2025.06.04 (Wed)
『【続】薔薇の精』の続き。
ところで、
特に歌舞伎に関しては、やはり、より庶民に親しみやすい つくりになっていると感じるし、それでいて、舞の端々に、能の所作が取り入れられているのも窺えたりして、興味深いと思う。
ただ、子どもの頃からの疑問なのだが、謡などの声が、まるで老人のような声音で なされるのがフシギでね、
このトシになれば、内容は、まぎれもない色恋の思いを表現したものとは理解できるので、ますますフシギに思える。
とは言え、「色恋」の内容だからこそ、ということかもしれないとも思うし、
これが、もし、いかにも若々しく元気な声では、かえって、深みに欠けるのだろう。
どちらかと言えば、若い頃の恋愛の苦悩への追憶だったりする内容なのだから、枯れた老人のような声でこそ、何とも言えない哀感が醸し出されるのかとも思える。
花も雪も、はらえば もとどおりに清い。。。
歌舞伎のレクチャー的な時間を冒頭に設けた特別仕立ての構成になっている舞台を、学校時分、学外行事として観せてもらったことが あるのだが、およそ、趣味の良さというものが身についておらないクラスメートたちは、芝居が開始した最初のうちは、興味なさげな雰囲気だったのだけれど、だんだんと、人情あふれるストーリー運びと登場人物たちの素朴な、日本人らしく抑えめでありながらも、せつない感情表現の洗練された豊かさに引き込まれていったと見えて、最後は、拍手喝采の お開きとなった。
私は、この舞台の冒頭で、レクチャーを受け持ってくださった『片岡我當』氏が、「見得を切る」ときの所作の見本を披露してくださったときに、
「これは、ちょっと外しておきますね」
と、
さらっと ことわられてから、掛けておられた眼鏡を外し、スーツ姿のまま、大きく見得を切って見せてくださったのが、それは もう、思わず惚れ惚れするほどの男っぽい色気が滲み出ていたので、「ナマの」舞台ならではの迫力というものをヒシヒシと感じつつ、それ以来、我當さんファンになってしまった。
この話は、旧ブログでも、何かのおりに述べておいたことが あるし、十代の頃からババアになった今でも、あのときの我當丈の男っぷりが忘れられないでいる(苦笑)
カッコ良さは、時代を超えているのだなあと、初めて知った経験だった。
それと、
うちの高校には、現役オペラ歌手の方々を学内に招き、講堂のステージ上で、有名なオペラ作品などの楽曲から、いろいろ聴かせてもらった行事も あり、そのときも、「人間のナマの声の力」というものに打たれたことを、鮮明に憶えている。
坂東玉三郎氏の舞踊も次々に拝見させてもらってウットリした。もちろん、『ユーチューブ』だけどw
さながら『博多人形』が人間と化して舞っているような、まさに上村松園の画のなかから抜け出てきたような世界。
なんなら、女形の扮装なし、男性としての着流しのままでも、その舞姿の端正なこと。
冒頭の話題とした『薔薇の精』に絡んで、ニジンスキーの生前の記録動画が残っていないらしいことを、つくづく残念に思っているのだが、
玉三郎丈の場合は、われわれがリアルタイムで鑑賞させてもらえたことを、とてもラッキー至極に思う。