民主主義と人権思想とは、根本的に切り離せない。
このへんのところを見ても、いかに、この連中が、基本的な哲学的素養も、それに ついていけるだけの知性もないことかが、いっぺんで見抜ける。
『日本会議』あるいは旧『生長の家』たらいうところの信仰対象の一人だという岡 潔について、ある批判者が言うとおり、
冷静な論理的思考の基本が、きちんとできているうえで、「情念」とやらの重要性を敢えて説くのなら、まだ許せる。
「反知性」か何か知らんが、
反するだけの知性そのものすら、もとから備わってない者どもが、嗤わせるな、つうの!
だってね、
人権思想というものは、「普遍」思想なのであり、したがって、
条件付けして認める認めない、
たとえば、あいつには認めないが、こっちには認める、といった、
勝手つごうのいいものではないのだよ。
「自己責任」というのも、同じようなことで、
先日も言ったように、完全な「自己責任」となると、国家も政治も、司法も裁判すらも不要だわな。
自民党議員や現政権の閣僚たちが、「人権」思想を認めないというのであれば、それは、とりもなおさず、
自分たち自身の人権も放棄しなければならない
ということに他ならないんだけどね、
そういう覚悟なんざ、もとより ありもせず、それ以前に、
そこまで考え及んですら いないだろうね、たぶん。
「反知性」ならぬ「無知性」、
子どもっぽい、おつむ浅薄な俗物揃いだから。
支配欲だけが、人並み以上ときたもんだ(呆)
知っている人が、どれほどいるのだろうか、
私が、むかし、何かの記事で読んだ話だが、
たしか、李王家に嫁がれることが、ご本人の あずかり知らぬままに決定されて、厭も応もなく、その日が近づいてきた或る日、宮城に出向き、
報告に上がった華族だかの令嬢が、謁見した、ときの皇后から、いかにも口先だけの励ましを賜ったおりの、その憐れむような蔑むような口調と表情がショックで、のちのちまで脳裏に残ったという。
もともと、天皇家の人たちというのは、そういう感覚だろう。
いまでは、とうの昔から、「特別な お血筋」というわけでさえ なくなっているし、
私の眼には、
「江戸時代から漬け込んでいます糠みそ」自慢くらいの奇異でしかないのが正直なところだw
「人の上に人を」拵えるということは、
「人の下に人を」拵えるということでもある。
ここから脱皮できないうちは、
いつまでも、精神の後進性を保ち続けたままだ。
したがって、
現在、「人の上に」立っている人と、「人の下」と見做されている人には、皮肉にも等しく要求されてきた待遇というものがある。
それこそが、人権にかかわる問題なのだ。
愚衆には、そこが見えず分からず、
この愚衆を徹底的に管理することで利用せんものと虎視眈々、舌なめずりしている支配層と。
これが、こんにちまで変わらぬ日本の愚かな本質である。
あなたが今、生きていられるのは、ほとんど偶然の流れに過ぎない。
自分の力、努力だけで生きていると思っていて妥当な存在など、一人も いない。
溶けて流れりゃ皆同じ、
吹けば飛ぶような存在に過ぎない。
死ねば、骸がミクロの物質になって、やっぱり、この世の塵として留まるばかり。
ひとえに風の前の塵。