2016.03.24 (Thu)
という場面を連想してしまった。
そう、映画『ネバーエンディング ストーリー』の。
『“麻酔一番効いた状態で池に”シマウマ死ぬ』
日本テレビ系(NNN) 3月23日(水)19時5分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160323-00000080-nnn-soci
急に、環境が変わったことで、シマウマくんは不安になって逃亡したのだろうか。
思わぬ捕物帳を演じるハメになった関係者各位を責める気までは ないけれど、いかにも下手くそだなあ。。。
首に縄かけるときの不手際さには、つい、
もう、カウボーイ呼んでこいや!
と言いたくなった(苦笑)
馬系ってのは、動物としては知能も高いだけに、繊細で、警戒心も高く、非常に神経質な性質の動物だと聞いている。
うちの親父は、何かの話の途中で、軍隊時代、自分専用の馬(軍馬)を持っていた経験から、
「馬ってのはな、ほんとうに、人の気持ちが分かるんだぞ」
と、感に堪えたように語ったことがあった。馬ほど可愛い動物はない、と。
だから、戦争が終わって、自分の馬と別れるとき、とても悲しかったんだって。
馬のほうでも、そのことを感づいてたんだ、と。
シマウマの場合、実は、驢馬に近いそうなのだが、
しかし、私は、シマウマなんて、日本では、公の動物園くらいでしか見ることはないものだと思っていたけど、
どうして、シマウマとか、特に、人に懐きにくい傾向で、扱いに大きく注意を要することが分かっている動物を、個人で購入したり飼ったりしようとするのか、あまり理解できないでいる。
鳥でも何でも野性の、あるいは、野性に近い性向を濃く残している動物たち一般を、おりにふれて見ていると、
特に、その生死の極限が迫ったときの ようすには、
われわれヒト属、とりわけ、スポイルされている如き日常生活にドップリ浸かって弛緩した、いわゆる「文明人」だの「先進国民」だの「文化人」「都会人」だのだのには希薄になってしまった、それこそ「凛とした」気品のようなものを感じることが多い。
ただ黙して、あたりの ようすを鋭敏に窺っているときの静謐な佇まい。
怒るときの激しく徹底した容赦ない怒り。
ひとたび、気を許し、好意や必要性を感じた対象に、何度はねつけられようと、めげず諦めず大胆に迫っていく一途さ。
必死に抵抗し続け、もはや これまでと覚ったときの、うってかわって従容と しきった態度。
野生動物たちに、われわれの人間社会で有難がるような「お血筋」だの権威だのは全くないはずだろうし、
はたして、「お育ち」やら教育でもって身に付く気品なんてものが ありや なしや、
それこそ、どこぞの王侯貴族の類、首相や政治家たちのように、「エリートの血筋」などと目されつつありながら、その内面外面ともに下品・下劣な連中の例には枚挙に事欠かない。
実を言うと、むかしから、私にとって、ヒト属の男なんかよりも、「野性の品格」を残す動物たちのほうが、よっぽど魅力的で、ビビッと来たりも する。
そのせいか、古今東西に伝わる「異種婚姻譚」の類に、それほど違和感ない。
ぶっちゃけ、ヒト属♂のほうが、もっと違和感あったりするw
まだ たった2歳だったという、結果的に可哀そうなことを してしまった彼、くだんのシマウマくんにも、
人間どもを遠ざけるときは、逞しい後ろ足を可愛らしくピャッと蹴りあげておいて徹底的に拒絶しつつ、
合間合間、遠く彼方を見つめる眼には、途方に暮れるようすでありつつも、
あたりまえに受け入れている孤独と、どこか、凛としたものが あった。
もうガチャガチャ煩い人間どもは追いかけてこれないから、安心して、
広大無辺な天の野原を駆けてゆけ。。。
2016.03.20 (Sun)
『安倍答弁同様すり替えコメ投稿者が居並ぶヤフー』の続き。
さて、
「29日の指導で、ライターを持ってきている子がいることがわかった。陵平くんの名前も挙がっている。来週、お母さんも学校に来てもらうことになる」
母親が陵平くんにこのことを告げた40分後、長男が大きな物音を聞く。10階の自宅マンションから陵平くんが飛び降りたのだ。~
最近の、「万引き冤罪」とやらでの生徒の自殺事件と共通した不可解さが残るような。。。
私の場合は、父親と離婚してくれることを切に願わざるを得ないほどに、始末の悪い家庭だったが、
そんな私の推察でも、他のコメント投稿者の指摘にもあるように、恐らく、この男子生徒の両親が離婚して間もなかったことが、根底の原因に あったのではないかと思える。
当該記事を読んだかぎりでは、
この年齢の男の子には珍しいのでないかと思うほど、おとうさん大好きな お子さんだったようなので、両親の離婚によるショックを心底に引きずったままだったのでは ないだろうか。
このあたりの事情は、学校側も把握しているはずなので、何らかの不祥事が発覚したとしても、その対応については、やはり、通常時以上の、
配慮
が必要だったろうと思う。
そのことは、離婚当事者である御両親に対しても言えることだろう。
学校からの呼び出しを、おかあさんから告げられた、その前後の母子の やりとり詳細が、ここでは分からないので、結局、ご本人が、どのように受け止めて、あのような書き置きとなったのか、
残念ながら、いまとなっては、知りようもないこと。
それにしても、
「ハイチュウ」だライターだ、で長時間の問い詰め指導、ご苦労さんなことだ。
その果てに自殺かよ。。。
「精神論」だ「鉄拳」だのが罷り通っていた、通させていた、「お国のため」だ「孝行のため」だと言い聞かされ言いなりになって、バタバタ死んでいった世代も、無防備で、ある意味では弱かったからだろう。
私の中学時分も、「校内暴力」が頻発した時代だった。
わが校では、特別の事態は起きなかったが、それでも、ある日、何かのおりに、学期末とか季節に伴う大掃除だったかで、男子トイレ横の雨樋付近から、ビニール袋のカタマリが発見されたとかで、
担任の中年男性教師が、教壇に立ち、些かの怒気を滲ませつつ、われわれ生徒に告げたとき、
クラスの あちこちから、なぜか、意味あり気な笑いが漏れていたw
高校時分も、うちの学校は、地域では「お嬢さん学校」の伝統で名の通っていたせいか、喫煙がバレたらしい数人の女子が、停学どころか、あっという間に退学処分されたという話だった。
個人的に、うちの親父も、シラフ時でさえ、日常生活のなかの ちょっとした作法や やりかた等に、自分の無神経ぶりは棚上げで、周囲が呆れるほど異様に事細かく注文を付けてくる傾向があって
(たとえば、ご飯の よそいかただとか、おふろの掛け湯は何杯まで、とかw)、
母のほうは、逆に、良くも悪くも何事も大胆大雑把な傾向の人で、
親父が、あまりにも細かいことを注文し始めると、たまりかねて一喝することもあったので、まだしも救いもあったが、
もし、親父だけとの家庭だったら、どんなに息苦しい状態になったことかと、想像しただけでも恐ろしく思った。
しかも、
えてして、こういう細かいことにばかり拘泥する分、肝心のことが疎かになるものだ。
同時に、
母のほうも、自分一個の保身欲と名誉の取り繕いを先行させたために、とんだ失敗を、子に擦り付けることになった。
アメリカでも、生徒の風紀その他の問題は多々あると、むかしから聞こえては いたけれど、時おり、スケールの大きい人物を輩出するパワーも また、アメリカらしさを感じさせる面が ある。
ひるがえって日本では、育てるとか教育というよりも、抑えつけて管理する、これのほうが中心になってしまってるのではないか。
昔からの国民性なのだろうが、
どういうわけか、近ごろになって、ますます、この傾向が高まってきているらしいという印象が、子どもを持たないので、学校現場の事情に疎い私にすら、感じられる昨今だ。
学校だけではない、企業等でも同様で、
人を育てるという余裕が、全体に ますます希薄になっているようで、
その必然的結果が、社員・従業員の使い捨て現象だ。
これでは、人は育たない。
ましてや、スケールの大きい国際人は。
まさに、「スネ夫」的イメージの優等生しか ないねえ。
私自身も若いころから、この国と人々の気質が、どことなく、自分の肌には合わないという感覚が あった。
誰かも言ってるけど、ほんとうに、息苦しい国になってしまいそう。
2016.03.20 (Sun)
たしかに、この記事の見出しは、タチが悪いと言われても しかたがないと思う。
最近、このテの見出しの付け方が増えているような気が する。
しょせん、週刊誌の、と言われるところなのかもしれないが、
新聞でも、こういう傾向が出てきてるんじゃないか。
特に、『産経シンブン』ねw
『埼玉中2男子、12人の教員から1時間半もの指導 その後自殺』
週刊女性PRIME 3月17日(木)5時0分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160317-00025235-jprime-soci
中学では野球部に入った。当時、顧問の暴力行為が問題になり、ラジオ番組で取り上げられた。1年生の冬、顧問から「お前、誰がチクったのか調べろ」と言われた。
事実なら、それは酷いね。
「教師は自分を守るために遺書を見る必要があります。事実をねじ曲げるつもりがなくても自分たちのミスを受け入れて罪を認めるにしても警察より先に見る必要があります。~」
記事を ちゃんと読んでからコメントしなさいよ。
「反省文を見て」とあるでしょうが。
だが、
いわば、後あとの検証に用いる証拠となり得るものを、疑念の残る相手側に右から左へ渡すわけにもいかないだろう。
もっとも、記事文中では、たしかに「見て」とあるものの、読ませたわけではないのかもしれない。
こういうところでも、当該記事の描写とか用いる言語の拙さは感じるが、
そもそも、取材相手からの話自体にもアヤフヤさが潜んでいるのかもしれない。
深刻な問題提起を記事にする場合は特に、可能なかぎり明確なコトバを選んで伝えるのでなければ、読者を苛々させるだけですよ、『週刊女性』さん。
それにしても、このコメント投稿者も、ほんとに、浅はかで、くだらないことを言うもんだ。
この投稿者のあたりから、「赤ポチ青ポチ」の流れも おかしくなってるのなw
これも「ネトウヨ」と言うのか、少なくとも、いまどきの「ウヨ」系だなということは、すぐに察しが ついてたけども、
とにかく、いわゆる「マスゴミ」糾弾的な誹謗・中傷を述べ立てさえしたら、賛同ポチが入るという仕組みを、自分自身や、何かの団体仲間たちで作ってでもいるのかなという奇妙さ。
「マスゴミ」に負けず劣らず、自分たち自身も、信用に足る存在では毛頭ないと思われていることを自覚しなさいってば。
それと、この投稿者。
あのね。
「差別」とは普通は言わないのよ、こういう場合。
普通の日本人の言語感覚ではね。
私のように、「配慮」と言うなり、くだけた表現では、「ハンデを付ける」とかの言いかたなりするわな。
殊更に捻じれたコトバ遣いを したがる、この奇異な癖を誤魔化すために、これまた捻じれたヘリクツを後付けしなければならなくなる。
この投稿者は、以前にも、独特のヘリクツを執拗に振り回すさまを見ていて、ちょっと引っ掛かっていたのだけど、
今回の内容と述べようを見て、この者が誰であるのか、やっとハッキリと確信できた(嗤)
『バカ者の見本w』
ま、結局また、安倍政権の答弁と全く同様の すり替えパターンを とってるわ(爆)
こうしたケッタイな特徴が、例の「カルト連」に顕著なのだという訴えを、私は、あれ以来ずっと言い続けてきたけど、
それだから、
もしや、安倍政権に繋がる何らかの団体の構成員なのでは あるまいなという疑念も起きてくるわけ。
bragelonneとの やり取りでも、政治団体を やってたという話が出てたしね。
だいたい、自民党自体、反社会的団体とズブズブなのは、昔から有名だもんね。
なぜ、
呆れるほど夥しい複アカ、毎度ネジクレきったコトバ選びでもって、煽り主張を同じように繰り返す一群れの連中が、年じゅうネット上で、奇異な活動ばかりやってるのか。
おたくらのような者が、ほんとうに「親」を やってるだなんて、
事実だというなら、じつに恐ろしいことだと思うよ。
こんな浅はか極まる歪な思考の親のもとで育つ子が、歪まずに済むまいことか。
この親と同じように浅はか思考に陥らなければいいが。
「まともな国家運営」
「~間違えた個人主義。結局国民の質の低下を招く。この国の教育の質は危機にひんしています」
瀕させているのは、誰あろう、あんたがた自身。
もう少しは自覚を持ちなさいよ、雁首揃えて同じこと言い募ってるアンタがた。
そうやって「ヤフコメ」あたりで、毎度しょうもない投稿して遊ぶ前にサ。
【続く】
2016.03.20 (Sun)
『日本人の好色度w』の続き。
この、「日本美術に詳しい作家・編集者の橋本さん」によると、
春画では夫婦の房事の横に子供が描かれていることが少なくない。
当時としては当たり前の家庭生活の一コマだったからだ、という。
それも、一概には、どうでしょうか。
私は、その方面の専門知識も教養もないし、そういった「春画」にも疎いけど、
日本人の「湿った」傾向性からして、夫婦の営みの姿の横に、あどけない子どもの姿を置いてみせるということの、敢えての淫靡な趣向が あるかもしれないなと思うのw
もちろん、昔の日本の庶民ともなれば、それこそプライバシーも へったくれもない生活だったろうから、現実として、そういう場面が日常だったとは考えられるが、
だいたい、絵画でも文学においても、極度の対比ぶりを描いたり、あるいは また、時の流れの容赦ない移り変わりの さまを、一幅の画布、一つの作品のなかにて一気呵成に描くという芸術手法はオーソドックスと言っていいほど多く用いられているのではないだろうか。
もっとも、その昔の日本は、男女混浴がアタリマエの時代だったそうだし、強風に煽られた着物の裾が巻き上げられて、女性の下半身まる見えでも平気だったとも聞く。
人前で、おっぱい剥き出しに授乳も何ら憚ることがなかったのは、私の乳児時代までは、うちの母もそうだったようだ。
私自身も、幼い頃には、まだ、そういう母子の光景を見かけることも珍しくなかったのに、気づけば、いまではトンと見なくなった。
けれど、あるとき、私を連れて、東京に向かっていた列車のなかで、
たまたま、その列車というのが、特大に設けられた展望型窓に向いて、各座席が並んでいるという、当時最新式の特別仕様車だったのだそうだが、
母も、最前列にて、そういう座席の一つに腰掛け、私に授乳していたところ、途中の停車駅に着き、ホームに鈴なりになっていた男性たちの視線が一斉に向かってきて、その痛いほどの凝視に慌てて、授乳を一旦中止したとことがあったと、苦笑しながら言っていた。
うちの母親って、なにしろ、超グラマーだったせいもあるだろうけどw
ある作家の時代小説では、江戸期、大地震のおり、被災した民衆を泊めた寺の本堂等で雑魚寝している男女の見知らぬどうしが、周囲の者たちに聞かれるのも憚らず、といった描写もあった。歴史的にも事実なのかどうか、私には知る由もないが。
いったいに、日本人の、性的なことがらへの感覚は、淫靡な傾向のものなのか、いたって開放的なのか、日本の場合は、ある時代を境にガラリと様相や感覚を変えているようなところがあるせいなのだろうか、
こんにちとなって、現代日本人にとっては、些か、判断が難しい気も する。
ところで、むかし、ある雑誌か何かで読んだには、
どこかの熱帯地域の国では、暑いゆえ、屋根と柱だけの家屋に住んでいるので、家のなか まる見え、なので、夫婦の性的営みも まる見え、
その家の子が、自分ちの父ちゃん母ちゃんが真昼間から、気の向くままにイタシているのを見て、指さして笑い、当の夫婦も上下で苦笑しつつ、さりとて、動きを止めるでもなく、笑いながらイタシ続けているんだとw
その旅行記を書いたライターさんは、ユーモアたっぷりに表現していた。
幼い頃からマンガ大好き、自分でも、将来の希望職業の一つが漫画家だったくらいなので、あれこれ思うところは少なくなく、
思い起こせば、私が小学校の時分だったと記憶しているが、
竹宮恵子さんがデビューした頃、初めて、彼女の作品を目にしたとき、
その絵柄からして、それまでにない画期性を感じ、胸トキメキながら読んでみて、
「とうとう出たー!!」
って思ったのを、いまだに鮮やかに憶えている。
これと同様のヨロコビは、あの萩尾望都さんにも感じた。
このセンセイたち、いずれ大物になっていかれるんだろうなあと、まじで子ども心に思ったものだ。
私にとっての「バイブル」みたいな、大島弓子さんの諸作品も、このトシになっても手離せず、いまでも、ときに落ち込んで辛いおりなど特に、読むと少しは気持ちが上向きになるのだから、大したもんだと思っている。
ほんと、「少女マンガ」というジャンルが、日本以外にもあるのかは知らないが、少なくとも日本のそれは、ヘタな小説なんかよりも考えさせられるし、文学的・哲学的要素が濃厚なのだ。
つまり、それらは、「ポルノ」を目的にして描かれたのでは断じて、ないということ。
実際、竹宮さんたちの作品中の性的描写場面といえども、淫猥さの類を感じたことは、ついぞ、ない。
くだんの『風と木の詩.』連載時は、欠かさず読んでいたわけでなく、いまでも印象に残っていてハッキリ思い出せるのは、連載も本当に最終場面のみだが、
ひとえに、純愛を描いたものだったなあと思う。
「物語を伝えるために、なぜ9歳の幼い少年に対する性暴力など、読んでいて辛い描写が必要だったのか」
それはね、
痛々しいかぎりのレイプ シーンであろうと、それら全ては、ジルベールとセルジュの至高の純愛へと収斂させていくためのものだから。私には、そのように思えた。
だが、
まさに「ポルノ」でしかない、そのものを目的に描いたものは、やはり、毒々しいイヤラシサ、後口の悪さしか残らないのだよ。
その差は断然、大きい。
この問題について、日本では意見が割れている。表現の自由保護を何より重視する人もいる。優れた作品と、下品でわいせつなものに過ぎないと思うものとの間に、線を引く人もいる。特に関心のない人たちもいる。国民的合意はできていない。
加藤祐子記者さん、論じるべき核心は、おそらく、そのあたりなのでしょうね。
下記の部分については、どうかなあ?
「意見が割れる理由のひとつに、欧米と日本の微妙な感覚の差があるかもしれない。日本では人気商品から人気音楽に至るまで、「かわいい」の価値観が大衆文化に浸透している。このため幼い子供の姿の描写について、日本人は欧米人のようには神経質ではないのだという見方もできるかもしれない。
欧米圏の人々の価値観は、「マチュア」とか成熟さというものに求められるのが伝統的だと聞いたことはある。
ただ、若さや可愛らしさというものは、いかにマチュアや成熟度に重きを置く西欧圏文化と言えども、やはり、好ましいものには違いないのだろう。
特に性的対象に対しては、多くの、特に男性が求める傾向として、大きく本音であり一般的なパターンだろう。
でも、少なくとも現代の日本って、「おこちゃま」趣味が大いにハバきかせてる風潮だもんね。やすっぽくてゲンナリするほどに。
なるほど、たしかに、「カワイイ」という薄い砂糖衣というのか甘い味付きオブラートとでもいうのか、そういうものに一旦、くるんで誤魔化してしまえば、本来なら、多少の醜悪さゆえに嫌悪を催させるはずのものを含んでいても、なんとなくのうちに呑み込んで受容できそうな気もしないではない。
そういった現象にも、心理的に、なにがしか複雑さは潜んでいるんだろうなとは思うんだけども、
とりあえず「カワイイ」という紗の衣に くるんでしまうことで、積極的受容・許容が できているのだという、一種の錯覚を起こして、苦痛の軽減技術としているのかもしれない。
少女マンガで描かれる少年愛ジャンル、なかなかに屈折を孕んで興味深い心理が あるのだろうがw
いまどきの男性が、いいトシになっても卒業できない向きが多いらしい、アニメやゲーム等の「二次元キャラ」で描かれる、顔は童女で、からだはグラマー、みたいな極端なのも、どこまでいっても、それぞれの お好みで見果てぬ理想世界であり、ファンタジーなのだろう。
でも、童女顔のグラマーというパターンは、いまに始まったものではなく、昔から男性の理想の定番に入っているやね。もちろん、現実には、そうそう そこらに見つかるタイプでもないし。
童女が、セックス、しかも、大の男との それを、好むはずもないのは自然の摂理としてもアタリマエなのだが、
しかし、少なくないであろう男どもにとっては、自分とのセックスを悦んで受け入れてくれる、しかも無垢で無邪気にして無抵抗な童女、
という非実在が、なんとかして実在にならんものかという願望が隠せないのも、一部では事実だろうw
このことは、私自身の経験もあるので、憶測で言うのではない。
これは、男女に かかわらずかもしれないのだが、
あまりに無防備・無抵抗で柔弱な者を、どういうわけだか憎み、徹底的に蹂躙したいという陰湿な欲求は あるかもしれない。
これまでにも指摘したことがあるが、
サディズムとマゾヒズムは背中合わせの一体である。
2016.03.20 (Sun)
けっこう昔から、国際的に知られていたようだけどもww
男性だけでなく、実は、大和撫子までもが!(アワワ)
そして、全体として、健全な自信に乏しいことも、いよいよ国際的に有名になってきたのかねえ?(苦笑)
『国連が批判する日本の漫画の性表現 「風と木の詩」が扉を開けた』
BBC News 3月16日(水)10時54分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160316-35742160-bbc-int
「非実在」
「現実にそういうことが起きるから」
「実際にそういう目に遭っている人が、私の漫画を読んで自分だけではないんだと、自分は独りではないと知り、この作品が私を救ってくれると書いてきた」
え?えっ??あれれーw
っと、
まずは、この記事全体を読んでみて、そのムジュンぶり あらわなることに失笑してしまった部分から入りましたww
このテの問題ねー、旧のブログでも、かなり真剣になって、長文で論じたことはあるんだけど、
例によって、当時のログ記録を探し出すのが、どうにもメンドクサいので、いま思いつくことだけを述べるとするわ。
ブログってのも、むなしいねえ。
いっしょうけんめい書いておいても、いつ消滅するやら分かったもんじゃないし、それでいて、いつまでも消え難いデマの類は跋扈し続けるし。
【以下、当該記事抜粋部分の文字強調等は、当ブログ主による。】
「何でも自由に表現したいなら、個人的なアートとして地下でやればいい。しかし漫画には常に読者がいる。作家はそこの誰に向けて何を描いているのか、意識すべき。国連に言われるからとかの問題ではなく、作家の良心と創造性の問題だ」
上記の、真崎春望さんなる漫画家さんの御意見と、私の考えとは、比較的に近いんだろうと思う。
けれども、
参議院の山田太郎議員も同様に、国連の批判を批判する。
「非実在児童に対する描写は、具体的に誰かの人権を侵害しているとは思えない。それを見て不快になる人の人権を侵害するというなら、その人が訴える権利や制度を整備すればいい。しかしどういう影響を与えるか分からない表現を、法律という強い権力で、元から取り締まってはいけない。誰かが傷つくかもしれない、誰かが差別されるかもしれないという可能性を取り締まってはならない。規制はどんどん拡大解釈されていくものだ」
しかしねぇ、山田さん。
私は、旧のブログで論じたときにも指摘しておいたのだが、
様々な、特に性犯罪について報じられるところを見るに、
男性は、女性以上に、視覚からの刺激を強く受け易く、性犯罪トリガーとなる傾向性ということは事実なのではないかということ。
ただ、「拡大解釈」の懸念については、それは理解できるのだけど。
難しいところです。
さて、
「児童ポルノ」といった、このような表現の問題と、
いわゆる「ヘイト スピーチ」問題との共通性は あるよね。
「非実在」とは何のことか?
その「非実在」なる存在は、では、何によって生み出されてきたのか。
現実と無関係な「非実在」なんてものが あり得るのか。
実在する個々人の特定には ならないのだが、一応そうではあるのだが、
「児童」なら児童という層の実在は あるはずだ。
「児童」と呼ばれる層あるいは また「在日」と呼ばれる層の存在は、
では、架空存在なのか?
たとえば、柳 美里さんの『石に泳ぐ』ナントカいう作品あたりにも指摘できる問題のようだが、
仮に、
私自身の現実に抱えている障碍と同じ種類の障碍者を対象に据えて、それが、「個人特定」とは次元の違う「非実在」では あっても、
侮蔑や排斥のための対象に描かれていたならば、非常に不愉快に違いないことは断言できる。
グサッと突き刺さる感覚によって、自己の内部が傷つけられたのを実感する人もいるだろう。
また、こうしたことによる、世間への悪しき影響力も、無視できない現象として実際に起こっているゆえの懸念も大きい。
ただし、その描写の真の目的によるだろう。
先日の『お弁当の想ひ出』というエントリーで取りあげた、ネット記事にて、「祖母の拵えてくれた弁当を食べずに捨てていた」という描写について非難轟々のコメントが付いていたのも見たが、
この極端なシチュエーションを敢えて描いた作者さんも、真の目的を描くためにこそ、こうした場面を強調設定したのだろうことは、私にも理解できる。(個人的には、読む気も必要性も全く感じないが。)
作家・編集者の橋本麻里さんというかたは、下記のように述べておいでだ。
「実在の児童に対する性的搾取、性的虐待についてはもちろん、許されるものではありません。大前提として、そうした事態を解決するための取り組みには、今後いっそう注力していくべきだと~(略)~しかしそれが『児童ポルノを含む漫画を禁止すべき』かどうかという、非実在の児童をめぐる表現の問題となった場合、責任ある判断のできる年齢に達した成人で、かつその表現を許容する人の間でのみ流通するのであれば、一律に禁止すべき理由はない、~表現について、一定のゾーニングや年齢制限などを社会的合意の下に明文化して課し、その枠の中で自由に表現することを許容する国であってほしいと~」
はたして、そんなこと、実現可能でしょうかね?
現に、当該記事も、少女マンガつまり概ねは子どもの年齢で読むマンガをして、この問題の第一舞台として挙げている。
「実在」だの「非実在」だの、はたまた「一定のゾーニングや年齢制限」だのって、
こうしたことは、さしづめ、インターネットの問題とも共通してることだけど、
世のなかの実態として、
「責任ある判断のできる年齢に達した」のが成人ばかりではない。
それどころか、
責任ある判断のできる年齢に達した成人であるはずの者が実際、児童買春を行なったりもしているわけで。
【続く】