忍者ブログ
とりあえず、ひかりのくに
     
<< | 2025年07月 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 | >>
[267]  [268]  [269]  [270]  [271]  [272]  [273]  [274]  [275]  [276]  [277
Updated   
2016.05.09 (Mon)

冨田勲氏が、この5日に急逝されたという。

今年は、どういうものか、国内外ともに、音楽方面での著名人の訃報が いやに多いような印象が してきていたけれど、

氏の御年齢を知り、うちの親と同年配だったのだと分かって、少し意外な気が したくらいに、先進的なかただったなあと、あらためて思う。

あの世代も また、日本の新旧のハザマに位置していると言うべき存在と思うのだが、

冨田氏の場合も、『新日本紀行』あたりを聴くと、そのことを特に感じる。

 

巨匠逝く、冨田勲さんのあゆみ シンセサイザーの先駆け
MusicVoice 58()1951分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160508-00010007-musicv-musi

 

冨田氏の代表的作品の一つである『新日本紀行』に込められた、いろいろな日本民謡の面影を、私は従来から感じていて、
そのなかでも、『こきりこぶし』を取り上げ、旧ブログにて、私なりに少々、論じてみたことがある。
そのおりに、
当時、同じサイトでのブロガーの一人で、ご自身が現代音楽に携わっており、結婚後は、ずっとアメリカ在住で長年になるという人が、私のエントリー読後の感想コメントを寄せてくれた。

『君が代』の旋律に雅楽(もちろん、中国や朝鮮から伝来しているはず)の影響が あることは、私も容易に察していたのだが、同時に、上記の人は、たしか、『新日本紀行』には、『君が代』の影響も あるようだといったことを教えてくれた記憶が ある。今となっては うろ覚えなのだが、言われてみれば、なるほど、そんな感じも するので、とても興味深く思った。

そもそも、日本の古い民謡には、中近東の民族音楽が源流として息づいているという説も あるようだし、私個人の感覚でも、ほぼ違和感なく納得できるので面白い。
ちなみに、私は、アラブ方面の音楽も、若い頃から好む。

 

http://www.gokayama-info.jp/?page_id=78

旧ブログでも紹介させてもらったサイトなんだけど↑

ここのなかにあるコーナー「伝承団体:越中五箇山こきりこ唄保存会」をクリックすると、「こきりこ動画」というのを閲覧できます。
くだんの動画で、唄と太鼓などを担当しておられる男性がたの お顔が、双子さんかと思えるほどソックリなので、見るたびに、思わず しげしげと眺めてしまうのだが()やっぱり、ご兄弟なのだろうかね?
ま、それは ともかく、なかなか味わいのある祭り風景です。
ええ風情でっせー。飛び込みで一緒に踊りたくなってくる。

http://www.kokiriko.com/kokiriko-tv/index.html

 

 

学校時分、親しくしていたクラスメートに、幼い頃からピアノを習っていて、電子キーボード系へと興味を抱き始めていた友人が おり、その友人の薦めも あって、乏しい小遣いを はたき、ドビュッシーの曲ばかり集めてアレンジした冨田氏のレコード アルバムを手に入れてあり、いまでも大事に保管してある。

宇宙的壮麗、ロマンチック、だけでなく、どこかユーモラスな趣も含まれていたりするのが冨田氏の個性であったように思う。
『ゴリウォーグのケークウォーク』なんて、聴いていてズッコケたあと大笑いしたものだが、

私にとってドビュッシーは、クラシック系のなかでは特にムシの好くとしか言いようのない感覚を もよおさせる作曲家の一人で、
『亜麻色の髪の乙女』などは、学生時代にまつわる思い出の曲であり、原曲にしても、富田氏のアレンジ作品にしても、当時から特に気に入っていた。


  
 

クラシック音楽のアレンジと言うと、
エマーソン・レイク&パーマーの『展覧会の絵』も そうだけど、
いかにも それっぽい雰囲気のものでは、中学生だったか高校生だったかに、リック・ウェイクマンの『アラゴンのキャサリン』を聴いて、グッと気に入ったのを思い出し、youtubeで探してみたら、あった あった。
ただし、これは、一応、と言うべきであろうか?リック自身の作品なのである。ながいこと騙されてたわ(笑)



 

欧米圏のミュージシャンには、かつて「汚気・愚」(OK/goo)でも回答したことが あったように、それこそ、へヴィメタル バンドのメンバーでも、古典も古典のクラシックに親しんで育ち、かつ詳しい人が多いのは当然なのかもしれないが、リッチー・ブラックモアなんて、大昔の古楽器演奏さえも こなすくらいだ。

 

 

『新日本紀行』の話に戻ると、

「日本人なら誰でも」

という、普段、ウヨやネトウヨあたりが、さもエラそうにのたまっているのを見るたびに、

「おまえさん、それで日本人代表のつもり?emoji

と、血圧が激上がりそうになることが たびたびなのだがw

この作品に限っては、「日本人ならば誰しも」という評価が許されるのではないかと思える。

 

昔日の日本の姿、また、地方の風景にも、実際は疎いと言ったほうが、個人的には正確なのだけれど、『新日本紀行』というテレビ番組にリアルタイムで親しんでいた子ども時代を思い出せるせいなのか、日本人の、あるいは、日本の風土に抱かれて生育した者にしか分からないのでは なかろうかと思えるほどに、心の底の郷愁を掻き立てられ、じつに懐かしさ泡立つ出来栄えであることは特筆に値すると思う。

でも、もしかして、中国あたりの人にも共感されるかもしれないな。
『昴』とか『北国の春』の例もあることだし()

 

坂本龍一氏が作曲した『ラスト エンペラー』テーマ曲にも、『新日本紀行』テーマ曲の影響を認めているとのことだそうで。

数奇の家に生まれて

 

 

稲穂を揺らして渡る風。。。
風は少しく湿潤を含んで。。。

 

さきのアメリカ在住のブロガーも、私へのコメント文中で、

『新日本紀行』のテーマ曲を耳にすると、せつない思いに胸が いっぱいになり、泣きだしたくなってしまう、というふうに言っていた。
 

※まだ何かが残ってるな、、、と思ってて、あとから ついた。

どうも、『亡き王女のためのパヴァ―ヌ』あたりの要素も感じられる箇所が あるような。。。
これはラヴェル作品で、この作曲家も、私の特に好みなんだけど、
そうしてみると、『新日本紀行』1曲のなかに、どれほど多くの国や地域からの歌や楽曲が織り込まれているのやらemojiこうなると、日本の、とか、日本人だから、とか言ってる場合じゃなくて、もはや人類規模の。。。
まあ、音楽とは、そういうものなのだろうね。



   

  
  安野光雅『蓮華岳と爺ケ岳』(安曇野

 

 

PR
Updated   
2016.05.06 (Fri)

最近では、熊本方面の大地震。

人間が、必死こいて祭り上げ、拝んで拝んで拝み倒しても、

地震一発、がらがらドン。

あな哀れの御姿。

神よ仏よと伽藍うち建て、金銀・玉にて荘厳しようと、

一巻の終わり、

元のモクアミ、

一から出なおし、やり直し。

 

いっしょうけんめいに張った巣を何度やぶられようと、また同じ所へ同じように張ろうとする、
ただ諦めないのか、律儀と言うのか、単に忘れっぽいだけか、学習能力ゼロと言うのか、

そんなクモなみの人間どもw

 

御柱てっぺんから転落、男性が死亡 長野・御柱祭
朝日新聞デジタル 55()198分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160505-00000045-asahi-soci

 

なるほど、

私も、

ひょっとして、ていのイイ見せかけによって、その実は「人柱」を補充しとるんか?

という、勘繰りめいた印象を抱きかけたが、

たしかに、洋の東西を問わず、古来、祭祀の根底にあったのは、
ひとえに、自然の脅威に対する恐れと慰撫(ショック療法的なものも含む)が出発点だったのだろう。

 

「依り代」なのかな、モミの木を用いるんだね、それも興味深いなと思ったが、

大なり小なり長細い形状には、古代から特別な意味を持たせているようで、
これについても、何年か前の過去に、あの、
時間のムダと不快を買いにいくようなものでしかない「汚気・愚」の科学系カテゴリーにて、光の動的性質あるいは雷・電気の性質についての話題に関連させてだったか、私なりの見解を披露した記憶が ある。

ほとんど誰も、関心を持ってくれなかったがw

 

長い形状のもの、というと、男性器も、祀られる対象なんですなあ()

 

西欧圏でも、ポール建てて、その周囲で踊ったりする祭りが あるし。

 

振動とか波長とかね。

 

「祟り神」云々という共通点では、
「みだりに、その名を唱えるべからず」
と警告されるほど恐れられてきたという、ユダヤの神の伝説も伝わっている。

まあ、わざわざ「祟り神」などと殊更おどろおどろしく名付ける必要もないだろうに、
この地表に へばり付いて息している生物たちのうちに含まれる人間どもにとって、自然界の荒々しい側面は、ただ艱難、ひたすら猛威、でしか ないのが実感だもの。だから、祀り、祭る。

 

日本では、古来の「言霊」というものにも込められているという、言わば「先取り」の心、
これは、和服を着る時の心得ごととしても、いまどきの時代においてすら教わるようだが、

いわゆる「人柱」だの「人身御供」だの「生贄」といったものも、つまりは、災厄の先取りかつ逃れるということを期しているのだろうと思われる。

 

単に恐れ おののき、かりに「神」と名付け呼ぶところの対象へ捧げ奉るという以上に。

なまじに知恵が発達しただけに。

上手く やり過ごす、コントロールするためのシミュレーションとして。

 

たとえばスペインの闘牛とかでも、ああいう種類の祭りや行事には、その根本に、「災厄の先取り、逃れ」といった見立てが込められていたのでは ないのかな。

 

だから、われわれ現代人から見ると、もはや無意味に残酷だったり、
やたら危険度が高かったりを、敢えて設定してきたのかな。

 

「コンキスタ ドールス」

 

国内でも田舎と言うと、祭りと夜這いの伝統やら風習やら連想してしまうのも たしかなのだが、

どちらにも、乏しいレクリエーションとしての側面を持つと同時に、

地域的教育の場(なので往々にして、現代では悪いことになっていても大っぴらに教えたり教えられたりする、未成年の飲酒とかね)

命や共同体の存続という切実さも孕んでいたであろうこと、

そこに、古人の思考や喜怒哀楽の生々しさを、いまに感じ取り、
彼らの生きた時代や地域性から来る艱難、苦労を偲ぶこと、
そこにこそ、伝統を重く見ることの意義が あるのだと思う。

 

ただし、
そこにおいては、現代人である われらの生活が、古人たちの生活、その試行錯誤と艱難辛苦の積み重なった歴史のうえに あって、
いまは もう、恐れなくとも よくなったことや、安全のための方策や技術の進歩を得るに至ったことへの思い起こしと感謝が あってこその、「伝える意義」で あると、私は思う。

それを忘れて、ただの時代錯誤に終始していては、かえって、苦労した先人たちに申し訳ないことだ。

 

 

現実的な話としては、

お祭り最中ということではなく、何やら後始末中の事故だったということだそうなので、事故なら事故としての調査・検討・改善が必要だよ。

むざむざと人死にを出し続けていいはずは ない。
こう何度も繰り返すようだと、地元の見識を疑うし、全国から顰蹙を買うことにもなりかねない。

 

 

Updated   
2016.05.05 (Thu)

日本人と、たとえば中国人の違いで言うのなら、あちらの人たちは概ね、感情をハッキリおもてに出すことを躊躇しない傾向性は あるように思う。しかも、どういうわけだか、女性の場合のほうに顕著なようだ。

 

私自身は、日常で、中国人と親しく接した経験にも乏しいので、あくまでも、いままでに各種メディアを通して見聞し得た印象度合が大きいし、そのうえでの個人的感想に過ぎないけど。
あと、近ごろでは、訪日客として、じかに見かけた印象から。

 

機内で暴れる乗客、ファーストクラスの存在が原因?
CNN.co.jp 53()2110分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160503-35082121-cnn-int

 

たとえば、客室乗務員に対する態度を とりあげるなら、

中国人女性が感情を爆発させたすえ、キャビン アテンダント、むかしで言う「スチュワーデス」さんの背中に熱湯を ぶちまけたという事例に対して、

日本人のオッサンの場合なら、スチュワーデスさんの背中やらオシリやら撫でさすった、という話を聞いても、それほど驚かない人が大多数だと思うw

なぜなら、日本のオッサンは、それくらいは やりかねんと思うくらいに、想像し易いからだよww

それでいて、熱湯を ぶっかけたというような凶悪なことよりは、さほどの大ごとになって騒がれることもないからねえ。

 

概ねの日本人の場合、おもてにハッキリと出して、すぐにバレちゃうようなことは避ける。

そのかわり、
陰にまわって、すぐには発覚しないような悪事を やらかすことが多いようだ。

しかも、
そういうところで、やった本人も、それを知った日本人たちも、すぐにバレないだけ巧妙であることを、あたまがイイからだと、履き違えた受け止めかたを する、一種独特の愚かさが ある。

 

それゆえに、
まず陰湿である、とのイメージが前面に出てしまい、それも影響してか、とことん隠蔽しており、あわよくば最後までイイほうに まわろうと してるのでないかと、いつまでも疑われ、チクチク責められてしまうのかもしれない。まあ、自業自得だが。

 

以前のエントリーの どこかで、高度成長時代の日本の特にオッサンやサラリーマンの行儀の悪さ、

たとえば、
飛行機に搭乗した田舎者のオッサンが、座席に落ち着いたとたん、上着のみに とどまらず、シャツもズボンをもイッキに脱ぎ捨てて、ステテコいっちょうになり、スチュワーデスを慌てさせたとか、

ヨーロッパの一流どころの老舗ホテルの共用廊下を、寝間着とスリッパ履きでウロチョロして、スタッフや他の宿泊客の顰蹙を買ったとか、あの当時は、珍しくもないほど報じられていたと記憶することを述べた。

 

ただ、日本人女性に限っては、だんぜん、おとなしいほうだということに変わりは殆どないと思う。

同じアジア人女性と比べても、少なくとも、表面に出して激しい自己主張を辞さない日本人女性というのは、やはり、いまだに少数派だろう。

 

あれから、日本人も、男女含めて、ずいぶんとオスマシするようになったものだw

つい祖父母の時代まで、ど田舎の百姓だった、あるいは、田舎から出て来て、しがないアキンドでげしたというような家系の者でも、どこぞのボンボン、お嬢さま気取りなのが嗤えるほどに、カン違いしたオスマシして、お高く とまっておるw笑止であるww

 

しかし、なおも総じて おとなしい性向の国民性は変わらずに、

許容性の低さ、人目を気にし過ぎた余裕のなさだけは高まる一方のようである。

これには、殊の外に大災害の多い国土が培った国民性ということも大きく関係が あるのではと察している。

 

まあ、私みたいに、いちおう平凡な感覚の?人間から見れば、
「ファースト クラス」だ何だでカリカリするような者は、ちと普通じゃないんだろう、と思ってしまうけど。

 

ところで、

過去に私が闘ってきたw「汚気・愚(=OKウェイヴ・おしえてgoo)の「哲学」なるエセ看板を掲げたコーナーでガンバってた、とある女性会員に向かって、あるとき、
「哲学史」的知識のみに埋もれ、心理学等の実際の働きを軽視していた彼女に些かでも気づかせるべく、個人的に、少々の忠告を したことが あった。

「心理学の知見というものは、あなたが、いまだに気づいていないだけで、われわれの日常生活の そこかしこで、すでに参考にされていますよ」というようなことを。


どういうものなのか、
カルト連」その他の常連会員に特に多く見受けられた傾向性でもあったのだが、

何によらず、自分よりも「上位」に位置していると思える対象と、自分自身とを比較せずには おかず、

いかなることであっても、自分のほうが多少なりとも「下」と感じたならば、たちまちにしてイジケた様相を示し、

自分自身が、何か、とてつもなく不当な、可哀そうな位置に貶められたとヒシヒシ感じてしまうのらしい、異様に敏感にして病んだ性向の者たちが居た。

 

彼らは、それだから、鵜の目鷹の目で、ターゲットと定めた対象に、自分よりも脆弱な部分は ないものか、ないものかと、

さしあたって見つからなければ、わざわざ拵えてでも押しつけてやろうと虎視眈々な彼らには、専門筋の診断こそ受けていなかろうとも、自己愛性肥大ゆえの人格障害者が多いのだろうと見受けている。

 

 

先日、どこかのサイトで、私自身が子どもの頃から、睡眠に関する悩みを抱えてきているもので、その方面の記事を読んだのだが、
そのなかに、客室乗務員として長年のキャリアを積んできたという女性のインタビュー記事が あった。

その垢抜けして端正な品良き女性が語ったところによると、

日本では皇室、他国の王室、あるいは、どの国の要人、大統領や首相といった国家的トップの人々には、機内サービス等の細かいことに要望を示したり文句を言うなどのことは、まずもって、起きないことらしい。

 

なぜなら、
あのような地位の人々、重い国家的任務を背負っている人たちは、自分が渡航なりした先での大役を無事に果たすこと、
それがスムーズに、滞りなく果たせるか如何ということにのみ、全精神を集中させているためだ、というふうなことを解説しておられた。

 

私は、なるほどなあと思いつつ、

しかし、この聡明なキャリア ウーマンにも、少々、掘り下げが足りないかもしれないと思った。

それは、

いわゆる要人クラスにして、そのクラスならではの公的大役を負っている人たちが、自分の役割というものを、きちんと果たせるかどうかということにのみ、関心を集中させていることの根本的土台に対しても、その善悪や正当性といったことについての踏み込んだ検討が あるか否かとなると、そうとは限らないだろうということ。

 

歴史上の極端な例では、ナチスの高官のようなことになりかねないかもしれない。

彼らも、自分の負った公的任務については、このうえなく律儀で厳格で忠実だったという。

だが、その思想性は歪みきり、哲学性は矮小で下等だったわけだ。

その狡猾さと悪運の強さも、結局は潰えた。

 

しかし、気を抜いていると、今後もフツフツと湧いてくるだろう。
昨今の世界的様相は、そうした危惧を、あらためて持つべきである、との警告を示し始めているのではないか、そんな感じが してきている。
杞憂であってほしいものだ。

 

 

Updated   
2016.05.05 (Thu)

誰に魂を売ったのですか?

の続き。

 

いまでは時おり思う。

こう言っちゃなんだけど、

脳に異常が あったせいなのか、

あの母親は、誰も、幸せにできるどころか、

良かれと思って招いた不幸のタネによって、
自分の血と繋がっている者たちには勿論のこと、

あかの他人のためにという大義名分で、
本心では必要とされたくて餓えていた自分の良いところを見せつけたいばかりに必死で踏ん張り、
命を縮めるほどガンバった、そういう生きざまだったものの、

形式的・表面的には ともかく、

がんばってもガンバっても結局のところ、誰も幸せには できなかった。

 

ああ、親父だけは別だったかなw

あの男、分に過ぎるほどトクしたはずだものww

 

私に言わせれば、

双方とも、最初の結婚相手を どんなに厭になったとしても、

自分の分というものを わきまえ、諦めて、
おのれ一個のエゴを抑え、犠牲的精神をもって我慢しておれば、
少なくとも母方の姉だけは、それなりに穏やかな人生を過ごさせてやれたかもしれない。

でも、
結局は、どこかの段階で爆発したのだろう。

すでに、あの親たち自身、自分たちの親に対する被害意識で、はち切れそうなほど膨れあがっていたのだから。

 

子どもに、自分の つごうを押しつけておいて、

本音では一番可愛い自分、

可哀そうで たまらなかった自分の思いどおりに しおおせたのだから、

なんだかんだ言ってた当人たちは、ダブル不倫を貫けて、気が済んだろう。

 

そんなことは絶対に なかったと、子らのため、とりわけ、おまえのためだったのだと、相変わらずエエカッコして、子のほうを悪く言い募り、貶めてまでも申し開きするようなら、さすがの私も、いまでは決して、容赦なく糾弾すると思うけど。

 

ま、そもそも、私が生まれなかったら、あるいは、あの14歳の頃までにサッサと死んでしまっていたなら、

父のほうの連中の子ら、つまり、義理の姪や甥も含めた、誰一人として、生まれてくるはずも なかった。

 

酒乱で、だらしのない親父の後半生は、手のつけようもなく荒れに荒れすさみ、

最初の相手とのあいだに もうけた子らが成人するにつれ、おのおのが抱えた恨みと確執は深まり、それによって、どんな悲惨な、血生臭いことになったやら。

警察沙汰、新聞沙汰にもなったことだろう。

 

もっとも、親父を含めた あの連中の人生が どうなっていたとしても、

もともと生まれる筋合いすら なかったのに、すべての悲劇を せき止めた私にとって、どうでもいいことだし、

一応は、終わったこと。少なくとも、ヒトの目に見える範囲では。

 

 

脳や精神面の異常性は、一見しただけでは、それと全く気づかない場合も、現実に多々あるだろうけれど、

トシを重ねるにしたがい、内面が、外にも滲み出てくる、

その傾向は、どこかしらで濃くなっていくということは、たしかに言えてる面も あると思う。

 

 

Updated   
2016.05.05 (Thu)

と、旧のブログで問うたことが あったなあ。

あの櫻井よしこさんに向けて。

 

むかーしの彼女については、私も、全然、詳しく知らなかったし、

時々、テレビやグラビア写真で見かけるていどだったので、彼女の容姿から受ける印象に限って言うのなら、たしかに、知的で上品な婦人というイメージしか なかったな。

 

ところが、ごく近年になって、彼女の顔写真を久しぶりで見かけたときに、

えっ?と、少し驚いたの。

だって、

なんだか、かつての雰囲気が変わってしまっててと言うか、

ハッキリ言っちゃうけども、、、まるで、

どこぞのヤクザの情婦emoji

(情婦なんて呼ぶには、かなりのところ、薹が立っていると言うべき年齢では いらっしゃろうが 苦笑)

と思えるほどに、

かつてのような品の良さは消え失せていて、

そうとう無理に若づくりしたアネゴ、、、

という雰囲気になってしまってるように見えたんだもの。。。

(д;)>すんませんけど。

 

その後、

彼女の姿や雰囲気から受ける印象が変わってしまっっていたことの理由が、だんだん分かってきたなと思える記事を、いろいろと目にしてきた。

最近では、これとか、

改憲派のリーダー・櫻井よしこは「言論人の仮面をかぶった嘘つき」だ! 憲法学者・小林節が対談を捏造されたと告発2016.05.02

http://lite-ra.com/2016/05/post-2206.html

 

そういえば、これとかも

アーミテージ氏と櫻井よしこ氏に異議あり!
20140304日(火)1133

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2014/03/post-631.php

 

 

人間性が、容姿や雰囲気に、おのずと滲み出る、

という説は、必ずしも当てはまるわけではない。

 

話は変わるけど、

たとえば、うちの母親なんかも、こないだも述べたように、顔相は、単なる美人を通り越して、あたかもギリシャ彫刻かヘレニズム様式か、てなほどに、ご立派そのものだった。

インド人の女性には、「奥さん、うちらと似てるわ~」と親近感むき出しにされ、

私の学校時代の友人には、あくまでも中年以降の、と但し書きは付くが、母の風貌を指して、「ヴィクトリア女王」を連想したと言われ、

外見だけ見たらば、どこの大女優かと、他人さんたちに言われるほど、堂々たるもんだった。

実際、若い頃、芸能界にスカウトされたのだが、祖父の猛反対で断念したという話も聞いたし、

私の職場の男性からも、写真を見て、「天女のようだ」とまで形容されたこともある()

 

体躯のほうも、威風堂々たるもので(苦笑)

ま、ひらたく言えば、こないだも言ったように、巨体、おデブだったわけだけど()

まあ、まだスマートだった若い頃の写真見たら、うちのスケベ親父が狂喜乱舞したのもムリないか、と言いたくなるほどの容姿では あった。

 

母の きょうだいたちも、美人姉妹であり美男兄弟として、その学業優秀さと共に、生家周辺では、そういう家系として知られていたそうだが、

ただし、妹の一人である叔母なんかは、お勉強はダメで、兄弟姉妹たちのなかでは一番、おバカと見做されていたけれど、おチビちゃんながら、ポートレイト専門モデルを やっていたくらいなので、これも容姿だけは人並み以上だったことに違いない。

若死にしてしまった叔父も、有名どころのポートレイト モデルを やってたので、その忘れ形見である娘に、おとうさんのこと憶えてる?と聞いたら、本人についての記憶自体はないけれど、寝室に、写真を飾ってあるよ、パパ、とてもハンサム、、、と言っていたそうな。

 

えっ?

当ブログ主の私自身は どうなんだと、知りたいと?emoji

ふふふ、、、やぁねえ。。。emojiemojiemoji

 

私はですな、

あのスケベ親父のほうに似てしまったのよぉ、とほほほほemoji

もちろんのこと、部分的には母親似のところも あるよ、当然。

 

しかしね、これが なかなかに複雑なの。

さっきも言ったように、うちの母の中年以降は、早い話がデブだったからwそこだけ見れば、親父のほうに似たのは(一応、やせ形の部類だったので)、まあ、いいのよ、

おかげで、私も若かった頃には、ファッションモデルを目指せとを奨められたことも あったよ。(遠い、遠~い遠~~い眼w)

それでも、顔の つくりだけは断然、母親のほうだったらな、、、とクヤシイ思いは してきたw

かと言って、

母親と父親と、それぞれに似た部分を、現状とは真逆に逆転させたらば、これは これで、悩んじゃう。

だって、

たとえばだけど、部分の例としては、眉なんかは明らかに母親に似ていて、モデル スクールのメイク講師からも、全くイジらなくていいくらいだ、そのままで遠目に見てもハッキリ分かるほど整ってる、と太鼓判押されたもんだけど、

長姉みたいに、父親のほうに似てたらと思うと、ゾッとするよ。

 

だってだって、親父の眉毛は、まんま「八の字」なんだもーんw

  _, ._

;゚)ノヽノ / /

 

…ほんと、マヌケっぽい滑稽な眉毛してからに、あのドすけべ親父が!emoji

 

でもさぁ、

体型だけは、母親似だと、とてもじゃないが、ファッションモデルどころじゃないつーの。

それでも、首の細さ、脚の長さなんかは、母親のほうに似たみたいだし、

どえりゃあ巨乳になるのも良しとしてw

全体がデブデブになっちゃうのはねえ。emoji

体型がモロ母親に似てしまった姉なんか、苦労してたもの。

なので、

顔のほうは、まるっと母親コピー、体型は親父のほうだと、まあまあ一番うまくいったんだが()

 

でね、

通常人の何倍も、頭の回転が速く、学校時分は成績優秀、音楽の才能までも恵まれて、

誰にケンカをフッ掛けられても、一歩たりとも引かず、倍返しすら やってのけられるほどの頭脳と、気の強さは群を抜いていた、うちの母親だが。

 

脳に異常が あったんだ。

どうやら、先天性らしいということだったが、

中年期に、交通事故のとき、頭を打ってるから、それも後押ししてる面は少なからず あったのか、いまとなっては、私には よく分からないが、

本人が亡くなったあと、そのことを知らされた私は、ええっ?と仰天し、

同時に、

自分が子ども時分、時々怪訝に思っていた、母親の言動のアレやコレやも思い出して、

驚きつつも、やっぱり、、、と思うところも あって、非常に複雑な感慨に おそわれたものだった。

私以外の誰もが、特に、表面的にしか知らない他人なら なおのこと、ビックリ!唖然とするはず。

 

【続く】