2015.02.19 (Thu)
『曽野綾子氏、抗議来る理由「全く分かりません」 「アパルトヘイト許容」指摘も撤回する気なし』
J-CASTニュース 2月18日(水)19時6分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150218-00000005-jct-soci
先日から見かけていたのだが、今回の「アパルト ヘイト」騒ぎ。
むかし、たしか、遠藤周作さんのエッセイか何か読んでいて、
彼らの若い頃の思い出話の一つに、結婚前に交際していた時期の曽野さんの、のちの夫君となる三浦朱門さんが、当時、遠藤さんたちと会うと、曽野さんのことを話して、「きょうもバズーカにやられたぁ」とか頻りにノロケておられたという くだりがあったと記憶している。
私は、曽野さんの著作じたいを読んだことはないのだが、
まだハイティーンか20歳代の頃だったかに、テレビの討論番組で、いまは、すでに亡くなっておられるが、テレビにも よく登場していた、著名な女性評論家を相手の闘論が印象に残っている。
そのテーマは、たぶん、「産む、産まないは、女の自由」というものについてだった。
あの頃、「ウーマン リブ」とかいうコトバも、世間で盛んに飛び交っていたようだった。
自分自身が、この世に産み落とされたことを、どうにも肯定できないでいた私には、「産むも産まないも、ただただ、女性の勝手で判断するものだ」という考えは、現実的には合理性があるとしても、あまりにも軽薄な主張に思えて、それを大前提に主張していた相手に向かい、ひとり根気よく反論していた曽野さんの考え方のほうが、ずっと深いと思えた。
なので、最近の騒ぎを知って、また、各新聞社等の記事を確認してみて、驚いてしまった。
この書き方では、御本意が どうであろうと、大きく誤解を呼ぶのは当然だと思える。
肩を持つつもりも、そうしたいとも、そうできる余地があるとも思わないが、
曽野さん個人としては、あくまでも、こうすれば合理的でしょ、というつもり程度で、あのように、お書きになったのだろうと察する。
それにしても、私が若い頃に共感した曽野さんが、こんなに、浅い考えでもって、こんなに軽率な、文筆のプロとは思えないほどに粗雑な文章の書き方をする人だったのだろうか。
高齢になられたせいもあるのかなと思うのだが、こうも軽はずみな書き方でスッ飛ばしてしまうのでは、思い切って、筆を折られたほうがいいのではとすら思う。
だいたい、この件について、どの人の論を読んでみても、それが、糾弾であれ擁護であれ、私が疑問に思えてならないのは、
曽野さんが、そのコラムで、例にとり挙げた、とあるマンションでの、黒人一家の生活態度により、辟易した白人家庭が逃げ出した、ということの根本についてだ。
南アの事情についても、私は殆ど全く無知だけれど、
「アパルト ヘイト」下、本来は白人用に設けられたというマンションに入居してくるくらいなのだから、なにも、ほんの数日前まで、アフリカ大陸奥地の、牛馬のフンを塗り固めた壁とか?茅葺屋根の?掘立小屋みたいな?家で、涸れかけた井戸水にすがって暮らしていたわけでもなく、
抑圧下に置かれていた黒人層と言えども、現地では、そこそこの知性と生活レベルとを持ち得て生活できていた人たちではないのだろうか??
むろんのこと、国策とか権力側が規定した制度等で、最初から区分しておくことと、自然発生的に、特定条件を持つ種類の人々が、一定の土地に集まり住むようになることとは、同列に扱えまい。
日本国内でも、たとえば、中国からやって来た人を入居させることを渋る家主が多いという話では、あちらの人は日常的に、油ものの調理を好むため、台所が非常に汚れるので、というのが理由だった。
私の知っている人で、アメリカ在住の人も、同様なことを言っていた。
この点、日本人の場合は、ことわざにも、「郷に入りては郷に従え」と言うほどなので、どこの国外においても、はなはだ大きく、現地の生活習慣から逸脱して起きた問題というのは、ほとんど聞いたことがない。
生活習慣の違いというのは、たしかに、看過しにくいほど、大きな影響があるだろう。
同じ国の、近い土地で生きてきていても、それどころか、好きで一緒になった相手や、親子でさえも、生活を共にしているなかでは、多かれ少なかれ摩擦はあるのだから。
そして、一つ見逃し二つ譲歩し、と積み重なっていくうちに、嫌悪も募っていく。
要するに、私は、素朴に、
問題を起こしたという黒人の彼らが、白人用マンションに乗り込んでくるにあたって、
ここでは、どういうルールで生活していかないと、周囲に大迷惑となるだけでなく、結局は自分たちの生活も、当初の快適さを保てなくなるのだ、ということを、分からせる努力はあったのだろうか?と疑問に思う。
現実として、できるかぎり、直接かかわらないでおくほうが、その分、摩擦は起きにくいだろうことに、個人的範疇では、とくに異存もないのだが、
より大きく社会全体の問題として捉えた場合、そうやって、ただ区分けして、見ぬもの清しで済ませているうちは、根本的な理解と解決は永遠に望めないだろう。
そこから、差別やヘイトの問題を呼び込む恐れはあっても。
翻訳により、もとの文意などが変化することは ままあるわけで、このことは、先日来の大きな話題であるイスラム過激派自称“IS”の人質日本人殺害を引き起こす切っ掛けとなった、安倍氏の軽率極まる演説にも問われる共通性だ。
(ほんと、いつまで、首相の椅子に座らせておくんだか)
しかし、まあ、スキャンダル続きでないかいな、安倍氏の人選ときたら(呆)
それにしても、近頃の高齢者は、口に締まりがないのだろうか、と思うことが増えた。
まさに、「近頃の若者は」の真逆というものか。
石原慎太郎さんとかさw
案外、こうした高齢者の末裔が、こんにちの「2ちゃんねる」を始めとした劣化現象に結び付いているような気がしてきた。
「シャルリーエブド」問題もそうだし、言いたいこと言い、毒舌吐きも、ときに立ち止り、よく考えて、ほどほどにしないとね。
わりと、人生うまく行ってきて、そこそこ成功裡に年齢を重ねてこれた人ほど、高齢になるにつれ、大慢心して、口いっぱいのことを言うに憚らない人が多いという印象がある。
たぶん、うぬぼれきっているのだろう。
うぬぼれやの文章なんど、いくらトシを重ねていても、やっぱり独り善がりで、ろくに参考にできることもなく、つまらなくって、私は、読む気もしない。
2015.02.17 (Tue)
「トリクル ダウン」という説については、初めて、その言葉を知ったとき、なんか胡散臭いような、歴史上、最初に、これを唱え始めた御仁というのは、そもそも、冗談や皮肉で言ったんじゃないのぉ?と直感的に思ったもので、旧ブログにても言及したことがあるし、いま、ここでやってるブログのエントリーでも、一度ならず批判した。
ところが、
こんな無知・無教養で、世情の出来事全般にも疎い私でも難なく分かることが、超一流大学や大学院で勉学に これ励み、すばらしいキャリアを積み、研鑽を重ねてきたはずの学者先生たちにも、
また、政治屋センセイ等、「この道!」とて民衆を導くはずの おエライさんがたにも、トンと分からない、分からなかったらしいのだから、いやはや、いったい、どこの脳みそを使って、お勉強に勤しんできたというのだろうかと、心底、首を傾げ、呆れてしまう。
ネットのガラの悪いコメント等で、よく見かける、
「あたま悪いの?バカなの?」という疑問も湧くというものだ。
いや、だけれど、
もしも、先刻承知、分かっていて誑かしにかかったのさ、というのであれば、その悪辣には、大いに憤りを覚えざるを得ない。
まあ、わが国では「一億総(少なくとも)中流」であると、ある程度は、こう自信を持って言えた時代も長かったわけだし、ましてや、
間違いなく お金持ち、富裕層と呼ばれるランクに属するならば、なおのこと、どうしても欲しい物とか、なくて困る、という生活は、していないはず。
つまり、大多数の人々は、ガツガツまでは、していない、いなかったはずだろう。
だが、しかし。
このことも、すでに数年前どころか、かれこれ数十年も前に始まっていた話で、
すなわち、家計を補わないと、とてもじゃないが、やっていけないため、パートに出るなりして働いている主婦たちが増え、それでも、シャンプー一つ買うに事欠く ありさまであるという実情、私は、じかに見聞してきていたのである。
もちろん、そこまで苦しい家計の人が最も多かったわけでもないのだろうが、あれ以降、「リストラの嵐」「フリーター」「派遣会社」の台頭だなんだと共に、じわじわと、一般層の生活に広がっていっていたのではあるまいか?という気がする。
再び、ことわっておくが、
「リストラ」だなんだ、これらのコトバが巷間で言われだしたのは、すでに、ン十年前にもなろうかというほど、けっこう古い現象だったのだよ。
これは事実。
その頃から、こんにちに至るまでのあいだ、自民党を筆頭とした政治は、どうだったであろうか?
たしかに、お金持ちや富裕層という人たちは、「足る」とは、どんな状態であるかということを、じゅうにぶんに知っているだろうし、だからこそ、むだな購買欲も薄くて済むのかもしれない。それでも、もし、
これは!と掻き立てられるほどの対象がありさえすれば、ここぞと惜しみなく「大人買い」というやつを行うだろうし、いざとなれば全然「金に糸目を」つける必要もない。
けれども、
際立った者と、その他大勢。
たとえば、カシコとアホとでは、世のなかの現実構成上、もっぱらカシコが少数で、
どちらかと言えばアホに近い者が大多数を形成するのは、どうしても、世の摂理というべきほどのこと、これに似て、
富裕層と、それ以外とでは、どうしたって、富裕層以外の層が、相対的に大きいのは仕方ないことだろう。
まあ、良し悪し上下、なんによらず、およそ突出ぎみのものというのは、自然と少数層に とどまりがちなことだ。
一番多いのは、コトバどおり、「その他大勢」層に決まっている。
アメリカのオバマ大統領も、最近の表明した方針において、やっと言い始めたらしいが、
購買面でも出産面でも、なんたって最大の層とは、どのへんに位置するものか、
私みたいな、そのへんの無学な一般人にでも、すぐ分かることである。
さてさて、「小さな小さなトリクル ダウン」の個人的思い出を述べよう。
私が小学生時分の或る日のこと、たまたま一人で街を歩いていたときだったかに出遭ったのだろうと思うが、
クラスメートの男子が、突如、お小遣いを くれたことがあった(笑)
もちろん、子どものことだし、たかだか50円や100円程度の小銭だが、一度は受け取るのを躊躇った私の手に、そのクラスメートは、「いいから いいから」と握らせた。
そうして、とある小さな個人商店へと いざない、そこで彼は言った。
いま渡した お金を使って、この店で、何か お菓子を買うといい、と。
彼は、この店の経営者の息子なのであった。(笑)
もちろん、私は、言われるがまま素直に、ガムかキャンデーか一口チョコの類と引きかえた。
そのとき、なんとなく感じた、一種フシギの心持ちが、いまだに記憶に残っていたのか、
くだんのトリクル ダウンなる「経済理論」wwを知ったとき、一気に、その男子のことをも思い出したのであった(笑)
(以前、保存していた画像が見つからないので、こちらさまのブログから お借りします)
http://blogs.yahoo.co.jp/kokoronougokutoki/54581635.html
2015.02.17 (Tue)
なにしろ、自民党の憲法草案みたら、民主主義と日本を「ぶっ壊す」、
それが目的としか思えんよ。
「日本の文化・伝統・国柄に立脚し、憲法改正を党是」うんたらかんたら
はあ??
相も変わらず、イミフで抽象的な、尤もらしい単語を並べたてるだけなのな。
じゃあ、なに?いまさら、天皇を主権者に返り咲かせるつもり?
だが しかし、その天皇と現憲法の切っても切れない関係性は、どう解決するの?
苦い苦い敗戦後、
自国自力のみでは如何ともならなかったために、多少の無理筋と高尚な理念ばかりが先走っているきらいがあるのかもしれないにせよ、こういう先進的な立派な現憲法を戴いているからこそ、努力と くふうを営々重ねてきた先人たちの深甚なる苦労の成果を、あべこべに「時代遅れ」だと決めつけ、いともアッサリと、ゴミ箱に投げ捨てるんだってさ。
恩知らずにも
いったい、第1次のときから安倍氏が撒いておいた種というもの、
そのために、原発問題であれ福祉施策であれ外交面であれ、ことごとくが、その後、要らぬトラブルを招いたり、より悪化させる事態はあっても、何か一つだに、国民一般、庶民にとっての良いことあったか??
最近は、とうとう、
あたかも、無防備な子どもを、みずからの からだの前に置いておいて、背後に控える屈強な面々を あてにしてか、わざわざ、暴力団やら異常性格としか言いようのない者らに向けて、
「やれるもんなら やってみろぉ」とばかり、下手なタンカ切って嗾けるようなことまで仕出かした。
結果、子どもは、無残に命を奪われた。。。
(いかにも本来は、おとなしく小心な性質を象徴するかのように、およそ締まりというものの全くない鈍重に弛みきった頬ふるわせ、その反動としての見果てぬ個人的願望が、いよいよ眼つきにも顕著に あらわれ始めたと見えて、狡猾さばかりが増し、毎度もったいぶった演技的口調と共に、やたら人差し指や拳突き上げて見せつつ、小泉だろうが祖父さんだろうが何だろうが、憧れと、これは使えると思った対象の下手な真似まねマネで勝負するしか能がないw)
このひとの お祖父さんが、アメさまからの莫大な資金を融通されてたという裏事情の義理がらみもあるのかね?
ああいう、一連の支離滅裂なまでの矛盾した言動と やりくちの理由は。
いったい、いつまで、こういう者を、よりによって、首相の椅子に座らせておくのやら。
これじゃあ、
無能と居眠りと袖の下をセットにしたような議員連中に見合うよう、その報酬を半減させたとしても、いささかもバチは当たるまい。
自民党内の者たちは勿論のこと、
野党の覇気のなさ、不甲斐なさ、ここに極まれりだ。
あーやだやだ
2015.02.09 (Mon)
あのシュショウには、国民への、まさに、愛が ないんだね、これに尽きる。
そして、いまや、全員が、
「I am Kenji」
となった、哀れな日本人たち。
つくづく、政治屋というもの。
まさに、一般国民への愛がない。
まあ、それが、「政治屋」というものの特徴だ。
自分の半径数メートルのみで世界を「俯瞰した」と判断し豪語におよび、自覚もないのか私利私欲にもとづいた言動しか とれやしない。
それは、安倍さんらと、そのシンパを見てたら、ことのほか、よく感じられること。
「ナチスに学ぶ」政権なんぞ、この日本にも、世界の どこにも、
い・ら・な・い。
『古賀茂明氏が語る「I am not Abe」発言の真意』
2015年2月2日
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156835
2015.02.09 (Mon)
『政府の「シリア渡航阻止」に賛否両論 「事前に言う必要あったのか」の声も』
J-CASTニュース2015年2月8日(日)17時54分配信
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/jcast-20150208-227359/1.htm
~
「台風の時に増水した川の様子見に行くなって...」
一方で、ネット上では、冷淡な反応も多い。お笑いタレントのガリガリガリクソンさんが「台風の時に増水した川の様子見に行くなって親に習わんかったんかいな。自由と勝手は違うって先生に習わんかったんかいな」と皮肉ったツイートは、一定の支持を受けていた。
そもそも事前にシリア行きを明かしていたことへの疑問の声もある。堀江貴文さんが、「この人スタンドプレーでしょ。黙っていけば返納命令はでない」と自らのサイトでコメントしたのを初め、ジャーナリストの安田純平さんも、外務省の対応を批判する一方で、自分の体験に基づいてこうつぶやいている。
「これは人によるけど、俺は出発前も滞在中もどこへ行くか、どこにいるかは帰国するか安全な場所まで出るまで公開しない。ネットで流れたら変な連中に知られて邪魔されたり危険なことになったりしかねないから。信頼できる人限定で取材過程を知らせるのは逆に安全対策になるけど、クローズドでやらんと」
~
自殺でもそうだが、本気で死ぬことを履行しようと決心したならば、あとは、ジャマされないことを念頭に、ひっそりと決行するはず。
わざわざ予告するということは、どこか甘えと胡散臭さが漂う。
生活実感としては、抜粋した上記の幾つかの意見のほうが、実感があるだけ、よく分かる。
さきの、東北の大震災に伴う津波の際にも、そこまで大水が迫って来てるというのに、何を考えてか、いつまでもグズグズと、足を止めて、ノンキそうに眺めやっている男性(こういうときは特に、中高年男性に多いのかなという印象がある)が、残された動画記録のなかにて散見された。
ホラー映画等でも、迫る危険を察知できずに、ノーテンキにも、わざわざ、「飛んで火に入る」ナントヤラで、自分から飛び込んでいくような迂闊な登場人物に、かえってイライラ腹立ちさえ覚えたという感情は、少なくない人々が感じたことがあるだろう。
さて、憲法の宣言と言えど、まずは自国内に対してのものであり、ひいては、こう言えなくもないとは思うけれども、はたして「全人類」を対象にしたとまで言い切れるのかどうか、現実には、まったく異なるスタンスの憲法を持つ国々もあるわけだろうし。
ジャーナリストそれも危険地帯に赴いてまでの、となると、正義感や使命感のみならず、もともと個人的にも、知りたがりで教えたがりな性質の人たちなのだろうなと思う。
特に男性のなかには、殊更「ヒリヒリするような」極限状態、「イチかバチか」「伸るか反るか」を楽しむ性質の人も、女性一般に比べると、多くいるように思う。これには、もともと男性性というものには脆弱さを含んでいるゆえの性差が齎す心理的な面も絡んでいるだろう。
私自身は、現地に身を置いて知るということの意義、それが、どこの国の誰によって知られ、切り取られ、伝えられるかということの重みを理解しているつもりだけれど、
この、かつてなく、情報あふれる時代と社会、現場で何が起きているのかということが、何らかの形にせよ、ある程度は、否応もなく伝わってくる以上、いよいよとなれば、まずは、自分の身の安全を第一に図ってほしいし、それが、同胞としての、あるいは身内としての本音だ。
ましてや、あれらの泥沼の争いは、日本国として直接的に関与したことがなかったのであれば尚更のことだ。
むしろ、こうした事態を洩れ知ったとき、われわれが真っ先に考え、対処していくべきは、
どのようにすることが、あちらの国民のみならず、他の国々からも やって来て、ボランティアとして関わっている一般人たちのための確かな助けになるのかということだろう。
カビの胞子を撒き散らすだけのような空爆。。。
いまや日本人全体に、「どこにいようとも悪夢の始まり」を宣言されてしまった。
これ以降、ひとり“IS”のみの興亡如何にかかわりなく持続していく時代に入ったのかもしれない。
政権に対する批判は、国民の第一の権利であり義務だ。
一般国民の個々は力弱く、代表者である政府に託すしかない。
そのための政府、為政者なのだが、これまでの経緯を知れば知るほどに、彼らは、その務めを十全に果たしたとは到底、言えないようだ。
今回の事件を、「安倍退陣要求に利用している」との、まさにブーメランな主張を繰り返している連中自身にも、認めたくは なくとも、内心では多少なり分かっていることと察する。
すなわち、
安倍氏自身が、あの犠牲になった人たちと、これから犠牲になる恐れが高まってしまった国民全体を担保に利用したのであろう、ということを。
首長にあるまじき、この無責任、自己中心的な軽率ぶり、絶望的なまでの酷薄さ、
じつに、戦後最悪の首相だと思う。
今回の凄惨な事態は、安倍政権退陣に値するほどの大失態のはずなのだが、
どうも、野党や大手メディアの糾弾の声はイマイチ低いような気がするし、
政権側と、そのシンパらは、早々の幕引きをと大変に焦っているようだが、断じて許すわけにいかない。
一番大きな理由は、日本人一般に流布し、さしづめ西欧諸国にとっての「自由」のごとく信じられている「自己責任」なる概念、
これが、今回も、人質となって殺害された人たちへの冷淡さの理由になっているのだろうとともに、
この事件についての一連の時系列的経緯や、もう一歩踏み込んだ観察と見解については、ほとんどの人々が、毎度のことながら、深くは理解できていなく、とても皮相的な、通り一遍の見方しかできていないのが実際のところではないかと思われる。
まあ、いつものことだ。
いまどきは、ネットという「舞台」が、なんらのフィルターも掛けられないかわりに、いとも浅はかな捉え方しかできない阿呆どもを跋扈させ、助長させる始末の悪さがある。
日本国というものと、いまの政府に対する不信感が、これで決定的に募ってしまった私自身、なにも「外野」なわけではなく、
事実、犠牲者の同胞である一人の国民として、また、一人の人間として、心に傷を受けた。
これを逃げずに、曖昧に流さず、直視して考え続けなければならない。
それにしても、あの日本人ジャーナリストたる後藤氏は、その凄惨な死をもって、間違いなく、重い重い命題を、およそ哲学とも縁薄き、のほほん日本人たちに突きつけることとなったわけだ。
だが、このことの意味に気づこうとしない、または、目を背けている者が多過ぎる。
『「リべルテ」』